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ノート:専修学校/過去ログ1

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(無題)

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専修学校(せんしゅうがっこう、公式英称 specialized training college)とは、学校教育法の第八十二条の二に規定された一定の要件を満たす教育施設である。職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ることを目的として教育を行う。同条項によれば、小学校、大学など同法第一条に掲げるもの(一条校)は含まれない。—以上の署名の無いコメントは、MAXiノート履歴)さんが 2006年8月26日 (土) 04:13 (UTC) に投稿したものです(伏儀による付記)。[返信]

英語版の記事との対応についての質問

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専修学校の記事で英語版のen:Vocational schoolがリンクされているのですが、直訳すると「職業学校」とか「職業訓練校」というような感じがします。 一方、記事冒頭では「specialized training college」を専修学校としているのですが、専修学校の妥当な英訳は何なのでしょうか?(国により教育制度が異なるので、ぴったりの英語は無しでしょうか?)--Kenpei 2007年8月18日 (土) 06:55 (UTC)[返信]

specialized training college は、文部科学省が用いている英称です。ずばりいえば「国により教育制度が異なるので、ぴったりの英語は無し」が正しいかと思います。ただ、そうするとwikipediaの多言語性が犠牲になってしまいますので、もじ良い案があればぜひご提示いただければと思います。--YuBon 2007年8月18日 (土) 10:04 (UTC)[返信]
Vocational schoolは特定の国の「職業学校」を説明しているわけではないので、日本の制度を説明するには、三つの案が考えられます。
  1. Vocational schoolに日本の専修学校について説明する章を設けてそこで日本ではspecialized training collegeと呼んでいると記載する。
  2. 英語版ウィキペディアにSpecialised training college in Japanという項目を設けてそこで説明する。同時にリンクはこちらに変更する。
  3. 1と2を併せたもので、Vocational schoolに日本の専修学校に関する章を設けると共にSpecialised training college in Japanを設け、「Vocational school#Japan」で概略を説明しながら、「詳細はSpecialised training college in Japanを参照のこと」という一文を加える。--Bletilla 2007年8月18日 (土) 11:45 (UTC)[返信]

主観や独自研究が疑われる編集について

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Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:言葉を濁さないならびにWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんに基づけば、本記事は主観による内容や独自研究が疑われる内容が多く含まれているように思います。これらの記述に根拠があるのであればそれを提示するべきです。提示がない場合は、該当箇所は削除されるべきと考えますが、如何でしょうか。--Nichibi 2008年12月24日 (水) 15:40 (UTC)[返信]

特定の専修学校や大学の一事例が、まるで全ての専修学校や大学に当てはまるかのような記述は、問題があると思います。例えば全ての専修学校が情報公開に熱心かどうかはわからず、逆に、全ての大学が情報公開に熱心ではないとは言えません。また、全ての専修学校の学生が勉強に熱心で、全ての大学生が遊びほうけているとは言えません。知名度については、マスコミが大卒を採用するからマスコミが大学について報道する機会が多いという主張は、独自研究ではないかと思います(そうでないのであれば出典を示してください)。学費についても、専修学校や大学、予備校の学費はそれぞれ学校毎に異なっており、一概に、どちらがどうとは言えないでしょう。--Nichibi 2008年12月28日 (日) 02:45 (UTC)[返信]

該当部分の全削除が適当かと思います。--219.98.79.65 2008年12月29日 (月) 15:57 (UTC)[返信]
信頼できる何らかの出典があれば、現状の主旨の内容であってもよいと思います。しかし、出典がない場合は個人的意見(独自研究)と判断されるべきであり、独自研究に相当する内容は削除します。--Nichibi 2009年1月17日 (土) 12:47 (UTC)[返信]

本件に関する議論が「専門のほうが教育熱心」、「大学のレジャーランド化に歯止めがかからない」、「独自研究ではなく事実だ」にありますので、ご参照願います。本件に関する議論はここでやっていただくように誘導させていただきました。--Nichibi 2009年1月18日 (日) 09:43 (UTC)[返信]

「大原はわかるまで帰れない」は週刊ダイヤモンドなどで述べられている。すべての専門学校が教育熱心ではない。中にはいい加減な専門学校もある。一部の専門学校のおかげで大半の専門学校が迷惑している。--Wakayada 2009年1月18日 (日) 13:52 (UTC)[返信]

Nichibiは大学の回し者である。--Wakayada 2009年1月19日 (月) 23:14 (UTC)[返信]

Nichibiさんに一言言いたいのですが、大学に行ったことがある人間なら、授業中の「私語」「居眠り」「代返」「テスト以外欠席」など常態化しているのは常識でしょう。(主に文系) その事について出典を求める姿勢に、思わず笑ってしまいました。 まぁ、一応上げておきますけど、→(大阪大学教授 池田光穂「自分の授業中に私語を経験したことのない教員はいないだろう。」)(J-CASTニュース「私語は授業妨害」学部長が掲示 モンスター大学生が増えた!)(中央大学「授業中の私語について」)  私が行った大学では、試験前に有料で授業ノートが売り出されていました。大半の学生は、授業に行かないでそのノートを買い、一夜漬けで試験に臨んで、あっさり単位を取っていました。1200人の大教室に、出席生徒が5人の授業なんてザラでした。(他大学も似たようなものでしょう。) その事を否定する方が、「独自研究」なのでは? Nichibiさんは、大学に行ったことがあるのでしょうか? 私は、専門学校にも行ったことがあるので、授業に対する熱心さの違いは、Wakayadaさんの言う通りでしょう。
ただ、Wakayadaさんも大学のことをよく御存じないのでは?と思ってしまいました。 学生は大学に「学問だけ」を学びに来ていません。社会で、「文学」「経済学」「法学」「社会学」…など【だけ】を振り回しても、何の役にも立ちません。 さらに、専門以外の教養などさらに必要ないと言って良いでしょう。 大事なのは、社会に出てから必要とされる「コミニケーション力」や、人をまとめ率いる「組織力」だったりします。 そんな事を教えられる教授など、そう存在していません。(教授らは「学問」の専門家なのです。) なので、大学生は、【大学以外の活動】に熱心に取り組んでいるのです。 レジャーと化した大学を侮ってはいけません。 その点を見ないで、大学の授業に熱心に取り組んでいない大学生を否定することは決して出来ないのです。
一方、専修学校の教授陣は「実務の専門家」が多いため(社会経験も豊富)、生徒も授業に出ることとで、「コミニケーション力」「組織力」を養うことが出来るのです。(中にはそうでない場合もありますが…) 更に授業内容は、ほとんど実務の専門的なものばかりです。
しかし、この事は、大学の教授陣の「抽象的な学問」の否定には繋がりません。 「学問」は、そんなに容易いものではなく、大学の教授陣も「学会」で認められなければ、教授になって生活して行くこともままなりません。 「学問」が形骸化すれば、基礎学問が揺らぎ、その基盤に立っている「実務者」も大いに困ることになるのです。
Nichibiさんは、もっと「独自研究」でなく、客観的な論を展開して欲しいと思っています。 あなたの意見は、なんら大学の本質を言い当てていません。--山本山815 2009年1月21日 (水) 05:00 (UTC)[返信]

未だに大学の授業は私語が絶えないし、 単位取得や卒業を厳しくすると志願者が減る。大学生の授業以外の勉強時間はゼロが53%であり、教育に熱心になれない。本当に教育熱心なら学力試験をやめ、誰でも合格にする事から始まる。難易度競争をやっている限り、脱レジャーランドは無理だ。専門学校は入学希望者を全員入学させて教育ができる。専門学校にできて、大学にできないのは、大学が学力の無い人を不合格にして学歴社会に胡坐をかいているから大学は殿様商売である。(真面目に授業を受ける大学生も大勢いるでしょうし)と言うのも大嘘。大学生で真面目に勉学に励んでいるのはごく一部。大半の大学生は遊び惚け、サークルやコンパにうつつを抜かしている。それでも卒業でき、大手企業に就職できる。専門学校生は真面目に勉学に励んでも、大手企業に門前払いされる。高校生は専門学校で勉学に励むより、大学で遊び惚けるほうを選ぶ。そっちの方が楽だから。--Wakayada 2009年1月21日 (水) 10:10 (UTC)[返信]

そんな大学に私学助成をするなんて、血税の無駄であり、親御さんが投資する必要がない。--Wakayada 2009年1月21日 (水) 10:13 (UTC)[返信]

Wakayadaさんがそのように考えること自体は自由ですが、ウィキペディアに参加するからにはルールがあります。これ以上Wikipedia:基本方針とガイドラインを遵守せず持論を展開し続けるようであれば、ブロック依頼を提出することも考慮します。まずは基本方針を熟読してください。ここに警告しておきます。--221.242.5.218 2009年1月21日 (水) 12:37 (UTC)[返信]
Wakayadaさんは、「暴言・嫌がらせ」によりアイザールさんによって本日より1日間ブロックされています。--あるふぁるふぁ 2009年1月21日 (水) 12:56 (UTC)[返信]
えー、Wakayadaさんの暴言は良く分かりませんが、もし暴言だというなら反論する方は冷静に「出典」を示して反論すべきでは? 相手に「出典」を求めて自分は「出典」を示さないなんて、私にとってはどちらも同じ「暴言」にしか思われません。 建設的な議論を深め、Wakayadaさんの一方的な文体を心から改めてもらうためにも、「出典」を示して反論下さい。 あとWakayadaさんは、相手と「合意形成」をするために文体を考えて下さい。 今の文体では、正しいことを言っていたとしても、誰も賛同してくれることはないでしょう。 Wikipediaでは、議論ある事柄を、合意形成されないまま本文に載せることは不可能です。 少し冷静になることを望んでます。 私学助成金については、平成19年度で約4500億円計上されていますが、この額が適当かどうかは議論の余地があるのではないでしょうか?[1]  なにせ、変な事業団が絡んだりしていますので…。[2] --山本山815 2009年1月21日 (水) 14:34 (UTC) [返信]
暴言とされたのは、おそらくこちら。また、出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません
Wakayadaさんが本ノートでお示しいただいた出典は、「大原は…」という出典に過ぎません。また、ここでお示しいただいた「授業以外の勉強時間ゼロが53%」「大学の授業は私語が絶えない」という出典は、大学の学生が学習熱心でないことの出典として適切ですが、専修学校の学生と比較した出典はありませんし、そもそもその出典では学校が教育熱心でないことの出典にはなりえないと考えます。それを入れてしまうと発表済みの情報の個人的分析や解釈となるでしょう。
最後に私学助成金についてですが、私も税金の無駄遣いとは思いますが、ここで論じるテーマとは思いませんし、それを論じることが専修学校の記事の充実に寄与するようなものでもないでしょう。--あるふぁるふぁ 2009年1月21日 (水) 15:52 (UTC)[返信]
まぁ、出典になるとは言い難いですが、「私は公立のビジネス系専門学校出身です。(中略)人数が少ない分先生の目も行き届くという訳です。もちろん代返なんて論外です。」や、 「私はビジネス系の専門学校(東京ではありません)に2年間通った後、国立大学の3年次に編入したものです。(中略)大学に編入して、一番驚いたのは、授業中の学生の授業態度の悪さです。ここは小学校か?と思いたくなる人もいます。」 といった感想を述べる人もいます。 私の両方に通った経験からも(大学は有名私立大学、専門学校は映像系でしたが…)この感想の正しさは明らかです。 
こんな指摘をする大学の教員もいます。[●/university.html 「大学スタッフの全てが研究と教育に重きを置いているわけではないのです。(中略) 有名とはいえないような大学・特定の学部、短期大学では,入学希望や受験者が集まらない以上,大学経営は成り立ちませんから,学生集めを最優先することのにも十分に理由があることなのです。しかし,これは,教育も研究も双方を放棄する結果を生み出しました。人集めに狂奔する大学は,教育もいい加減なものだと思います。 」](鳥飼行博 東海大学助教授)
しかし、あるふぁるふぁさん達は気楽ですね。 議論の場で「出典」を示して、建設的な議論を進めることの何がいけないのでしょうか?--山本山815 2009年1月21日 (水) 19:54 (UTC) [返信]
出典のない書き込みをしたり信頼できない情報源を示すことが「建設的」とは思えませんが…。多くの大学生が勉強しないのは事実でしょう。しかし、ここでの議論の焦点は、それが事実であるのか否かではなく「Wikipediaに掲載するに足る信頼できる情報源にもとづいた検証可能出典を明記できるのか」ですので、Wikipedia:基本方針とガイドラインをお読みいただき、理解されてから議論に参加されることをお願いいたします。
掲示板やニュースグループ、Wikiで構築されたサイトへの投稿、あるいはブログ上の記述は、一次情報源としても二次情報源としても使用されてはなりません。
記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。
もしAが信頼できる媒体で発表されており、Bも信頼できる媒体で発表されているなら、AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます。しかしこれは、ジミー・ウェールズの言葉を借りれば「新たな叙述あるいは歴史解釈」を生む、 「ある観点を推進するような、発表済みの情報の新たな合成」の典型であり、独自研究に相当します。「AでありBである、ゆえにCである」という論証は、その記事の主題に関連する形で信頼できる情報源によって既に発表されている場合にのみ、掲載することができます。
よろしくお願いします。--あるふぁるふぁ 2009年1月22日 (木) 04:02 (UTC)[返信]

