ノート:大韓民国の国旗/過去ログ1
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解釈部分について
本文の解釈の中で、太極図においての魚眼部分を示す卦が、離と坎だとしてる部分がありますが、誤ってます。陰が極まって陽に転ずる、その極点、また陽が極まって陰に転ずる、その極点が、それぞれの魚眼部分であるのですから、老陽ないし老陰がその卦でなくてはならず、すなわち乾と坤が魚眼部分を示すはずです。少なくとも周易に則るなら、そうでなくてはならないのですが、あるいは朝鮮の易では何か特殊な解釈を行う伝統でもあるのでしょうか?--BBrock 2008年2月21日 (木) 02:14 (UTC)
また四象を卦によって兼ねさせるとか、八卦のうち乾坤離坎が四正卦だのと、はっきり言って意味不明な記述が見られるのですがどういう解釈なのですか? 四象と、八卦は、全く異なるものですし、八卦は八卦であって、別にその中のどの卦が特別だとかの話はありません。先天易に則るなら、南北東西が乾坤離坎ですから、それを表してるだけなのでは無いですかね。--BBrock 2008年2月21日 (木) 02:28 (UTC)
「伏羲先天八卦の生成」と題されて、記載されてる図は、単なる太極思想の概念図に過ぎず、伏羲の先天図を全く知らない人間が書いてることはあまりにも明らかなので何とかしたほうが良いですよ。易に関して軽くググる程度で分かることのはずなんですがね・・・--123.198.27.64 2008年2月21日 (木) 06:05 (UTC)
「先天」とは、そのほうが古いという意味ではありません。先天太極図は古太極図ではありません。現代とは語句の意味が異なりますので、誤解しやすいことは分かりますがね。また易では普通、方位については慎重に考えるものです。先天図に従うなら南が乾で無くてはならず、東洋風の表記なら南は上となるべきで左斜めでは違和感がぬぐえませんね。この卦の配置が先天易を根拠にしてるのだろうか・・・とはしばらく考えねば分からなかったので、これが分かりやすい先天図だと主張するのは無理がありますし。総じて解釈部分は、易経を少しでも読んだものなら、あまりにもデタラメな部分が多く、バッサリと割愛するか、もう少し無難な内容に書き換えた方が良いように思いますねえ。--123.198.27.64 2008年2月21日 (木) 06:33 (UTC)
起源
- >1882年、李氏朝鮮の全権大使が日本と通商条約を結ぶにあたり、日本に向かう船中で、イギリス人船長のアドバイスによって太極と四卦を書き込んだことにある、と言われている。
- >「大清国属高麗国旗」から流用されたものである。
双方の根拠等があれば提示して戴きたいです。後者は[1]がありますが、続報等無いので詳細が分らない状態です。--kahusi (會話) 2006年1月13日 (金) 02:03 (UTC)
- 前者、後者とも、下記の議論からも、起源とするには疑問となってきていると思います。太極図と「八卦図の中の四卦」を組み合わせたことは間違いないと思いますが、その組み合わせのデザインの最初のものがいつ成立したのかということは今のところ、下記「折衷案説について」で紹介されている[5]のリンクで1982年5月頃以降作成作業が活発化らしいですが、特定されていないと思います。確認できる一番古いものとしては、上の[1]のリンクで内容が紹介されているものです。ただし、その記事に載せられている写真自体は「大清国属 高麗国旗」も含め、別の旗です。記事自体に対応している写真は同じ記事の英語版、中国語版の最初に紹介されている旗の絵の写真です。その旗の絵が載っている英語版のリンクについては、下記「大清国属 高麗国旗について」の中でkahusiさん自身が紹介されている[3]のリンクです。--[manmt]2006年8月16日 (水) 13:07
削除について
なんとか韓国をどうやっても見下したい、弱めをつかめたいという意図がはっきりと見えていますが、せめてウィキだけでは大人になってほしいですよ。嫌韓発言は2ちゃんでやってください。(2006年2月21日 (火) 03:21 利用者:218.149.125.37さんによる)
- 陰陽思想に基づいて考えると、本来左右に配置されるべき太極図が上下に彩色され、陰中陽と陽中陰が欠けている。また、まわりの卦も、八卦を四卦に減らしたために不整合が生じ、その配置もおかしいとされる。
- あなたは上記の部分が癪に障って削除したようですが、よほど差別的でなければ、一方的な削除は問題になりえます。理由を述べてからコメントアウトと言う形を採るほうが賢明だったのではないでしょうか(私は陰陽に通じていないので、削除部分は根拠がよく判りませんが、あなたの発言も被害妄想に近いと思いますよ)。--Mackacka 2006年3月3日 (金) 05:05 (UTC)
