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ノート:山田晴通/過去ログ2

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特筆性について

  • 山田氏は客観的に見て、立項するに値する学者としての業績がないので、特筆性タグをつけました。「逆恨み」「嫌がらせ」ではなく、ほかにこのような状況で立項され、スランプに陥り論文が書けない、などと記された学者の項目があるでしょうか。ウィキペディア管理人であるために特殊な扱いを受けていませんか。116.80.222.124 2015年2月24日 (火) 20:32 (UTC)
コメント わたしは検証に参加・議論する余裕がありませんが、少なくとも以下のガイドラインや議論などをふまえた上でご検討ください。

--Yamanosora会話) 2015年2月24日 (火) 20:42 (UTC)--Yamanosora会話) 2015年2月24日 (火) 20:52 (UTC)--Yamanosora会話) 2015年2月24日 (火) 22:25 (UTC)--Yamanosora会話2015年2月24日 (火) 23:23 (UTC)

  • このWikipediaの管理者の一人だから特別扱いするわけではありませんが、一度存続が決まった後なぜ特筆性の問題が起こるのでしょうか。--永続繁栄会話2015年9月11日 (金) 14:22 (UTC)
    • では、一度存続となると再依頼で削除された例などないというロジックなのですね?削除するほどではなくても、特筆性を貼るのを反対する人が、きちんと方針にある基準を根拠にコミュニティの合意を得られなければ、それは論争の元になって当然でしょう。--市井の人会話2015年9月11日 (金) 14:34 (UTC)

ノートでの議論を無視する行為について

報告「論文」節を除去、ほか。参照:「ノート:山田晴通#「著作」節は内容過剰ではないか」)」と称して、論文に関する記述の大量削除を実施している者がいます。しかし「ノート:山田晴通#「著作」節は内容過剰ではないか」においては、論文に関する記述が過剰ではないかという提案に対し、賛同する意見は皆無だったため、提案は否決されることで議論が閉じています。にもかかわらず、要約欄でノートを参照するよう明記しておきながら、実際にはノートでの結論と正反対の編集を行うのは、議論を軽視する行為だと考えられます。該当箇所のみいったん復元しております。--126.170.117.156 2015年9月8日 (火) 16:12 (UTC)

特筆性テンプレート除去の提案

本ノートにおいて、上にあるように剥がすべきであるとの意見があり、私も特に反対しませんので特筆性テンプレートの除去を提案します。 しいて理由をあげるなら、「G-Search(日外アソシエーツ現代人物情報)」と 「G-Search(新聞記事情報)」の両方でお名前が確認ができ、それだけでも特筆性の推定が可能なためです。なお、Wikipediaの記事における特筆性の証明が提示されているかについてはあえて触れません。--市井の人会話2015年9月11日 (金) 16:30 (UTC)

(賛成) 特筆性テンプレートを剥がしてもよいかと思います。当記事主題の人物のご専門は地理学とのことですが、大学で地理学の講義を受け持った経験がなく、特筆に値するような地理学に関する受賞歴もなく、記事本文によれば論文発表も滞っていることからみて、Yamanosoraさんが疑問視するとおり確かに地理学者としては見るべきものはないと思います。しかしながら、地理学者としての活動以外の点に関しては、ウィキメディア財団のサーバを利用するなど特異性のある講義スタイルや、音楽教科書検定の専門委員歴があるなどの特異な点が見られます。無論、教科書検定の専門委員に参加経験を持つ大学教員は特に珍しくもありませんので専門委員歴があるイコール特筆性があるとは云えないでしょうが、専門外の分野で参画したのは珍しいと思います。たとえば、ピアノ調律師の鈴木嘉和さん、芸能マネージャーの南田裕介さんのように、本業以外の活動に特筆性を見出され記事化された人物はよく見受けられます。本業の地理学でめぼしい業績がなくとも、東京経済大にてまがりなりにも20年近く教員としての職を維持してきたわけですから、それなりに特筆性はあるのではないでしょうか。なお、ウィキメディア財団の理事とかならともかく、ウィキペディアの管理者というだけではそんなことに特筆性はないと思います。また、「G-Search(新聞記事情報)」にヒットするからと云って有意な記事である保証がないため、即特筆性があるとは云えないと思います。それから一点。市井の人さんの「Wikipediaの記事における特筆性の証明が提示されているかについてはあえて触れません」って、それ無責任じゃないでしょうか。特筆性テンプレートは「独立記事作成の目安を満たしていない」のではないかと指摘しているのですから、自信を持って「Wikipediaの記事における特筆性の証明が提示されている」と云えないなら、剥がすことに賛成しちゃダメでしょう。--126.158.60.25 2015年9月13日 (日) 15:11 (UTC)
(賛成)私も賛成です。専門外での活躍がここまであり、wikipediaの管理者になっているのは珍しいですね。--永続繁栄会話2015年9月15日 (火) 16:24 (UTC)
  • 当ノートでの提案と記事本体での告知から1週間が経過しましたが、反対の方はおられなかったので合意形成と判断し、提案のとおり実施いたしました。--市井の人会話2015年9月17日 (木) 17:53 (UTC)
(感謝)ご対応ありがとうございます。おつかれさまでした。--126.173.138.220 2015年9月18日 (金) 22:14 (UTC)

確認していただいた内容について

(感謝)山田先生、記事本文の内容を確認していただきありがとうございます。まさかご本人に査読していただけるとは思いませんでした、ありがとうございます。さて、執筆に当たりまして、こちらのノートの内容やノートで指摘されているか湖畔についてもざっと眺めました。ご指摘の箇所につきましては、過去には「週末のみたまに訪れる別宅」と記載されていたようです。しかしながら、この書き方ですと、訪問頻度が「週末のみたまに訪れる」と断定されておりますし、それにくわえて、はっきりと明言はしていないものの何やらいけないことをしているかのようなニュアンスのようにも感じられ、中立的ではないとの指摘されかねないと思います。山田先生からも「あたかも山田が居住実態がない長野県の住所に、不正に住民票を置いているかのような印象を与える」との同様のご指摘があるようです。ゆえに、今回につきましては「週末などに訪れる別宅が、穂高町にあるためである」と表記し、より中立的になるよう配慮しました。過去の版では「週末のみたまに訪れる」などと訪問頻度を断定してしまっていますが、今回は「週末などに訪れる」と表記しました。なお、出典にも「長野県穂高町に住民票を移し、休日などはほとんどこちらで過ごすようになりました」との記述がありますので、そちらを参照して書かせていただいております。--126.175.126.63 2015年9月16日 (水) 15:33 (UTC)

