ノート:幣原内閣
幣原内閣は内閣改造を行ったのか?
[編集]質問 白拍子花子(会話 / 投稿記録 / 記録)さんにより「一部の閣僚が公職追放に該当したため、1946年(昭和22年)1月13日に小規模な内閣改造が行われた」との編集がなされました。しかし、幣原内閣の閣僚交代は、通例では内閣改造とは表現しないはずです。幣原内閣が内閣改造を行ったとは思えないのですが、いかがでしょうか?
念のため、内閣官房内閣広報室が運営する総理大臣官邸公式ウェブサイト「昭和20年代から40年代前の内閣閣僚名簿」を確認いたしました。こちらの一覧を確認しますと、第3次吉田第1次改造内閣をはじめ、内閣改造が行われた際には、「改造内閣」と明記したうえでリンク先に閣僚名簿を掲載しています。ところが、幣原内閣については、改造内閣が発足したとの文言は一切ございません。もちろん、内閣改造と呼ぼうが呼ぶまいが国務大臣を交代させることには変わりはないわけですが、内閣改造は日本国憲法第68条等を根拠としており「内閣改造」と表記するのは通例日本国憲法下であることも考え合わせれば、やはり「1946年(昭和22年)1月13日に小規模な内閣改造が行われた」との表記は不正確ではないでしょうか。
私の確認結果は上記のとおりですが、もし遺漏や不備等ありましたらぜひご指摘ください。白拍子花子(会話 / 投稿記録 / 記録)さんが「1946年(昭和22年)1月13日に小規模な内閣改造が行われた」と主張する根拠をご教示いただけるでしょうか。--Taiwaan 2012年1月4日 (水) 01:56 (UTC)
- 報告 告知期間中に異論が寄せられませんでしたので、該当箇所のみを白拍子花子(会話 / 投稿記録 / 記録)さんが編集する前の状態に戻しておきました。--Taiwaan 2012年1月13日 (金) 02:02 (UTC)
結論から先に申し上げますと、Taiwaanさんのおっしゃる「内閣改造は日本国憲法第68条等を根拠としており「内閣改造」と表記するのは通例日本国憲法下であることも考え合わせれば」というのは誤謬です。また「幣原内閣の閣僚交代は、通例では内閣改造とは表現しないはずです」「幣原内閣が内閣改造を行ったとは思えないのです」とおっしゃるのは、失礼ながらTaiwaanさんの思い込みです。「内閣改造」という語は英語の cabinet reshuffle の翻訳語で、明治時代からごく一般に使われていた表現です。ネット上でざっと検索しただけでも、「内閣改造」の語を見出しに使った大正から戦前昭和の新聞記事がいくつも出てきます。
- 内閣改造騒ぎ(東京朝日新聞、大正11年5月8日、原内閣についての記事)
- 内閣改造と財界有力者の観測 財界には無影響 依然緊縮政策を踏襲 全解禁の観測説もある(大阪時事新報、大正15年6月3日、第一次若槻内閣についての記事)
- 鉄相と蔵相を呼びいよいよ内閣改造に着手した若槻首相 本党への交渉と研究会への渡り(大阪朝日新聞、大正15年5月13日、第一次若槻内閣についての記事)
- 大臣表決権問題は顧問官二名増員で解決 拓相は首相兼任か 内閣改造では山本、高橋、秦、鳩山四氏中から簡抜(国民新聞、昭和4年5月22日、田中義一内閣についての記事)
- 手際のよい内閣改造 床次鉄相の諒解で円く納る 自薦、他薦が渦巻いた(大阪毎日新聞、昭和7年3月16日、犬養内閣についての記事)
- 内閣改造問題は首相の裁量に一任す 昨夜・久原氏鈴木法相と会見 両派の諒解略成立す(大阪時事新報、昭和7年3月24日、犬養内閣についての記事)
- 内閣改造は薮蛇禍根将来に残る 鈴木系と反鈴木系の対立で今後事毎に紛糾せん(大阪時事新報、昭和7年3月26日、犬養内閣についての記事)
- 内閣改造は断念 一蓮托生で総辞職 斎藤首相決意を固む 蔵相の単独辞職解消(大阪朝日新聞、昭和8年4月5日、斎藤内閣についての記事)
- 戦時強力内閣成る (1〜5) 内閣改造の大成功(満州日日新聞、昭和13年6月4〜9日連載、第一次近衛内閣についての記事)
- 計画経済遂行に圧力内政処理へ強力邁進 内閣改造に国民期待(大阪朝日新聞、昭和15年12月22日、第二次近衛内閣についての記事)
また当時の一級史料である『原田熊雄日記』や『木戸幸一日記』などを読んでみても「内閣改造」の語はあちこちに出てきます。問題の幣原内閣の改造については、国立国会図書館の詳細年表の1946年1月13日条に「幣原内閣改造」と、はっきりと書かれています。
百科事典を書く者にとって「〜も考え合わせれば」「はずです」「思えないのです」といった独自の解釈は許されません。何事も検証できる範囲において、事実をありのままに書けばよいのです。Taiwaanさんはいろいろと独自研究をなさる前に、一度この時代に書かれた文献をいくつかお読みになってみてはいかかと存じます。
なおTaiwaanさんは同じような手法で私の編集を進行中の荒し行為と関連づける書き込みそこかしこでなさっておられますが、こうした執拗な嫌がらせは立派な荒し行為です。今後くれぐれも御自重くださいませ。--白拍子花子(会話) 2012年7月10日 (火) 15:13 (UTC)
蒸し返すようで申し訳ないのですが、幣原内閣の「内閣改造」について疑問に思いここにたどり着いたものです。
wikipediaの内閣改造において、以下のように書かれています。
>慣例上は天皇から「組閣の大命」を受けた首相就任内定者が組閣作業の責任者となっていたが、法文上は天皇が全ての国務大臣を自らの判断で任免するものであり、一旦内閣が発足すると首相の一存で閣僚を入れ替えることはできなかった。また実際には天皇が独断や本人以外からの奏請に基づいて国務大臣を解任した例もなく、国務大臣の退任は本人の希望か内閣総辞職のいずれかにより本人が辞表を提出した場合に限られていた。
>1941年7月に近衛文麿首相が、松岡洋右外務大臣を更迭したいがために内閣総辞職を行い、その上で改めて天皇から大命降下を拝受して外務大臣を松岡から豊田貞次郎に交代させるなどした『第3次近衛内閣』という形の事実上の「内閣改造」を断行するという荒技を駆使しなければならなかった例もある。護憲三派連立政権として発足した加藤高明内閣が1925年8月2日に三派連立を解消して憲政会単独内閣となったことは、今日では内閣改造とされている。
ここから考えるに、戦前の内閣においては首相に閣僚任免権がなく、そのため(実際には内閣改造である場合もあったのだろうが)法制度上は内閣総理大臣が「内閣」を「改造」することは出来ないということになるのではないでしょうか。
また、幣原内閣のページと内閣改造のページでやや齟齬を来しているのも気になるところです。
結局のところ、幣原内閣の閣僚入れ替えはどのような形で、あるいはどのような法をもって行われたのでしょう?--222.10.254.39 2021年4月22日 (木) 13:19 (UTC)