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ノート:永昌 (李自成)

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私年号かどうか

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Yonoemonさんの「短期とは言え王朝を簒奪していれば新朝と同様に扱うべきです」というお話はすでにここ差分でうかがっているのですが、Wikipediaでは出典のない、投稿者の独自な解釈による記述は認められていないので、Yonoemonさんと同じ解釈をしている出典を具体的に挙げていただけませんか。正閏論そのものをここでするつもりはありません(私は順が「正統」かどうかには興味がありません)ので、出典の有無に話を絞らせてください。どうかご理解のほどよろしくお願いいたします。--Novo 2007年7月26日 (木) 15:05 (UTC)[返信]

李自成が明朝を滅亡させたという記述があればいいわけですね?となると山のように出典が出てきますが逐次列挙する必要がありますか?王莽が前漢王朝を簒奪したという点に関して一切出典を求められないことを考えれば、清朝が明朝を滅亡させ、李自成は地方政権に過ぎないという出典を提示されるのが合理的なものでしょう(その昔某大学の入学試験でこれを記述して問題になった事件がありましたな…)私年号に加えるための具体的出典をお願いします。(明と清の元号に空白期間がないため年表以外でお願いします)--Yonoemon 2007年7月26日 (木) 23:01 (UTC)[返信]
いえ、違うのです。ここ差分
で私がすでに申し上げ、その結果Yonoemonさんもいったんここ差分
で話を撤回されていますが、必要なのは「永昌が正統年号である」「順が中国の正統王朝である」と明記してある出典です。「李自成が北京を落として崇禎帝を自殺させた」というどんな本にも出ている史実から「永昌が正統年号である」という出典の確認されない解釈を自分で導いて記述することは、Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成にあたるものです。新の元号が年表に書いてあり、順の元号が書いてないことが客観的に矛盾すると考えられるのならば(それもひとつの考え方です)、Wikipedia:独自研究は載せない#専門家の役割と、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんの「5.独自の調査結果の発表の場ではありません。」とをご覧になった上で、まずご自分で学会に研究を発表され、それを定説になさってください。
永昌が私年号であると書いてある出典は李崇智の研究(これは年表ではありません)と柏楊の年表です。そのほか松橋達良も私年号扱いです。一方、年表に限らず、研究書で「永昌元年」を「崇禎17年」の後に続く紀年として用いているものを見たことはありません。(「明と清の元号に空白期間がないため年表以外でお願いします」というのはどういうご趣旨のご発言ですか。崇禎帝の自殺と清の入関には現に数ヶ月の空白期間がありますし、正統年号であることが定説なのであれば、永昌は年表にも入れられ、歴史叙述の中で普通に使われるはずです)--Novo 2007年7月27日 (金) 06:11 (UTC)[返信]
こりゃどうどう巡りですな。正閏論を再び始める気はありませんが、明と清の間に順朝が存在することを否定するのでしょうか?明は順により滅亡し、順は清により滅亡したという客観的な話をしているだけなのですか、それが何故に独自研究になるのかが理解できません。加藤直人氏などは明は清により滅亡されたのではないと述べている事を考えても、何がなんでも私年号という恣意的な解釈に反対しているだけです。基本的に分裂期を除いた地方政権の場合が私年号と考えていましたが、順朝は地方政権として扱えというお話なのでしょうか?それとも上記の概念が根本的な誤る謬誤なのでしょうか?
あと明と清の元号の連続性ですが、明の滅亡と清の入関に空白期間があるのは順朝が存在したので当然です。ただし清は入関以前に独自元号を使用しており(天聡などには疑問がありますが)、永昌を記載しなくても元号の連続性が保てるというお話です。正統王朝だから記載されるべきという問題ではないでしょう--Yonoemon 2007年7月27日 (金) 06:23 (UTC)[返信]
どうどうめぐりというよりも、YonoemonさんがWikipediaのルールで求められている基準を満たす出典(「永昌は正統年号である」と書いてある出典)をお示しにならないところで話が止まっているだけだと思います。私年号扱いしている出典は現にあるわけですから、それを根拠に私年号とすることに恣意的もなにもないと思います。「私年号」(僭年号)というのは「後世から正統とみなされない元号」のことで、王権が地方にあるかどうかとは関係ありません。ちなみに中文版のzh:中國君主列表 (地方政權)には順が載っていますので、(大きなお世話ですけど)書き換えを提起されたらいかがですか。
連続性のお話も違うと思います。元号は、紀年に空白が生じるかどうかで使うかが決まるのではなく、それを建てた王権が「正統だ」と後世の人が解釈するかどうかで、時代ごとに使うかどうかが決まり、変わっていくのであって、たとえ現実の時系列に空白が生じても「正統」でなければ使われません。明の建文も、前にやりとりした鳳歴 (後梁)も、『元史』が中統以前に(空白だからといって南宋や金の元号を使ったりせず)在位紀年を使うのもその例でしょう。永昌が使われないのは、清代に使われず(使うわけがない)、清の滅亡後は帝制自体がなくなって「復活」するかどうかに意味がなくなったので、そのままになっているのだと思います。
くどいようですけど、要するに、北京の権力が明→李自成→清へと移ったという客観的な史実と、その解釈とは別問題だということです。解釈(歴史認識)は考え方によってどうとでもなるので、「順が正統だ」と考えることも論理的には可能です。だから現実にそう書いてある出典を(私は知らないので)求めているわけです。
まあしかしですね、こうやってふたりでやりとりしてもまた煮詰まってしまうだけですから、広く第三者の方々に公平に評価していただくことにしませんか。私のほうで関連ページにリンクを張っておきますので。そちらでもお好きなところで宣伝なさってください。のんびりいきましょう。
順が「正統」かどうかそのものに興味はありませんが、中国史における「正閏」概念がどんな言説とイデオロギーによって生まれ、正当化されてきたのかという歴史哲学的な問題設定なら面白く、李自成はそれを考える上で格好の例であると思います。朱子学の最大のテーマですね。ひまを見て私も勉強してみます。--Novo 2007年7月27日 (金) 20:58 (UTC)[返信]