本人があまりうるさくいうのは何ですが、「別宅」は「本宅」と呼ぶのにふさわしい家がある場合に使われる表現かと思います。少なくとも、典拠とされている山田のサイトでは、自ら「別宅」と称していることはありません。第三者言及で「別宅」という表現をしている例があるようでしたら、ご提示ください。また、穂高町は平成の大合併の際に安曇野市になっています。このままの記述でよいとは思えません。加えて、「住民票だけ」というのは、何が典拠なのでしょうか。例えば、本籍地、その他の公的登録地などを穂高町〜安曇野市に移していないという客観的な典拠はあるのでしょうか? ないのであれば、この書き方は誤解を招くものであるように思います。いかがでしょうか。--山田晴通会話2015年9月17日 (木) 03:54 (UTC)
(回答①)山田先生、ご指摘いただきありがとうございます。別宅という表記の件についてご説明します。まず、この件に関しては、東京のご自宅の方がまず先に存在しており、その後、そちらの家とは別に長野の家をご自宅として使えるよう整えて使用するようになった、と理解しておりました。つまり当初お住まいになっていた東京の家とは別に長野県にもご自宅を設けた、ということで「別宅」という語を用いたのですが。また、出典元にも「普段の平日は、大学近くの下宿で寝ています。週末も信州の別宅へでかけることがよくある」との記述があったことも一因です。しかし、「別宅」⇔「本宅」という対義語関係があるから、「別宅」という表記をするとあたかもそれとは別に本宅があるように誤解される可能性があるとのご指摘ですので、現時点の版の「週末などに訪れる別宅」との表記をより中立的な「週末などに訪れる」に修正いたします。--126.173.138.220 2015年9月18日 (金) 22:14 (UTC)
(回答②)平成の大合併の件ですが、こちらは修正の必要はないと思います。既に現時点の版で「長野県南安曇郡穂高町(のちの安曇野市)に移している。週末などに訪れる別宅が、穂高町にあるためである」と明確に記述されており、移した当時は穂高町であったが穂高町はその後安曇野市になったということがはっきりわかると思います。もし「安曇郡穂高町に移している」とだけ書かれていれば、今でも穂高町が存続していると誤解されそうですし、「安曇野市に移している」とだけ書かれていれば、安曇野市になってから移したと誤解されそうです。しかし「安曇郡穂高町(のちの安曇野市)」と書かれていれば、そのような心配はないでしょう。--126.173.138.220 2015年9月18日 (金) 22:14 (UTC)
(回答③)本籍地、その他の公的登録地の件についても特に問題ないかと思います。現時点の版では、該当箇所は「勤務先に近い電話回線すら敷設していないアパートに居住する。しかし、住民票だけは長野県南安曇郡穂高町(のちの安曇野市)に移している。週末などに訪れる別宅が、穂高町にあるためである」と明確に記載されており、1文目と2文目が逆接になっていることは明らかです。長野県の家を整えたとき、住民票については移したものの勤務先近くのアパートについては引き払ったりせず勤務日の居住は続けている、ということですよね。「住民票」と対比されているのは、「勤務先近くのアパート」についてです。これがもし「公的登録地は東京に置いている。しかし、住民票だけは長野県南安曇郡穂高町(のちの安曇野市)に移している。週末などに訪れる別宅が、穂高町にあるためである」と書かれていたら、たしかに「長野県の家を整えたあと、住民票だけは移しているが、本籍地を穂高町に移していないという客観的な典拠はあるのでしょうか?」という疑問がわいてくるのもうなずけます。しかし、現時点の版は「勤務先に近い電話回線すら敷設していないアパートに居住する。しかし、住民票だけは長野県南安曇郡穂高町(のちの安曇野市)に移している。週末などに訪れる別宅が、穂高町にあるためである」としか書かれておらず、「本籍地、その他の公的登録地」などは俎上にのぼっておらず言及すらしていません。現時点の版を読んで疑問がわくとすれば「長野県の家を整えたあと、住民票だけは移しているが、勤務先近くのアパートは引き払わずにそのまま使用しているという客観的な典拠はあるのでしょうか?」ということになるでしょうか。無論その点については、講義の際に勤務先近くの家を利用しているという出典が挙げられており、特に問題はないと思います。--126.173.138.220 2015年9月18日 (金) 22:14 (UTC)
  • 回答1について:本人としては、自宅に帰ることを「訪れる」と表現されるのは、いささか心外です。例えば、山田よりもよほど少ない頻度で、たまにしか帰宅できない単身赴任している人物が、家族のもとに戻るのは「訪れる」と表現すべき事態だとお考えなのでしょうか? あるいは、実家に住民票を置いたままの学生が、長期休暇に帰省するのは、自宅を「訪れる」と表現すべきなのでしょうか? 国語辞典をご確認ください。
  • 回答2について:「移している」というのは現在形の表現です。例えば「離婚後は」といった語句がないと、誤解の余地が生じる可能性があると思います。なお、旧穂高町が属していたのは「南安曇郡」です。念のため。
  • 回答3について:もし、仰る趣旨なのであれば「だけ」を除去しても同じ意味になるのではありませんか? 「だけ」を除去すべきではない理由は何でしょうか? 特に「だけ」を残しておくべき積極的な理由がないのであれば、句点の有無による含意の違いを不注意に読み落して誤解する読み手がいる虞れは小さくないように思われます。--山田晴通会話2015年9月18日 (金) 22:51 (UTC)
(回答①)山田先生の挙げておられる例についてですが、学生の例は明らかに実家を出ており生活実態がないので訪れるとの表記で構わないでしょうし、住民票も移すべき事象でしょう(近年では大学の新入生向けガイダンスにて住民票など諸手続きを取るよう呼びかける市区町村も珍しくありませんよね。都内では大学の所在する市区町村と下宿先の市区町村が一致しない下宿生が多くガイダンス等で呼びかけてもあまり効果的でなく難しいようですが)。とはいえ、何を持って生活実態とするかは一概にはいえませんし、そもそも住民票については特に罰則が科されるような事態にもならないため、生活実態のない場所に住民票を置きっぱなしになっている事例も珍しくないようですが。もちろん、公職選挙法のように厳しい処置が科される事態になる場合もありますので(ふだんは練馬で起居しているが新座に住民票のあった立川明日香氏など)、あまり望ましくはないのかもしれませんが。いずれにせよ、講義のある日は通常都内にお住まいとのことなので、「訪れる」との語を用いました。ただ、それではご不満とのことですので、単に「行く」としておきました。--126.167.6.97 2015年9月23日 (水) 15:45 (UTC)
(回答②)「誤解の余地が生じる可能性」は特にないと思います。コミュニケーション学部に在籍しておられる山田先生に申しあげるのは憚られますが……「「移している」というのは現在形の表現です」と断じておられますが(別に英語の現在進行形(~ing)ではないですが……)、日本語の「~している」は経験を表すのも一般的な用法ですから、どなたも現在形とは思わないでしょう。たとえば、記事「岡崎邦輔」には「1888年(明治21年)、駐米特命全権公使となった陸奥に従い渡米する。アメリカで岡崎はミシガン大学で学び、この時期に南方熊楠と出会っている」と書かれていますし、記事「松崎浪四郎」には「10月末に帰国するまでに山岡鉄舟と知己を得ている」と書かれていますが、これを「現在形」と解する人は誰もいないでしょう。無論、貴大学のコミュニケーション学部におかれては、最新の知見等の要因でこれも「現在形」と独自に教授なされているのかもしれませんけれども。なお、「南安曇郡」につきましてはご指摘ありがとうございます。私の引用時の赤で着色し忘れた、あるいは鍵カッコで括り漏れたミスであり、元版の記事には問題はありませんので念のためご報告いたします。--126.167.6.97 2015年9月23日 (水) 15:45 (UTC)
(回答③)「本籍地、その他の公的登録地」への言及は全くないため、「句点の有無による含意の違いを不注意に読み落して誤解する読み手がいる」とは思いませんが、それではご不満かと思いますので単に「だけ」を除去としておきました。--126.167.6.97 2015年9月23日 (水) 15:45 (UTC)
(報告)上記のコメント以降、山田先生はこちらのノートを何度も編集しておられます。しかし、上記のコメントに対しては何のご返信もありませんでしたので、山田先生におかれては特に反論はなくご異議ないものと見受けしましたので、本セクションを閉じさせていただきます。山田先生、いろいろと査読いただきありがとうございました。--126.160.61.42 2015年9月24日 (木) 23:27 (UTC)

