ノート:恵信尼
出自と結婚について
[編集]◆恵信尼の出自について
・畑龍英は宜秋門院任子に仕えていた女房・築(前)と推定している。『愚禿親鸞の実像』教育新潮社P135~P137
・西山深草は三善為則(教)の娘で筑前守八田知家の養女と推定している。『親鸞は源頼朝の甥』白馬社P219~P238
両氏とも恵信尼は九条兼実と関係のある、在京豪族の娘と考えている。つまり、親鸞との出会いは京都であり、流罪以降越後で初めて出会ったとする通説を否定している。なお西山深草は「玉日姫が先妻であり、宜秋門院任子に仕えていた女房恵信尼は、親鸞流罪時玉日の身代わりとして越後に同伴し、玉日死後後妻となった」と推察している。--大塚芳明(会話) 2015年5月9日 (土) 08:29 (UTC)大塚芳明
◆子供については覚如『口伝抄』に「恵信尼御房男女六人ノ君達ノ御母儀」とある。大塚芳明は恵信尼の実子はその内四人だけだとしている(西山深草『親鸞は源頼朝の甥』白馬社P467~P479)。--大塚芳明(会話) 2015年5月9日 (土) 08:46 (UTC)大塚芳明
◆親鸞との出会いについては、
・古田武彦は「親鸞が法然のもとに通っていた時期に、すでに二人は出会っていた」とする(『わたしひとりの親鸞』毎日新聞社P208~P230)。
・山本摂は「恵信尼文書再読」(『行信学報』10、1997年)の中で「き」(直接体験)、「けり」(間接体験)の用法の研究を通して、古田説を補強している。つまり「(略)百日こもらせ給いて候いてけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにも、参りてありしに(略)」と九十五日のあか月に示現を戴き法然上人に逢うまでは間接体験(伝聞過去)の「けりの連体形ける」を使い、法然百日尋参の時は直接体験(経験過去)の「きの連体形し」を使っている。従って、恵信尼と親鸞との出会いは「親鸞が法然のもとに通っていた時期」であるとしている。言い換えれば「六角堂に百日こもらせ給いて候けるように」という記述から、恵信尼は親鸞「六角堂百日日参」の事情は親鸞から聞いた事であり、詳細には把握していなかった、と推論している。結論として「親鸞との出会い」は4月5日以降であった、と推論している。--大塚芳明(会話) 2015年5月10日 (日) 09:39 (UTC)大塚芳明