早い話が理屈vs歴史観の論争ですな。チャールズ・E・カッターが真実を知ることは義務であて美徳ではないと『歴史とは何か』で述べていますが、NOVAさんは義務段階での主張を重要視しているようですが、こちらは規模と完成度は問わず中央政権となった王朝は私年号に分類すべきではないという歴史観に基づいて主張しているだけです。理解していただくには朱子学以外に史学概論的な内容を精読なされて、もうすこし歴史観そのものに対し造詣を深めることをオススメします。歴史観のない人間はいくら理屈を並べても上辺の議論になりがちなものです。
それに正史編纂関する基本的な知識も不足しているようです。元史で南宋の元号を使わないのは当然でしょう。まさかそんな基本的な事を盾に反論されるとは思いませんでした。もうちょっと歴史観に基づいた反論をしましょうや(もちろん真実の把握が前提)。こっちも余りに基本的な話には反論する気がおきません。
あと中文版の歴史観に介入しようとは余計なお世話そのものです。今回の問題に限らず高句麗にしろ渤海にしろ共産党一党独裁の歴史観に支配された言語版に日本の歴史観、資料批判の概念を持ち込んでも意味がありません。下手なことをやると炎上するだけです。それとも最近は中国の歴史学者の著作を重視している貴殿は、中国の歴史観まで重要視しろというのでしょうか?違いますよね???--Yonoemon 2007年7月28日 (土) 03:09 (UTC)[返信]
どうもいろいろご教示ありがとうございます。勉強さしていただきます。
やっぱり通じてないわけですが、上でリンクしたように、「ウィキペディアは演説をする場所ではありません」ので、「規模と完成度は問わず中央政権となった王朝は私年号に分類すべきではないという歴史観に基づいて主張」するのなら(そういう考え方にも一理あるとずーっと述べています)、そういう主張をしている専門家の研究書を出典としてあげないと、ここでは投稿者の独りよがりとみなされ、記述させてもらえないのが決まりなのです。
なお私も元史で南宋の元号を使わないのは当然だと思って例に挙げてます(逆説で言っているのです)ので、もう少し落ち着いてよくお読みください。要は、同時代に使われた元号と、後世でその時代、年をさすために使う元号が違うのは当然で、それはその時々の政治状況による、ということです。だから永昌は正統年号に「公認」されるきっかけを失ったまま今も私年号扱いなのだろうと述べたのです。
あと、中文版は別に中華人民共和国の肝いりでできたものでもないし(むしろアクセスを規制してるんですよね?)、台湾の人もたくさん参加していると思いますけど。むしろ前の議論では中華人民共和国の研究書も挙げておられたので、Yonoemonさんは中華人民共和国の歴史学にも配慮なさる方なのかと思っておりました。学問というものは、少なくとも建前では国境を越えるもので、学術は交流し、互いに切磋琢磨してこそ進むものです。別に私年号の定義が今の共産党のイデオロギーと衝突することなどないと思いますし、間違っているものは直しに行かれたらどうでしょうか。私も直しに行ったことはありますし、Yonoemonさんも行かれてますよね?
まあ落ち着いて、第三者の方がいらしてくださるのを待ちましょう。--Novo 2007年7月28日 (土) 06:48 (UTC)[返信]
「真実を知ることは義務であて美徳ではない」と前提を述べているのですが...恣意的に解釈していますね。歴史観と演説を同一視するとは…個別の記事を云々する前に史学概論を学ばれるのが先決でしょう。史学科なぞに入学するとまずは歴史観について学び、史料読解・批判の方法論を学んだ後に個別事例を取り扱うのですが、どうやらその方法論がご理解なされていないご様子です。ここは誰でも書き込める場所であっても、こちらは上記の確固たる歴史観(中央王朝は泡沫政権としない)に基づき客観的な区分をしているだけなのですが、どうやらそれが貴殿には独自研究になるというわけですな。
そもそも私年号の定義を自ら行うことなく、他人に対しては出典出典と念仏のように唱えている姿勢がオカシイと申しているわけです。明→順→清との王朝交代を述べた概説書や専門書や論文はいくらでもありますよね。定説だからこそ崇禎帝の項目で問題提起がなされていないわけでしょう。王朝交代に順朝が存在している、よってにわざわざ私年号と区分し、明から清に直接王著交代したような誤解を招く記述に強~く反対しているけです。理解できますか?
  1. 明は李自成により滅亡した
  2. 李自成は順朝を建て永昌を建元した
  3. その後順朝は清により簒奪王朝と非難され滅亡した
上記の事実から敢えて私年号に区分する意図は何でしょうか?王朝交代で登場する順を無視するのはそれこそ独自研究の発表に他なりませんよね?そもそも私年号という定義自体を自ら明確にすることなく思い込みで非難されてもこっちは迷惑なだけです。
それと中国史学会の歴史認識、区分は勝手に修正しに行って下さい。第三者に多言語記事の修正を勧められる言われはありませんし、李自成を中国共産党イデオロギーと衝突することなどないという実際のイデオロギー(李自成は階級闘争の代表として恣意的に高い評価を与えられた時期が存在し、その方針は現在も変わりないことを知らないのでは?)を理解していない発言を行う貴殿と共同戦線を張る気はさらさらございません。
あと記事の正統年号か私年号かという議論の誘導。あまりにもレベルの低い記載方法ではありませんか?正統か否かなんぞ朱子学の世界でしょう。見ていて恥ずかしい上、そんな議論をしている気はないので勝手ながら修正しておきます。Yonoemon 2007年7月28日 (土) 08:30 (UTC)[返信]
私年号2007年7月6日 (金) 16:22 (UTC) の版差分
に基づく)の定義はリンクをクリックして読んでください。それが私の定義です。書き換えていただいた{{SeeTalk}}をみてなるほど定義が違う(地方政権であるかどうかが重要なのですね)のかと思いました。ほかはすでにうかがっている話の範囲を出ないようですので私見は変わりませんけど、同じことをまた書くと長くなって第三者がコメントしにくくなりますので省略します。出典を求められたらすぐ提示するのはウィキペディアの基本的ルールです。
中文版については無論ご随意になさればいいと思います(そもそも私は興味がないし、今の記述でいいと思っていますので行きません)が、お話のとおり中華人民共和国では李自成の評価は(反封建闘争の英雄としても、ただの英雄としても)高く、「逆賊」などと考える人はもういないでしょうから、「地方政権」に入れず、「zh:明朝君主列表」に「順朝君主列表」節を平等に作れと主張したら、「愛国主義」のご時世だし案外賛成されるんじゃないかなあなんて思ってますけど(冗談です、念のため)。--Novo 2007年7月28日 (土) 09:39 (UTC) 少し書き加え。--Novo 2007年7月29日 (日) 20:22 (UTC) 私年号の版へのリンクを追加--Novo 2007年7月30日 (月) 12:28 (UTC)[返信]
私年号の定義を見れば順朝の場合は私年号に該当しませんな。安定した王朝といいますが、短期間でも中央政権となった順朝は安定した政権ではないのでしょうか?また順朝を安定していないとなると他の元号に対しても定義が変わってきますよね。もし順朝を「安定」した政権に認めない場合は、「安定」の明確な定義をお願いします。--Yonoemon 2007年7月29日 (日) 23:30 (UTC)[返信]

