利用者‐会話:Thomo
山吉氏について
[編集]山吉氏関連のページについての編集に疑問点があるのでコメントさせていただきます。「山吉家家譜」が引用されたという箇所に要出典や信憑性が無いと断じておられますが、そういった出典に対して信憑性が無い思われる明確な根拠があるのでしょうか?出版されていた「山吉家家譜」は山吉家関係者所蔵の系譜類を、郷土史家で元山形県文化財保護員の井形朝良氏が編集されたものです。よって「山吉家家譜」は研究者による裏付けが一応有るといえますし、一方で「山吉家家譜」を偽書だとする研究者はいないはずです。また、山吉家歴代当主の正室・生母・生没年などは「山吉家家譜」以外で確認できないものも多く、それは裏付けが無いとも言えますが逆に他の資料や論文・著書と矛盾が少ないとも言えます。--秋田城之介 2010年7月31日 (土) 16:14 (UTC)
(追記)他の資料と記載が被り、細部が矛盾している場合(主に政応入道以降になるでしょうか)は引用件数の多さでこれを通説として記さず上杉家御年譜 外姻略譜等を通説として引用するという方式には反対していません。--秋田城之介 2010年7月31日 (土) 16:26 (UTC)
- コメントありがとうございます。私は信憑性がないと書きましたのは、特に「山吉家家譜」のみではなく、豊盛以前のすべての山吉氏の系譜に関してです。出典は「三条市史」の記述です。
- また、「山吉家家譜」が引用されている箇所に要出典は付けていないと思います。「山吉家家譜」でも確認できなかったものに要出典をつけたつもりです。
- 秋田城之介さんは、実際に「山吉家家譜」を確認されましたか。私は解説書の方でしか確認できなかったのですが、系譜には成明、長久、長守、盛許、盛忠、義長、景久、秀許、景長(政応入道)の名を確認できたのですが、史料でその存在が確認できる、行盛、久盛、正盛、能盛らを確認できませんでした。ただ、時間がなく、急いでざっと確認したので、見落としもあるかもしれません。再度確認したいと思っています。
- 私が確認した限りでは久盛の生没年とされているのは義長、正盛の生没年とされているのは景久、能盛の生没年とされているのは秀許のものです。反対に彼らがそれぞれの人物にあたるという文献はあるのでしょうか。その意味で要出典をつけさせていただきました。なお、この生没年を採用すれば、久盛の初見史料は彼が10歳の時に出したことになってしまいますし、正盛は死亡後に本成寺に安堵状を出していることになります。
- また管見のかぎり、今のところ「山吉家家譜」の内容を採用している研究者はいないと思います。「三条市史」や吉川弘文館「戦国人名辞典」でも、久盛と正盛の親子関係を認めている(本成寺に残る2通の正盛安堵状より)以外は、例えば正盛と能盛はほぼ同時期に活躍しているが、彼らの関係は不明というように書かれています。--Thomo 2010年7月31日 (土) 22:13 (UTC)
- 追記です。また史料上で確認できない義盛、長盛をリダイレクトしようと提案したのは、山吉氏の系譜に混乱が認められるからです。元禄時代に存在が確認でき、伝存する数多くの山吉氏の系譜類で最も成立年代が古いとされる「三条山吉家伝記写」には長盛も義盛も登場しません。「山吉家家譜」以外で長盛や義盛が登場する系図もありますが、長盛は始祖光盛の子とされていたり、義盛は義正の子とされ、応永22年に76歳で死亡(ちなみにこの系図では久盛は義盛の子とされ、子の正盛は天文3年に121歳で死亡となっています。)とされているものもあります。--Thomo 2010年7月31日 (土) 22:52 (UTC)
