ノート:崇禎帝
「順」は正統王朝か
[編集]本記事と直接の関係はないのですが、今、李自成が建てた元号の記事であるノート:永昌 (李自成)で、この元号は崇禎に続き順治につながる中国史の正統な元号なのか、それとも私年号なのかについて議論しています。言い換えれば、大順は「明」と「清」の間にはさまる正統王朝なのかどうか、ということになります。議論がこう着状態ですので、ご関心のある方、特に明清史にお詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--Novo 2007年7月27日 (金) 21:21 (UTC)
- 陽明学の正閏論ではなく、明朝と清朝の間に短命政権として順朝が存在したことを認めるか、それとも明朝は直接清朝によって王朝交代したのかという事実認識の問題でしょう。--Yonoemon 2007年7月30日 (月) 07:50 (UTC)
:殷(商)の湯王が夏の桀王を討ち、周の武王が殷(商)の紂王を滅ぼした「湯武放伐」の観点からすれば、順にも十分資格はありそうですね。ただし、「正統王朝」とは何でしょう。伝統的な正閏論で言えば、「天命」を受けていることに尽きます。例えば、三国時代の正統王朝は、朱子学では蜀としますが、蜀の後の正統王朝は、魏の後継政権である晋です。理由は「天命を受けているから」です。順が正統王朝なのかという問題は、順は天命を受けているのかという問題になります。「湯武放伐」にしても、ただ武力によって政権を打倒すれば足りるのではなく、天命を受けてこれを行ったことが証明されねばなりません。具体的には、新王朝が前王朝に替わるだけの求心力を発揮して、人民の帰服と領土の統一を成し遂げることです。順が求心力を発揮する間もなく、第三勢力である清に滅ぼされてしまったのでは、正統王朝と言うには当たらないと思います。 次に、正統王朝という観念を捨てて、現代風に考えてみましょう。まず、「順」は内閣大学士以下の百官を任命して政府機構を整備し(主権)、西安から北京に至る一定の支配地域を確保し(領土)、清に一敗地にまみれた直後でも、西安で数万人が募兵に応じるなど、一定の人民の支持があった(領民)わけですから、国家の三要素を備え、政権としての実態はあったと思います。ただし、首都を追われたとはいえ、前政府(明朝)の亡命政府が南京に樹立される一方、満州族の清国はもとより、日本や朝鮮など、周辺諸国も順を政府(王朝)として承認することはなかったので、今のIS(イスラミック・ステート)が、ダマスカスかバクダッドを占領したような立場だったかと…。いずれにせよ、順は、明と清の間の王朝と言うより、「李自成の四十日間」とでも言うべき「事件」(あるいは中間時代)に過ぎないと言うべきでしょう。—以上の署名の無いコメントは、58.189.196.55(会話/Whois)さんが 2015年12月27日 (日) 11:25(UTC) に投稿したものです。