Yonoemonさんが永昌は私年号ではないと主張されていること、またその根拠については理解いたしました。しかしWikipedia:検証可能性に照らせば特定の文献を紹介できない時点で、それはYonoemonさんという一ウィキペディア利用者の私論に過ぎないともいえます。従って現段階では、結論としては Novo さんに分があるといわざるをえないと思います。Yonoemonさんには、文献を提示されるか、あるいはお説をどこか学会誌などで発表され(査読つきのものが望ましい)、その上で参考文献として第三者がそれを提示されることをお待ちになることをお勧めします。--Aphaia 2007年7月29日 (日) 20:28 (UTC)[返信]

王朝交代の中に順が入っているという文献はいくらでもありますしまた定説です。出典はそれで充分との考えです。(それとも順朝の位置づけの議論から必要なのでしょうか?)--Yonoemon 2007年7月29日 (日) 23:30 (UTC)[返信]
Yonoemonさん、私があちこちばらまいたコメントに注記いただきお疲れ様です。またAphaiaさんからコメントをいただいたことに深く感謝申し上げます。
しかたがないのでYonoemonさんのように同じことをもう一度長々と敷衍して説明します。ひとことでいえばAphaiaさんのコメントと同じです。ここでされているような「順朝の位置づけ」についての「東洋史の定説」をご自分で解説なさるだけではなくて、そういう解説をしている出典をWikipediaのルールにあった形で出せばそれですむのだし、私もそれしか求めていないのです。
以下ルールとガイドラインについてご存知の方は読み飛ばしてください。
Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成2007年7月3日 (火) 15:35 (UTC) の版差分
に基づく)にこうあります。
もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む、「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。(ジミー・ウェールズは、歴史についての情報の合成について、次のように注意を促しています。ウィキペディアでは、なぜ実験結果等を引用したり、それらを何か新しいものに総合することによって、物理学の新奇な理論をつくるべきではないのか、ということを完全に理解している人々も、同じことが歴史学にも通用することを見落とすことがあります。[1] )「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。
この引用にある「AでありBである、ゆえにCである」に、
A:「1644年、李自成は順を建て、さらに北京を落として明を滅ぼした。その後呉三桂が山海関を開き、清が入関して順を滅ぼした」(客観的史実、典拠あり)
B:「順を建てるにあたり、李自成は元号を永昌と定めた」(客観的史実、典拠あり)
C:「永昌は私年号ではなく、いわゆる『正統年号』である」(固有の歴史観にもとづく解釈、典拠未提示、反証典拠あり)
または(ここにあるYonoemonさんのことばをあてはめるなら)
A:「明は順により滅亡され、清は順を滅亡させることで中華王朝を自称した」(客観的史実、典拠あり)
A2:「清が崇禎帝に諡号を贈り、簒奪王朝としての存在を強調している」(客観的史実、典拠あり)
B:「同様の王朝として新や武周があるが何れも所謂正統王朝として扱われている」(客観的史実及び固有の歴史観に基づくその解釈、典拠あり)
C:「永昌は私年号ではなく、いわゆる『正統年号』である」(固有の歴史観にもとづく解釈、典拠未提示、反証典拠あり)
を代入して考えれば、ウィキペディアでCと書くためにはそう書いてある研究書の出典の提示が必須になる(これはウィキペディア日本語版の公式な方針です)のです。
出典を求める人がいなければ記述はいつまでもほっとかれますが、求められたときにはすぐに出さなければなりません。ですから今まで議論が出なかったから「定説」であり、出す必要がないとは言えません。出典提示の義務は執筆したい人にあり、「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません(「Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に」に書いてあります。これも「公式な方針」です)」。出典が示せない場合、その記述は、ウィキペディアに書くのではなく、「自分でサイトを作ってそこで自由に書いてください」とどこでも言われています。
永昌が私年号であると明示している典拠は(第三者に分かるように書いていませんでしたので改めて提示しますが)
  • 李崇智『中国歴代年号考 修訂本』(北京:中華書局、2001年1月、ISBN 7101025129)220ページ。
  • 柏楊『中国歴史年表』(海口:海南出版社、2006年11月、ISBN 7544318656)681-682ページ。(著者は台湾の人で、この本も台湾で初版が出ているようです)
  • 鄧洪波編『東亜歴史年表』(台北:台湾大学出版中心、2005年3月、ISBN 9860005184)244ページ。
  • 松橋達良(編著)『元号はやわかり 東亜歴代建元考』(東京:砂書房、1994年7月、ISBN 4915818276)226-227ページ。
です(ほかにもあるでしょう)。また、三省堂編修所編『コンサイス世界年表』(東京:三省堂、1976年)の年表部分及び巻末の「年号索引」にも、『角川新字源 改訂版』(東京:角川書店、1994年)1221-1226ページ所収の「中国年号一覧表」にも「永昌」は登載されていません(そもそも「正統年号」として登載されているものを見たことがありません)。年表ではなく、索引形式の一覧にも登載されていないのだから、「時系列的空白がないから年表には載っていない」という理由付けでは説明しきれないでしょう。現在の歴史評価でも、「事実問題」の外に、常に叙述者の「価値判断」「歴史観」「歴史認識」による取捨選択は存在するのです。だからYonoemonさんと同じ取捨選択(「中央政権」は泡沫でも全部「正統年号」、「地方政権」は私年号)をしている出典の提示を求めているのです。
念のために繰り返しますが、私は「順」が「正統」ではなく、「永昌」が私年号であると自ら信じ、主張しているのではありません。出典があれば、あとはどう両論併記するかの調整に進もうと考えております。出典提示をお待ちしております。
追記:今「安定」の定義について疑問符がついているのに気づきましたが、それは相対的なものなので、客観的には決められないでしょう。北京に1ヶ月ちょっといて、即位礼をあわただしくやって逃走した政権を安定政権と言えるかどうかなどと言い返しても水掛け論になるので、ウィキペディアでは投稿者に解釈権を与えず、「出典主義」をルールにして決着をつけるのだと理解してますけど。--Novo 2007年7月30日 (月) 12:28 (UTC)[返信]

正統年号なぞと時代錯誤の用字を明記した学術文献は流石に存じませんが、Aを明示している出典があればそれで充分という考えです。では他の「私年号政権」と順朝を同一視すべきという出典があるのでしょうか?流石に史実を無視したそのような出典は無いはずです。

順朝をことさら強調している中共史観が分かりやすいので例示しますが、郭沫岩は『甲申三百年祭』(1944年)の中で農民蜂起による順朝の成立を評価するとともに、その後の指導者の腐敗及び派閥抗争で失敗していく過程を述べ、現在でも中共の公式史観となっております。寡聞ながらこの史観が公式に否定された報告は見ておりませんし、その歴史観に基づいた著作は今年5月に謝承仁が『李自成新伝』(北京図書館出版社)として発表されるなどしています。