これを見ると、大学は脱レジャーランドに踏み切る意志がない。単位取得や卒業を厳しくすると志願者が減り、難易度が下がるからである。本当に勉学の意志がある高校生は専門学校を選ぶ。中にはいい加減な専門学校もあり、その専門学校のお陰で教育熱心な専門学校の足を引っ張っている。--210.158.28.31 2009年1月22日 (木) 09:17 (UTC)[返信]

あるふぁるふぁさんは、私の意図を御理解して下さらないようですね、残念です。 あなたが書かれたことはガイドラインに書かれているので、わざわざ長々と書く必要はありません。 「出典」を明記し、「建設的な議論」を深めて下さい。 もちろん独自研究ではいけませんが、Wikipediaの本来の目的は、「様々なトピックに関して豊かな知識を得る事のできる”百科事典”を作ること」(Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと)のはずです。 ここで、「具体的な議論」を深めることの意義をお認め下さい。 よろしくお願いいたします。--山本山815 2009年1月22日 (木) 13:01 (UTC) [返信]

あるふぁるふぁさん、暴言の件申し訳ありません。実際、大原は大学の授業が騒がしくて、大学を中退、卒業して大原の門をたたく学生がいる。中には訳のわからない専門学校もあるが、大原以外にも、東京IT会計専門学校や日本電子専門学校、中央工学校(中央工学校は東大卒も)など大学を中退もしくは卒業して入学する学生がいる。こうして見ると、大学より専門学校の方が教育力があるのは明らか。大手企業が大卒の条件を外せば、大学志願者はかなり減る。--Wakayada 2009年1月22日 (木) 14:45 (UTC)[返信]

Wakayadaさんのご意見には個人的には賛同いたします。かくいう私もレジャーランド化した大学で遊び惚けていた一人です。ただ、真面目に勉学に勤しんでいた学生も過半数ではありませんが一定数いました。また、私やWakayadaさんのご経験をWikipediaに掲載するには信頼できる情報源に基づいた検証可能な出典を明記する必要があります。それがなければ、たとえ事実であってもWikipediaに掲載されるべきではありません。現状ではWikipediaに掲載するに足る出典が示されていないと判断しています。
私にとっても、おそらくWakayadaさんにとっても、そのことをこの記事に掲載することは、直ちに判断しなければならない焦眉の課題ではないと感じています。大原だけでなく、また、学生が勉強熱心であるか否かではなく、「大学より専修学校の方が教育熱心である」と直接的に言及する出典がいつか見つかったなら、「…という指摘がある」という形で記述することに反対するものではありません。--あるふぁるふぁ 2009年1月22日 (木) 16:37 (UTC)[返信]
大学における学生の授業態度に対する感想は、個々の大学の学生レベル・分野・学生の個人的資質、教員の個人的資質という不確定要素が大きく、一概に言うことはできません。山本山815さんが知っている環境では、大学生は不真面目と感じられたのでしょう。しかし私の知っている環境では、学生は真面目に授業を受けていました。つまり、山本山815さんが常識だと思っている事も、私にとっては常識ではないのです。だからと言って、私は「大学生は真面目に授業を受けている。」とWikipediaで編集するつもりはありません。なぜならば、それは個人的意見であり、Wikipediaでは個人的な意見を記述してはいけないからです。個々が、自分の知っている範囲内で意見を持つのは自由ですが、それをWikipedia本文に書いてはいけません。山本山815さんは、(上で『その事について出典を求める姿勢に、思わず笑ってしまいました』と書かれていることから)常識である事には出典を求めるべきではないとお考えのようですが、Wikipediaでは、真実かどうかではなく、検証可能かどうかです。山本山815さんやWakayadaさんが常識だと思うことであっても、独自に検証したことは、それは検証可能性を満たしたことにはなりません常識だと思うことが事実だとしても、それが信頼できる媒体において既に発表されていなければなりません信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。なお、山本山815さんは、「あなたの意見は、なんら大学の本質を言い当てていません」とおっしゃいますが、私は山本山815さんと大学の本質について議論するつもりはありません。ここで議論すべきは、本記事が、Wikipediaの基本方針に従った記述になっているかどうか、です。山本山815さんが、「大学に比べて教育熱心である」を示す出典をお持ちなのであれば、それを明示して編集されればよいと思います。但し、これは専修学校が大学に比べて教育熱心であると明記された出典である必要があり、授業中に大学生が(専修学校生と比較することなく)私語が多いという出典では、出典にはなりません。なぜなら、出典に記された内容に忠実に記述する必要があるので、言及する対象が異なる事(編集では専修学校と大学が対象、出典は大学生が対象)、および、比較の記述になっていないこと(編集では大学と専修学校の比較、出典は大学生に対する言及のみ)により、これでは出典に忠実な記述にならないからです。--Nichibi 2009年1月22日 (木) 14:50 (UTC)[返信]
Nichibiさんへ、「新しい話題はページの一番下に追加する」(Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まり)とあるので、時系列化しました。ご了承下さい。
Nichibiさんも私の意図を御理解していないようで、残念でなりません。 このWikipediaの「ノート」は、英語版で「discussion」となっているように、「利用者が質問・議論などを行うため」のページです。 なんら、反論するため「出典」を明記することを否定などしていません。 「出典」を明記して反論されたほうが、「建設的議論」が出来るのでは?と書いているのです。 私が見た限り、反論するための「出典」は一切示されていません。 もう少し「中立的な観点」に近づけるための努力を払われてはいかがですか? その努力を怠り、ガイドライン【だけ】を振り回している姿勢について、残念に思われてなりません。--山本山815 2009年1月22日 (木) 16:15 (UTC)[返信]
それでは、以下に山本山815さんの言動・ご意見で私が理解しかねている点について、ご質問申し上げます。今後具体的な議論を深めるためにも、山本山815さん個人の経験や発表済みの情報の新たな合成ではなく、出典や方針・ガイドライン等を具体的に示してお答えいただけると幸いです。
  1. 上でWakayadaさんご本人からは謝罪をいただいておりますが、山本山815さんのご発言からは、管理者が「暴言・嫌がらせ」とした頭がおかしいという発言は問題ないと捕らえておられるようです。「頭がおかしい」は暴言ではないとする根拠を具体的にお示しください。
  2. 同じくこちらのご発言で、「相手に「出典」を求めて自分は「出典」を示さないなんて、私にとってはどちらも同じ「暴言」にしか思われません」と述べられています。Wikipedia:検証可能性に基づいて書き加えようとする側に出典を求める行為が、相手に頭がおかしいと言うことと同じだということが私には理解できません。私にも分かるようにご説明いただけると幸いです。
  3. こちらで山本山815さんにお示しいただいた「出典」ですが、信頼できる情報源によれば、こうした書き込みはWikipediaに掲載するに足る信頼できる情報源とは認められないように思います。こうした書き込みを元にWikipediaに加筆できるとお考えであればその根拠をお示しください。また、こうした書き込みを元にWikipediaに加筆できないとお考えであれば、なぜこの議論の場に根拠となりえない情報を提示したのかについてご説明ください。
  4. 同じくこちらの書き込みで「私の両方に通った経験からも(大学は有名私立大学、専門学校は映像系でしたが…)この感想の正しさは明らかです」と述べておられますが、「私の経験から正しいことは明らか」であることはWikipedia:検証可能性に照らしてWikipediaに加筆する根拠としてふさわしいかどうか、お考えをお聞かせください。また、ふさわしくないとするとなぜこの議論の場に根拠となりえない情報を提示したのかについてご説明ください。
  5. こちらのご発言では「反論するための「出典」は一切示されていません」と述べておられますが、私の主張は「記述されていることが事実と反する」ではなく「記述されていることは事実であろうが、検証可能な信頼できる情報源に基づく出典が示されない限り除去すべき」です。その主張の根拠・出典としてWikipediaの各種方針・ガイドライン等をお示しいているのですがそれでは不足ですか?
さしあたり以上です。ご回答をよろしくお願い申し上げます。--あるふぁるふぁ 2009年1月22日 (木) 16:37 (UTC)[返信]

Nichibiさんは、在学中は勉学に励んだかもしれないが、世間一般はそう捉えていない。私語や代返などが改めない以上、「ファカルティ・ディベロプメント」や「質の高い大学教育推進プログラム」などをやっても意味が無い。税金の浪費である。--Wakayada 2009年1月22日 (木) 16:52 (UTC)[返信]


あるふぁるふぁさん、ご苦労様です。 『「出典」を明記して反論されたほうが、「建設的議論」が出来るのでは?と書いているのです。 私が見た限り、反論するための「出典」は一切示されていません。 もう少し「中立的な観点」に近づけるための努力を払われてはいかがですか? その努力を怠り、ガイドライン【だけ】を振り回している姿勢について、残念に思われてなりません。』に尽きますね。 まずこの事にお答え願いますか? ガイドラインの話は、よく分かりましたから。
ところで、Nichibiさん、「しかし私の知っている環境では、学生は真面目に授業を受けていました。」って本当ですか? ぜひ事例を挙げてお願いします。 社会に出て必要とされるのは、「学問」ではなく、「実用的技術」と「コミュニケーション力」と「組織力」です。 もし「学問」【だけ】に真面目になっていたら、注意してあげた方が良いですよ。--山本山815 2009年1月22日 (木) 16:55 (UTC) [返信]
私は、Wakayadaさんが「専修学校は大学より教育熱心だ」と主張されることを認めているのです。なぜなら、個々がどのような意見を持っていても、自由だからです(但し、そのご意見は私の考えとは異なりますが、それはこの節の争点ではありません。つまり、主張の中身についてここで争うつもりは一切ありません。争うつもりがないので、当然ながら私の意見「真面目な大学生もたくさんいる事。教育熱心な大学もある事。」を裏付ける出典を提示する段階にはありません。なぜなら、この節は「主観や独自研究が疑われる編集について」というテーマで議論するために私が立ち上げたものだからです。もし大学の本質を議論されたいのでしたら、新たな別の節をお作りいただければと思います)。私がここでいいたいのは、主張の中身の是非についてではなく、そういう主張を出典を示さずに「本記事」に書いてはならない、という事、ただ一点だけです(つまり、真実かどうかではなく、検証可能かどうか)。この私の主張点については、Wikipediaの基本方針に明記されている事柄を根拠(出典)として明示しており、主張するための出典を示す努力を行っています。--Nichibi 2009年1月22日 (木) 16:57 (UTC)[返信]
ところで、こんな記事もあります。 『学生のニーズを探り、大学が資格取得支援に力を入れる傾向は、近年ますます強まり、「大学の専門学校化」とも言われる。』 『大学進学と迷ったという女子学生(20)は、実習などの手厚さを考え、同校(社会医学技術学院(東京都小金井市))を選んだ。高校の担任から「大学の方が広く学べる」と勧められたが、「何を勉強するのかはっきりしない」と揺らがなかった。山田千鶴子・理学療法学科長は「大学がこちらに似てくるほど、うちは生き残れる」と前向きだ。少人数での指導は、大学にはない強みだという。』(朝日新聞2009年1月5日「専門学校化する大学」) 
大学教育の現状に問題がなければ、わざわざ専門学校化する必要もないでしょう。 もしこの「大学の専門学校化」が「大学の教育熱心さ」の根拠(実は従来の大学教育の否定)だとすれば、私は苦笑する他ありませんが。
この項目は、「主観や独自研究が疑われる編集について」です。 「出典」を示して、その記述が「独自研究」かどうかを議論することは、ここでの「中立的な観点」に向かうプラスになれど、マイナスにはならないでしょう。 私の意図を理解されないようで、残念でなりません。--山本山815 2009年1月22日 (木) 17:58 (UTC) [返信]

Nichibiさんの「真面目な大学生もたくさんいる事」は嘘(総務省の調査が物語っている)(河合塾の採用試験で、「大学時代に一番頑張ったことは?」という質問に、100名中97名が「サークル」と回答、「勉強」はわずか1名「読売新聞2007年5月21日」)。真面目に勉学に励む学生はごく一部。大半の学生は授業中の私語、代返などは常識。--Wakayada 2009年1月23日 (金) 00:40 (UTC)[返信]