記事主題本人による加筆の予告と加筆方針についての議論

現在の記述のうち、「著作」節については、以前に「#「著作」節は内容過剰ではないか」において問題提起をしましたが、コミュニティの賛同はなく、むしろ、「除去ではなく加筆すべき案件。この節の内容が「おもな著作の一覧」でしかないというなら、除去するのではなく、加筆して「完全な著作の一覧」にすべき。」という意見が出されて「解決済み」扱いとなっています。

その後「#内容を統合したことを報告」においても、「もし不完全なことろがあればだったら加筆するほうがよいとおもう。」とコメントされています。

この節の記述は、ある時期以降の山田の論文への言及を欠いており、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない#ウィキペディアにすでにあなたについての記事があるとき」にある、「あるいは古い基礎情報(例えば、結婚の有無、現在の勤め先、出生地など)を修正することは自由です」に基づいて、記事主題である山田が自ら加筆することが可能であるはずです。そこで、近い将来、「完全な著作の一覧」を作成する方向での編集に着手することを予告しておきます。

さて、その際に、いくつかコミュニティのご意向を確認したい点がありますので、以下の論点について、皆さんのご見解を表明していただければ幸いです。

現状の記述をみると、文献の採否に関して、以下のような特徴が読み取れます。

  • 1) 学会誌に掲載された文章は、発表要旨など短いものや、翻訳なども採録されている。
  • 2) 商業誌や公的団体などの発行する雑誌、機関紙に掲載された文章は広く採録されている。
  • 3) その一方で、勤務校の紀要類に掲載された文章は、いっさい採録されていない。

以上のような方針を、新たに追加する近年の業績に関しても一貫させてよいでしょうか。

また、上の3つの採否の方針に加え

  • 4) 常勤勤務先であった/である、松商学園短期大学/東京経済大学以外の大学の紀要類に掲載された文章

の扱いについてもコミュニティのご意向を確認したいと考えます。非常勤講師として出講した先の大学の紀要類に掲載した論文、1回だけの講演に呼ばれた他大学の紀要に掲載された文章などの扱いです。

特に、勤務校の紀要類に掲載された論文や、翻訳については、扱いについて確認をしていただきたいところです。 上の「勤務校の紀要類」に掲載された文章をいっさい採録しない、とすると、例えば、

  • 山田晴通 2002「バートン・クレーン覚書」『コミュニケーション科学』(東京経済大学)17=「バートン・クレーン」で、典拠とされている
  • 山田晴通 2007「「バレンタイン・チョコレート」はどこからきたのか(1)」『東京経済大学人文自然科学論集』124は=「バレンタインデー」、「義理チョコ」で、典拠とされている

なども、いずれも紀要論文ですので、記載されないことになります。あるいは、本文注記言及があり、「要出典」からのリンクもある

  • 山田晴通 2011「ウィキペディアとアカデミズムの間」、『人文自然科学論集』(東京経済大学)131

も著作節には入らないことになります。

なお、「勤務校の紀要類」に掲載された文章をいっさい採録しないというやり方は、何らかの方針なり、ガイドラインなりがあるのか、先例となる議論があるのか、少し探してみましたがよく分かりませんでした。「Wikipedia:削除依頼/Love_solfege」における削除議論において、「とりあえず加筆待ち。教授なので博士論文なり学術誌への寄稿なりは十分に書けるはず。」という存続票に対し、「博士論文(学位取得のためには提出が必須のため)、在任校ならびに出身校の紀要は寄稿として駄目です。」というコメントが出されたというやり取りがあるのは見ていますが、そのコメントの根拠はよく分かりませんし、特筆性を支えるものとして議論と、記事の記述として盛り込むべきものの議論は、まったく同一には扱えないものと思います。この際、大学紀要の扱いについて、従前の議論で参照すべきものがありましたら、ご教示ください。よろしくお願いいたします。

なお、山田の著作についての、本人の作成による、より「完全な著作の一覧」にちかいものは、こちら にあります。また、CiNiiの検索結果はこちら、国立国会図書館の検索結果はこちら にあります。--山田晴通会話2015年9月17日 (木) 04:54 (UTC)

