コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:天慶の出羽俘囚の乱

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

「出羽俘囚の乱」から「天慶の乱 (出羽国)」への再改名の提案

[編集]

現在、ここの項目へのリダイレクトとなっている「天慶の乱 (出羽国)」への再改名を提案します。理由は、出羽国における俘囚の乱が複数あるからです。例えば俘囚の乱をコトバンクで確認すると「もっとも大規模なものとして、878年出羽(でわ)国秋田城下に起こった元慶(がんぎょう)の乱がある。」と書かれております。なお、出羽俘囚の乱をGoogle検索すると、約 4,400 件、天慶の乱 出羽だと約 229,000 件でした。リダイレクト先には本項目に移動した際の履歴が1件のみしかありませんので、移動された方の会話ページにも提案したうえで、1週間以上待ってみて反対がなければ改名します。--2022年9月16日 (金) 00:58 (UTC)--ろう(Law soma) 2022年9月16日 (金) 00:58 (UTC)[返信]

移動された方が1か月近く書き込んでおりませんので、もう少し待ちたいと思います。--ろう(Law soma) 2022年10月3日 (月) 05:25 (UTC)[返信]

お答えいたします。私個人としましてはコトバンクよりも近年の東北古代史(日本の古代東北経営)研究の観点から執筆すべきだと思います。 この歴史的出来事の場合、俘囚の乱のうち天慶二年に起きた事件or天慶二年に起きた乱のうち俘囚が起こした事件のどちらで捉えるのかという問題があります。要は反乱を起こした主体は誰なのかということですが、古代東北史関係の書籍や論文では概ね天慶二年に勃発した出羽俘囚の乱とされていますように主体は出羽俘囚です。 古代東北史から見た場合「天慶の乱 (出羽国)」では適当ではないと考えています。例えば天慶に起きたことを前提とするのであれば「天慶の出羽俘囚の乱」のような記事名ならば適当であると考えます。 --メメメ会話2022年10月5日 (水) 11:00 (UTC)[返信]

ご回答ありがとうございます。なるほど、確かに将門の乱と紛らわしいのは記事名として欠点だとは思っていましたので、納得できる理由です。主体が俘囚である以上おっしゃることは分かりますが、そうすると具体的にどんな記事名がよいでしょうか。宝亀の乱元慶の乱も主体が蝦夷ないし夷俘ですが「宝亀の陸奥蝦夷の乱」とか「元慶の出羽夷俘の乱」とは言いませんよね。
記事名の付け方では、認知度が高い、見つけやすい、曖昧でない、簡潔、首尾一貫しているを目安としたうえで基本的には正式名称を用いることにしています。学問上の用語なので、学術的に呼ばれている名称を使用することになりますが、「新編弘前市史」や「秋田県の歴史」、「蝦夷と古代国家」、「秋田の歴史」などでは「天慶の乱」という記載だったことから、最初の投稿で「天慶の乱 (出羽)」として作成しました。その後、カッコ内に国名をつける場合の首尾一貫性から「国」を追加しましたが、それで10年以上経過していたわけです。「俘囚の乱」だと、陸奥、上総、下総、出雲でもあったほか出羽で2回も起こっていますので一般名詞のようなものです。個人的に記事名に「の」が複数入るのは好ましくないと思っていますが、「天慶出羽俘囚の乱」なら賛成できますが、そういう表記を採用している論文がないので悩ましいですね。曖昧さ回避の天慶の乱というページがあるので、なんとかなると言えばなるのですが。
いっそ「出羽俘囚の乱 (天慶)」ではどうでしょうね?コメント依頼を出すかどうかも含め、もう少し検討してみます。--ろう(Law soma) 2022年10月7日 (金) 10:10 (UTC)[返信]
先に宝亀の乱と元慶の乱の補足をさせていただきます。
伊治公砦麻呂の乱とも呼称される宝亀の乱は『続日本紀』宝亀11年3月22日条で「陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公砦麻呂反く」と始められていることから、朝廷は事件の主体である砦麻呂を陸奥国伊治郡大領外従五位下=郡司の長官であると認識しています。当時の朝廷が蝦夷反乱ではなく郡司の長官が起こした反乱として記録している以上、学術的にも陸奥蝦夷の乱であったとはされません。
元慶の乱についてですが、元慶に起きた戦乱がこの事件だけであること、史料がある程度豊富に残ること、学術的に大多数を占める呼称であったことなどが挙げられます。2000年代頃から事件の主体である秋田城下賊地について、城司による支配の及ぶ範囲で反乱が起きたとの政治概念から研究される事が増加したり、反乱側鎮圧側双方に郡司税長や富饒酋豪といった在地の族長層の関与していることから、相当数の公民が反乱軍に加わっていたのではないかという論文が増加傾向にあります。長くなるのでやめますが『保則伝』『三代実録』でも元慶の乱の要因は国司の悪政に重要な原因があることが再三書かれていることから、朝廷にとって蝦夷反乱ではなく秋田城司と酋豪との事件として捉えていたのではないかと研究されていますね。構造的にも大崎平野の蝦夷反乱、陸奥海道の蝦夷反乱とは異なることは確かで「元慶の出羽夷俘の乱」と学術的にも呼称されにくい事件ではあります。個人的には元慶の乱の主体が「秋田城下賊地の上津野、火内、榲淵・野代・河北、腋本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡の12村の俘囚の反乱」でブレない以上は元慶の蝦夷反乱や秋田城下の蝦夷反乱あたりが適切かなとは思うのですが。
上記を踏まえて天慶の出羽俘囚の乱について見てみますと、天慶に起こった出羽俘囚の乱であるという域を超える研究成果が見当たらないため私は「天慶の出羽俘囚の乱」が史料との齟齬がない最も適切な記事名であると考えます。参考になるかはわかりませんが私が日本の古代東北経営の小見出しを付けるさいに意識したことは、桃生城襲撃事件のように学問上一般化した呼称や巣伏の戦いのように普遍的に使用されている呼称のある事件と違い、各年代各地域の蝦夷反乱は学問上一般化した呼称がありませんので大崎平野の蝦夷反乱、陸奥海道の蝦夷反乱といったように今後の研究成果が反映される余地を残しています。征夷についても同様で天応元年の征夷、延暦八年の征夷、延暦十三年の征夷、延暦二十年年の征夷、弘仁二年の征夷としています。そういった点からも天慶に起こった出羽俘囚の乱を簡潔に明確に説明するには天慶の出羽俘囚の乱が最適であると考えます。
ろう様の提案する「天慶出羽俘囚の乱」と「出羽俘囚の乱 (天慶)」の二者から選択するのであれば出羽俘囚の乱 (天慶)が適切と考えます。天慶出羽俘囚の乱についてはウィキペディア日本語版から呼称として一般化する可能性が排除出来ないので天慶の出羽俘囚の乱なら可で天慶の出羽俘囚の乱は不可というのが私見になります。--メメメ会話2022年10月8日 (土) 12:37 (UTC)[返信]
ご趣旨がよく分かりました。個人的な思いは兎も角、最も史料と整合性が取れている「天慶の出羽俘囚の乱」で提案を出しなおすことにします。MWEさんには私から呼びかけます。お手数をおかけしました。--ろう(Law soma) 2022年10月11日 (火) 08:23 (UTC)[返信]

