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ノート:張作霖

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張殺害事件について

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  • というのが定説であったが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。

IP氏によって以上の書き込みがありました。ソースがしっかり確認できなかった(宮崎正弘氏の発言?)のでコメントアウトしましたが、これについて見解のある方がいらしたらお願いいたします。関東軍の爆殺には当時の日本自身の捜査も含め相当な根拠があることですので、正直びっくりしております。Aboshi 2006年2月26日 (日) 02:29 (UTC)[返信]

2006(平成18)年2月28日の産経新聞にサンクトペテルブルク内藤記者の署名入りで概略が掲載されました。テーマとしてソ連の特務機関を中心に執筆するロシアの歴史作家ドミトリー・P・プロホロフ氏へのインタビューによる記事。詳細は同社発行の雑誌「正論」2006年4月号に掲載されます。 --以上の署名のないコメントは、60.46.35.4会話/Whois)さんが 2006年2月28日 (火) 13:35 (UTC) に投稿したものです。[返信]

了解です。大変興味深いですし、できるだけ早く確認してみます。そのうえで掲載のスタイル等については、決めませんか?今までほぼ確定と考えられてきたことがまっさかさまになることですし、記事の質も大きな問題ですしね。(ところで、話しやすくもなりますし、アカウント取りませんか?)Aboshi 2006年2月28日 (火) 15:00 (UTC)[返信]

産経新聞の項目を書いた者です。Aboshiさんのお誘いは感謝します。勉強不足ですし返事待たれると縛られる気がしますのでご勘弁ください。 --以上の署名のないコメントは、60.46.37.105会話/Whois)さんが 2006年3月1日 (水) 06:18 (UTC) に投稿したものです。[返信]

正論2006/4のインタビュー記事のプロホロフ氏の説明内容では、日本軍実行説を否定するに足る具体的な説明とはなっていません。肝心の実行の様子の説明がないのです。(内藤モスクワ支局長も、解説の拓大の藤岡教授もこの点を言及、指摘した。)これが昨年末から噂になったのは「マオ-誰も知らなかった毛沢東」の中でこのことが書かれていたからと言う事のようです。 --以上の署名のないコメントは、220.106.170.63会話/Whois)さんが 2006年3月14日 (火) 01:59 (UTC) に投稿したものです。[返信]

「張作霖爆殺事件」のノートで詳細に解説しておきましたが、犯人たちが口を揃えて自分たちの「犯行」だと認めている、日本政府にもその旨の正式の調査報告が行われている、かつ天皇に対しても「河本大佐犯行」の上奏がなされている、という点から考えて、「KGB犯行説」の成立の余地はありません。例えば、昭和17年の森克己氏による河本インタビュー(一般には「森記録」と呼ばれる)がありますが[1]、「KGB犯行説」を唱える方でこの「森記録」に言及している方は誰も存在しません。ゆう(matunami) 2006年6月1日 (木) 11:37 (UTC)[返信]
「張作霖爆殺事件ノート」の方に取り上げていなかった資料として、「川越守二(大尉)手記」というのもあります。やはり「犯人」のひとりとして、事件の経緯を詳細に語っている資料です。防衛庁防衛研修所戦史部に保管されている文書で、一般の閲覧は極めて困難であるようですが、井星英氏と稲葉正夫氏がそれぞれその内容を自分の論稿に取り入れています。著作権の問題があるかもしれませんのでここには紹介しませんが、ご希望があれば、私にメールをいただければご案内いたします。ゆう(matunami) 2006年6月1日 (木) 11:51 (UTC)[返信]

「ソ連陰謀説」への詳しい批判文を、こちらに投稿しておきました。興味のある方、ご覧ください。[2][3]ゆう(matunami) 2006年6月4日 (日) 02:40 (UTC)[返信]

スパイなのか

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張作霖#日本との関係の始まりにはスパイとあります。この件について情報をお持ちの方にはその提供をお願いします。特に反証もないようであれば記事に従いスパイとして扱います。--Sweeper tamonten 2008年7月2日 (水) 15:40 (UTC)[返信]