もう何度も書き込んでいますが、「専修学校は大学より教育熱心」について、個人的には同意します。しかし、たとえ事実であっても、Wikipediaに掲載するにふさわしい信頼できる情報源に基づいた検証可能な出典が示されない限りWikipediaには掲載できないのでは?と書いているのです。私が見た限り信頼できる情報源に基づいた検証可能な出典は一切示されていません。もう少し信頼できる情報源に基づいた検証可能な出典を示される努力を払われてはいかがですか?その努力を怠り、ガイドラインを逸脱した「信頼できない情報源」や「検証不能な経験」に基づいた主張を振り回している姿勢について、残念に思われてなりません。
「建設的議論」についてですが、Wikipediaに載せるにふさわしい出典が提示されない限り、本ノートでどのような議論が交わされどのような結論が出されたにしても本文に掲載することはできません。本ノートページは、そのような記事の充実に寄与しない議論を行う場ではありません。Wikipediaのガイドラインを逸脱した議論のための議論を求める姿勢について、残念に思われてなりません。
この項目は、「主観や独自研究が疑われる編集について」です。「主観や独自研究が疑われる」とは、つきつめれば「検証可能な出典が示されていない」ということです。もし山本山815さんが求める「反論するための出典」が「検証可能な出典がないことの出典」という悪魔の証明を求めるものだとすれば、私は苦笑する他ありませんが。--あるふぁるふぁ 2009年1月23日 (金) 14:18 (UTC)[返信]
いやいや、「悪魔の証明」とか難しい話ではありません。 一度調べてみてはいかがですか? --山本山815 2009年1月23日 (金) 18:04 (UTC) [返信]
それではどのような出典をお求めなのでしょうか?--あるふぁるふぁ 2009年1月24日 (土) 02:58 (UTC)[返信]
日本経済新聞では「教育を問う」という特集記事を以前掲載しています。
  • 『大学関係者から「大学1年生は小学13年生」というぼやきがあがる。(中略)企業が新卒者の採用を絞り込む現実からは、社会のニーズにこたえられず、学生をしっかりと教育できない大学の姿が浮かび上がってくる。本来の機能を忘れ、現状にしがみつくだけの大学には淘汰(とうた)への覚悟はない。』(日本経済新聞2000年10月27日
  • 『コンピューター関連の学科を中心に据えた日本電子専門学校(東京・新宿)。大学卒の入学者が急増している。99年度の70人に対し、2000年度は100人を超えた。 同校の寺脇保広報部長は「専門技術を身につけたいからと、就職活動をせずに入学してくる学生が約4割」と話す。 大学で漫然と学生生活を送り、「就職活動の時期に初めて自分の実力を知る。そこでやっと学習意欲がわくのではないか」(寺脇氏)。進路決定を先送りし続けた大学生が、また振り出しに戻ってくる。』(日本経済新聞2001年2月3日
  • 『宝は93年に関西文理と提携、専門学校「バイオカレッジ京都」を設立し、実験中心の授業を通じて即戦力を育てている。この間、ほかの大学にもバイオを冠する学部や学科が増えてきたが、「実践重視の教育に遠く、企業の思いはなかなか伝わらない」(加藤副社長)。』(日経新聞2001年5月24日
  • 『「学生に言わせれば、(大学の)講義は『先生が教壇でしている私語』となる」。南山大学の沢木勝茂副学長は1年前の学部学科の改組をこう振り返る。数十年ぶりに教育内容を見直す一環で、学生に意見を聞いたらそんな結果が出た。 多くの教授は狭い自分の専門領域だけを教える。研究者育成には適しても、幅広く学びたい学生の希望には合わない。』(日本経済新聞2001年6月25日
  • こんな指摘を日本経済新聞に受けながら、最近でも(J-CASTニュース2008年11月14日「私語は授業妨害」学部長が掲示 モンスター大学生が増えた!)と、改革が進展していない現状が現れています。
私も大学を卒業した者として情けない所ですが、残念ながら、専門学校の方が教育熱心と云うのは、私の主観だけでもないようです。 ぜひそうではないという「出典」を挙げて欲しいなと、大学卒業者としても思います。
  • 専門学校は出席なども厳しいようです。『(専門学校が開学した大学の)三浦さんの授業は、クラスの35人中10人が欠席。無断欠席者にはすぐに電話をかけた。欠席が続けば保護者にも連絡する。これも、各専門学校で続けてきたスタイルだ。』 (読売新聞2007年7月14日
私は調べてみてがっかりしたのですが、現状は私が大学を卒業した何年も前と、ほとんど変わっていないということです。 
是非、そうではないという「出典」を示して下されば、「建設的な議論」が出来ると思っています。--山本山815 2009年1月25日 (日) 01:25 (UTC)--箇条化山本山815 2009年2月5日 (木) 10:02 (UTC)[返信]
出典をお示しいただきありがとうございます。
私もNichibiさんも「専門学校より大学の方が教育熱心」という点に異議を申し立てているのではなく「出典が示されていない」と言っているだけですので([3][4]など)、出典が示されれば「議論」の余地はないと考えます。あるとすれば「検証可能な信頼できる情報源にあたるか」「これらの出典に基づいて記事本文にどう記述するか」くらいでしょうか。--あるふぁるふぁ 2009年1月25日 (日) 10:41 (UTC)[返信]

いやいや、Nichibiさんは、「全ての専修学校の学生が勉強に熱心で、全ての大学生が遊びほうけているとは言えません。」[5]と書いていますよ。 さらに「出典」については、この版で、(大原簿記学校はわかるまで帰れない「週刊ダイヤモンド2004年10月16日号」)(大学の授業は私語が耐えない「2007年05月21日読売新聞大阪版」)と挙げられています。 この事が「「大原は…」という出典に過ぎません」「そもそもその出典では学校が教育熱心でないことの出典にはなりえない」[6] と言ったのであれば、その「根拠」があったはずです。 その「根拠」を「出典」を挙げてお示し下さい。

しかし、「大学の授業に私語がたえない」のであれば、「大学が教育熱心」とはいえないし、専修学校が授業に厳しければ、「大学に比べて教育熱心である」と言っても差支えないでしょう。 「大原」の例が不十分であれば、「他の事例をお願いします」と書くか、「大原」の例が一般的かそうでないかを少し調べてみれば良いだけです。 それを、「しかし、出典がない場合は個人的意見(独自研究)と判断されるべきであり、独自研究に相当する内容は削除します。」[7]と【相手だけに】迫るのは、やはり労力を惜しんでいると思われても仕方がないでしょう。

もし、私が挙げた「出典」を認めるのであれば、簡単に「独自研究」と決め付けたあなた方の「根拠」は、「単なる思い込みの常識」だったのではないでしょうか? なぜ、そうでないのであれば、未だに1つの「出典」も示されないのでしょうか? Wikipediaの目的は、「様々なトピックに関して豊かな知識を得る事のできる”百科事典”を作ること」Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと)です。 あなた方は、「豊かな知識を得る事のできる」ための努力を怠ってはいないでしょうか? 私はその態度に怒りすら覚えます。

「新しい記事」を書くにせよ、「中立的な出典」を調べるにせよ、それなりの労力と時間が掛かります。 それを、もしかしたら根拠があるかもしれない「記述」や「出典」を、よく調べもせずに、「独自研究だ」「不十分だ」「削除する」と【だけ】迫ることが、「豊かな知識」に本当に繋がるのでしょうか? 私はそうは思えません。 その証拠に、Nichibiさんや、あるふぁるふぁさんから、「専修学校」について新しい「情報」や「知識」を何一つ得ることは出来ませんでした。 あなた方は、はなから「専修学校」について興味がなかったのではないでしょうか? なぜ、記述が「中立的か」を「調べる労力」を惜しむのですか?

「出典が示されれば「議論」の余地はないと考えます。」なんてよく言えたものです。 一体何様のおつもりなのでしょうか?--山本山815 2009年1月25日 (日) 17:55 (UTC)[返信]

山本山815さんは、「もしかしたら根拠があるかもしれない記述」については、「根拠がないことを示す出典を明示しない限り除去してはならない」とお考えなのでしょうか?私は「もしかしたら根拠があるかもしれない記述」を「現状では独自研究」と指摘して書き加えようとする方にだけ出典の明示を迫ることは、信頼されるフリーな百科事典を目指すWikipediaにとって、信頼性を確保するために必要なことだと考えています。不確かな情報が豊かに掲載されていることが、Wikipediaの目的である「信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」(Wikipedia:基本方針とガイドライン)につながるとは思えません。
それから、出典に基づいて記述する場合には、出典の中身に忠実である必要があると考えます。例えば「大学の授業に私語がたえない」との出典からは「大学の授業に私語がたえない」としか書けません。「大学が教育熱心でないから私語がたえない」のか「学生に学ぶ意欲がないから私語がたえない」のか、あるいはWakayadaさんがおっしゃるようにそれ以前の入試制度に原因があるのかは、その出典からは分かりません。山本山815さんには「大学の授業に私語がたえない=教える側の問題」が自明であっても、私には「大学の授業に私語がたえない=学ぶ側の問題」に見えますし、Wakayadaさんは「大学の授業に私語がたえない=制度の問題」と見ておられるようです。
「全ての大学生が遊びほうけているとは言えない」については、出典を明記するのは容易ですが、その必要を認めません。「全ての大学生が遊びほうけている」とする出典も明示されておらず、どちらの出典もないのでWikipediaには掲載できない以外の結論が考えられないからです。--あるふぁるふぁ 2009年1月26日 (月) 03:59 (UTC)マークアップ修正・一部追記--あるふぁるふぁ 2009年1月26日 (月) 16:17 (UTC)[返信]

山本山815さんは「「出典」を明記して反論されたほうが、「建設的議論」が出来るのでは?」とおっしゃいますが、私は、このノートで自分の主観的な意見は書きますが、それに関して対立する意見の持ち主の方と議論するつもりはありません。私と異なる意見があることも容認しています。しかし、ノートではなく本文の方には、独自研究の排除、および検証可能性の必要性が要求される、ということを主張しているのです。出典があるのであれば、それをそのまま本文に書くのは問題ない、しかし、その出典の内容に対して独自の解釈を加えるのは独自研究であるというのが私の主張であり、私の論点です。内容の真偽を争点としていないのです。内容の真偽に係わる議論には最初から参加するつもりがありません。自分の意見は書きましたが、相手の意見をこれで覆そうとか、出典を示して説得しようとか、思ってません。それから、ノートにおいては、各自が意見を言うのは自由ですし、出典も要求されませんし、独自研究も書いてよいわけです。ただし、ウィキペディアの公式方針には「ノートページで個人的な理論について議論することは、あまり歓迎されないでしょう」と書かれています。--Nichibi 2009年1月27日 (火) 15:07 (UTC)[返信]

山本山815 さん(1月22日 (木) 16:55)から、学生が授業を真面目に受けていることに対する事例のお尋ねがありました。私の履歴をここで披露するつもりはありませんので、一般論として申し上げれば、例えば、現在の大学院進学率は高く、東京理科大では46.1%群大工学部では50~60%台社会科学系でもこの5年で12.9%から15.1%と上昇しています。大学院に内部進学する場合は、学部時代の学内成績が重視されるので、真面目に勉強しないと大学院推薦基準をクリアできない、大学院入試に合格できない、ということになりますから、必然的に、院進学を考えている学生は、学部時代にも真面目に勉強するでしょう。これが、真面目に勉強する大学生の一つの事例です。--Nichibi 2009年1月27日 (火) 15:07 (UTC)[返信]

山本山815 さんは1月22日 (木) 17:58 の書き込みなどで出典を出されているので、その内容を(独自な解釈を加えることなく)そのまま本文に書かれればよいと思いますよ。独自な解釈を加えた時点で、それは独自研究になります。「その記述が「独自研究」かどうかを議論することは、ここでの「中立的な観点」に向かうプラスになれど、マイナスにはならないでしょう。」と書かれていますが、その「出典」をそのまま本文に書かれるのであれば、議論の必要はありません。そのままお書き下さい。しかし発表済みの情報に対して、個人的分析や解釈、自分の支持する観点を推し進めることは排除することがウィキペディアの公式な方針なのです。あるふぁるふぁさんは1月25日 (日) 10:41にて、『私もNichibiさんも「専門学校より大学の方が教育熱心」という点に異議を申し立てているのではなく「出典が示されていない」と言っているだけです』と書かれていますが、まさにその通りです。山本山815 さんは1月25日 (日) 17:55 において『いやいや、Nichibiさんは、「全ての専修学校の学生が勉強に熱心で、全ての大学生が遊びほうけているとは言えません。」[5]と書いていますよ。』と書かれていますが、それは私がノートで書いた意見です。一部の専門学校生が真面目であることを否定していないし、全ての大学生が真面目であるとも主張していません。「全専修学校生が熱心、かつ、全大学生が遊びまくり」を否定しているだけです。ただ、繰り返しますが、私はこの点を議論するつもりはありません(つまり反対意見も認めています)。論点としているのは、あくまでも独自研究の排除、および検証可能性の確立、です。その他、基本的に、山本山815 さんの書き込みに対する私の意見は、あるふぁるふぁさんの書き込みと同じです。『出典が示されれば「議論」の余地はない』の一言につきます。まさに、ウィキペディアの公式方針「「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」」ということです。--Nichibi 2009年1月27日 (火) 15:07 (UTC)[返信]