更に言えば中国の私年号と日本の私年号ですが、その概念は多少ことなります。建前は万世一系の天皇制の日本は朝廷が定めた元号以外は全て私年号と容易に区分できるのですが、中国の場合王朝交代があり元号の選択は日本より自由裁量となっています。李崇や鄧洪波は単純に短命政権か否かの帰順により取捨選択していると判断しています(私年号取捨選択の基準も出典も明示されていない。その前に私年号という用語を使用しいていないケースもありますよね)。

原則として順朝が王朝交代の中で果たした役割が客観的に評価されている以上、その存在を無意味に、言い換えれば都合のよい出典のみを取り上げて故意に無視するという貴殿の方針に対し強く反発しているだけです。私年号か正統年号かという朱子学者のような立場は捨てて、大局的に文献に対し向かい合い、総合的に判断する姿勢をお持ちになられてはいかがでしょうか?--Yonoemon 2007年7月31日 (火) 00:24 (UTC)[返信]

Aだけでいいのだ」と真正面から言われるとことばがないですね。Wikipedia日本語版の「公式の方針」に従わずに編集を強行すると明言されたわけですから(びっくりしました)。これではそもそもルールが共有されていないわけですから、これ以上申し上げることばはないですね。話を大きくするのはいやですけども、広くコミュニティの検討をあおぐことを考慮します(上の「ABC原則」は「歴史解釈」についての断り書きなのですけどね)。
「正統年号である」(確かに「時代錯誤」なことばですけど、元号自体がそういうイデオロギーと不可分な存在なのだからしょうがないでしょう)とメタに言うのではなくても、普通の年号索引に載っているかどうか、私年号についての研究にどう書いてあるか(見解が分かれるのだから言及はあるはずです)、歴史叙述で使われるのかどうかといった、言語行為そのものの観察によって、Cにあたる出典を丹念に探せばいいのです。
なお日本の私年号と中国の私年号(僭年号)とでは概念がずれる、中国のほうがぶれがあるというのはお説のとおりです。中国の「私年号区分の基準」を明らかにしている中国元号についての研究はこれまでにありますか。私は「客観的な区分」は不可能であって、だいたいそのときの政治状況によって恣意的に再解釈され続けるものだと思っていました(だから、同じ「私年号」にくくられた元号を用いる王朝・政権がすべて同じ性格をもたなければならないことはありません。両者は別カテゴリーですから)が、Yonoemonさんの客観基準の出典は何ですか。
またYonoemonさんの見解が論理的に矛盾しているわけではないことも再確認します。しかし現実の歴史学においても、ロジカルに両立しない見解が共存したり対立したりすることはあるわけですから、そういう状況があればそれをそのまま記述するというのがウィキペディアのルールです(すでに「両論併記」もありうると申し上げていますね)。ご自分で(Cの)出典を出すことなく、「大局的に」「総合的に判断する姿勢」から、私が出した元号に関する出典が「無意味で」「都合がよい」「一学説」と一方的に断定されるのなら、それが学界全体の中でどういう位置を占めるのかを、「元号研究」の枠組みの中で大局的にご教示いただけませんか。--Novo 2007年7月31日 (火) 06:03 (UTC)[返信]
おやおや順朝は正統王朝かという前近代的な問題を提起しておいて、今度は年号の扱いに焦点を絞ってきましたか。Template‐ノート:中国の歴史などで問題提起している内容とズレてきていますね。そして「公式の方針」に反した編集と断定していますが、そのようなつもりはこちらは全く無く、そちらこそが主観に基づいて「公式の方針」に反していると断定しているだけではないでしょうか?
こちらはむやみやたらに私年号に分類するのはオカシイと言っているだけです。他の短命政権、地方政権の元号を私年号に分類せず(本来は正史が認める皇帝以外が定めた元号は私年号というのが伝統的な概念)、現在私年号に分類していない他の元号同様の扱いを行うべきであり、ウィキペディアの中で同一概念で扱わないとめちゃくちゃになるという話なんですが、どうやらご理解いただけないようですね。永昌 (李自成)にだけ強いこだわりを見せ、永興 (冉魏)定鼎についてはまったく言及しないという二重性を問題にしているだけです。--Yonoemon 2007年7月31日 (火) 08:35 (UTC)[返信]

普通の記事なら異説を注記することで両論併記的にできますが、カテゴリにはそれができません。そういう場合には、カテゴリに含めた上で記事本文で説明を加えるしかないです。Novoさんが紹介した文献が歴史書の名に値しないどうしようもない代物だというなら話は違ってきますが、そうではないようですから、永昌を私年号とする説(というか判断)は確かに有力なものとしてあるのでしょう。ならば、私年号としない説の有無や、どちらがより良い説なのかを吟味するまでもなく、カテゴリを付けるのが良いと思います。--Kinori 2007年7月31日 (火) 14:16 (UTC)[返信]