(反対)「3) その一方で、勤務校の紀要類に掲載された文章は、いっさい採録されていない」という法則(?)を、今後の加筆においても一貫させる必要性は全くないのではないでしょうか。
今回の議論提起の発端は、山田先生の業績について記事に掲載してほしいので、山田先生がご自身で業績を加筆したい、ということなのだと思います。ですが、いま現時点の版に「勤務校の紀要類」が掲載されていないからといって、勤務校の紀要類は掲載してはならないというルールがあるのだろうか、とか、勤務校の紀要類は採録しないという法則に基づいて記事が書かれているのではないか、という考え方は論理の飛躍というか気を回しすぎでしょう。現時点の版は「ある時期以降の山田の論文への言及を欠いて」いるとのことですから、まだまだ未完成の不完全なリストなのでしょう。ということは、勤務校の紀要類は採録しないという法則が貫かれているというより、不完全なリストだからただ単に一部の著作が漏れており、それがたまたま勤務校の紀要類だった、というただそれだけのことではないのでしょうか。であるにもかかわらず、現時点の版にたまたま勤務校の紀要類が含まれていなかった ⇒ 勤務校の紀要類は採録しないという法則性に基づいて記事が書かれていたに違いない ⇒ 今後の加筆においてもこの法則性を踏襲しよう、という発想はちょっと意味が分かりかねるのですが……。「「勤務校の紀要類」に掲載された文章をいっさい採録しないというやり方は、何らかの方針なり、ガイドラインなりがあるのか、先例となる議論があるのか、少し探してみましたがよく分かりません」とのことですが、そのような方針やルールが存在しないのであれば、今後の加筆にあたってそのような法則性に従う意味はないように思うのですが。そもそも「勤務校の紀要類は採録しない」というようなウィキペディアとしての方針やルールが存在するのか、といった話なら、個々のノートで話し合うような内容ではないような気がしますが。
また、仮に山田先生がこの記事に限って「勤務校の紀要類は掲載しない」という個人的ルールに従って加筆するのだとしても、それは自由でしょうが、他の利用者や他の記事にまでは影響しませんよね。だから、「バレンタインデー」など他の記事の中で、該当の著作が典拠として使用されていたからといって、それは別に何の影響もないでしょう。--126.250.69.171 2015年9月22日 (火) 02:38 (UTC)
誤解のないように、1点申し上げておきます。山田本人は、「#「著作」節は内容過剰ではないか」で申し上げておりますように、「著作」節は内容過剰であると考えています。また、記述に偏りがあり、誤解を招くものであるとも考えております。本来なら節ごと除去してもよいくらいだと思っています。決して「今回の議論提起の発端は、山田先生の業績について記事に掲載してほしい」ということではありません。誤解を招く虞れのある記述の偏りが除去できないかと考えていましたが、コミュニティの支持がいただけなかったので、次善の策として誤解を生じないように加筆をしたいということです。もし、直上でIP氏が仰るように、いっさいの制約なく、こちら にあるような内容の記載をコミュニティがお求めなのであれば、そのようにしますが、これは山田にとっては決して望ましい編集ではないことを予めお知らせしておきます。--山田晴通会話2015年9月24日 (木) 19:44 (UTC)
一字訂正しました。--山田晴通会話2015年9月24日 (木) 19:45 (UTC)
(コメント)つまり次善の策としてではあるが、山田先生の業績について記事に掲載してほしいので、山田先生がご自身で業績を加筆したい、ということですね。そうだとしても「3) その一方で、勤務校の紀要類に掲載された文章は、いっさい採録されていない」という法則(?)を、今後の加筆においても一貫させる必要性は全くないと思います。現時点の版にたまたま勤務校の紀要類が含まれていなかった ⇒ 勤務校の紀要類は採録しないという法則性に基づいて記事が書かれていたに違いない ⇒ 今後の加筆においてもこの法則性を踏襲しよう、という話の展開にはやはり合理性を見出しがたいように思います。たとえば、山田先生は「この節の記述は、ある時期以降の山田の論文への言及を欠いて」いるとおっしゃっていますよね。だからといって、現時点の版にたまたまある時期以降の論文が含まれていなかった ⇒ ある時期以降の論文は採録しないという法則性に基づいて記事が書かれていたに違いない ⇒ 今後の加筆においてもこの法則性を踏襲しよう、ということにはならないでしょう? もし現行の版の不完全なリストに何らかの法則性を見出して、そのルールに従わねばならないのだとしたら、ある時期以降の論文は採録しないという法則(?)にも従うことになるのでしょうか。それは少し合理性を欠いていると思います。それと同じことではないでしょうか。--126.160.61.42 2015年9月24日 (木) 23:27 (UTC)
もし、従前の「法則」らしきものに従う必要がないのであれば、既往の議論において「加筆して「完全な著作の一覧」にすべき」とあることを踏まえて、より網羅的なものとすべきとお考えでしょうか? それとも、何らかの基準を独自にであれ設けて、記述量を圧縮すべきとお考えですか?--山田晴通会話2015年9月25日 (金) 01:46 (UTC)
(コメント)その点についてここで議論すべきとは特に思えないのですが……。やはりどう考えてみても、現時点の版にたまたま勤務校の紀要類が含まれていなかった ⇒ 勤務校の紀要類は採録しないという法則性に基づいて記事が書かれていたに違いない ⇒ 今後の加筆においてもこの法則性を踏襲しよう、というロジックに合理性があるようには思えません。ですので反対票を投じさせていただきました。無論、今後賛成票が山のように積みあがるというなら従いますが、おそらく他のウィキペディアンのかたも同様にご判断なさるでしょう。残念ながら山田先生のおっしゃるような、現時点の版にたまたま勤務校の紀要類が含まれていなかった ⇒ 勤務校の紀要類は採録しないという法則性に基づいて記事が書かれていたに違いない ⇒ 今後の加筆においてもこの法則性を踏襲しよう、というロジックに理解を示す方はどなたもいらっしゃらないと思います。「既往の議論において「加筆して「完全な著作の一覧」にすべき」とあることを踏まえて、より網羅的なものとすべきとお考えでしょうか?」とのことですが、それを議論したところで山田先生のご提案が「否決される」という結論は変わらないように思うのですが。--126.155.121.175 2015年9月26日 (土) 22:19 (UTC)
(報告)山田先生が2015年9月26日 (土) 06:17‎にコメントして以降、何の反応もないまま一週間以上が経過いたしました。その間、山田先生は他の記事を何度も編集しておられますので、ウィキペディアに参加する時間が取れないというわけではないようです。しかし、こちらのノートにおいては、2015年9月26日 (土) 06:17‎のコメント以降、何のご返信もありませんでした。したがって、山田先生におかれては、他の方からの意見に対する反論は特になくご異議ないものとお見受けしました。山田先生の今回の提案については、反対意見は寄せられておりますが、賛成意見は誰からも投じられませんでした。よって、山田晴通先生のご提案は否決されたものとして、本セクションを閉じさせていただきます。--126.173.141.104 2015年10月4日 (日) 06:52 (UTC)
Wikipedia:自分自身の記事をつくらないより
「ウィキペディアでは自分のことについては他の利用者に執筆を任せるのが望ましい」
「自分自身で編集するのではなく、あなたとは利害関係にない人物が記事を編集するのを待ちましょう」
「ただし、誰の目にも明らかな問題点があるときには、自分が関係していることについての記事を直接に編集することも許されます。たとえば、荒らしを差し戻すような場合です。でも、もちろんこの場合、荒らしは、単純で誰にでも荒らしとわかるような行為でなければなりません」
そことの整合性は——以上の署名の無いコメントは、Muusicaandmiesecainantarcticaノート履歴)さんが 2015年9月26日 (土) 01:28‎ (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。
  • 書きかけの状態で、あるいは意図しない状態で投じられたコメントかもしれませんが、念のためお答えしておきます。「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない#ウィキペディアにすでにあなたについての記事があるとき」をきちんとお読みいただければ、誤解は解けるものと思います。この節の提案自体が「ノートページでご自身が記事の主題となっている本人であることを表明した上で提案を行って、合意を得てから編集すること」にほかなりません。そもそも、ある時期までの情報しか記載されていないものを補うのですから「自分自身についての誤った、あるいは古い基礎情報(例えば、結婚の有無、現在の勤め先、出生地など)を修正することは自由です」にあたるものであると考えていますが、念のため、こうしてコミュニティの意向を伺っているという次第です。--山田晴通会話2015年9月26日 (土) 05:55 (UTC)
(コメント)「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」には「自分自身についての誤った、あるいは古い基礎情報(例えば、結婚の有無、現在の勤め先、出生地など)を修正することは自由」と書かれています。しかし、今回の議題は、既存記述の誤記訂正(sqlで言えばupdate)レベルのお話ではなく、業績を記事にもっと掲載したいから新たにご自身で業績を新規追加(sqlで言えばinsert)したいというお話ですから、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」の当該条項には該当しないと考えられます。しかし、「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」の点を指摘するまでもなく、現時点の版にたまたま勤務校の紀要類が含まれていなかった ⇒ 勤務校の紀要類は採録しないという法則性に基づいて記事が書かれていたに違いない ⇒ 今後の加筆においてもこの法則性を踏襲しよう、というロジックの時点で合理性が見いだせませんので反対票を投じております。--126.155.121.175 2015年9月26日 (土) 22:19 (UTC)
なるほどWikipedia:自分自身の記事をつくらないと整合性がとれず、違反だということですね。
(報告)山田先生が2015年9月26日 (土) 06:17‎にコメントして以降、何の反応もないまま一週間以上が経過いたしました。その間、山田先生は他の記事を何度も編集しておられますので、ウィキペディアに参加する時間が取れないというわけではないようです。しかし、こちらのノートにおいては、2015年9月26日 (土) 06:17‎のコメント以降、何のご返信もありませんでした。したがって、山田先生におかれては、他の方からの意見に対する反論は特になくご異議ないものとお見受けしました。山田先生の今回の提案については、反対意見は寄せられておりますが、賛成意見は誰からも投じられませんでした。よって、山田晴通先生のご提案は否決されたものとして、本セクションを閉じさせていただきます。--126.173.141.104 2015年10月4日 (日) 06:52 (UTC)