Nichibiさんへ、ようやく「出典」を示して下さいましたね。(もちろん、Nichibiさんの示された「出典」では、「例えば、現在の大学院進学率は高く」とは「一般論」として言えず、「出典」を示された大学にしか当てはまらず、それは「真面目に勉強する大学生の一つの事例」でしか現時点ではありませんが…。 ちなみに、私の母校で大学院に進学した人は(社会学/その後博士号取得)、学部の成績が悪くとも(不真面目にしか取り組んでいなくとも)、院の試験(語学/論文)をクリアすればきちんと大学院に進学していました。「大学院に内部進学する場合は、学部時代の学内成績が重視されるので、真面目に勉強しないと大学院推薦基準をクリアできない」とは一般化できません。) 私の主張は、『「出典」を明記して反論されたほうが、「建設的議論」が出来るのでは?』に尽きています。
ガイドラインについては、散々読む機会があったので、分かっていますよ。 ただ、あなた方は、ガイドラインの一部を持ち出して、それが全てであるかようにいつも主張を繰り返していないでしょうか? 上にも書いたように、「様々なトピックに関して豊かな知識を得る事のできる”百科事典”を作ること」(Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと)が、Wikipediaの目的でもあります。 「独自研究だ」「不十分だ」「削除する」とだけ迫ることが、「豊かな知識」に繋がるとは思えません。 (もちろん、私は「独自研究」を排除するために、様々な「出典」に当たる努力をしました。)
Wikipediaでは、「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。」(Wikipedia:検証可能性)とありますが、「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者だけにあります。」とは、どこにも書いていません。 別に「信頼できる情報源を欠く編集」を除去しようとする方が、「出典」を示したとしても、なんらガイドラインに反しません。 さらに、「除去」ではなく、新たな「編集」をするのであれば、その者には「出典を示す責任」が生じます。
Wikipediaでは、「議論による合意」を求めています。(「ウィキペディアは民主主義ではありません。合意は議論によって決まります。多数決で決まるわけではありません。」Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか)) もちろんこのノートでは、私も議論の当事者の一人です。 私は出来る限り、あなた方の求める(というかWikipediaが求める)「出典」を提示出来るように努力し、「独自研究」を排し、「中立的」な記述を目指して、「合意」を形成したいと思っていました。(まだ、不十分ですか?) しかし残念ながら、あなた方から「合意へ向けた努力」を感じ取ることは最後の方まで出来ませんでした。 「合意への努力を怠っていませんか?」私の感じたことが、伝わっているでしょうか?--山本山815 2009年1月27日 (火) 18:58 (UTC)[返信]
コメント依頼を見てきました。「大学に比べて教育熱心である」という記述を残すかどうかということですが、残さないのが適切かと考えます。
現在示されている出典は「一部の大学では私語が絶えない講義がある」「大原では授業内容が分かるまで徹底した授業を行っている」という二つです。これらの出典に基づいて検証可能性を満たす文章を記述するならば「一部の大学には不真面目な生徒がおり、大原の講師は学習内容習得の徹底を行っている」とするのが適切と考えます。しかしこの文章では、一部の大学の生徒の態度と特定の専門学校の先生の教育姿勢を比べるという意味のない比較になってしまいます。
よって記述除去に賛成します。--HANSON 2009年1月27日 (火) 22:12 (UTC)[返信]

山本山815さん(2009年1月27日 (火) 18:58 )に対し、コメントします。『「出典」を明記して反論されたほうが、「建設的議論」が出来るのでは?』を繰り返されていますが、私は、このノートにおいて、大学と専修学校のどっちがどうだという比較の議論をするつもりは最初からありません(比較するに必要な知識を持ち合わせていないし、それを文献調査する程の熱意も持ち合わせていません。そもそも調査に尽力する義務はありませんし、労力を惜しんでいると言われても構いません。)。しかし、本記事を知識豊かなものに仕上げようという意志のある方が、主観的な意見ではない(独自研究ではない)編集をすることを拒むつもりもありません。その際、「独自研究」を排除する、これは当然のことです。ノートにおける合意という件については、そもそも、「大学に比べて教育熱心である」という信頼ある出典があるのであれば、議論することなく本記事に編集されればよいのです(合意は不要)。出典がないのであれば、本記事には書くことはできません。現在、ノートにおいて提示されている出典に対する私の意見は、HANSONさんと同じです。つまり「一部の大学には不真面目な学生がおり、一部の専門学校は教育に熱心である」という編集であれば、独自研究にはならないと思います。大学院進学要件については、「大学院に内部進学する場合は、学部時代の学内成績が重視されるので、真面目に勉強しないと大学院推薦基準をクリアできない」を一般化できないとおっしゃいますが、私にはこれを一般化するつもりは毛頭ありません。山本山815さんの「ぜひ事例を挙げてお願いします」とのご依頼に応じて、事例を挙げたまでのことです。山本山815さんのご意見で間違っていると思うのは、『大学の授業に私語がたえない」のであれば、「大学が教育熱心」とはいえないし、専修学校が授業に厳しければ、「大学に比べて教育熱心である」と言っても差支えないでしょう。』の部分です。前半については、「一部の大学は教育熱心とは言えない」であるべきで(全ての大学で私語が絶えないという出典ではないから)、後半については、一部の専修学校の授業が厳しいという出典であれば、「一部の専修学校の授業は厳しい」とは言えますが、大学と比較をしていないのに「大学に比べて教育熱心である」とは言えません。私語が絶えないのは一部の大学の学生の授業態度であり、授業が厳しいのは一部の専門学校の教員の姿勢です。大学と専門学校の「教育熱心」さを比較していることになりません。--Nichibi 2009年2月1日 (日) 15:19 (UTC)[返信]

比較が相当に困難であるものを比較しようとしているのでは?

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私なりの意見を述べます。そもそも比較が相当に困難であるものを比較しようとしているのではないかということです。まず、皆様には、法令や公式な統計などの一次資料にあたっていただきたいと思います。 なお、私が「比較が相当に困難である」と考えているうちの主な点について、法令等の観点からご議論いただけないでしょうか?

  • 校種の目的が違う(通常の12年の課程を修了した後に進学・編入できる施設)ものをどう扱うのか?
    大学(短期大学を除く)
    学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させること(学校教育法第83条)
    大学(短期大学
    深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成すること(学校教育法第108条)
    高等専門学校
    深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成すること(学校教育法第105条)
    専修学校
    職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ること(第124条)
    各種学校
    (法定上の目的なし)
    職業訓練施設
    (法令上、具体的な明文規定はないものの、解釈上、少なくとも「職業訓練」を行うことは目的としていると考えられる)
  • 専門課程の修業年限・行政認定の違い
    専門課程の修業年限は1年以上とされ、多くは1年制から5年制ほどが主流であると考えられます。そのうち、2年以上の修業年限で文部科学大臣の認定を受けた課程のみが「専門士」「大学3年次編入学資格」、4年以上の修業年限で部科学大臣の認定を受けた課程のみが「高度専門士」「大学院入学資格」が生じるわけであり、専修学校の専門課程は、まさに多様化しつつあり、あたかも一律の基準であるようには、説明できないのではないか?
  • 複数の施設に籍を有する多重籍者をどう扱うのか?
    ダブルスクールをはじめ、専修学校の専門課程と大学に同時に在籍する例も増えています。彼ら・彼女らは、専修学校の生徒であると同時に大学の学生であります。また、複数の大学などに同時に在籍することも法令上・行政実例上も高等教育段階ではまったく禁止されてなく、具体的には各施設の定めるところによっております。このような学生の評価をどうするのか。
  • 教員の資格の違い
    当然ながら、各校種ごとに法令上の教員の要件が異なっています。その上、教員の職務内容も異なっています。

また、「専門学校」の語ですが、専門課程を置く専修学校は(高等課程や一般課程を包括して)専門学校と称することができるわけですから、専門学校という名称の施設の生徒には、高等課程の生徒、一般課程の生徒も含まれます。なので「専門学校」(ついでにいうと「高等専修学校」)という語は、曖昧であるため、記事での使用は極力控えるべきだと考えますが、いかがでしょうか? とにかく、まずは一次資料を最優先に取り扱っていただけないでしょうか? --YuBon 2009年1月28日 (水) 03:29 (UTC)[返信]
--YuBon 2009年1月28日 (水) 03:36 (UTC)(追記)[返信]

世間一般の大多数の人々は、『高校を出てから入学する、職業実務教育を施す2年制の学校は、”専門学校”という』と思っております。なので、専修学校専門課程(専門学校と称する)専修学校高等課程(高等専修学校と称する)という表現にしておくしかないのでは?--218.221.97.21 2009年1月29日 (木) 13:46 (UTC)[返信]
218.221.97.21さんへ、出来ればアカウントを取得して編集して下されば幸いです。(あと、編集はなるだけ一括してお願いします。「Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らす」「Help:ページの編集」) 「独自研究」かの議論は、まだ収束したとは言えません。 ノートでの議論を踏まえて下さることを願っております。--山本山815 2009年1月29日 (木) 21:39 (UTC)[返信]

専修学校の正規の在籍者は、高等課程、専門課程、一般課程を問わず生徒です
編集合戦としたくありませんので、「生徒」から「学生」へ変更をした方は、専修学校設置基準第10条第3項 [8] などを参照の上、修正願います。--YuBon 2009年2月1日 (日) 00:56 (UTC)[返信]

『2つ以上の1条校の正規の在籍者学生生徒など、科目等履修生は除く)になることを独自に禁止している大学短期大学および大学院を含む)や高等専門学校が多いため、』...というのが、貴方の記述です。これでは、一条校たる高等教育機関の正規在籍者には、学生と呼ばれる者と生徒と呼ばれる者の両方が存在する...としか読めません。しかし事実は、一条校たる高等教育機関である高専(高等専門学校の略称。高等専修学校は法的にも高専と称してはならない)の正規在籍者は生徒ではなく『学生』ですし、1条校ではない専修学校(専門学校および高等専修学校)の正規在籍者は『生徒』です。(ちなみに、狭義には、一条校ではない専修学校専門課程(いわゆる専門学校)は、高等教育機関ともみなされていません。)--219.98.74.106 2009年2月1日 (日) 11:18 (UTC)[返信]
記述を変更します。--YuBon 2009年2月1日 (日) 18:54 (UTC)[返信]
ところで、一条校化への動きの下の、『なお、1条校になった場合、新たな問題が生じることも懸念されている。』以下の記述は、全て『専修学校が一条校に格上げされたら』という仮定に基づいた推定事項なのではないでしょうか?。これは百科事典として適切な記述なのでしょうか?出典の明示、または全削除が適当なのではないでしょうか?--219.98.74.106 2009年2月1日 (日) 11:52 (UTC)[返信]
出典については、御指摘があれば提示します。(例えば、保健室の規定は、学校教育法や学校保健法にあり、1条校であれば、必ず設けなければなりません。〔ただし、同一校舎内の共用などは可。〕)--YuBon 2009年2月1日 (日) 18:54 (UTC)[返信]
219.98.74.106さんへ、218.221.206.156さん/218.221.97.21さんと同一人物の方でしょうか? もしそうであれば、アカウントを取得して編集して頂けないでしょうか? あまりに高圧的に編集なされると、現在保護依頼が出ていますので、「全保護」もしくは、「半保護」の可能性があります。 性急な編集は控えるようにお願いします。--山本山815 2009年2月1日 (日) 13:13 (UTC)[返信]
YuBonさんの「そもそも比較が相当に困難であるものを比較しようとしているのではないか」に同意です。「専門学校が大学に比べて教育熱心である」を一般化して比較するためには、教育熱心さを表す何らかの指標を用いて、定量的な比較の検証(さらに統計学的な仮説検定)が必要です。そうでなければ、単なる主観的な一意見に過ぎません。しかし、教育熱心さを表す指標を探すのはおそらく相当に困難でしょう。「教育熱心」という言葉自体に曖昧さがありますから。それこそ、教育工学を専門とする大学教員がこれを研究して論文誌に発表済みであれば、それを出典にできるとは思います。「教員の資格の違い」の観点では、大学教員は教育だけでなく研究をしなければなりません。よって、学会発表のために休講が発生するのは「教育が熱心ではない」事には当たらないでしょう。代わりの補講を実施しなければ、教育に不熱心と言えるかもしれませんが。--Nichibi 2009年2月1日 (日) 15:19 (UTC)[返信]