Kinoriさんコメントありがとうございます。私個人の立場から言えば感謝の一言に尽きるおことばですが、これまでの経緯からすると編集合戦が起こる可能性があるので、とりあえずルールについて井戸端でコミュニティのご意見をうかがうことにします。
Yonoemonさんに一応弁解しますと、私は、「正統」か「閏統」かは、時代時代の主観的な、「恣意的」な価値判断で変わるもので、客観的定義は不可能と考えておりますので、「順朝は正統王朝か」と書いているのも、朱子学の固定した観念によっているのではなく、今の歴史学の「定説」でどうなのかという意味に過ぎません。ほかに言いようがないので言っているだけです(朱子学者なら「私年号でも正統年号でもどっちでもよい」などという「いい加減」なことを言えるわけがないでしょう)。それは常識だとうかつに考えていたのですが、客観基準(中央対地方)で決められるという専門家のYonoemonさんによる近代主義的解釈(言われてみればそれもひとつのアプローチですけど)に接して驚き、それ以後かぎ括弧をつけるようにしています。それに、私は最初から「永昌が正統年号だ」という出典を示してほしい、論点はそこに絞ると言っているのであって、今になって元号に絞っているわけではありません。Yonoemonさんの「拡大」に従って王朝の「正統性」にも言及しただけです。
なお、私は元号・西暦年記事を19世紀から遡及して編集していますので、永興 (冉魏)定鼎までにはまだとても手が回りません。Yonoemonさんにも整備にご協力いただいているWikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法/共有ウォッチリストに明示してありますが、定鼎など翟魏の元号は、李崇智が後燕の私年号、柏楊は記載なし、永興 (冉魏)など冉魏の元号は微妙で、李崇智が「後趙(冉魏を含む)」という項立て(「明(南明を含む)」と同じ扱いです)、柏楊が「正統年号」扱いです。鄧洪波はすべて私年号扱いです。ご確認ください。--Novo 2007年7月31日 (火) 18:06 (UTC)[返信]
Kinoriさんの論理(どちらとも言えないなら幅広く設定)でCategory:私年号を付け加えるなら私も賛成です。ただNovo氏の場合ですといつぞやを中国史に認めずユーラシア史に固執した経緯があるので、固定観念でカテゴリー分けをされ、更にそれがあたかも全体の合意事項のように言い張り別のカテゴリーを否定した姿勢に疑問符を投げかけたわけです。
Novo氏がカテゴリー分けについて固執せず、あくまでも幅広く設定すべき問題であり、今後は別論を否定しないと表明すればそれで解決できる問題なんですよね…逆に言えばカテゴリー分けに固執し統一基準を持ち出そうとしている限りは、この問題の解決はありえないでしょう。
ついでに順朝について言わせてもらえれば明を滅亡させ、清により滅亡した短命王朝であることは歴史的事実です。明の項目に「明は清により滅亡した」と記述すれば、それは専門家ではなくても反論されるのは必死でしょう。なぜそれを「正統」か否かという時代錯誤的な用語を持ち出して議論を提起するのか理解に苦しむところです。更に言えば「永昌は正統年号である」という同一記述がなければならないという考え方にも疑問です。「明朝は農民反乱の指導者李自成により打倒され、李自成は順朝を開闢したが、指導者の腐敗と内部矛盾により崩壊した」という記述があれば充分ではないとなると、これはWikipedia全体の記述を見直さないといけませんね。「○月○日 首相がアメリカ訪問」という新聞記事から「○月○日、首相が空路アメリカに入った」と記述した場合、出典に「空路」が明記されていないからそんな記述は認めないと言っているにも等しい暴論にしか思えません。--Yonoemon 2007年7月31日 (火) 23:37 (UTC)[返信]
(反論)横から失礼。。「○月○日 首相がアメリカ訪問」としか書かれていない出典を基に「○月○日、首相が空路アメリカに入った」と書いては絶対にいけません。実態は日米間の移動は空路しかないも同然ですが、だからと言って勝手に肉付けしてはいけません。空路を利用したという出典を見つけなければ、空路の部分は除去されても文句は言えません。もしどこにも空路を利用したという出典がなければ(この例えではそんなことないでしょうが)、実際に空路を利用していても、空路を利用したと書いてはいけません。--DEN助 2007年8月1日 (水) 01:38 (UTC)[返信]
ちょっと待ってください。ということはここの記事は出典の字句を転記するしかないのでしょうか?結論が導出されるものに関しては記述者の文章能力の中で用字が選択されるものと理解していました。もし絶対に書いてはいけないとなるとこれまで私が立項した全項目を削除する必要がありますな。この原則原理主義が採用されるならば、殆どの記事が出典不足になり削除される運命になるはずです。ご自身のノート:コールドゲームでの「天災」の書き換えも出典を明記していないから記述不可だと言うのと同じレベルです。ご自身の記事はOKでこの例示は不可というのは二重基準です--Yonoemon 2007年8月1日 (水) 03:13 (UTC)[返信]
出典は求められたときに示す義務があるのです。求められなければ記述は維持されます。「結論が導出されるものに関しては記述者の文章能力の中で判断されるもの」ではありません。すべての記事がこの「原則原理」に従って現に編集されており、出典の求めに対して示されたときは維持され、示されない記述は削除されているのです。--Novo 2007年8月1日 (水) 03:27 (UTC)[返信]
井戸端に出しました。いくつかご意見をいただいていますが、もう少し待ちましょう。
うーん、Category:私年号ならいいということになるともう私にはYonoemonさんのお説の論理関係が分からないです。これまでのお話から行くと「私年号ではない」ことがYonoemon説の核心なのだから、「私年号」でも「中国の私年号」でもダメなのではないですか。Kinoriさんのコメントにはどこにも「どちらともいえないなら幅広く設定」とは書いておらず、「カテゴリでは「どちらともいえない」という扱いができないのだから、私年号という出典が存在するなら貼るしかない」と書いてあるのだと思いますけど・・・。
もう一回きちんと読み返してほしいのですが、私は「別論を否定しない」「自分が「永昌が「正統年号」だ」と主張しているのではない」「Cの出典が示されれば両論併記のしかたを検討する」と何度も何度も言っているではないですか。ここで問題になっているのはYonoemonさんの編集が独自研究に関する「公式の方針」に従っているかどうかということです。「「公式の方針」に反した編集」の「つもりは」「全く無く、そちらこそが主観に基づいて「公式の方針」に反していると断定しているだけ」とだけ言ってみても、「ABC原則」に即した具体的な反証をしていただかなくては無意味です。私が求めているのは「永昌が「正統年号」だ」と書いてある、あるいはそういう書式で「永昌」を載せている出典を挙げてほしいということだけです。「正統」の含意についてももうお答えしています。同じことを繰り返すのではなく、こちらの示した疑問にもきちんと答えてください。
なお、論理的に直接関係のない以前の議論(Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドラインにあります)が持ち出されています(このときは順に関しては一度ひっこめられたのですよね)が、念のため言うと、私は遼が中国史でないとは一言も言っておらず、中国史と見る専門家と中央ユーラシア史と見る専門家と両方いるのだから、どちらともみることのできる玉虫色の分類を作ろうと提案しただけです。--Novo 2007年8月1日 (水) 03:27 (UTC)[返信]
(DEN助宛て反論へのコメント)例えば首相訪米の例えを「空路」から「政府専用機」にすればもっと分かりやすくなると思います。首相が公務で海外へ行く場合は政府専用機を使用するのが慣例ですが、だからといって慣例通りではない場合も排除できない訳で、従って「政府専用機で」とする出典がなければ記載NGです。歴史についてはまるで門外漢ですが、もしこういった手法で記載されている例が大多数なら、大掃除する必要があるでしょう。なお、記載を取り除く、編集で削ることと、Wikipediaで言う「削除」とは意味が違いますので念のため。あと、コールドゲームですが、野球規則では「降雨等」としているので、辞書的に(辞書を出典に)「降雨=雨が降っている天候」という意味から「天候」という言葉を導き出せます。二重基準では全くありませんよ。--DEN助 2007年8月1日 (水) 03:38 (UTC)[返信]
政府専用機だと慣例外も考慮しなければならないので敢えて例示しませんでした。私とて情報の確認がとれなければ政府専用機と書くことは問題があるとは思います。あくまでも例示したのは空路ですから、それを基準にお考え下さい。
今回順朝の位置づけを学術論文により明及び清の中間に位置する短命政権という結論を導出し(辞書的なものですな)、それを元号に援用しただけでして、降雨から天候を導出したのと同様の手法です。これを認めないとなると歴史関連の項目ではかなりの項目がルール違反になってしまいます。別にDEN助さんの記述のクレームをつけているのではなく、同様の手段で記述していることを理解していただきたいだけです。そうしませんとWikipediaの記事が殆ど書けない上に、書いたとしても無味乾燥な箇条書きになっていまいます。--Yonoemon 2007年8月1日 (水) 05:02 (UTC)[返信]
「降雨から天候を導出したのと同様の手法です」と言うなら、辞書的な手法を説明した出典は容易に見つかるはずですから、示すべきです。もしコールドゲームの項目で降雨⊃天候という点に疑義を示されたら、辞書という出典を示す必要が生じます。日本語話者なら常識だとしても、常識だからこそ簡単に出典は見つかりますから、示せばいいのです。現状はまさに「出典を示す必要」が生じているのですから、学術的に常識なら、その常識を記した出典を明示すれば(教科書でも入門書でも)問題はすべて解決するのです。--DEN助 2007年8月1日 (水) 06:12 (UTC)[返信]
そこで余り好みではありませんが中共の公的見解としておそらく現在も有効である郭沫岩『甲申三百年祭』(1944年)を出典として提示しました。ご一読いただければ幸いです。--Yonoemon 2007年8月1日 (水) 07:24 (UTC)[返信]