「出羽俘囚の乱」から「天慶の出羽俘囚の乱」への再改名の提案(仕切り直し)

[編集]

「出羽俘囚の乱」から「天慶の出羽俘囚の乱」への再改名を提案します。理由は、上の話題のとおり、出羽国における俘囚の乱が複数あるからです。リダイレクト元は新規名称へのリダイレクトに修正する必要はあります。--ろう(Law soma) 2022年10月11日 (火) 08:43 (UTC)[返信]

  • 賛成 提案者票です。--ろう(Law soma) 2022年10月11日 (火) 08:44 (UTC)[返信]
  • 賛成 --メメメ会話2022年10月12日 (水) 11:02 (UTC)[返信]
  • コメント 上の議論で出典を挙げられている名称は結局「天慶の乱」しかないように見えるのですが、それは措いておくとして……メメメさんが仰った「天慶に起こった出羽俘囚の乱であるという域を超える研究成果が見当たらない」ことを根拠に決めるのであれば、適切な記事名は「出羽俘囚の乱」であり、それだと一意性に欠けるため曖昧さ回避を付けて「出羽俘囚の乱 (天慶)」になる、という方が筋が通るのではないかと思うのですが。「記事名に『の』が複数入るのは好ましくない」という印象もろうさんと同じくあります。--MWE会話2022年10月13日 (木) 14:55 (UTC)[返信]
    • 「天慶出羽俘囚の乱」「出羽俘囚の乱 (天慶)」のどちらかを記事名にするというニ択に限って「出羽俘囚の乱 (天慶)」を支持しますというだけで、記事名に『の』が複数入るのは好ましくないなどという印象で記事名を付けようとする考えまで支持することは出来ません。また一意性に欠けるため曖昧さ回避を付けるべきとの考えをお持ちのようですが、曖昧さ回避は記事名の重複が避けられない場合の手段であって、曖昧さ回避が必要になることを避けるのが基本的な記事名の付けかたですから重複していない「出羽俘囚の乱」に曖昧さ回避を付けるという考えについては理解できません。そもそも「出羽俘囚の乱」の場合「天慶の出羽俘囚の乱」とすることで曖昧さ回避が必要になることを避けられますし、この記事名が歴史史料との齟齬がない最も適切な記事名でもあると私は考えます。
    • 付け加えるならば日本の古代東北経営を編集した経験から、少しでも読者にとって自然な記事名とリンクになるよう心がけています。上の議論で少し触れた征夷で具体的に説明しますと、延暦八年に起こった征夷について参考にした書籍や論文では「桓武朝第一次征討」なども見られましたが、記事本文やセクション名では最も多く見られて明確な「延暦八年の征夷」を採用しました。この延暦八年に起こった征夷を単独記事として作成する場合に記事名として「征夷 (延暦八年)」とすることも出来るわけですが、そうすると日本の古代東北経営などでは【征夷 (延暦八年)|延暦八年の征夷】【征夷 (延暦八年)|桓武朝第一次征討】のような形で記事本文にリンクする事になりますよね。延暦八年の征夷のリンク先が征夷 (延暦八年)という状態が読者にとって自然な記事名とリンクなのかと言えば私は違うと考えます。記事名の曖昧さ回避の扱いについても編集者ではなく読者にとって最もわかりやすい表現を優先すべきではないでしょうか。--メメメ会話2022年10月14日 (金) 12:59 (UTC)[返信]

(インデント戻します)MWEさんからの認諾がありませんが、その後編集されておられること、反対を表明しておられないことから、申し訳ありませんが改名します。MWEさん、メメメさん、これからも引き続きよろしくお願いします。--ろう(Law soma) 2022年10月31日 (月) 00:01 (UTC)[返信]