節の順序が体系的になるように変更しました。御意見があればお願いします。--YuBon 2009年2月1日 (日) 20:54 (UTC)[返信]

大学との比較について(大学より教育熱心か?など)

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さぼっていて申し訳ありません。Nichibiさん達に言いたいことは、「出典」を持ち寄ったほうが、「中立」「検証可能」「充実」した記述により近づく、特定の人に編集の負担を押し付けない、と云うことです。 まぁ、繰り返しになるのでやめておきます。
  • 大学より教育熱心か?
    • 大学がレジャーランドになるのは当然のことである。大学がレジャーランドになっている主な理由は,教員が怠けているからというより,能力・意欲のない学生を大学卒業という資格を餌に受け入れているところにあると思う。専門学校がレジャーランドにならないのは,専門学校生は大学卒業という資格が得られないために,意欲を持って入ってくるからである。中間まとめでは,大学がレジャーランドになった2つの理由,一つは教員が怠けていたということ,もう一つは能力・意欲のない学生を受け入れていたこと,を併記しておくべきである。」(第98回大学審議会 1998年
    • 「調査結果をみると,(大学の)社会科学系については1単位当たり45時間の標準の学習時間の半分ほどしか学習していない。」  「この調査結果から分かることは,『授業の出席時間』に対して,『自宅での学習時間』が少ないという実態を示したものだと思う。しかし,もっと問題なのは,履修登録している授業への出席時間が少ないのにもかかわらず,単位を修得しているという現状である。」  「大学では教員は単位を薄くしがちでそのほうが勉強させているつもりになる。ここに問題があるとすれば,むしろ学生が怠けているといった問題ではないと思う。」  「学生が勉強しないことが問題ではなく,むしろ大学が単位制度を理解しないでカリキュラムを編成していることが問題であると思う。そのことが学生が勉強しなくてもいいような状況を作っているということを記述したほうがよいのではないか。」  「産業界が大学に対して一番関心を示すのは,大学が卒業生の質を保証できるのかということである。現在の大学の授業をみると,私語が多く,授業途中の入退室も頻繁である。このような授業では,出席する時間が多かろうが,少なかろうが意味がないと思う。」(第99回大学審議会 1998年
    • 現在,4年制大学の卒業者が,高卒が中心に入っている専修学校に行くという現象がごく自然に起こっている。これは教育内容が特別であり,職業資格を取ったり,ある職業に就くのが有利といったことからである。」(第113回大学審議会 1999年
    • 現行の大学設置基準では,卒業要件が124単位以上となっているが,個々の教員の単位認定の方法には問題がある。単位認定のために,通常,学期末試験を行うが,到底合格水準に達しないような答案でも単位を認定せざるを得ない。それはなぜか。単位を認定しなければ,次学期も単位取得のために学生が当該科目を履修するため,教室がますます混雑する。このような学生の中には,学習意欲の乏しい学生もおり,私語等により,授業に集中できない環境になる。学生の中には,強い学習意欲を持って入学してくる者もいるが,このような状況を見て,次第に学習意欲が薄れていく。 このような現状を説明すると,なぜ普段から学生の学習成果をチェックしないのか,出席をとらないのかという疑問が生じる。教員の中には,毎回出席をとる者もいる。しかし,そうすると,学生は出席のためだけに教室に顔を出し,私語が横行するという状況になる。」(文部科学省 第22回制度部会 2006年
    • 留学生たちが日本の専門学校を見ると、教育の内容が高等教育レベルの最先端で実践的な内容であるということで非常に評価が高い。特に産業と直接結びついて教育内容が組まれていたり、新しい装置、設備、指導方法があり、自国に帰って、ぜひそうした形の教育機関を整備させたいと共通に思うようだ。その意味では、専修学校制度は非常に成功した制度ではないか。」(文部科学省「第1回専修学校の振興に関する検討委員会」2007年
    • 大学が専門学校と同じような資格対策などの職業教育をするような状況になっているのは、専門学校制度のよさが世の中に評価されているからである。それゆえに専門学校は約70万人の生徒が進学する学校となっている。」 (文部科学省「第2回専修学校の振興に関する検討委員会」2007年
    • 「専門学校を卒業した者のうち就職した者の割合は、約80パーセントであり、そのうち履修内容と関係した分野に就職した者の割合は、約74パーセントとなっている。これは、専門学校が産業界との接続や地域社会からの要請を踏まえ、体系的かつ実践的な教育訓練を行っていることを反映しているものと考えられる。」「 専門学校卒業生の企業における活用状況や専門学校卒業生に対する評価等に関する調査がある。 本調査によれば、新卒者の人材の水準に対する評価としては、10年前と比べて、「質が高くなった・やや高くなった・変わらない」と答えた割合が約55.8パーセントとなっており、専門学校は過去と同等以上の教育水準を保持していると評価されていることが窺える。」(文部科学省「1.専修学校の現状等」2008年


専門家の集まりである、文科省の審議会で、10年前に「大学がレジャーランド」になっており、「専門学校がレジャーランドにならない」と指摘されています。 さらに、2006年でも、「(大学の)私語の横行」が指摘され、大学教育の改善がなされていないことが指摘されています。
方や、「専門学校の国際評価」と、「専門学校の教育水準の保持」が2007/2008年に指摘され、「大学の専門学校化」が指摘されています。
「専門学校の方が教育熱心である」とこれでも言えないのでしょうか? 反論があれば、「出典」を明記してからお願いします。--山本山815 2009年2月4日 (水) 11:33 (UTC)[返信]
ご苦労さまです。ご理解いただけていないようで残念ですが、求めている出典は「大学と専門学校を比較して専門学校の方が大学より教育熱心である」と直接言及している出典です。複数の出典を独自につなげて「ゆえに専門学校の方が大学より教育熱心である」という山本山815さんの分析を聞きたいわけではありません。
山本山815さんがお示しになった中身は「(専門学校との比較ではなく)大学の現状について述べたもの」(第99回大学審議会 1998年、文部科学省 第22回制度部会 2006年)、「(大学との比較ではなく)専門学校の現状について述べたもの」(文部科学省「第1回専修学校の振興に関する検討委員会」2007年、文部科学省「1.専修学校の現状等」2008年)、「(審議会の中間まとめで取り上げられたものではなく)一学者が自らの意見を述べたもの」(第98回大学審議会 1998年)、「(設置目的が専門の学芸を教授研究することである大学と職業若しくは実際生活に必要な能力を育成することである専門学校という)比較が相当に困難であるものを(職業能力という点のみから)比較しているもの」(第113回大学審議会 1999年、文部科学省「第2回専修学校の振興に関する検討委員会」2007年)に集約されるかと考えます。それらをどのように組み合わせようとも独自研究に変わりはありません。
少なくとも審議会の中間まとめにも反映されなかった一委員の発言を、あたかも審議会の結論であったかのように本ノートで示すことはミスリードでしょう。お示しいただいた出典に忠実に記述するとすれば「専門学校は(大学と目的が違うので)○○である」「大学と比べて○○という意見の学者もいる(が答申には盛り込まれなかった)」が妥当でしょう。
(以下、蛇足)
「反論があれば、『出典』を明記してからお願いします」と述べられていますが、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」。「除去を求める側も出典を示すことを禁じられてはいない」というだけでは、除去を求める側にその出典を示すことを強いることはできませんし、除去を求める側が出典がないことの出典を示さないことをもって記述の存続につながるわけでもありません。そして、求めているのは議論ではなく出典ですので、山本山815さんが適切な出典をお示しくださればそれで終わりです。
また、この項は、現在リダイレクトになっている大学のレジャーランド化でも、リダイレクト先の大学崩壊でもなく、「専修学校」です。「大学がレジャーランド化しているか」を論じたいのであれば場所が違います。同様に、「出典を示す義務を負うのは書き加えようとする側だけか否か」を論じたいのであればWikipedia:検証可能性のノートがありますし、私に対して山本山815さんが「どちらも同じ『暴言』にしか思われません」「私はその態度に怒りすら覚えます」ということであればコメント依頼やブロック依頼の場が相応しいでしょう。本ノートでは「専修学校」について質も量も最大の信頼される記述とするための焦点に絞っていただきたいと思います。
「ガイドラインについては、散々読む機会があったので、分かっています」と山本山815さんは以前に仰いましたが、公式の方針で「ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げることです」とされていることを述べても、「公式な方針」でも「考慮すべきガイドライン」でも「考慮すべきガイドラインの草案」でもない「ウィキペディアの新規参加者のための文書」に過ぎないWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことを繰り返し持ち出されるのを見ると、とても「分かっている」とは思えません。さらに、山本山815さんがお好きなWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことで述べられていることも、「私たちの目的は単語の意味や定義を説明する”辞書(字引)”を作ることではなく、様々なトピックに関して豊かな知識を得る事のできる”百科事典”を作ることです」という文脈を考えれば、「様々なトピックに関して豊かな知識を得る事のできる」という文節は、「(Wikipediaが目指すのは)どんな百科事典か」ではなく「百科事典とはどういうものか」を述べていると解するべきでしょう。Wikipedia:基本方針とガイドラインを再度熟読されることをお薦めいたします。--あるふぁるふぁ 2009年2月4日 (水) 16:07 (UTC)一部取り消し。--あるふぁるふぁ 2009年2月5日 (木) 16:37 (UTC)[返信]
あらら、あるふぁるふぁさんお久しぶりです。 「出典をお示しいただきありがとうございます。 私もNichibiさんも『専門学校より大学の方が教育熱心』という点に異議を申し立てているのではなく『出典が示されていない』と言っているだけですので、出典が示されれば『議論』の余地はないと考えます。」と書いてましたが、「『議論』の余地」が出てきましたか? ところで、あるふぁるふぁさんが挙げられたガイドラインは全て読んでいたのですが、私はどこの個所が理解できていなかったでしょうか? 教えて頂ければ幸いです。 あと、議論に入る前に、あるふぁるふあさんが「出典」を調べて書いた記事を少し教えて下さらないでしょうか? 私自身も、偏見を持ったまま議論に入りたくありませんので…[9]。 よろしくお願いいたします。--山本山815 2009年2月4日 (水) 17:17 (UTC)[返信]
あ、それで、「少なくとも審議会の中間まとめにも反映されなかった一委員の発言を、あたかも審議会の結論であったかのように本ノートで示すことはミスリード」と書かれてますが、「結論」とどこに書いているでしょうか? 教えて頂ければ幸いです。--山本山815 2009年2月4日 (水) 18:11 (UTC)[返信]
それでは順番に…
「議論の必要性」についてですが、「大学より教育熱心か」について反論するつもりはありません(「大学生全員が勉強熱心でない」には反論することがあるかもしれませんが)。私は一貫して出典をお示しくださいとお願いしています。お示しいただいた出典の適格性について指摘させていただいております。適切な出典が示されれば議論の余地はないと考えます。
ガイドライン理解については、プロジェクト文書のうち何が公式な「方針」で、何が考慮すべき「ガイドライン」であるかをご理解いただいていないように感じています。「ガイドラインは全て読んでいた」とのことですが、そうだとすると、Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことが方針でもガイドラインでもないことに気付かれませんでしたか?
「出典を調べて書いた記事」については、少ないですが新規立項 はこちらからのほかこちらも、書きかけですがこちらも参考まで、出典を加筆したものはこれこれ、議論の過程で出典を出したものはこちらこちらこちらをご覧ください。出典が不足している箇所がありましたらそれぞれの記事か私の会話ページでご指摘ください。
「結論」については山本山815さんご自身は仰っておりませんし、私も山本山815さんが仰っているとは述べておりません。「審議会の結論であったかのように」と述べております。「専門家の集まりである、文科省の審議会で、(中略)と指摘されています」の文章に主語が欠けており、「専門家」が指摘したのか「審議会」が指摘したのか明瞭でない書き方に対しての指摘です。--あるふぁるふぁ 2009年2月5日 (木) 04:49 (UTC)微修正。--あるふぁるふぁ 2009年2月5日 (木) 06:10 (UTC)、一部取り消し。--あるふぁるふぁ 2009年2月5日 (木) 16:37 (UTC)[返信]
えー、ガイドラインについては、御免なさい言ってる意味が良く分かりません。Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことは、無視出来ると云うことでしょうか? もう少し解説して下されば幸いです。
「出典」の件ですが、菊竹六鼓については、まだ編集前のようですね[10]。 それにしても、膨大な編集の中で[11]、「出典」を示した記述が少なすぎると思うのは気のせいでしょうか? 
「結論」については、 「専門家の集まりである、文科省の審議会『○○』や、『××』と指摘されています。」と書いてあるので、普通、<審議会、個々の専門家によって指摘されている>と理解するのが通常だと思うのですが、間違っているでしょうか? (もし、審議会が指摘している/結論を出しているなら、初めから「審議会指摘している/結論付けている」と書くでしょう。)  100歩譲って、もし誤解(もちろん初めからそんな意図は私にはありませんが)があっても、「出典」に当たれば、すぐに個々の委員の発言であることが分かると思うのですが、問題があったでしょうか? --山本山815 2009年2月5日 (木) 07:23 (UTC)--追記山本山815 2009年2月5日 (木) 07:30 (UTC) --あるふぁるふぁさんさんが取り消した部分についての記述を残すのは不当と思い、取り消し山本山815 2009年2月9日 (月) 17:27 (UTC)[返信]
もう少し落ち着いて考えていただきたいのですが、教育熱心であることが、必ず良い効果をもたらすものであるのですか? 教育評価論の観点から、統計学に基づく研究報告がありますので、まず一度、それらを参照してみてはいかがでしょうか? 例えば 教育熱心による子供の発達の阻害の構造 という論文もあります。--YuBon 2009年2月5日 (木) 10:43 (UTC)[返信]
山本山815さんのやってるのはWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成ですね。三本の柱の内容をご理解いただいてないですと、あるふぁるふぁさんでなくとも「方針読んでるのかな?」と思うかもしれません……--Personofedo(会話/履歴) 2009年2月5日 (木) 12:31 (UTC)[返信]