- はい、以前確認したんですが、山吉家家譜の系図をよく見ると義長=久盛、景久=正盛、となっているはずです。能盛については当方でもメモが欠損しており再確認したいところですが、やはり改名・別名は多かったようですね、これも混乱の原因かと思われます。戦国人名辞典などのにおいてはおそらく山吉家家譜などの説が採用されていないというよりは、知られていないのではないかと思います。また、三条市史が発行された頃、山吉家家譜に関する検証はほとんどされていないと思います。というより、そのあたりの優越は、研究者の間でも付けられていないのではないでしょうか?井形朝良氏の著書は93年発行です。--秋田城之介 2010年8月6日 (金) 09:34 (UTC)
- 「山吉家家譜」は出版されたのは確かに93年ですが、この原本である山吉系譜(佐原氏が池氏を継ぎ、山吉氏と名を改めたもの)をもとに「北越雑記」は書かれていますし、江戸末期、三条の旧家や本成寺はその沿革について米沢の山吉家に照会しており、それらを通してこの系譜は三条周辺に伝わる旧記に記されて、かなり流布していると思います。ただこの山吉系譜や「北越雑記」の内容については、頼盛末裔説を中心に、かつて吉田東伍氏や県史編纂委員の斉藤秀平氏などから、かなり厳しい否定的見解が出されていました。この「山吉家家譜」を含む、山吉氏の系譜の取り扱いに関しては、私の個人ページではなく、「山吉氏」のページで議論した方がよいと思いますので、議論の場所を移動したいと思います。よろしいでしょうか。また、「山吉家家譜」は国会図書館に所蔵されているのみのようですので、再確認に時間がかかりそうです。しかし同内容とされる「北越雑記」の三条城主一覧に、義長の別名は久盛、景久の別名は正盛を確認できましたので、その箇所の要出典は取り消します。
- 私が、山吉氏関連のページを気にしているのは、そのほとんどを立項、加筆された出羽卒族さんが、佐原明連で吾妻鏡を出典として記述されていたような、独自の解釈をされているのではないかと不安に思っているからです。ご本人にご確認しないまま、このようなことを書くのはどうかとも思うのですが、秋田城之介さんはかつて「山吉家家譜」には行盛は記載されていないと書かれましたね。つまり山吉行盛の系譜は、出羽卒族さんが作られたもの、独自研究であると認めておられるということでしょうか。その上で上杉憲将の系譜にも娘の記載をされたのでしょうか--Thomo 2010年8月11日 (水) 04:29 (UTC)
- 思っていたより検証はあるようですね。ただ、太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、山吉家家譜と同様に池氏流を採用(信用しているわけでは無いと思いますが)していますし、まあ、これに関してはおっしゃる通り山吉氏のノートで議論しましょう。行盛に当たるような代ですが、私からは何とも・・・・・「山吉行盛」の存在は確実ですが、系譜的な位置づけは確定していませんし、それに出典があるかどうかは当人にしかわからないと思います。確認をしない上での加筆だったので、訂正します。山吉家家譜の記載に忠実に従うなら、長尾氏に嫁いだ女性は「山吉久盛の姉」ということになります。実父に当たる十代当主は、山吉家家譜において欠落しています。--秋田城之介 2010年8月17日 (火) 10:09 (UTC)
- 行盛の代のことは気にしていません。研究者が系譜は不明としている人物の系譜が作られていることが気になっているだけです。上杉憲将を立項された際、山吉義盛妻を娘と書かれたのは、確認しないまま出羽卒族さんの記載を引用されたということでしょうか。またこれも事後報告になってしまいましたが、以前池氏で『燕市史』を出典に池清久、清景が争ったと書かれた箇所はコメントアウトしています。『燕市史』にはそのような記述はありませんし、削除してもよろしいですか。以後の議論は御了解を得ましたので、山吉氏のノートで行いたいと思います。--Thomo 2010年8月17日 (火) 18:37 (UTC)