せめて概要には

東経大にってのもう少しプラスのイメージというか明るさを感じさせる内容がほしい。本文のないようをまとめたうえで、それに対する反語というか対比させる形で持ち味である負けん気を武器に持ち前のガッツとバイタリティで在籍している点についてプラスしておいた。ob諸氏の加筆求む。——以上の署名の無いコメントは、Muusicaandmiesecainantarcticaノート履歴)さんが 2015年9月26日 (土) 01:39‎ (UTC) に投稿したものです(山田晴通会話)による付記)。

加筆するのであれば、典拠の提示をなさってください。全体的に、少なくとも本人にはそのような認識はない評価が記されています。
特に、地理学関係の授業の教歴については、どのような意味で「本務である大学で地理学の講義を担当した経験は一度もなく」などと書かれているのか、理解に苦しみます。非常勤出向先でも、本務校でも、これまでに少なからぬ回数、地理学関係の授業を担当しています。たまたま今年度はそうした科目を担当していませんが、何を根拠に「本務である大学で地理学の講義を担当した経験は一度もなく」と記述されているのでしょうか?--山田晴通会話2015年9月26日 (土) 06:16 (UTC)
(反対)Muusicaandmiesecainantarcticaさんは「東経大にってのもう少しプラスのイメージというか明るさを感じさせる内容がほしい」とのことですが、本サイトはあくまで百科事典を作成賞というプロジェクトであり、東京経済大学の広告宣伝を行う場ではありません。「持ち味である負けん気を武器に持ち前のガッツとバイタリティで在籍している」というのも客観的にそれを証明する出典がないと思われますので、一部修正させていただきました。--126.155.121.175 2015年9月26日 (土) 21:58 (UTC)
東経大にとって迷惑をかけている内容なら困ると思うのですが、そういうことはないんですか
(コメント)「東経大にとって迷惑をかけている内容なら困る」とのことですが、それが具体的に何を指しているのかはわかりませんが……。ただ、東京経済大学にとって迷惑をかけている存在であったとしても、出典がきちんと明示されており法的な問題もなくウィキペディアのルール上も問題がないのであれば、少なくとも記事の削除は無理だと思います。また、記述の削除についても、正当な理由がなければやはり無理だと思います。--126.173.141.104 2015年10月4日 (日) 07:10 (UTC)