大学はレジャーランドから脱却する意志が無い事がよくわかりました。やっぱり、専門学校の方が教育熱心でしたね。--Wakayada 2009年2月5日 (木) 14:32 (UTC)[返信]

山本山815さんへのお返事です。「結論」については仰る通りです。自分でもWikipedia:善意にとる(まだ草案ですが)に照らして不適切であったと思いますので、関係する発言を取り消し謝罪させていただきます。申し訳ありませんでした。
その他の点につきましては、本ノートでの議論と直接関係しないと考えますので、後刻山本山815さんの会話ページにお返事いたします。--あるふぁるふぁ 2009年2月5日 (木) 16:37 (UTC)[返信]

すいません。横槍失礼いたします。 この議論を拝見いたしまして、自分は大学との比較自体不必要かと感じます。 百科事典として、項目同士の優劣を論じることが正しいとは思えません。 仮に比較するとしても、数値的な対比でとどめておくのが良いかと思いますが。--孫吉 2009年3月12日 (木) 06:15 (UTC)[返信]

(コメント)設置目的の違う専修学校と大学を無理やり比較しようとする意味がわかりません。大学は研究に重きを置く期間ですので、教育のみに専念できる専修学校とは意味合いが全く異なります。あと、そろそろ利用者の行為に対するコメント依頼が必要であるように感じられます。--かげろん 2009年3月15日 (日) 00:04 (UTC)[返信]

3月5日付の日経には、大学進学の理由について「専門学校だと実習もあって忙しそうだから」。専門学校より大学のほうが楽なのは明らかです。--Wakayada 2009年3月15日 (日) 01:18 (UTC)[返信]

3月5日の日経とは日本経済新聞の2009年3月5日版のことでよろしいでしょうか。何面の記事かお示しください。--Tiyoringo 2009年3月15日 (日) 05:05 (UTC)[返信]

かげろんさん、期間ではなく機関。大学は研究に重きを置くから教育が疎かになる。教育の充実を図るなら研究は止めるしかない。二兎を追うものは一兎をも得ず。親御さんは研究のために学費を出しているのではない。Tiyoringoさん、3月5日版日経34面。Tiyoringoさんは一方的に大学の肩を持つのは止めて欲しい。--Wakayada 2009年3月15日 (日) 05:30 (UTC)[返信]

あるふぁるふぁさんは出典があるにもかかわらず、一方的に削除をするのは止めて欲しい。--Wakayada 2009年3月17日 (火) 04:24 (UTC)[返信]

「週刊ダイヤモンド2004年10月16日号では大原簿記学校は学生はわかるまで帰らないと報じ」たことと「2007年05月21日読売新聞大阪版は大学の授業は私語が絶えないと報じた」ことから「(専門学校は)大学より教育熱心である」とすることは、「『出典』通りの編集をする」「出典を元に分析や解釈を加えることなく集めた情報をそのままの内容で記述」するという本ノートでの合意に反する上に、「発表済みの情報の合成」にあたり独自研究です。--あるふぁるふぁ 2009年3月17日 (火) 04:34 (UTC)[返信]

専門学校の高就職率の理由の一つは大学より教育力があることである。あるふぁるふぁさんは削除しないで欲しい。--Wakayada 2009年3月17日 (火) 08:00 (UTC)[返信]

出典にない記述を出典つきの記述に紛れ込ませないでください。『大学より専門学校がトク09年度版』にそのような記述はありません。虚偽記載にあたります。--あるふぁるふぁ 2009年3月17日 (火) 08:57 (UTC)[返信]

専門学校は入試に学力試験が無くても教育ができる。大学は学力試験があって教育ができない。このこと一つとっても専門学校のほうが教育力があるのは明らかです。--Wakayada 2009年3月17日 (火) 14:12 (UTC)[返信]

そのことに直接言及した出典をお示しいただければ幸いです。--あるふぁるふぁ 2009年3月18日 (水) 07:48 (UTC)[返信]

(コメント)Wakayadaさんにご質問なのですが、専修学校の説明において、なぜ、大学との優劣を語ることが必要と考えるのですか?自分としましては、専修学校の特徴と語るにおいて、大学と比較する事は不必要であるし、また、優劣の比較自体、客観的に記述するのは難しいと考えます。自分は、学歴において大学も専修学校も関係が無い人間ですが、Wakayadaさんのコメントを拝見していますと、一方的な賛辞と受け取られてもおかしくないような気がいたしますが。--孫吉 2009年3月21日 (土) 22:35 (UTC)[返信]

学生の力を引き上げるのは専門学校と大学どちらのほうか。それが社会に理解されれば、学校の評価は変わる。偏差値で学校を選ぶなんて愚の骨頂である。--Wakayada 2009年3月22日 (日) 05:01 (UTC)[返信]

孫吉さんにお答えします。私は一方的に専門学校を依枯贔屓していません。優劣の比較自体、客観的に記述するのは難しいと云うが、そんなことはありません。専門学校と大学どちらが学生の力を引き上げるのかは自明の理です。大学は難易度競争に明け暮れ、専門学校を格下と揶揄し、専門学校と教育競争をしてきませんでした。その結果がそれです。--Wakayada 2009年3月22日 (日) 10:12 (UTC)[返信]

みなさんはそういう事を言っているわけでは無くて、そもそも、専修学校の項目で設置目的が全く異なる学校種である大学との優劣を論じる必要性がないと言うこと。wikipediaは百科事典であって議論をしたり演説をしたり独自研究を発表する場ではないので、専修学校の項目では専修学校について出典に基づき正確かつ中立に記述すればそれでよいのです。 例えば、チンパンジーの項目でチンパンジーとヒトのどちらが生命力があるかを論じてもしょうがないですよね...そういう事です。--219.98.69.18 2009年3月22日 (日) 13:57 (UTC)[返信]

チンパンジーとヒトの比較ではない。例えば、大原簿記学校では教員がわかるまで帰らないし、学生もわかるまで帰らないし、9、10時まで残る。大学では放課後、勉学に励む学生は殆どいない。こうして見ても大学より専門学校のほうが教育力があるのは明らかです。--Wakayada 2009年3月23日 (月) 13:18 (UTC)[返信]

(↑)議論の流れが分からなくなるので、削除ではなく取り消し線に変更しました。--219.98.211.55 2009年4月5日 (日) 12:00 (UTC)[返信]

うーん、上手く伝わっていないようですね。Wakayadaさんにお聞きしたかったのは、「なぜ専修学校の説明に比較を載せるのか?その比較は専修学校の説明として必要不可欠なのか?」ということですが。もう一度お答え願えないでしょうか。--孫吉 2009年3月24日 (火) 08:32 (UTC)[返信]

大原の実態は知りませんが理工系学部の学生、院生であれば授業がなくても研究室に泊まり込んだり深夜までの研究、土日も関係なく1年間毎日研究する学生もかなりいるものと思います。ご自身の知っている範囲だけの知識で主張されるのは無理筋と思うのですが。今Wakayadaさんが主張されている方法は高等学校などで自分はそこの卒業生であり、自校生ならば誰でも知っているから記述するのが正しいといった主張と何ら変わりません。そうしたものはWikipediaでは独自研究と判断され載せるべきではない情報になります。--Tiyoringo 2009年3月24日 (火) 14:32 (UTC)[返信]

Tiyoringoさんは理工系は忙しいといっているが、文系については何も云っていない。文系のレジャーランド化に関する出展は数え切れないぐらいある。文系のレジャーランド化は独自研究にあたらない。--Wakayada 2009年3月29日 (日) 01:25 (UTC)[返信]

(↑)議論の流れが分からなくなるので、削除ではなく取り消し線に変更しました。--219.98.211.55 2009年4月5日 (日) 12:00 (UTC)[返信]


コメントアウト--HANSON 2009年3月29日 (日) 08:16 (UTC)[返信]
失礼いたしました。別のところで行っていた議論と論旨を混同してコメントいたしました。議論参加者各位にご迷惑をかけ、申し訳ありません。--HANSON 2009年3月29日 (日) 08:31 (UTC)[返信]

専修学校のノートでのご質問に対して

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改めまして、あるふぁるふぁです。ノート:専修学校でのご質問に対して、当該ノートでの議論に直接関係しない(私の蒔いた種でもあるのですが)と考えますのでこちらで回答させていただきます。山本山815さんが当該ノートに記載すべきとお考えであれば、この発言は転記していただいて構いません。

まずガイドラインについてですが、Wikipedia名前空間にある文書は「公式の方針」「考慮すべきガイドライン」「それらの草案」「それら以外」に分類が可能です。「方針」には冒頭に「多くの利用者に支持されており、すべての利用者が従うべきだと考えられています」と明記されています。「ガイドライン」の冒頭には「多くの利用者が基本的に同意しており、従うことが推奨されますが、公式な方針ではありません」とあり、「草案」には「現時点ではまだ拘束力はありません」と記載されています。これら3つのいずれかに含まれる文書はWikipedia:基本方針とガイドラインにまとめられています。一方、Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことはそのいずれでもなく、Category:ウィキペディアに参加するに分類されており、そのカテゴリは「ウィキペディアの新規参加者のための文書を含むカテゴリです」。

これらから、私は他者に何らかの行動を強いたり注意するには方針かガイドラインを根拠とすべきであり、草案であればお願いにとどまると考えています。そしてそれ以外の文書は、自分がそれに従うことは何ら問題なくむしろ良いことだと思いますが、他者に対して用いるべきではないと考えています(例えが適切かどうか分かりませんが、窃盗犯を罪に問うなら「人のものを盗ってはいけません」という道徳の教科書ではなく刑法を根拠とすべきということ)。

ということで、Wikipediaの目的を他人に説くにはWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことではなくWikipedia:基本方針とガイドラインを根拠とすべきだと、私は考えます。

次に「出典」の件ですが、こちらが編集前であるのは仰る通りです。自分の利用者サブページとして、質を高めてから投稿しようと、ぼちぼち下書きしているものです。

山本山815さんが「膨大な編集の中で、『出典』を示した記述が少なすぎると思う」のは気のせいではありません。利用者ページで述べているように、基本的に記事の質をいくらかでも向上させようと草取りを中心に活動していますので、出典を示す必要を感じること自体が多くありません。最近の編集で言えばこんな編集こんな編集こんな編集に出典は不要ですし、新しく立った著しく内容の足りない記事をホームページを参考に加筆したこちらこちらなどは、外部リンクとして公式ホームページが示されているので、そこからの記述であれば改めて出典として示す必要はあるまいと考えています。他は荒らしに類する投稿の差し戻しや、「要出典」や「特筆性」、「学校記事」等のテンプレートの貼付などがほとんどで、出典を示して行うべき編集自体が少ないからと自分では考えています。--あるふぁるふぁ 2009年2月5日 (木) 18:06 (UTC)--利用者‐会話:山本山815より同意の下転載山本山815 2009年2月7日 (土) 20:23 (UTC)[返信]