- 思っていたより検証はあるようですね。ただ、太田亮の「姓氏家系大辞典」によれば、山吉家家譜と同様に池氏流を採用(信用しているわけでは無いと思いますが)していますし、まあ、これに関してはおっしゃる通り山吉氏のノートで議論しましょう。行盛に当たるような代ですが、私からは何とも・・・・・「山吉行盛」の存在は確実ですが、系譜的な位置づけは確定していませんし、それに出典があるかどうかは当人にしかわからないと思います。確認をしない上での加筆だったので、訂正します。山吉家家譜の記載に忠実に従うなら、長尾氏に嫁いだ女性は「山吉久盛の姉」ということになります。実父に当たる十代当主は、山吉家家譜において欠落しています。--秋田城之介 2010年8月17日 (火) 10:09 (UTC)
- はい、以前確認したんですが、山吉家家譜の系図をよく見ると義長=久盛、景久=正盛、となっているはずです。能盛については当方でもメモが欠損しており再確認したいところですが、やはり改名・別名は多かったようですね、これも混乱の原因かと思われます。戦国人名辞典などのにおいてはおそらく山吉家家譜などの説が採用されていないというよりは、知られていないのではないかと思います。また、三条市史が発行された頃、山吉家家譜に関する検証はほとんどされていないと思います。というより、そのあたりの優越は、研究者の間でも付けられていないのではないでしょうか?井形朝良氏の著書は93年発行です。--秋田城之介 2010年8月6日 (金) 09:34 (UTC)
上杉定実での編集について
[編集]失礼いたします。馬屋橋と申します。上杉定実での編集ですが、女子(長尾晴景正室)の記載を削除された意図はどのようなものでしょうか?出典付の記載を削除する場合は、慎重な検討を要するものと思います。我々は出典の多寡や信用性を勘案することはできますが、学者や研究者ではありません。豊田武著「戦国の群雄」の論旨に対して、これを明らかに誤りであるしている研究者はいるのでしょうか。私は現時点で存じておりません。Thomoさんの一次資料を重視する御姿勢が間違っているとは思いませんが、Thomoさんのお考えを出典より優先させてしまっては、Wikipediaの方針から外れるのではないでしょうか?何卒、御一考下さい。--馬屋橋(会話) 2014年8月4日 (月) 15:09 (UTC)
- ご意見ありがとうございました。返答が大変遅れ、誠に申し訳ありません。女子(長尾晴景正室)をコメントアウトいたしたのは、諸系図に認められないこともさることながら、管見する限り、1965年出版の豊田武氏の著作以外に研究者の言及がないということからでした。中には井上 鋭夫氏の『謙信と信玄』(吉川弘文館)には「定実には子がなくー」と書かれているものや、渡辺三省氏の『中世武士撰書9 本庄氏と色部氏』(戎光祥出版)にも「定実には男子がなく、女子一人があった」とあり、この女子は伊達尚宗夫人とされているものもあります(ただこの女子は長谷川伸氏の研究成果により定実の姉妹の可能性が高く、上越市史でも姉妹説がとられています)。晴景に関しては、当時の最新の研究成果が反映されている2004年出版の『上越市史』では大永7年(1527年)誕生とされるなど、通説の生年にも疑問が生じてることもあり、一旦コメントアウトした方がいいのではと思った次第です。ただ私も全ての、著書、研究論文に目を通してるわけでもありませんので、早まった感は否定できず、研究者の著書において諸説があることで、疑問として?マークをつけさせていただいても良いでしょうか。