(インデント戻し)出典を出してもらいましたので、以降の議論(落としどころ探し)は詳しい方々に一任します。お邪魔しました。ところで中共=中国共産党の見解なら、ほかにも出典にできそうな、より入手しやすい文献はあるのではないですか?--DEN助 2007年8月1日 (水) 07:34 (UTC)[返信]

日本語の学術論文で順朝の位置づけを述べたのももあります。ただ中国共産党史観ほどストレートな書き方をしていないのでNovo氏が納得しないと思いまして、あまり好みの内容ではありませんが一番ストレートなものを提示している訳です(しかも翻訳をしていない一次資料)。出典を提示してもそれじゃ不十分だと井戸端にまで持ち込んで見当違いの議論をしているNovo氏が、一言一句同じ記述がなければ出典と認めないという強論を撤回し、カテゴリーは柔軟にすべきという姿勢を表明し、原則原理主義を捨て幅広い意見を容認するのであればそれで解決できるはずです。カテゴリを固定化し、それを以って異論を排除しがちなNovo氏が相手でなければ私とて私年号に区分してもよいと思っていますNovo氏による二分法の議論は一見正論に見えるのが厄介なところですな--Yonoemon 2007年8月1日 (水) 08:09 (UTC)[返信]

問題提起者が順朝の存在を認めた発言を行ったためノート誘導を削除しておきます。--Yonoemon 2007年8月1日 (水) 23:26 (UTC)[返信]