- (コメント)朝鮮日報のホームページに掲載されていた[2]に関しまして議論がなされていないみたいですが、このような政治問題に発展しかねない記事を軽々に掲載する事に関して慎重に編集すべきなのではないかと考えます。よって、この記事に関しまして中立性の観点から再整理すべきじゃないかと提言いたしたく思います。--ウラヌス 2006年4月16日 (日) 14:40 (UTC)
- 「大清国属高麗国旗」の意味は「大清国が属する高麗国の旗」となりますので、確かに中国は韓国に対して強く不満に思うでしょう。--阿修羅 2006年4月28日 (金) 05:24 (UTC)
この物的証拠により韓国が嘗てアジアの全域を支配していたことが証明出来ます。
以下の議論でも結論が出たように、「大清国属高麗国旗」の意味は、やはり至極当然のごとく「大清国 "に" 属する高麗国の旗」であり、要するに世界中が認めている歴史的な事実そのままを表したもの、という事になりますね。そりゃそうですよね(笑)--Koreationbuster(会話) 2012年3月14日 (水) 10:57 (UTC)
「大清国属 高麗国旗」について
両王朝が存在した時期や二国間関係の歴史的事実はさて置き、純粋に「大清国属高麗国旗」を日本語に訳すと「大清国が属する高麗国の旗」となります。両王朝の存在時期に大きくズレがあるなどの矛盾点に関する説明が必要と思うのなら、正確な訳文の後に、補足で説明文を入れたら良いと思います。--阿修羅 2006年7月26日 (水) 09:47 (UTC)
そもそも、「太極旗の起源は、『海上国家の旗』に記載された旗を継承したものといわれ~」で良いのかも知れません。「大清国属//高麗国旗」の経緯が分らないですし。或は[3]辺りを参考にして追記するのも手かと。--kahusi (會話) 2006年7月26日 (水) 10:54 (UTC)
- しかし、ネットで検索してみると、すでに「大清国属高麗国旗」に関連するホームページがその知識不足から、大多数(ほぼ99.99%?)が「清の属国である高麗国の旗」と間違って翻訳し、別名「属国旗」としています。 この間違った翻訳と、いわゆる「属国旗」という名詞を何の疑いも無くWikipediaに堂々と記す人まで現れている現状を見ると、その弊害は深刻だと見るべきです。 よって、「大清国属高麗国旗」とその正しい日本語訳は必要だと思います。--阿修羅 2006年7月27日 (木) 07:45 (UTC)
チャットの会話ですが、「高麗国旗に属する大清国」とも解釈できるという話がありました。「矛盾点に関する説明」を入れるにしても如何書いたものか。--kahusi (會話) 2006年7月27日 (水) 12:11 (UTC)
- 「大清国が属する高麗国の旗」が歴史的矛盾なら、「高麗国旗に属する大清国」は現実的矛盾ですね。 「矛盾点に関する説明」には両方入れても良いのではないでしょうか?--阿修羅 2006年7月28日 (金) 10:02 (UTC)
矛盾云々についてですが、旗の表記をきちんと検証してみると、元々、「大清国属」と「高麗国旗」は別の塊として表記されているのに、なぜ「大清国属高麗国旗」と一文としてつながっているものとして少なくない方々が解釈をされるのでしょうか? 「大清国属」の4文字は同じ行で字の大きさも同じです。「高麗国旗」の4文字も同じ行で字の大きさも同じです。 しかし、「大清国属」と「高麗国旗」の関係は行および字の大きさが異なっています。 明確に別の塊だと思います。 そういう意味で、わざわざ「属高麗国旗」という風に、別の塊の一部を取り出しくっつけて意味的にひとつの塊として解釈するというのは、無理があると思います。 また文言自体の解釈にあたっても、重要な錯覚があると思います。決して少なくない方たちが「属」を動詞として解釈しているために、無理やり「高麗国旗」とくっつける必要性が出てきているのだ、と思います。 「属」は名詞として、部下・従者・仲間・身内・一族・一門という意味を示します。 「大清国属」は「大いなる清国の一門」 「高麗国旗」は「高麗国の旗」 というような解釈が妥当なのではないか、と思います。。--利用者:manmt 2006年8月1日 (火) 09:51
- 果たして清国皇帝が朝鮮国王を一門として見ていたでしょうか? 当時清国は、李氏朝鮮を属邦・属国と位置づけ(清国自身、近代国際関係としての属邦・属国ではなく、冊封国という意味で使用)、李氏朝鮮を清国の範囲内としては見ていませんでした。 これは、李氏朝鮮・ベトナムとモンゴル・チベットの位置づけの差でもお分かりになると思います。 もし、モンゴル王やチベット法王に対してなら、あなたの解釈でも理解できますが、李氏朝鮮に対してなら「大清属国」や「大清属邦」と書くはずです。 また、清朝と高麗は同時期に存在した王朝ではないので、「大清国属高麗国旗」もしくは「大清国属・高麗国旗」を歴史事実をもとに解釈するのに無理があり、そもそも内容からして清朝が命名したとは思えません。