- なお、いただいたご意見の返答のついでにいたすのは、大変失礼なことと承知しておりますが、私の方も一度馬屋橋さんに質問いたしたい件がありました。『山吉家譜』を出典として上杉憲将等を編集なさっておられることです。諸説があると書かれていますが、研究者が『山吉家譜』を出典として憲将には娘がいる説を唱えている論考はあるのでしょうか。以前山吉久盛のノートに書かせていただきました通り、研究者がとりあげていない史料の取り扱いに関しては信用性のこともあり、慎重にするべきと思います。山田敏恭「南北朝期における上杉一族」や久保田順一『上杉憲顕』にも憲将の子は久庵のみとされています。『山吉家譜』には史実と認めにくい北条得宗家や足利氏との婚姻も記載されていますが、記載されているからとwikipediaの編集をされますか?同様に研究者の言及がないのであるならば、憲将の武士テンプレートに女子と書かれることはどうだろうかと思います。例えば長尾房長が為景の兄弟としての異説があることの説明のように、せめて娘の存在は脚注にとどめるとかはどうでしょうか。--Thomo(会話) 2014年8月17日 (日) 19:22 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。まず上杉定実の娘の件については疑問符マークを付けることには異議ございません。『山吉家譜』についてはおっしゃる通り、それをそのまま書いて妥当かと言われると疑問もありますが、そもそも女子(生母・正室等)に関しては系図によって全く記載がない場合が多いうえに男子と比較して検証が難しいため、他史料(及び世系・年代)と矛盾のないものについては疑問符を付けて使用し、矛盾が大きくなる場合については脚注表記としてもよろしいかと私は思います。やや蛇足気味になりますが、長尾房長の場合は最初に上田長尾の系統であるという通説があり、そのうえで為景兄弟説も出ているというケースと認識しています。上杉憲将の娘については、存在そのものが問題となっておりますので、やや異なったケースであるように思います。もし上杉憲将の娘として複数の系図で一女のみの記載があり、その嫁ぎ先について通説と異説がある場合は、長尾房長の例と同様になるかと考えます。また、上杉氏の系図は女子の記載が少なく、女子を嫁がせた先の家に婚姻の記録があるにも関わらず、上杉氏側の系図に記載がない(もしくは不確か)という事例が多く見られます。伊達尚宗の正室の件もそうですが、畠山氏や大石氏にもそういった事例が見られます。--馬屋橋(会話) 2014年8月23日 (土) 17:52 (UTC)
- 私が房長の例を挙げたのは、馬屋橋さんが僧可の注でないことを理由に憲将女をテンプレート内に復活されたためであり、私の真意はあくまでも研究者が信がおけない、信憑性がないとしている戦国以前の山吉家の系譜の記事は、少なくとも注に留めるべきではないかということです。厳密に言うならば、『山吉家家譜』において別名盛久あるいは久盛と加筆のある「義長」は史料上に登場する「山吉久盛」であると研究者は比定しているのでしょうか。また管見の限り、憲将の娘は上杉の諸系図、史料には登場せず、研究者の言及もありません。他の山吉家の系譜にも見られないと思います。一部の方々がなぜこうも『山吉家家譜』にこだわって編集をされるのか、私は不思議でなりません。なお、例として伊達尚宗室や、畠山、大石氏を挙げておられますが、伊達尚宗室に関しては、長谷川伸氏の論考に詳しく紹介されてますが、伊達家にも、越後側にも縁組みの確証となる史料は存在します。女子に限らず、上条上杉氏には史料が残されているにもかかわらず現在残る系図には見られない人物が多いことは、以前から研究者によって指摘されています。畠山家との縁組みは「大乗院寺社雑事記」に房定が畠山義統と婚を通じ、越中をに侵攻しようとしているとの記事があるだけで、実際どのような婚姻関係が結ばれたかは不明とされているのではないでしょうか。大石家に関しては「木曽大石氏系図」には確かに、憲儀、顕重の母は上杉氏と記されていますが、早くから栗原仲道氏はそれについて「大石氏の研究の現状と課題」で疑義を呈しておられます。今日、その信憑性に疑問があるとして「木曽大石氏系図」は研究者によって史料批判が行われており、当時の史料集成を元に包括的追究が進められ、史料所見に基づいた系譜復元がされています。--Thomo(会話) 2014年8月27日 (水) 18:00 (UTC)