明らかに重大な問題を含む内容が書き込まれたため修正しました

報告 ShuBraqueさんの連続投稿により、明らかに重大な問題をはらむ記述が無出典で書き込まれたため差し戻しました。たとえば、ShuBraqueさんは出典を提示せずに、山田さんの国籍について断定的な記述を書き込んでいます。山田先生が当該国の国籍を取得したという明示的な出典があるのでしょうか。もし明確な出典がないのであれば、勝手な憶測で国籍について書くことはできません。そもそも国籍は個人情報でしょう。公表された出典があるならともかく、そうでないのであれば勝手な判断で公表することには問題があるでしょう。--126.160.19.252 2015年10月18日 (日) 13:16 (UTC)

報告 上述のとおりいったん 2015年10月4日 (日) 09:47‎ の版に戻しましたが、そのうえで国籍に関する記述の「要出典範囲」をコメント化させていただきました。そもそも、国籍に関する情報は重大な個人情報なのですから、要出典範囲タグを貼り付けて放っておくよりも、出典が見つかるまでは掲載しないのが望ましい対応だと思います。ですので、いったんコメント化させていただきました。くれぐれもきちんとした出典が見つかってから記述していただくようお願いします。--126.160.19.252 2015年10月18日 (日) 13:25 (UTC)
そもそもそれを書き込んだのは私ではありません。要出典タグを外したのみです。あなたの事実誤認です。--ShuBraque会話2015年10月18日 (日) 14:54 (UTC)
氏のWP個人用ページに{{User 国}}が貼られているので検証可能でせう。--240F:77:BE3:1:E503:8533:25B6:8C50 2015年10月18日 (日) 15:05 (UTC)

参考にこの部分の要出典タグを貼ったのは私ではなくこのIPユーザーですし[4]、私の編集以前から国籍の書き込みは存在していたことを示す差分を貼っておきます。繰り返しますがこれを書いたのは私ではありません。 ShuBraque会話2015年10月18日 (日) 15:46 (UTC)

コメント 履歴を確認する限り、ShuBraqueさんが編集する直前の2015年10月4日 (日) 09:47 (UTC)の版では、国籍の欄に「要出典範囲」が附されており出典がない情報であることが明確に示されています。しかし、ShuBraqueさんが編集した2015年10月17日 (土) 12:52 (UTC)の版においては、国籍の欄が断定的な記述に変わっています。双方の差分を比較しますと、元の版では国籍に関しては出典がない情報だと明確に記されていたにもかかわらず、ShuBraqueさんが国籍について断定的な記述に書き換えていることは明らかですよね。
ShuBraqueさんがわざわざ「要出典範囲」を除去して書き換えたということは、山田さんが当該国の国籍を取得したという明示的な出典があるということでしょうか。ShuBraqueさんは「要出典タグを外したのみ」だとおっしゃいますが、もし明確な出典がないのに勝手な憶測で「要出典範囲」を除去し、あたかも国籍について明確な出典がある確定情報であるかのように断定的に書くことはできません。そもそも国籍は個人情報でしょう。公表された出典があるならともかく、そうでないのであれば勝手な判断で公表することには問題があると思います。
無論「出典が見つかるまでは掲載しない」という対応の方が「ただ単に要出典範囲タグを貼り付けて放っておく」という対応よりも望ましいと思います。しかし、それら2つの対応に比べて、「出典が見つかってもいないのに要出典範囲タグを除去し、あたかも確定情報であるかのように国籍について断定的に書く」という対応は、極めて問題だと思います。ShuBraqueさんは出典もないのに「要出典範囲」を除去して回っているということでしょうか。また、240F:77:BE3:1:E503:8533:25B6:8C50さんのおっしゃるように、利用者ページなど何らかの根拠があって書き換えたというなら一理あると思います(ただ、利用者ページは「この利用者は日本人です」と書かれていますが「この利用者は日本国籍です」ではないため若干懸念は残るかもしれません、たとえばひとによっては「日本国籍」と「日本人」の概念に若干揺れが出そうだと懸念する指摘があるかもしれません。また、可能であれば、ウィキペディアではなくやはり外部出典の方がより望ましいという指摘があるかもしれません)。しかし、ShuBraqueさんは出典の提示を求める要出典範囲タグを除去していながら、その根拠となる出典をノートにも記事にも提示していないため、問題だと考えます。--126.170.33.113 2015年10月18日 (日) 17:32 (UTC)
コメント と、以上のように長々と説明してしまいましたが、要するに上述のとおり、ShuBraqueさんの2015年10月17日 (土) 12:52 (UTC)の編集によって、出典の提示もせずに国籍について断定的な記述に改変されたことは明らかです。当該国の国籍を取得している明示的な出典を提示しないにもかかわらず、このようなことをするのは問題でしょう。--126.170.33.113 2015年10月18日 (日) 17:40 (UTC)
本人が日本人だと言っていますし、その情報を疑う合理的な理由もないのに要出典タグを貼り付けたままにしておくほうがむしろ問題だと思います。なにか要出典タグを貼ることを正当化できるような事実があれば別ですが、そのようなことは示されていません。そもそもこの山田さんが日本国籍であることを書き込んだのは私ではありません。ゆえにこれを「記述したこと」で私を批判するのは間違いです。正確には(要出典タグの)除去です。正当性のない要出典タグを外すことは「極めて問題のある記述」ではないと私は考えます。-ShuBraque会話2015年10月18日 (日) 21:55 (UTC)
追記しますが山田さんの個人情報を「断定的な記述をした」という事実もありません[5]。この差分を見ればわかるように単に要出典を除去しただけです。なぜなら日本国籍にまるで疑いの余地があるかのような書き方は見方によっては中傷ですし、要出典の正当性もないと考えたからです。日本国籍の情報を書く書かないということ自体は私はどちらでもいいと思いますし、書きこんだのも私ではありません。-ShuBraque会話2015年10月19日 (月) 00:26 (UTC)
コメント ShuBraqueさんはWikipediaのルールを誤解していませんでしょうか。Wikipediaでは、出典を出さずとも明らかな事実でゆるぎないこと以外は、原則出典を伴わないことを書いてはいけないのです(Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記する、など参照)。そこは理解していますでしょうか? また、明らかな事実でゆるぎないこととは言えないにも関わらず出典が伴わない記述を見つけたら、①「要出典を貼って出典の提示を求める」、あるいは、②「速やかに除去する」といった対応が考えられますが(特に存命中の人物で不名誉にかかわる場合は①に問題があるため②となることが多い)、「出典もないのに要出典を除去して、そのまま放置する」はおよそ考えられない対応でしょう。また、ShuBraqueさんは「その情報を疑う合理的な理由もないのに要出典タグを貼り付けたままにしておくほうがむしろ問題」とのことですが、それは明確に疑わしい理由さえなければ出典は提示されていなくても問題ない、という主張でしょうか。出典を伴わないことを原則書いてはいけないというウィキペディアの厳格なルールとは相いれないように思いますが、それは具体的にどの方針やガイドラインを根拠にした主張でしょうか?
もし①「要出典を貼って出典の提示を求める」という対応では問題があるなと思ったら、それは②「速やかに除去する」以外に選択肢はないと思いますが、そうではないのでしょうか。「出典もないのに要出典を除去して、そのまま放置する」は、①や②に比べてもっとも悪い選択肢だと思うのですが……。まして、ある人物の国籍などは、明確な出典がなければ書きようがありませんし、これは個人情報ですよ。当たり前のことですが、日本に住んでいるイコール日本国籍がある、とは限りませんし、出典がないのに単なる憶測で書いてよいような内容でもありません。「なにか要出典タグを貼ることを正当化できるような事実があれば別」とのことですが、明らかな事実でゆるぎないこと以外で出典が伴っていなければ、それだけでタグを貼るに十分な理由のはずですが(むろん、即時除去という方法でもよいと思いますが)。--126.185.77.112 2015年10月19日 (月) 17:48 (UTC)
コメント なお、ShuBraqueさんは「本人が日本人だと言っています」とのことですが、それが出典として示されていたのならば、なるほど問題ないと思います。しかし、240F:77:BE3:1:E503:8533:25B6:8C50さんが指摘するまで、ShuBraqueさんはそんなこと今まで一言も言っていませんでしたよね。要出典タグを除去した2015年10月17日 (土) 12:52 (UTC)の編集のときに、そのようなことを説明していましたか? 要約欄、ノート、記事内のref、どこにも書いてないように思うのですが。要出典タグを除去しておきながら、なにも出典を提示せず、出典がないのに国籍について確定情報であるかのように書きかえているとしか思えないのですが。--126.185.77.112 2015年10月19日 (月) 17:55 (UTC)