- 「大清国属」を単独としても「大清国が属する」と訳します。 もちろん歴史的事実に反していますが。
- 「属」を名詞として使うなら、例えば「大清皇帝属高麗国王」もしくは「大清皇帝属・高麗国王」という風に個人と個人の関係として使うのではないでしょうか? 国と国の関係としてなら属国や属邦と書くと思います。
- 本文の編集は、ノートでの議論で結果が出た後にしてください。--阿修羅 2006年8月1日 (火) 17:11 (UTC)
「大清国が属する高麗国の旗」が本当であれば現状のように隠したりせず誇らしげにそれこそ今の国旗にも記せばよい事である。
。
「果たして清国皇帝が朝鮮国王を一門として見ていたでしょうか?」 とのことですが、この旗を作成したのは、清国でしたでしょうか? 確か、朝鮮で作られたものだと思います。事大主義であった朝鮮国にあって、どのような表記が考えられますか? あの、「大清国」の友邦である、一門である、一族である、と謳うのは対外的な、「虎の威を借る」意味での効果を求めることができます。 しかし、あなたが言うように「清国」から見れば、納得し難いことです。そこで姑息というか玉虫色というか、「属」の字の選択が生きてきます。「属」は元々、朝鮮側が希望した「仲間・一族」の意味で使われているとともに、清国から見た「部下・従者・下役・(国として考えれば属邦・属国)」という意味でも使われています。そのようなあいまいな字は、まさに都合が良かったのだと思います。
- 19世紀の清国は、アヘン戦争(1840年)、南京条約(1842年)、アロー戦争(1857年)、北京条約(1860年)、イリ条約(1881年)などで欧米列強の半植民地となり、とてもではないが威を借りられるような対象ではありませんでした。 貴方は当時の東アジア情勢をご存じないようですね。--阿修羅 2006年8月7日 (月) 00:57 (UTC)
朝鮮国は、そういう状況の「清国」であっても「宗主国」としていたのが、当時の「東アジア情勢」だと理解していますが。
当時の朝鮮は、国内的にも対外的にも中国を頂点とした冊封体制を肯定し、国家間の格付けをしていた状況に変わりはありませんでした。その体制のなかで日本は自分たちより下という認識をしていました。洋夷という言葉もあるように、あなたがあげたヨーロッパの国々を敵視し、蔑んでいました。実際の実力が落ちているとかいう話とは関係ない儒教的な考え方で国が成り立っていました。その体制の中で、朝鮮国は中国の次の格がある、ということは朝鮮国として誇らしいことだと思っていたのが実情だと思いますよ。--[[利用者:manmt] 2006年8月9日 (水) 16:27
- ですので、既に実力の無い清国から「虎の威を借る」ということは無理ですよね。--阿修羅 2006年8月17日 (木) 09:05 (UTC)
実際に、日清戦争以前は「虎の威を借りて」出兵してもらいましたね、日本に対抗して。清国がついているんだぞ、ってね。日清戦争後、冊封体制から抜けることになり、清国が当てにならないと見るや、ロシアの威を借りようと動く有様。--[[利用者:manmt] 2006年8月17日 (木) 22:49
- 史実では、19世紀末の李氏朝鮮の支配階級は内部の派閥闘争が激しく、その時々の状況によって短期間の間に親日親清親日親清とその政策をころころと変えています。 親日政策や親清政策、そしてその後の親露政策も、その目的は外交政策の為ではなく、もっぱら国内での派閥闘争の為ですよ。
- 実際、1882年当時親日政策を取っていた閔氏政権を打倒した大院君一派は、出動してきた清国軍に鎮圧されて大院君は連行されてます。 もし、貴方の解釈どおり、日本に対抗して清国の「虎の威を借る」なら、親日政策を取っていた閔氏一族が連行されないと辻褄が合いませんね。 史実から見ても、貴方の「虎の威を借る」という解釈は間違っています。--阿修羅 2006年8月18日 (金) 03:33 (UTC)
もちろん、日本に対して対抗していた時期)もあれば、親日的な政策を取ろうとした時期もあります。どこに敵対関係があろうが、誰を連行しようが、「いざとなったら、清の力を借りて事を納めていた」ことには変わりありませんよ。。--[利用者:manmt] 2006年8月18日 (金) 22:59
- 少しは冷静になって現実を見ましょう。 貴方の解釈は、史実と辻褄が合ってないのですよ。
- 19世紀末、半植民地に転落した清国を恐れて逃げていった国はありましたか?