張作霖は「スパイ活動」はしていたけれど、「スパイ」ではないと認識しています。あくまで保険隊を母体とする自己組織の保身のために日露双方に渡りをつけるために情報提供をしていた程度かと。「カテゴリ:スパイ」はニュアンスとして本業がスパイの人が割り当てられるべきだと思います。(そうでないとほとんどの人物が「スパイ活動」はしているのですからみんなスパイになってしまいます) と、いうことで、私は本文表現には違和感はないのですがスパイのカテゴリにぶら下げるのはやり過ぎのような気がします。つまり現状通りが私の意見です。--Kaba 2008年7月3日 (木) 15:27 (UTC)[返信]
Kabaさま、コメントありがとうございます。張作霖はスパイ活動をしていたが片手間だったということでスパイとしての本人の意識は高くなかったということと受取りました。本人の意識から考えると私が一番スパイらしくないと思うのはヴィルジニア・オルドイーニです。スパイというより政治工作が目的でスパイとしての機能を持っていた程度でしょう。なお大多数のスパイは雇われているか脅されているかと考えています。私はもう一つの視点を持っています。それはスパイ活動の結果の大きさです。たとえ素人でもその活動の結果が重大であればスパイと判断した方がいいと考えています。意識も結果も大したことがないものについてはスパイのカテゴリに入れることは控えたほうがいいでしょう。スパイとして頑張った縁の下の力持ちには無礼かも知れませんが。張作霖については日本軍に命を救われたことからある程度の頑張りがあったこと、そしてその結果が大きかったことがありえることかもしれません。日本が見所があると判断した張作霖ですからそれなりの可能性はあるでしょう。若い時にどんな活動をしたかについては個人的にも興味があります。張作霖が若い時に何かに情熱を傾けていたのならそれを記事に残しておきたいと思います。--Sweeper tamonten 2008年7月3日 (木) 16:41 (UTC)[返信]
「張作霖」と「スパイ」のイメージがあまりに遠いので、てっきり「いたずら」だと思い、「関連項目」から削除してしまいました。早合点をお詫びします。
ただし私の意見もKabaさんと同じで、例え「諜報活動」への協力があったとしても、「スパイ」というカテゴリーで語るまでのことはないと思います。関連項目に掲載すると読者に誤解を与えかねませんので、やはり止めておいた方がいいのではないかと。
ところで、「日本の諜報活動に協力していた」という根拠文献は何でしょうか? すぐに捜し出せなかったものですから、後学のために教えていただければ幸いです。ゆう(matunami) 2008年7月4日 (金) 20:32 (UTC)[返信]
書いた者です。自分が見たのは東亜同文会編『対支回顧録』(1936)ですが、このほかにも日本側の資料ではこの手の記録がふんだんに存在します(私もその他の史料でも見覚えがあります)。ただし(と私が書いてしまうのが恐縮ですが)、日本側以外の資料でこの記述が見当たらないこと、また、現在張作霖研究を行っている渋谷由里氏の著書『馬賊で見る「満洲」』(2004、講談社メチエ)には「いささかの作為があるので著者には真実と断言できない」と書いており、史実と確定はできません。確かに典拠の明示を含めてそのあたりの記述の修正は必要です。Aboshi 2008年7月5日 (土) 06:15 (UTC)[返信]
ありがとうございました。「田中義一伝」、斉藤良衛「張作霖爆殺事件の真相」、「赤い夕陽の満州野が原に」、その他何冊かの概説書にあたりをつけてみたのですが、「張作霖が日本軍に協力した」止りで、具体的に「諜報活動に協力した」とまでの記述を発見できなかったものですから・・・。張作霖に詳しい方の間では、「常識」だったようですね。早速「対支回顧録」を注文しました。ゆう(matunami) 2008年7月5日 (土) 06:31 (UTC)[返信]
「対支回顧録」、入手できました。上下巻合わせて2000ページを超える本ですので、とりあえず上巻の「張作霖時代」を読んでみたのですが、「日本のスパイ」エピソードは発見できませんでした。ひょっとしたら、と下巻の「田中義一」の項を見ると、こんな記述でした。
>伝へて云ふ、日露戦役に際し、張は露軍のために働き、井戸川辰三大尉の新民府に至りし時、捕縛されて居たが、井戸川は見所ありとて之を救命せんとし、児玉総参謀長に命を乞うたが許されず。田中参謀の機知と座談とに辛くも命乞を許された、と。(P1316)
他の手元の本もチェックしてみたのですが、例えば「満州事変の裏面史」も、こんな感じです。
>井戸川は軍政署にかえり、張作霖を牢から引き出し「今後心を改めて、日本軍のために働き、今までの罪を償う気になるなら一命を助かるように総参謀長にとりなしてやるがどうか」といったら、「死刑を免れるならば日本軍のために尽します」と誓ったので一命を助けてやった。こうして親日家に生れ変った張作霖は、戦後東三省総督につかえたが・・・(P14)
白雲荘主人「張作霖」でも、はっきりしません。日露戦争後はしばらく「なす事もなくぶらぶら遊んでいた」(P69)そうですが・・・。
というわけで、「ロシアのスパイ」だったかのような記述は何点か確認できましたが、「日本のスパイ」という記述は、今のところ発見できておりません。おそらく私が見逃しているだけのことだとは思いますが、どうも「諜報活動」を行なったとしても記録に留めるようなレベルのものではなかったのではないか、という気がしています。
私は張作霖の若い頃に詳しくありませんので(「張作霖爆殺事件」にだけはやたらと詳しくはなりましたが(^^;)、このあたりの編集はAboshiさんにお任せしようと思いますが、「○○によると」という一文を挿入して「出典」を明らかにしておいた方が無難かもしれませんね。
なお、記事の「質問があります」は、既に役割を終えたと思いますので、削除しました。ゆう(matunami) 2008年7月11日 (金) 22:49 (UTC)[返信]

