ノート:山吉久盛
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山吉久盛の生没年、系譜は江戸時代に編纂された系図類の中でも異同が大きく、テンプレートに記載されている生没年、係累の出典と思われる『山吉家家譜』の久盛とされる人物の系譜の記事は、同時代史料と矛盾(大多和氏を継承した、上杉の一門となった等、生年も活動時期と齟齬しています)しています。山吉氏に関係の深い『三条市史』『燕市史』『分水町史』には、すべてそのような記載はありません。テンプレートの内容は一旦削除とし、山吉氏の系譜は戦国時代以前は信憑性が低い(『三条市史』)とした上で、脚注にでもまとめるのはどうでしょうか。--Thomo 2010年9月22日 (水) 22:26 (UTC)
- テンプレートはコメントアウトし、内容の一部は脚注に記載しました。現時点では関連する自治体史は、信憑性に問題のある後世系図ではなく、確実な史料から山吉氏の系譜を考証しています。--Thomo 2010年10月11日 (月) 15:18 (UTC)
- 馬屋橋氏が「山吉家譜」を参考文献として、削除されていたテンプレートを復活されましたが、「山吉家譜」を参考文献に史実の人物に史実のこととして記載されるのは以前も指摘したように問題があるのではないでしょうか。「山吉家譜」の当該箇所と思われるのは、「始め盛久、久盛云々」と加筆されている「義長」の部分だと思いますが、「山吉家譜」によれば、「義長」は「山吉七郎右衛門尉盛計」の五男で始め「妻有城主大多和氏」に婿養子に行き、兄「盛忠(別名義盛と加筆あり)」の早世により山吉家を継いだとされています。「山吉義長」「大多和義長」「山吉盛計」「山吉盛忠」「妻有城主大多和氏」とも管見の限り史料で確認できません。兄「盛忠」は上杉朝方とともに越後の仕置きをした等、その婚姻関係より山吉家は上杉家の御家門とされた等、史実とは思えない記述内容もあり、同様に系譜に記載されている母が憲将娘等の婚姻関係も信用できるものかどうか疑われます。この「山吉家家譜」には系譜の一部に、明治期に山吉家の末裔とする人物が、本姓の山吉に復することを訴える文書が差し込まれており、その際に証拠として使用された系譜のようです。江戸時代以降、系譜を修飾する偽系図が盛んに作成されたことはよく知られていますし、山吉氏は早くに系譜の伝承を失い、戦国以前の系譜は信憑性が疑われることはすでに研究者が指摘しています(「三条市史」参照)。成立が元禄以前とされている「越後三条山吉家伝記写」は多くの研究論文に引用されているのは確認できますが、「山吉家家譜」は管見の限りないと思います。研究者の引用ならともかく、このような自費出版された系譜をそのまま記載すること(父を行盛、母を上杉憲栄娘とするのは「山吉家譜」にも記載がなく独自研究と思われます)は問題があると思いますので、再び削除とさせていただきます。--Thomo(会話) 2014年7月28日 (月) 07:33 (UTC)