えーと、話がだいぶ進んでいてついていけないのですが、まず「問題提起者が順朝の存在を認めた発言を行った」というのは私のどの発言をさすのでしょうか。私は順という王権が存在したこと(上記のA)を否定したことはないし、争点ははじめから「元号の位置づけ(C)の出典」です。それで「ABC原則」を提示したところ、Yonoemonさんが「ABC原則」がこの件には適用されないと主張しだし、コミュニティの意見をきいているところなわけです(井戸端での私の書き方が「見当はずれ」なら、すでにYonoemonさんのコメントで「補正」されているのでしょう。ルールについては最終的にはコミュニティの判断に従うことです)。だから議論は終わっていませんし、テンプレートをなぜ除去し、本文の編集を強行するのかも分かりません。Yonoemonさんは人の発言を早とちりされることが多いので、コメントはよく読んで、人が言っていないことを「言っている」と言ったり、質問や指摘に答えないで素通りしたりなさらないように、どうかどうかお願いいたします。
で、私も特に李自成の専門家ではなく、やっとzh:李自成を読んだところですので、提示いただいた郭沫若の著作(これはAの出典ですね)はありがたく勉強させていただきます。何語の文献でもかまいませんので、ご存知のものはご教示いただければと思います。しかし論点はすでに「ABC原則」適用の可否に移っていますので、私が上に定式化したABCが、「辞書的」なもの、「辞書を出典にして演繹したもの」(「Wikipedia:Attribution#独自研究でないものとは何か」にある「専門知識を持たない読者にとっても理解できる」「単純な数学的計算や、論理的演繹」)にあたるのかどうかを検討しなければなりません。
明清史や元号についての知識は、専門的である上にイデオロギーと深くかかわるものであって、「Aは50個、全体は100個、だからAの比率は全体の二分の一」(出典不要)と比べても、「首相の空路によるアメリカ訪問」(形式上は出典必要)と比べても、「自明」なものではありません。またくりかえしますが「ABC原則」は「歴史解釈」「歴史学」を念頭において定められているのであり、これがあるからといって「歴史関連の項目ではかなりの項目がルール違反」になることもありません(現にこれをルールにしてみんなやっているのです)。「一言一句同じ記述がなければ出典と認めないという強論」は、井戸端でもこのページでも、私だけではなくて第三者の多数が述べていらっしゃることにご留意ください。
あと、「Novo氏が相手でなければ私とて私年号に区分してもよいと思っています」と書いてありますが、Yonoemonさんは議論の相手によって主張をお変えになるのですか。「中国の私年号」カテゴリをはずしたのは私が張ったからで、ほかの利用者相手だったら異議は唱えないということですか。そうなのだったら、そもそも記事内容の充実、向上のための議論にならず、事実上の「対話拒否」に当たると思います。
私は「両論併記も検討する」「のんびりやりましょう」とはじめから申し上げていますし、「異論を排除」したこともありません(そもそもみんな資格は平等で、書き込みは自由なのだから「排除」などできないでしょう)。--Novo 2007年8月2日 (木) 11:10 (UTC)[返信]
初めから両論併記を検討するなら今後はカテゴリー分類の議論はなさらないほうがよろしいでしょう。未だに私の提示した出典を読みもしないで否定しているのすから議論拒否されても仕方ないお話です。まぁ頑張って李自成の研究論文を読み漁ってください。そしてそれを理解するためにはマルクスの唯物史観やエンゲルスの社会学概論の理解、それに歴史学の方法論を勘違いなされているようなのでチャールズ・E・カッターやツインビーなどの理解も必要でしょうから、それらを理解した数年後に建設的なお話を伺えれば幸いです。
それと一言一句なる出典はどこで求められているんでしょうかねぇ...もしそうならば中国語文献を出典とした場合は中国語、ロシア語文献の場合はロシア語で記述しろって具合なってしまいます(翻訳とは主観が加味されたものであり原文と意味が同一になることはありえない)。その辺は臨機応変に対応するからこそ自由な環境が保証されるのであり、第三者の多数という極めて抽象的な表現で理路武装するのは詭弁ってもんです(例示するなら具体名を列挙ください)、不合理な原則原理主義などという強論はいい加減やめましょうや。
それと他の方でしたらここまで反論する必要もないと感じているのも事実です。紀年法プロジェクトで決定したことは絶対という姿勢が認められましたので、今回も放置しておくと他の記述を行うのにノートで議論し合意を形成してから書き換えろと言い出しかねないと思っての予防策です。。--Yonoemon 2007年8月2日 (木) 14:17 (UTC)[返信]
どうか少し落ち着いて、事実とロジックとウィキペディアのルールに即して、コメントは全部ゆっくりと読んで、人が言っていないことを言っているとは思い込まないで、論点を拡散させないで、あわてずのんびりとやりましょう。お願いします。
郭沫若と謝承仁の本はAと書いてある出典として提示されたのですよね。Cとは書いてないのですよね。だから私の意見は変わらないと申し上げたのです。もちろんこれから読ませていただきますが、未入手の中国語の本を1日2日で探して読めとおっしゃるのは酷ではないでしょうか。私の出した出典は、Yonoemonさんにご教示いただいたもの(李崇智)、ネットでダウンロードできるもの(鄧洪波)、Yonoemonさんがもっているもの(『角川新字源』)を含んでいます。それに、「議論拒否」「対話拒否」はそれだけで投稿ブロックの理由ともされかねないので、自らの「対話拒否」を正当化されるような言い方は軽々しくなさらないほうがいいと思います。
「一言一句なる出典」を求める「ABC原則」はウィキペディアの「公式の方針」で、上のリンクをクリックすれば読めますし、上にずらずら引用までしたでしょう。これは決まりなのです。もしこれがこの件(あるいはご自分の投稿全部?)には適用されないとお考えなのならば、なぜ上の引用でジミー・ウェールズはわざわざ「歴史学」を例に挙げているのでしょうか。ウィキペディアはなんでも「臨機応変に」書ける「自由な環境」ではなく、記述は常にほかの利用者からの批判の目にさらされるのです。
「外国語文献を出典とした場合は外国語で記述しないと、(翻訳とは主観が加味されたものであるから)原文と意味が同一にならない」というお話ですが、「永昌は私年号ではない」という単純な命題の翻訳に、「翻訳可能性」のような原理的な話が関係するでしょうか。李崇智も鄧洪波も中国語の本です。現に中国語の反証典拠もあるのだから、あれこれ深遠な思想家の名前をお出しにならなくても、何語でもいいからルールに即した典拠を示されればすむのです。
それに両論併記とカテゴリ分類の仕方は上のKinoriさんの提案のように解決できます(Category:明の元号に但し書きをつければカテゴリ分類としても両論併記になります)。やり方はいくらでもあるのですから、性急に一人合点で行動しないで、ノートでの合意形成(これこそウィキペディアのルールの基本ではないですか。Wikipedia:ガイドブック 交流・議論#ノートページを読んでください)をめざし、誰のものであってもお互いのコメントに謙虚に目を通し、相手とのこれまでの行きがかりによって自分の主張を変えたりしないようにしましょう。
それから、ここでしている話は、Wikipedia:ウィキプロジェクト 紀年法/ガイドラインとは特に抵触もしないし、関係ありません(私年号の定義はしていませんし、議論がある場合は各記事またはガイドラインのノートで行うと定めているだけです)。またガイドラインには改正条項があります。何かあれば具体的に提案してください。私は一参加者に過ぎず、何の権限も持っていませんし、道理があると認められれば改正できるでしょう。
なお、これまでの議論で発言された第三者の多数ですが、このページでDEN助さんが、井戸端ではKs aka 98さん、磯多申紋さんが明確に「ABC原則」に例外は(よほどの場合以外)ないと発言されており、またAphaiaさんが「出典提示がない限り書けない」(これは一般論ですが)、Kinoriさんが「カテゴリは付与するしかない」とコメントされています。このほかコメントされたのはemkさんとHOTUMAさんです。現状では相対多数の賛成をいただいている(ウィキペディアでは原則多数決ではなく合意形成で決めていくのですが)と判断しています。--Novo 2007年8月2日 (木) 17:01 (UTC)[返信]

A+B→C論にこだわる前に出典を精読しなさいと言っています。A+B=Cという内容になっていて発表済みの合成した覚えはありません。出典を提示しろと要求し、提示したらしたで読みもしないで勝手な理論を作り上げて話を拡大させているのはどちらですか?要求された出典を提示したわけですから、今後は内容を精読した後に書き込んでください。思い込みでの反論は議論の妨害に該当する恐れがあります。--Yonoemon 2007年8月2日 (木) 23:29 (UTC)[返信]

そうですね。それ以前にYonoemonさんは私相手だったら絶対妥協しない、ほかの人が来たら妥協も考慮するともおっしゃっていますし、私の質問にはほとんど答えないし、そもそもふたりでやりとりすることが無駄なのかもしれません(そういう編集態度の是非についてはほかの閲覧者が判断してくださるでしょう)。ちなみにYonoemonさんのいう「A+B=C」というのは郭沫若と謝承仁のに「永昌は私年号ではない」と書いてあるということですか。AとBがずっと上に書いてある命題を指すのなら、「+」という記号は「合成」という意味になってしまいますけど。
まあクールダウンのために時間がおけてちょうどいいし、読ませていただいてからコメントします。よろしくお願いします。--Novo 2007年8月3日 (金) 21:23 (UTC)[返信]

つかぬことを伺いますが、大順国が歴代王朝ということになると、袁世凱中華帝国宇文化及、劉豫のも歴代王朝ということでしょうか。そうでないのであれば、それらの政権との区分ラインはどこにあるのでしょうか。--Extrahitz 2008年2月10日 (日) 11:02 (UTC)[返信]