- いくつかの研究によって信が置けないとされているからといって、注にするのは如何なものかと思います。大雑把に言えば、両論併記で行くべきだと思っております。もしAという説に対してBという説があり、Bを採用する説が極端に少なくて信用が置けないということであれば、Thomo様のおっしゃる通りBは注になろうかと思いますが、今回はそのようなケースではないと思っております。私個人は『山吉家家譜』にこだわりはございませんが、Wikipedia:中立的な観点に照らすと『山吉家家譜』を情報源とした記述を全て本文から除くというのは不適当な編集のように思います。研究が進めば、そのあたりの是非も更に見極められてくると思うのですが。--馬屋橋(会話) 2014年9月4日 (木) 14:13 (UTC)
- 私の書き方が不十分で誤解を招いているのかもしれませんが、 以前秋田城之介さんと討論した部分に書いてある通り、『山吉家家譜』は決して新出史料でも研究者の目に入っていない史料でもありません。出版された『山吉家家譜』の元である「山吉系譜」は山吉家の系譜として江戸時代からよく知られており、昭和29年発行された『修訂 三條市資料』にも米沢、山吉家旧記として紹介され、この「山吉系譜」を基にして書かれた『北越雑記』、その他三條の旧記として書き写されてあちこちに流布しているとされています。『北越雑記』は出版されていますので、三條の歴代城主の部分を確認して下さい。出版されている『山吉家家譜』と歴代、附記が同じものであり、同じ「山吉系譜」から書き写されたものだとわかります。そのため、この『北越雑記』、「山吉系譜」は早くから研究者の史料批判の対象となり、『修訂 三條市資料』に紹介されていますが、吉田東伍氏は「固よりの妄誕」として否定され、斎藤秀平氏は俗説、偽作として痛烈に批判されています。『修訂 三條市資料』では「「山吉系譜」及び『北越雑記』には信のおけない箇所が相当あり、誤謬があることが確認できる。相当の偽作も混入していると思われるが、後日の調査検討をまたねばならない」と記されています。昭和46年から47年にかけて飛鳥川裕氏は山吉氏の系譜類を調査され、5つの系統に整理されましたが、『山吉家家譜』はその5番目の「相模の三浦支族佐原氏、池姓を継ぎ、さらに山吉姓に改めたとするもの」にあたります。『三条市史』ではそのいずれの系図も豊守以前は信がおけず、系図作成にあたり、蒲原郡南部に色濃く残る頼盛伝説や江戸時代に生まれた三条左衛門定明伝説の影響が否定できず、かれらを家祖とする系図が作成されたとされています。『山吉家伝記之写』が山吉家の流れをくむ森田家の史料から発見されたのは、飛鳥川氏の研究分類には入っていないのでその後のことだと思いますが、昭和49年、三条山吉氏研究会より『越後三条山吉家伝記之写』として出版され、山吉家のみならず戦国期上杉家の貴重な記録を今に伝えるものとして高く評価され、『新潟県史 資料編』や『三条市史 資料編』に所収されています。ただ系図に関してはやはり戦国以前は不明な部分となっています。現在のところ、信憑性が高いとされる『伝記之写』を引用する研究者はあれど、『山吉家家譜』や『北越雑記』に記されてるように山吉義長(久盛とも)が上杉家の流れを含む大田和家を継いだ等の記事を引用している研究論文は皆無だと思いますし、憲将の娘の存在を記しているものもないと思います。ウィキペディアだけに記載されているといってもよい状態だと思います。これを認めてしまえば、他にも史実とは思えないが記載されている北条得宗家や足利家との婚姻はどうなるのかといった危惧もあるので(実際以前編集されていました)。私は論争するつもりはないですし、二人で結論が出なければ、中世史や戦国史の編集を良くされている方々の御判断を仰いでもかまいません。--Thomo(会話) 2014年9月9日 (火) 04:54 (UTC)