(インデント戻し)私は山田さんが日本国籍であるという部分の要出典を削除した理由として(疑う合理的理由もないのに)日本国籍にまるで疑いの余地があるかのような書き方は見方によっては中傷ですし、要出典の正当性もないと考えたからです、と理由を説明しました。また編集時にも簡単に理由を述べています(挙げられている差分を見れば 不適切な要出典を削除 と書いてありますね)。さらにその後のノートでの議論にも応じていますので、要出典を削除して「放置した」わけではありません。また、240F:77:BE3:1:E503:8533:25B6:8C50 さんの指摘により該当箇所は検証可能であるということも示唆されています。また私は該当箇所の部分を残したいと考えているわけでもなく、また要出典の貼り付けに強固に反対しているわけでもありません。ただ、資料がないのであればこの情報は載せないのがベストだと思いますが、そのままでも反対意見を貫くつもりはありません。IPさんは「要出典を削除したことで個人情報を確定情報であるかのようにした」と仰っていますが、その解釈はIPさん独自のものではないでしょうか。要は私は「一度要出典テンプレートを削除した」だけであって、ここまで議論する行為でもないと思います。現在は該当箇所をコメントアウトしていますがこれに特に反対しているわけでもありません。これ以上話し合う必要があると思えませんので議論終了を提案します。--ShuBraque会話2015年10月19日 (月) 22:06 (UTC)

なお、これ以上話し合いたいということであれば、コメント依頼にてお願いします。--ShuBraque会話2015年10月19日 (月) 22:11 (UTC)

2015年12月22日の編集について

2015年12月22日 (火) 18:41 (UTC) の編集について。記事主題の当事者としてコメントを残しておきます。

典拠のひとつとして挙げられている個人ブログに「山田晴通」名義で書き込まれたコメントは、この記事主題である山田本人によるものではありません。また、この書き込みは、山田の既発表の文章(ひとつ前の典拠とされている論文の献辞)をテンプレートとしており、著作権侵害が強く疑われる程度に表現が酷似しています。

この件については、勤務先大学のドメイン内にある研究室の公式サイト内のページで見解を表明しています。

念のためですが、直近で記憶し、また手元で確認できる1996年以降の記録でみる限り、2011年12月3日に経済地理学会北東支部例会で訪れたときしか、秋田市へは出かけていません(それ以前では、1980年代に、秋田魁新聞などに聞き取り調査に出向いたことがあります)。また、キャバクラの類には1990年代に六本木や新宿で、調査のために営業時間外に訪問したことはありますが、客として行ったことはありません。

当該ブログのコメントは、ウィキペディアの典拠としてはふさわしくないものであり、除去されるべきと考えます。--山田晴通会話2015年12月25日 (金) 10:54 (UTC)

「別の回路」([参考 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/school/15375/1182084241/109])からの議論に数年来逃げているようですのでこちらでコメントいたします。
上のコメントを拝読しましたが、純粋(純血)な日本人が読むと表現にもやや危ういところがあって、読んでいてひやひやします。
ex.既に訂正されているかも知れませんが、こちらでの改行が不適切です。 http://camp.ff.tku.ac.jp/YAMADA-KEN/network/default.html
ex.「何より、内容が複数の故人に対して礼を失したものとなっており」とありますが、故人は一人ではないですか?(ひょっとして、複数の死者の出た別の事件、(例えば同胞の事件等)と混同されていませんか?)「山田は、他者のブログや匿名掲示板等への書き込みは原則的に実名で行っていますし、それもかつてのことで、ここ数年は、ほとんどそのような行為はしていません。」とありますが、「それも」の前後を「し」で結ぶのは「純粋(純血)な日本人」には希なことです。
ex.「ネット上の別人「山田晴通」による著作権侵害について(2013年/2015年)」という表題ですが「(2013年/2015年)」は何を意味しているのでしょう?件の書き込みは2014年です。
あなたの公式サイトでも指摘されているように「税金でただ飯食っているくせに納税者の質問からは逃げ」ないことを要望します。(下記サイトで応答すれば態々こちらではコメントしませんが)http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/school/15375/1182084241/106

--133.30.47.119 2016年3月29日 (火) 16:32 (UTC)