王朝の定義は非常に簡単です。滅亡後の王朝がそれを王朝と認めるか否かのみです。清朝が「簒奪王朝」と認めているので王朝に含まれるといだけです。時代錯誤かも知れませんが、後漢が新を簒奪王朝と認め現在に至るまでその地位を保持しているのと同じこと。事実明朝を滅ぼしたのは順朝であって、清朝は順朝を滅亡させたという歴史観が当時存在していたので、これを否定するだけの合理的な理由が見つからないので王朝に含ませているだけの話です。Yonoemon 2008年4月10日 (木) 12:30 (UTC)[返信]
私の大順ならびに永昌に関する一連のYonoemon氏の編集に関しての意見ですが、大順を正統王朝として編集するのは早急かと思います。
現時点では日本でさえ一般的に大順は正統王朝とは認識されているとは思えません。さらに言えば世界史の教科書などでは「李自成が明朝を滅ぼした」旨の記述はあっても「正統王朝である順朝を打ち立てた」旨の記述を見た記憶が有りません。日本における世界史及び東洋史の学界でもし「李自成が正統王朝である順朝を打ち立てた」と言う認識を持っているならば、教科書に反映されるはずですが、現時点でそれがないと言う事は歴史学界でも「正統」ではないと認識していることになろうかと思います。
他言語のWikipedia上では英語中国語が存在するのみですが、私の拙い語学能力で読んだ限りでは両者とも「正統王朝」と言う扱いではありません。
あと別件ですが、Yonoemon氏がノート:大順 (李自成)で「問題提起者が順朝の存在を認めた発言を行ったため」とのことでノート誘導を削除されていますが、どこのどの発言がそうなのかわかりません。おそらくここのノートでのことかとは思いますが、どこの部分を指しているのでしょうか?最低でも当事者以外も事情がわかるようにしておくことが必要かと思うのですが。さらに言えば、どのような事情があるにせよ、問題提起者以外でも意見を持つ方もいる可能性を考えれば、議論ノートに記載された別ノートへの誘導を削除するのはいかがなものかと思います。--202.211.128.147 2008年5月22日 (木) 09:29 (UTC)[返信]
私も李自成の「順」を正統王朝として扱う事には違和感を覚えます。ここでの議論にしろ、もうなんて言うか、「順」が正統王朝であるという根拠と言われているものはYonoemonさんの主観や価値観、定義だけでしか判断できていないように見えます。Wikipediaという場は独自研究を発表する場ではありませんし、一般論として「順」は正統王朝と言う認識はあるとは思えません。せいぜい「正統王朝とみる研究家も存在する」程度です。
>王朝の定義は非常に簡単です。滅亡後の王朝がそれを王朝と認めるか否かのみです。
と言うYonoemonさんの「定義」ですが、それがもし日本、中国、はたまた世界の常識であるなら中国語や英語のページでも同じような扱いを受けるはずです。さらに言えば、その「定義」だけで正統王朝と言い切れるのでしたら、Novoさんをはじめ、Extrahitzさん、202.211.128.147さんがこのような疑問の投げかけもしなかったのではないでしょうか?少なくともYonoemonさんの掲げる「定義」だけでは正統王朝と一般論が認めるには不十分だと思います。もしその「定義」だけで充分このWikipediaで正統王朝である、と書くに足ると言う事でしたら、まず日本の歴史学界の認識を変えてからにされたらいかがですか?それに加え、Yonoemonさんも中国関係の記事の編集にご熱心の様子からするとおそらく中国語もご堪能かと存じますので、中国語ページの方も同じように編集なさったらいかがでしょうか?--203.124.79.13 2008年6月3日 (火) 14:23 (UTC)[返信]
当のYonoemonさんはどういうつもりなのか、202.211.128.147さんや私の発言にはレスを返すつもりがなさそうですね。現に他の李自成関連ページの議論でも202.211.128.147さんがコメントを入れたあとに、コメント入れてますし。もうその話は終わったとでも思っているのか、反対意見には耳を貸さないつもりなのか、どうかわかりませんが。これは「正統王朝である」ような編集を改めてもいい、と解釈していいんじゃないですか?--203.124.79.13 2008年6月15日 (日) 07:00 (UTC)[返信]
確かに見方からすればYonoemon氏が恣意的にコメントを入れていないとも解釈できますね。まあ現時点でそうと断定はできませんが、このまま反応がないなら合意と見做して編集してもよさそうですね。--202.211.128.147 2008年6月20日 (金) 06:28 (UTC)[返信]

どうもコメントいただきありがとうございます。実のところ、カテゴリを一つ貼るかどうかだけで上のような果てしない話になってしまい、くたびれたので、静観していました。

その後、示された出典2点に目を通しました(ただし謝承仁『李自成新伝』は昨年8月当時日本に入荷していなかったので、1986年上海人民出版社版で読みました)が、どちらにも上記C(「永昌は私年号ではなく『正統年号』である」)の出典となる記述は確認できませんでした。したがって、私の見解は変わりません。[[Category:中国の私年号]]を貼り、定義部の「元号」を「私年号」に改めることを主張します。また、「順朝の位置付け」節は独自研究なので除去すべきであり、譲歩するとしても、この記述はこの項目に置くより順 (王朝)に転記したほうがいいと思います。

Yonoemonさんの状況については、私から断定的なことは言えませんので、私自身が本文を編集するのは避けます。202.211.128.147さんと203.124.79.13さん、ほかの閲覧者のみなさまの判断にお任せしたいと思います。--Novo 2008年6月20日 (金) 17:30 (UTC)[返信]

コメントを差し控えていた本人です。順朝の位置づけを教科書レベルで行う方向が主流であるならばもはや異論はありません。ただしもう少し東洋史に関する専門的な教育を受けた人間による合意の形成が欲しかったとは強く感じます。教科書云々で歴史を語られちゃ、中共や韓国の歴史教科書を価値観まで認めるのかとツッコミどころ満載の似非議論でしかありません。
正閏論などを正面に出して学説を構築する時代錯誤的な研究者はおりませんが、明と清という所謂正統王朝の間に存在したという、そして清朝は簒奪王朝の打倒を大義名分にしたという歴史的事実だけはどこかに反映させるべくでしょう。そうしませんと大学入試で「明を倒した清は…」と記述して史学会から失笑を買ったT大学(さすがに実名は避けておきます)のような扱いになります。所詮は素人集団の記述の集合体のウィキですが、事実誤認を誘発しかけない記述は回避すべきですからね。
順 (王朝)を含め改悪にならない記載を期待しております。-Yonoemon 2008年7月7日 (月) 13:50 (UTC)[返信]
なにはともあれ、どうやら一応の合意ができたみたいで何よりと存じます。私は編集いたしませんので、どなたか適宜編集をよろしくお願いいたします。また、当然のことですが、新たな論点の提起や出典の提示はだれにでも、いつでも開かれておりますので、東洋史の専門家の方によるコメントをお待ちしております。
なお、上の議論のうち、井戸端に出した部分はWikipedia:井戸端/subj/「発表済みの情報の合成」禁止の例外に保存されています。--Novo 2008年7月7日 (月) 14:46 (UTC)[返信]
すみません。約3週間も前にコメントが返っていたことに気づいておりませんでした。これから時間を見つけて適宜編集させていただきます。--202.211.128.147 2008年7月27日 (日) 02:21 (UTC)[返信]