- ご返答遅れて申し訳ございません。Thomoさんのお考えとしては、以前にThomoさんと秋田城之介さんとの議論にあったとおり、また、種々の研究を鑑みて『山吉家家譜』について信憑性に疑問が大きいとご判断されたことだと思います。私は山吉家の伝承系図、それについての既出の考察を全て読んでいるわけではないので、その議論に関しては深入りしてお答えできませんが、前提として我々は研究者ではありませんので、どんな資料を根拠とすべきか(複数の出典からの情報の合成等や、特定の出典の優劣)というのは、非常に難しい問題であると考えております。根本的な議論をするためには、ウィキプロジェクト等でそういった提案をするのが良いかもしれません。--馬屋橋(会話) 2014年10月11日 (土) 18:06 (UTC)
- 私の書き方が不十分で誤解を招いているのかもしれませんが、 以前秋田城之介さんと討論した部分に書いてある通り、『山吉家家譜』は決して新出史料でも研究者の目に入っていない史料でもありません。出版された『山吉家家譜』の元である「山吉系譜」は山吉家の系譜として江戸時代からよく知られており、昭和29年発行された『修訂 三條市資料』にも米沢、山吉家旧記として紹介され、この「山吉系譜」を基にして書かれた『北越雑記』、その他三條の旧記として書き写されてあちこちに流布しているとされています。『北越雑記』は出版されていますので、三條の歴代城主の部分を確認して下さい。出版されている『山吉家家譜』と歴代、附記が同じものであり、同じ「山吉系譜」から書き写されたものだとわかります。そのため、この『北越雑記』、「山吉系譜」は早くから研究者の史料批判の対象となり、『修訂 三條市資料』に紹介されていますが、吉田東伍氏は「固よりの妄誕」として否定され、斎藤秀平氏は俗説、偽作として痛烈に批判されています。『修訂 三條市資料』では「「山吉系譜」及び『北越雑記』には信のおけない箇所が相当あり、誤謬があることが確認できる。相当の偽作も混入していると思われるが、後日の調査検討をまたねばならない」と記されています。昭和46年から47年にかけて飛鳥川裕氏は山吉氏の系譜類を調査され、5つの系統に整理されましたが、『山吉家家譜』はその5番目の「相模の三浦支族佐原氏、池姓を継ぎ、さらに山吉姓に改めたとするもの」にあたります。『三条市史』ではそのいずれの系図も豊守以前は信がおけず、系図作成にあたり、蒲原郡南部に色濃く残る頼盛伝説や江戸時代に生まれた三条左衛門定明伝説の影響が否定できず、かれらを家祖とする系図が作成されたとされています。『山吉家伝記之写』が山吉家の流れをくむ森田家の史料から発見されたのは、飛鳥川氏の研究分類には入っていないのでその後のことだと思いますが、昭和49年、三条山吉氏研究会より『越後三条山吉家伝記之写』として出版され、山吉家のみならず戦国期上杉家の貴重な記録を今に伝えるものとして高く評価され、『新潟県史 資料編』や『三条市史 資料編』に所収されています。ただ系図に関してはやはり戦国以前は不明な部分となっています。現在のところ、信憑性が高いとされる『伝記之写』を引用する研究者はあれど、『山吉家家譜』や『北越雑記』に記されてるように山吉義長(久盛とも)が上杉家の流れを含む大田和家を継いだ等の記事を引用している研究論文は皆無だと思いますし、憲将の娘の存在を記しているものもないと思います。ウィキペディアだけに記載されているといってもよい状態だと思います。これを認めてしまえば、他にも史実とは思えないが記載されている北条得宗家や足利家との婚姻はどうなるのかといった危惧もあるので(実際以前編集されていました)。私は論争するつもりはないですし、二人で結論が出なければ、中世史や戦国史の編集を良くされている方々の御判断を仰いでもかまいません。--Thomo(会話) 2014年9月9日 (火) 04:54 (UTC)