ついでにもう一つ…

Wikipedia:検証可能性には、「百科事典を編纂する際、良い記事を執筆するためには、広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです」とあります。もちろん何らかの理由(例えば、私なら「記事内の外部リンクに公式ホームページが記載されており、そこを見れば分かることだから、あえて出典として改めて示す必要はないだろう」という考え)から明示しない場合もありえますが、この方針をきちんと理解した上での加筆であればこの指摘に対するこの回答この指摘に対するこの編集のように、「出典を示すべき」と指摘されたら即座に示しうるはずです。できないとしたら、こういう加筆に対してのこの指摘に対するこの回答のように、出典がないまま加筆した場合ではないかと考えます。そうであるから、指摘を受けてから出典を探さなければならないはめになるのでしょう。そうした方針無理解による加筆に対しての「方針無理解であるという指摘」に対して「こちらばかりに求めず、お互いノートの中で『「出典」を明記して反論されたほうが、「建設的議論」が出来るのでは?』」とか「私はその態度に怒りすら覚えます」とか「一体何様のおつもりなのでしょうか?」と発言することは、はたしてWikipedia:検証可能性に照らして適切でしょうか?本当に方針を理解した上での編集であれば、指摘を受けてから出典を探す必要はなく、加筆した際に参照した資料を示せば済むはずです。

「『信頼のおける出典』を探し出すのは簡単ではなく、時間と労力のいることです」についてはその通りです。私の新規立項が少ないのも、それが簡単なものではないことを理解しているからです。しかし、現実にはそうした下調べをすることなく「簡単に」加筆したり立項したりする人も多くいます。私は、「玉石混交」のWikipediaから「石」を取り除くことで「質も量も史上最大の百科事典」を作るプロジェクトに貢献していきたいと考えています(可能な範囲で新規立項や加筆も行っていきたいとは思っています)。標準名前空間の編集が約23%で新規立項が1つもない人に「『出典』を調べて自ら加筆して行くことはやっておられない」と言われているのも妙な感じがしますが…。--あるふぁるふぁ 2009年2月7日 (土) 16:39 (UTC)--利用者‐会話:山本山815より転載山本山815 2009年2月7日 (土) 20:23 (UTC)[返信]

もうあるふぁるふぁさんには伝わっていると思いますので、強く言いませんが、別にWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないことを他人に説いてもいい訳です。 実際様々な場所で、このページが用いられています。 また、百歩譲って、このページが他人に説けないページであっても、Wikipedia:基本方針とガイドラインのど頭に、Wikipediaの目的が掲げられているので、これ以上言うこともないでしょう。
あと、Wikipedia:検証可能性については、2つの例があります。
1つ目は、例えば今私は、吉本隆明のページを編集しているのですが、彼は、「戦後思想界の巨人といわれている」訳です。 このフレーズは、吉本隆明をずっと読んで来た者にはなじみの深いものなので(田中角栄の「今太閤」に類似)、自然と書いてしまうフレーズです。
ところが、全く吉本に触れたことのない人が見て、「出典がないじゃないか?」と言って除去することは可能です。 そして、書いた方は、「常識なのに…」と思いながらも、文献に当たります。 すると、今私の手元にある文献で、「私の『戦争論』」のあとがきに、インタビュアーだった人が吉本のことを「戦後思想界の巨人」と書いてあるのを発見します。 しかし、除去する側は、「それはそのインタビュアーだけが言っていることだ!」と主張して譲らない可能性が出てきます。
私は、何十年も前から吉本隆明を読んで来て、「戦後思想界の巨人」というフレーズは、何度も目にしたことはあるので、必ず時間を掛けて文献に当たれば、多数そう言っている人や、文章を見つけられるはずですが、すぐに「出典」を示すことは出来ません。
2つ目は、今回のように、一番初めの書き手と、編集を試みようとする者が別の人間の場合です。 今回も私は、まだ編集を本来の意味で全く行っていないのですが、その場合も、すぐに「出典」を示せるわけではありません。
つまり、そんなに事は単純ではない訳です。
ところで、お互いこれ以上言い合っても不毛な気がするのですが、「出典」通りの編集をするということで、オシマイにするというのはいかがでしょうか? あるふぁるふぁさんとは、どこまで行っても平行線であるし、互いの時間の浪費以外にないと思ってきたのですが、違いますでしょうか?--山本山815 2009年2月7日 (土) 20:23 (UTC)--語尾等修正山本山815 2009年2月8日 (日) 07:15 (UTC)[返信]

「高大接続テスト」の構想を始めたが、まったく無意味です。専門学校は入試に学力試験が無いにもかかわらず教育ができるのに、大学は学力試験ありで教育ができません。 大学の教育力を上げる努力をせずに、入試の負担を増す事だけ熱心です。これでは、レジャーランドからの脱却は望めません。なぜ、大学生が勉強しないのは、入試に精力を使うからです。大学関係者がこの事に気づかない限り無理です。--Wakayada 2009年2月8日 (日) 00:53 (UTC)[返信]

Wakayadaさんへ。 私ももしかしたら、Wakayadaさんの言うとおりかもしれないと思うのですが、以前申したように、大学の学生が真面目に授業【だけ】熱心になれば良いとも限りません。 今の大学までの教育は、専門学校と違い、実社会から要求されている水準の学問からはズレが生じているとも言えます。(その理由の一端は以前「出典」を上げました(「(大学は)実践重視の教育に遠く、企業の思いはなかなか伝わらない」など。) 即ち、産業界など実社会から必要とされる水準のカリキュラム変更も必要とされます。(現在の金融に対応出来る、金融工学や、経済学など) 出席を厳しくするなどでは根本的な解決になりません。 もしこの点にこだわるのであれば、様々な有識者や、産業界が、大学と専門学校の教育についてどのように考えているか、広い視点で当たって欲しいと思っています。 その一部の「出典」は挙げられていると思います。 「出典」通りの記載(もちろん、自身の考えを入れたり、「合成」は認められませんが)を書き出すだけで、専門学校の要素を記述することができるのではと思っています。--山本山815 2009年2月8日 (日) 01:58 (UTC)[返信]
「専門学校は、大学より教育熱心」云々ではなく、山本山815さんがお集めになった出典を元に分析や解釈を加えることなく集めた情報をそのままの内容で記述されるのであれば、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないの点からは問題にすることはありません。--あるふぁるふぁ 2009年2月8日 (日) 13:31 (UTC)[返信]
司書の資格が取得できるのは、大学や短期大学、高等専門学校卒であり、専門学校卒では、卒業後でも取得できません。--Wakayada 2009年2月11日 (水) 08:06 (UTC)[返信]
大原簿記学校では簿記2級を取得させるため、教員が9時、10時まで残り、学生も勉強に励んでいる。大学では放課後に勉学に励む学生はは殆どいない。--Wakayada 2009年3月6日 (金) 13:33 (UTC)[返信]

寄付金制度について

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文部科学省の「地方教育費調査」によると専修学校は32,892千円の寄付を集めたことになっていますので、現在の「寄付金制度がない」という記述は誤りと思われます。「寄付金制度がない」ことの出典はありますでしょうか?--あるふぁるふぁ 2009年3月7日 (土) 15:31 (UTC)[返信]

大学は寄付金頼みだが専修学校は寄付金制度が無い学校が多いのは事実である。--Wakayada 2009年3月8日 (日) 13:11 (UTC)[返信]

事実かどうか検証するための出典を出してください。--Dwy 2009年3月8日 (日) 13:31 (UTC)[返信]

大原や東京IT会計は寄付金制度は無い。--Wakayada 2009年3月8日 (日) 13:44 (UTC)[返信]

一般的に「専修学校には寄付金制度がない」ではなく「大原や東京IT会計については寄付金制度は無い」ということですか?百科事典の記述としては「寄付金制度が無い学校が多い」ことを「寄付金制度が無い」とは書けません。「大原や東京IT会計については寄付金制度は無い」のだとすると、それは必要なら学校法人大原学園東京IT会計専門学校の記事に書いてください。
ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)ですので、「専修学校には寄付金制度がない」か「寄付金制度が無い学校が多い」という検証可能な出典をお示しください。--あるふぁるふぁ 2009年3月8日 (日) 14:12 (UTC)[返信]
大原には寄付金制度はあるようですが…。「大原や東京IT会計は寄付金制度は無い」とする根拠についてもお教えください。--あるふぁるふぁ 2009年3月8日 (日) 14:34 (UTC)[返信]

Wakayadaさんが除去されあるふぁるふぁ さんが復帰された記述について、Wakayadaさんの意図は発言の撤回だと思われますので、当該部分を取り消し線で消します。もし問題があるようでしたら、リバートしてください。--Dwy 2009年3月9日 (月) 08:17 (UTC)[返信]

東京IT会計は寄付金制度はありませんでした。--Wakayada 2009年3月10日 (火) 13:01 (UTC)[返信]

Wakayadaさんの記憶や経験ではなく、「専修学校一般に寄付金制度が無い学校が多い」という検証可能な出典をお示しください。「東京IT会計については寄付金制度は無い」のだとすると、必要なら東京IT会計専門学校の記事に書いてください。そもそも学校法人に寄付金制度がないと設立もできないように思うのですが、この点については少し調べてみます。--あるふぁるふぁ 2009年3月11日 (水) 13:19 (UTC)[返信]

HALも寄付金制度は無い。豊島岡女子学園も寄付金制度無しを売り物にしている。--Wakayada 2009年3月11日 (水) 13:35 (UTC)[返信]

豊島岡女子学園は専門学校ですか?
保護者・生徒に寄付を強要しないことと制度自体がないことは全く別と考えています。--あるふぁるふぁ 2009年3月11日 (水) 14:13 (UTC)[返信]
こちらには「私立学校が私人の寄附財産等によって設立・運営されることを原則とする」とあり、こちらには「学校法人の設立のためには、校地・校舎を現在の所有者が無償で寄附しなければなりません」とありますので、「寄付金制度」がない学校法人はありえないと思います。--あるふぁるふぁ 2009年3月11日 (水) 14:29 (UTC)[返信]

やはり、専門学校は大学より寄付金を当てにしない--Wakayada 2009年3月12日 (木) 12:54 (UTC)[返信]

Wakayadaさんが「やはり」とする根拠をお示しください。--あるふぁるふぁ 2009年3月12日 (木) 15:29 (UTC)[返信]

寄付金以外でも、願書一つとっても専門学校は無料で宅配してくれるのに、大学は有料のところが多い。大学のほうが殿様商売だ。--Wakayada 2009年3月17日 (火) 04:44 (UTC)[返信]

そのことが専修学校に「寄付金制度がない」あるいは「寄付金制度がないことが多い」と記述することの出典たりえるとWakayadaさんはお考えなのでしょうか?--あるふぁるふぁ 2009年3月17日 (火) 06:08 (UTC)5字追加--あるふぁるふぁ 2009年3月17日 (火) 06:13 (UTC)[返信]

提案から1ヶ月近く、最後の発言から2週間以上経過し、有意な出典がお示しいただけないようですので「寄付金制度が無い学校が多い。」については除去いたしました。復帰される際は出典つきで復帰されますようお願いいたします。--あるふぁるふぁ 2009年4月4日 (土) 07:34 (UTC)[返信]

就職率について

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「専門学校は、大学より就職率が高い」以下の『大学より専門学校がトク09年度版』を出典とする就職率ですが、出典にも記されている通り文部科学省の「平成18年度学校基本調査」を基にしているため、ここでいう就職率は「3月卒業者のうち、就職者の占める割合」となっています。つまり進学など就職以外の進路を希望する者も分母に含まれているため、中学校0.7%、高等学校18.0%となってしまいます。

就職率でも述べられている通り、単に「就職率」とした場合2通りの解釈が可能です。報道などでは文部科学省・厚生労働省の「大学等卒業者の就職状況調査」を基にした「就職希望者に対する就職者の割合」という意味での「就職(内定)率」が主に利用されていると思いますので、現在の表現は間違ってはいないものの誤解を生む虞があると考えます。

ということで、現在の本文に卒業者のうち就職者の占める割合であることを明記した上で、脚注で「大学等卒業者の就職状況調査」の数値を併記する形にしたいと思いますがいかがでしょうか。--あるふぁるふぁ 2009年3月10日 (火) 04:05 (UTC)[返信]

大学院に進学する大学生の中にも就職できずに大学院に行く学生もいる。卒業者ベースでの就職率を利用するのは止むを得ない。--Wakayada 2009年3月10日 (火) 12:58 (UTC)[返信]