早稲田大学「元非常勤、失語症研究者」の山田晴通氏は、この記事主題の人物ではありません

2017年12月

記事主題の本人の山田晴通です。一応典拠が示されている記述に関することなので、こちらでコメントしておきます。

魚拓に残されている「安全保障関連法に反対する早稲田からの新アピール」安全保障関連法の廃止を求める早稲田大学有志の会に署名している<山田 晴通(元非常勤・失語症研究者)>なる人物は、少なくともこの記事主題の山田晴通ではありません。この件については、「Wikipedia:井戸端/subj/「山田晴通」について「失語症にも造詣が深い」などと評価する記述について」をご参照ください。

従って、「非常勤先」云々という記述は除去されるべきものです。--山田晴通会話2017年11月20日 (月) 08:35 (UTC)

ここで問題にした記述は、 2017年11月20日 (月) 08:56‎ UTC に利用者:Qhpさんによって除去され、その後1週間以上、これを挿し戻すなどの編集は行われていません。本件については、解決したものとします。利用者:Qhpさんに感謝を申し上げます。--山田晴通会話2017年12月1日 (金) 00:41 (UTC)

水岡不二雄氏との関係について。

「論争の相手」として水岡氏の名前が挙がっていますが要出典をつけました。両者は何らかの論争をしたことがあるのでしょうか?
両者の接点としては、ある年の左翼の集会の場で、水岡氏に山田氏が叱責されたという話をきいたことがあります。
これも学術的なことではなく、山田氏の普段の(生活)態度などだったようです。
(例えば匿名掲示板に書き込んだり、ゴミ捨て場から図書館の本だけ抜き取るような行為や、博士論文の審査員に金券を配るような行為でしょうか?)
しかも、その場で直に反論すればよいのに黙り込んで水岡氏が読むはずがない学内紀要でこっそり反論をしていたとお聞きしました(『人文自然科学論集』第131号、東京経済大学、2011年10月20日、 57-75頁)。
仮に有名大の教授と論争をしたいと考えていたとしても、このような発表の仕方は、水岡氏のとの建設的な議論を求める真摯な姿勢を示すものではないでしょう。
その場での対話を拒み、適切なコミュニケーションを通した解決を図らず、Wikipediaの外で起こった問題について、Wikipedia内に持ち込んだり、あるいは誰も読まない学内紀要や水岡氏が参加するはずがない集会において一方的に名前を挙げる行為は研究者としての倫理性に疑念を生じさせる遺憾な事態であり、水岡氏が相手に応ずる可能性が限りなくゼロに近いことからも「論争の相手」とすることは疑問です。--2001:DF0:EB:2123:3DF6:F65C:2FE4:5DAC 2019年2月9日 (土) 07:21 (UTC)

  • 誤解があるといけませんので、事実関係について当事者からいくつか指摘をしておきます。
    • 「ある年の左翼の集会」というのは、ネット上にも後悔公開している日本地理学会 2015 年度秋季学術大会(愛媛大学)ポスター・セッション配布資料(2015.09.18-19)[付論]経済地理学会の右「転向」に関する水岡教授の責任について (p.11)に明記しているように「2011年の三多摩メーデー」のことです。内容は「例えば..でしょうか?」と例示されているようなことではありません。「ウィキペディアとアカデミズムの間」の注10にあるように「あなたがウィキペディアでやっていることは言論弾圧です」という内容です。それに続けて「あなたなんかメーデーに参加する資格はない」とも発言されたことは上記の配布資料で述べている通りです。
    • 「ゴミ捨て場から図書館の本だけ抜き取るような行為」というのは、かつて山田が東京経済大学近くのゴミ捨て場に、大学図書館や公共図書館のラベルが貼られた書籍が捨てられているのを見つけてこれを回収し、それぞれの図書館に返したことがあったことを指しているのかと思います。その経緯については、当時よく書き込んでいた掲示板で言及したことがあったかと思いますが、現在は検索してもその内容は出てこないようです。もし、詳しい内容を記録したページなどをご存知でしたら、ご教示ください。
    • 「博士論文の審査員に金券を配るような行為」については、過去ログ「利用者‐会話:山田晴通/過去ログ05#田辺裕 (地理学者)の編集について、あるいは板前はただ飯も食う」をご覧ください。
    • 「その場で直に反論すればよいのに...学内紀要でこっそり反論をしていたとお聞きしました」とありますが、『人文自然科学論集』第131号=ウィキペディアとアカデミズムの間」の注10をご覧いただければお分かりのように「反論」はしていません。また、この論文では水岡氏の名は伏せており、「一方的に名前を挙げる行為」には当たりません。人の噂をお聞きになるだけでなく、簡単に検索できる記述はご自身で読んで確かめられることをお勧めします。
    • 「Wikipediaの外で起こった問題について、Wikipedia内に持ち込んだり」というのは何を指しているのでしょうか?意味不明ですのでご説明いただければ幸いです。
    • 水岡氏は日本地理学会会員であり、その学術大会は「水岡氏が参加するはずがない集会」ではありません。ちなみに、学会に水岡氏が参加されなかったので、大会終了後、山田と水岡氏がともに会員であるもう一つ学会、人文地理学会の大会でも配布資料を用意して水岡氏にお渡しできる機会がないかと期待しましたが、そちらでもお目にかかれなかったので、配布資料は水岡氏に郵送しました。その後、水岡氏をお見かけする機会がなかなかなかったのですが、2018年3月に東京学芸大学で開催された日本地理学会の学術大会の懇親会の席でお見かけした際に声をおかけし、応答をお待ちしていることを直接お伝えしました。水岡氏は、忙しくて応答している暇がないと仰り、直ぐにその場を立ち去られました。つまり、こちらが公開質問をしていることは承知されていたということです。
    • IP氏のコメントは、上記配布資料のp.4あたりをテンプレートにしたものです。そこでは、この資料のp.1に具体的に言及されている Third Global Conference on Economic Geography 2011 を指して「山田が参加するはずがない海外の集会」と表現しています。「参加するはずがない集会において一方的に名前を挙げる行為」を行ったのは水岡氏であり、山田ではありません。
なお、「水岡氏が相手に応ずる可能性が限りなくゼロに近いことからも「論争の相手」とすることは疑問です。」という結論については妥当なものと考えます。--山田晴通会話2019年2月9日 (土) 12:16 (UTC)