- いくつかの研究によって信が置けないとされているからといって、注にするのは如何なものかと思います。大雑把に言えば、両論併記で行くべきだと思っております。もしAという説に対してBという説があり、Bを採用する説が極端に少なくて信用が置けないということであれば、Thomo様のおっしゃる通りBは注になろうかと思いますが、今回はそのようなケースではないと思っております。私個人は『山吉家家譜』にこだわりはございませんが、Wikipedia:中立的な観点に照らすと『山吉家家譜』を情報源とした記述を全て本文から除くというのは不適当な編集のように思います。研究が進めば、そのあたりの是非も更に見極められてくると思うのですが。--馬屋橋(会話) 2014年9月4日 (木) 14:13 (UTC)
- 私が房長の例を挙げたのは、馬屋橋さんが僧可の注でないことを理由に憲将女をテンプレート内に復活されたためであり、私の真意はあくまでも研究者が信がおけない、信憑性がないとしている戦国以前の山吉家の系譜の記事は、少なくとも注に留めるべきではないかということです。厳密に言うならば、『山吉家家譜』において別名盛久あるいは久盛と加筆のある「義長」は史料上に登場する「山吉久盛」であると研究者は比定しているのでしょうか。また管見の限り、憲将の娘は上杉の諸系図、史料には登場せず、研究者の言及もありません。他の山吉家の系譜にも見られないと思います。一部の方々がなぜこうも『山吉家家譜』にこだわって編集をされるのか、私は不思議でなりません。なお、例として伊達尚宗室や、畠山、大石氏を挙げておられますが、伊達尚宗室に関しては、長谷川伸氏の論考に詳しく紹介されてますが、伊達家にも、越後側にも縁組みの確証となる史料は存在します。女子に限らず、上条上杉氏には史料が残されているにもかかわらず現在残る系図には見られない人物が多いことは、以前から研究者によって指摘されています。畠山家との縁組みは「大乗院寺社雑事記」に房定が畠山義統と婚を通じ、越中をに侵攻しようとしているとの記事があるだけで、実際どのような婚姻関係が結ばれたかは不明とされているのではないでしょうか。大石家に関しては「木曽大石氏系図」には確かに、憲儀、顕重の母は上杉氏と記されていますが、早くから栗原仲道氏はそれについて「大石氏の研究の現状と課題」で疑義を呈しておられます。今日、その信憑性に疑問があるとして「木曽大石氏系図」は研究者によって史料批判が行われており、当時の史料集成を元に包括的追究が進められ、史料所見に基づいた系譜復元がされています。--Thomo(会話) 2014年8月27日 (水) 18:00 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。まず上杉定実の娘の件については疑問符マークを付けることには異議ございません。『山吉家譜』についてはおっしゃる通り、それをそのまま書いて妥当かと言われると疑問もありますが、そもそも女子(生母・正室等)に関しては系図によって全く記載がない場合が多いうえに男子と比較して検証が難しいため、他史料(及び世系・年代)と矛盾のないものについては疑問符を付けて使用し、矛盾が大きくなる場合については脚注表記としてもよろしいかと私は思います。やや蛇足気味になりますが、長尾房長の場合は最初に上田長尾の系統であるという通説があり、そのうえで為景兄弟説も出ているというケースと認識しています。上杉憲将の娘については、存在そのものが問題となっておりますので、やや異なったケースであるように思います。もし上杉憲将の娘として複数の系図で一女のみの記載があり、その嫁ぎ先について通説と異説がある場合は、長尾房長の例と同様になるかと考えます。また、上杉氏の系図は女子の記載が少なく、女子を嫁がせた先の家に婚姻の記録があるにも関わらず、上杉氏側の系図に記載がない(もしくは不確か)という事例が多く見られます。伊達尚宗の正室の件もそうですが、畠山氏や大石氏にもそういった事例が見られます。--馬屋橋(会話) 2014年8月23日 (土) 17:52 (UTC)