大学の場合、進路状況調査を提出しない学生もかなりの割合でいるので両者を比較すること自体がそもそもフェアではない可能性を考慮すべきではないでしょうか。

専修学校にはホームルームがある。ということは不登校にでもならない限り就職したかしなかったかを調べることは容易でありほぼ100%の確認が可能でしょう。一方大学の場合は本人が調査に非協力的な場合などは当然調査回収率が悪くなり、その結果卒業生中に占める就職者の割合を落とすことにもなっているのではと思います。また理工系などですと学生の多くが修士課程(博士前期課程)に進学することも見逃せないことと思います。ここから先は推測ですが就職を希望していたが内定をもらえなかった学生などは進路未定といった調査回答を出さないものが多くいることが予測できます。大学側もそうした回答があれば報道発表する際の就職率が下がってしまう。(失業率と同じですが、失業者=職を求める人であり、失職した結果職を探していない人は失業率には入りません。同様に調査未回答者は就職希望者に入りませんので一時期就職活動したが就職できなかった学生は調査回答がされない場合も各大学が積極的に追跡調査をしていないのではないかと予測できます。--Tiyoringo 2009年3月10日 (火) 13:55 (UTC)[返信]

そうですね、私は現在の数値を本文に載せた上で、『現在の本文に卒業者のうち就職者の占める割合であることを明記した上で、脚注で「大学等卒業者の就職状況調査」の数値を併記する形にしたいと思います』という、あるふぁるふぁさんの提案に賛成です。 ただ、「就職希望者に対する就職者の割合」は、かなり高めに出る傾向があり、比較としてふさわしいかは議論が必要に思われます。 そして、議論を本文に併記して載せることは、利用者の混乱を呼ぶだけですので良い記述とは思われません。 しかし、誤解を避けるため、脚注にその情報を載せることは、利用者への正確さにとって大事なことだと思われます。--山本山815 2009年3月10日 (火) 14:20 (UTC) [返信]

就職できない大卒者は専門学校ばかりではなく、大学院に行く学生もいる。大学院進学は就職できないから進学する現実に目を背けないで下さい。--Wakayada 2009年3月11日 (水) 11:36 (UTC)[返信]

就職と大学院進学を天秤にかける学生はそれほど多いものではないと思いますが。そもそも就職できなかったからといって大学院に進学したとして就職が有利になることはそうないはずです。教育系でしたら教職大学院を含めて大学院に進学することで専修免許状を取得することができさらに専門性を高めることができるという利点はありますが。なお理系で研究者を目指す場合はその多くが大学院進学を最初から希望し就職することはほとんど考えないものと思われます(日本の理工系大学・大学院教育への提言 日本化学技術者フォーラム)。また熊本大学学部生の卒業後の状況を見てみると文学部183名中26名進学、教育学部308名中60名進学、法学部215名中16名進学、理学部183名中119名進学、医学部225名中12名進学、薬学部91名中75名進学、工学部563名中331名進学熊本大学サイトとなっており、医学部は6年制であることから除外すると理工薬では半数以上のものが進学する状況にありWakayadaさんのご指摘は根拠の薄いものとしかいうことができません。--Tiyoringo 2009年3月11日 (水) 13:33 (UTC)[返信]

大学院の中には書類選考と面接だけの試験のところもある。文系では就職できない大学生がこれに目をつけて大学院に進学する学生がいることをTiyoringoさんは認識して欲しい。--Wakayada 2009年3月11日 (水) 13:40 (UTC)[返信]

例えばどの大学でしょうか。ポインタでお示しください。ただし大学院定員自体は理工系などの方が明らかに学生定員が多いでしょうからWakayadaさんが言われるような学生が大学院進学者の中で少数であることはほぼ間違いないと思いますが。それとおっしゃっている大学院の試験の実際がわかりませんが研究計画書や卒業論文などの過去の業績等の書類審査及びそれに対する口述試験でしょうから、いかにも簡単な試験しかしていないような印象で語られるのはどうかと思います。大学院定員拡充によって急速に定員が増加したり不人気なためレベルが低い志願者でも入学させざるを得ない大学はあることと思いますが就職できなかった学生が多く進学する信頼できる情報源をお示しいただくことができないようでしたら独自研究を主張されていることにしかならないと思います。--Tiyoringo 2009年3月11日 (水) 14:12 (UTC)[返信]

大学院生の質が低下している。文系は大学院進学が少数なので、入学が容易なところもあり、Tiyoringoさんの認識は誤りである。就職できない大卒者が院進学する現状はモラトリアムの延長である。--Wakayada 2009年3月12日 (木) 12:52 (UTC)[返信]

ご自身でも認められているように少数の文系大学進学者の事例をもって大学院進学者に対する評価とするのはまず無理があります。また文系の大学院進学者の多数が就職できなかったから進学したというソースの提示をお願いします。どちらかというと就職できなかった場合は留年して新卒を目指すケースが多いように思えますが。--Tiyoringo 2009年3月15日 (日) 05:05 (UTC)[返信]

2001年2月4日付け日経では「日本電子専門学校は毎年、多数の大卒者が入学する。」と述べている。日本電子専門学校の関係者は「進路決定を先送りした大学生が、振り出しに戻ってくる」と語る。大学でのモラトリアムの悪影響がここにも現れている。留年や大学院進学はモラトリアムの延長線です。--Wakayada 2009年3月15日 (日) 12:50 (UTC)[返信]

Tiyoringoさんが述べている様に、既に理工系では、就職する場合でも大学院修士修了が基本です。特に、東大工学部や東工大などの大学院重点化大学では、学部卒での就職を考える人は、皆無ではありませんが殆どいません。(ソースとしては、各大学の理工系学部の進路情報をWebページで確認されたし。) そして、大学院の在籍者数は、圧倒的に、理工系>>文系です。(これも各大学院のWebページを参照されればお分かりになるかと。) ですので、Wakayadaさんのご説は、一部の少数事例を持って全体を定義しようとしているもので、独自研究になってしまいます。--219.98.71.100 2009年3月15日 (日) 14:49 (UTC)[返信]

Tiyoringoさんは大学を依枯贔屓しないで欲しい。理系と文系をごちゃまぜにしないで欲しい。専門学校の高就職率は大学より高い教育力が理由です。大学生より専門学校生の方が勉強熱心です。大学は自主性を尊重するから自由を履き違え、就職活動をしない学生がいる。--Wakayada 2009年3月16日 (月) 16:03 (UTC)[返信]

日本最大の国立総合大学である東京大学の学部卒業者の進路を確認してみると、平成17年度の法経文系・理工系・医薬系、全学部の卒業者総数:3,298名の内、進学した者は、大学院:1,746名、学士入学:30名の合計1,776名で、進学率が54%です。従って、進学者以外の全員が就職していたとしても、「3月卒業者のうち就職者の占める割合」として定義した就職率は46%程度です。--219.98.69.18 2009年3月20日 (金) 15:35 (UTC)[返信]
議論を見まして、たしかに、特に大学の理系の大学院進学率が高いため、卒業生当たりの就職率を、専門学校と大学の比較として用いるのは公平性に欠けると思い、第1編集者としてコメントアウトしました。(問題ありましたら、リバート下さい。) --山本山815 2009年3月22日 (日) 11:42 (UTC)[返信]
もし、「専門学校は、大学より就職率が高い」という記述を残すとすれば、事実に則り「専門学校は上位の課程に進む者が殆どいないため、卒業者に占める就職者の比率が大学よりも高い」とするべきでしょう。ですので、元の記述は、コメントアウトか削除が妥当だと思われます。--219.98.69.18 2009年3月22日 (日) 13:23 (UTC)[返信]
出典つきの記述はむやみに除去すべきではないでしょう。「専門学校は、大学より就職率が高い」は除去するとして、「文部科学省の調べで」以下の『大学より専門学校がトク09年度版』を出典とする記述については「…という評価がある」ことは事実ですし、Wikipedia:中立的な観点に拠れば公平性は除去ではなく加筆で実現すべきですので、両論併記の上で読者の判断に任せるのが妥当だと考えます。
「3月卒業者のうち就職者の占める割合」と「就職希望者に対する就職者の割合」の長短は就職率の項で論じられるべき問題ですので、内部リンクで誘導すれば十分でしょう。--あるふぁるふぁ 2009年3月22日 (日) 20:53 (UTC)[返信]


いろいろご意見をいただいたのですが、議論が止まってから1ヶ月以上経つのでそろそろ結論を出したいと思います。

<本文>
文部科学省の調べで2005年度の就職率(3月卒業者のうち、就職者の占める割合)は、専門学校79.7%、短期大学67.7%、大学63.7%と、大学より10ポイント高くなっている。これは、専門学校では、企業が求める専門的な技術や知識を卒業生が身に付けていることが大きな理由であるとされる<ref>。
<脚注>
中村忠一監修・松本肇著 「大学より専門学校がトク09年度版」 エール出版、2008年、17-25頁。ただし、同年度の就職希望者に対する就職者の割合は、専修学校91.8%に対して、短期大学90.8%、大学95.3%である(文部科学省・厚生労働省調査「平成17年度大学等卒業者の就職状況調査」)。就職率についての詳細は「就職率」を参照。

と両論併記にするか、両方除去するかだと思いますが、どうしましょうか。--あるふぁるふぁ 2009年4月30日 (木) 15:24 (UTC)修正(専門学校91.8%→専修学校91.8%)--あるふぁるふぁ 2009年5月1日 (金) 14:50 (UTC)[返信]

ご提案ありがとうございます。どちらの方法でも私はかまわないと思います。--Tiyoringo 2009年4月30日 (木) 15:33 (UTC)[返信]

さぼっていて申し訳ありません。 わたしもどちらでも構わないと思われますが、卒業生に対するそれぞれの「就職希望者率」(就職希望者数/卒業者数)も加えてはいかがでしょうか? そうすれば専修学校の卒業生のほとんどが就職を希望し、大学の卒業生は、進学など多様な選択を行っている(理由は様々でしょうが…)ことも理解できるのではないでしょうか?--山本山815 2009年5月1日 (金) 21:41 (UTC)[返信]
<脚注>
中村忠一監修・松本肇著 「大学より専門学校がトク09年度版」 エール出版、2008年、17-25頁。ただし、同年度の卒業者のうち就職希望者の割合は専修学校91.4%、短期大学75.2%、大学68.3%であり、就職希望者に対する就職者の割合としての就職率は、専修学校の91.8%に対して、短期大学90.8%、大学95.3%である(文部科学省・厚生労働省調査「平成17年度大学等卒業者の就職状況調査」)。就職率についての詳細は「就職率」を参照。
でよろしいでしょうか?--あるふぁるふぁ 2009年5月2日 (土) 04:44 (UTC)[返信]
1ヶ月反対が無いため、上記内容に改めコメントアウトを解除しました。--あるふぁるふぁ 2009年6月3日 (水) 04:25 (UTC)[返信]

課程の節名に「称することができる」とされているものを含ませることはやめませんか?

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記事の節名に「高等課程(高等専修学校)」「専門課程(専門学校)」というものがありますが、これは誤解を招く節名であり、括弧書きは除去するべきと考えます。

高等課程・専門課程・一般課程については、専修学校に1つ又は複数を置くものであり、学校教育法第124条によって、「高等課程を置く専修学校は、高等専修学校と称することができる。」(第1項)、「専門課程を置く専修学校は、専門学校と称することができる。」(第2項)、とされているに過ぎません。したがって、課程と校名は、イコールの関係にはなりません。

括弧書きの除去を提案します。--YuBon 2009年4月4日 (土) 14:23 (UTC)[返信]

ID:25209758 の版をリバートした者です。括弧書きを除去する事に反対なわけではありませんが、YuBonさんの当初の編集だけだと『高等専修学校』のリダイレクトが無効になる様なので、そちらの方も修正して欲しいという意味でリバートしました。(自分で直してもよかったのですが、YuBonさんが直すべきだと思ったので。) なお、リダイレクトの方にも色々と記述された様ですが、やりすぎかと思います。最低限の修正でお願いします。リダイレクトでは無くなって、『専修学校』の項目の『高等課程』の節と、『高等専修学校』の項目がダブって存在する状況になってしまっています。 履歴を確認すると、かつてダブって存在していた項目が『専修学校』の方に統合され、『高等専修学校』の方はリダイレクト化された様ですよ。--219.98.211.55 2009年4月5日 (日) 11:45 (UTC)[返信]
当時システムの関係でアカウント名の改称ができず、履歴を継承せずに現在のアカウント名を使用しておりますが、かつて統合をしたのは私自身です。「リダイレクトが無効になる」のではなくて「専修学校への先頭にリンクされる」ということですよね? 各種記事は直しておきますが、専門学校に記事があることを踏まえ、リダイレクト化は見送りたいと思います。--YuBon 2009年4月6日 (月) 02:37 (UTC)[返信]