真っ青になりながら書きます。『対支回顧録』を一通り確認しましたが、確かに張が積極的にスパイ活動に従事した記録はありません。日露戦争中の張作霖の具体的、かつ記録性がある内容としては満州義軍に参加した土井市之進陸軍大尉(当時)の「日記」として、新民府の営官であった張作霖が土井らをかくまったというものがありますが、それだけです。白雲荘主人『張作霖』等他の書籍も見ましたが、確認できず…すでに3年以上前の加筆で、当時何に依拠したかなかなかわからないのですが(『対支回顧録』とばかり思い込んでいました)、本を買わせてしまったmatunamiさんには強くお詫びします。筆がすべったかなあ。ただ、『日本歴史大辞典』(1979、河出)には「花田仲之助の満州義勇軍に参加」とあり、満州義軍そのものに参加していれば確かにロシア軍の後方撹乱や情報収集を行っている可能性が高いのですが、『日本歴史大辞典』が何に依拠したのかわかりません。ちなみに最新の研究といっていい渋谷由里氏の著書『馬賊で見る「満洲」』(上で既出)には同じく馬賊であった杜立三や張の盟友の湯玉麟の満州義軍の参加を認めつつも、張については懐疑的です。

大変申し訳ないのですが、現状ではここまでしか確認できない以上、書き直していく方向で考えています。Aboshi 2008年7月23日 (水) 14:27 (UTC)[返信]

「日本のスパイ」説は、どの本を見ても載っていないので、不思議に思っていました。ちょっと無理がある「スパイ」カテゴリ追加から始まった話ですが、これがきっかけとなって「記事の正確性」が向上することになりそうですので、結果としてはよかったのではないかと思います。ゆう(matunami) 2008年7月26日 (土) 23:57 (UTC)[返信]

関連項目について

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田母神俊雄氏のページが関連項目にあげられておりますが理由がよくわかりません。 横に理由をつけていただくか、消すかしていただけるとよいのですが。--220.40.213.20 2010年11月23日 (火) 08:30 (UTC)[返信]