- 虎の威を借る狐:他人の権勢に頼って威張る小人物の喩え。
- 「戦国策-楚策」-虎に捉えられた狐が「天帝が私を獣の長とされたのだから、私を食べると天帝の意に背く。嘘だと思うなら、どんな獣も私を見て逃げるのを、後について来て確かめよ」と言った。確かに獣たちは皆逃げ出した。虎は、獣たちが狐の後ろにいる自分を恐れて逃げたことに気付かなかった。--阿修羅 2006年8月19日 (土) 02:33 (UTC)
大丈夫ですか?阿修羅さん。 実際に恐れて「逃げなければ」、「虎の威を借りた」ことにならないんですか? 新解釈ですね。それは。あなたも挙げている「他人の権勢に頼って威張る小人物の喩え」に過ぎない言葉です。まさに中国の冊封体制というものに頼って周りを見下し威張る朝鮮、という言葉そのものですが?。--[利用者:manmt]] 2006年8月21日 (月) 13:34
- 「恐れて逃げる」は私の勝手な解釈じゃなく、その後に意味の説明で書いてあるとおり、「虎の威を借る狐」の元である「戦国策」から引用しているのですよ。 最後まで真面目に読みましょう。
- また、辞書で「虎の威を借る狐」は「他人の権勢に頼って威張る小人物の喩え。」としていますが、以前にもお話したように、19世紀の清国は、アヘン戦争(1840年)、南京条約(1842年)、アロー戦争(1857年)、北京条約(1860年)、イリ条約(1881年)などで欧米列強の半植民地となり、当時の清国は既に「権勢」なぞ無かったのですよ。 再三説明したとおり、史実から見ても、貴方の「虎の威を借る」という解釈は間違っています。--阿修羅 2006年8月22日 (火) 06:25 (UTC)
それから『「属」を名詞として使うなら、例えば「大清皇帝属高麗国王」もしくは「大清皇帝属・高麗国王」という風に個人と個人の関係として使うのではないでしょうか? 国と国の関係としてなら属国や属邦と書くと思います』とのことですが、
そのように考える理由は何ですか? 単になんとなく、なのでしょうか。「属」は元々「一族・一門」というグループを表す言葉として、「史記」にも出ています。個人にだけ限るとの解釈自体無理があると思います。それどころか、「属す」と似た言葉に「附属す」という言葉がありますが、組織に対するものとして現在においても広く使われており「北京大学附属北京腫瘤醫院」「韓国慶熙大学附属韓方病院」「筑波大学附属駒場高等学校」などという具合です。 まさか「北京大学が附属する」「筑波大学が附属する」と訳されるのですか?。
- 19世紀末、李氏朝鮮と条約を結ぶ欧米各国へ出した清国の書状には、「朝鮮素為中国属邦. 而内治外交. 向来均由大朝鮮国主自主.」として、李氏朝鮮に対して「属邦」を使っています。 貴方は私の「国と国の関係としてなら属国や属邦と書く」という考え方に疑問を感じているようですが、その疑問の根拠は何でしょうか?
- グループの一員として、国家なら属国や属邦と書きますし、あなたも例に出しているように、何らかの組織なら、「北京大学附属北京腫瘤醫院」「韓国慶熙大学附属韓方病院」「筑波大学附属駒場高等学校」と、附属を使います。 だれも「北京大学が附属する」「筑波大学が附属する」と訳すなどとは言っていませんよ。
- 史記においての「属」に関してですが、史記の中で、「一族・一門」という意味の「属」の後に、何か組織をあらわす名詞が来る文は有りますか? 貴方は「個人にだけ限るとの解釈自体無理があると思います」と言いますが、どのような根拠をもとにそう思うのでしょうか?
- 老婆心ながら、「属す」と「附属す」は意味も用途も全然ちがいますよ。--阿修羅 2006年8月7日 (月) 00:57 (UTC)
現在の中国語を調べてみたところ、「国属」という言い方が散見されます。「グループの一員として何らかの組織なら附属を使います」とは限らないようですよ。グループの形態によって違うと思います。「国属电力公司」「国属电网公司」(変換されていないかもしれませんが3文字目はいずれも電の雨を抜いた字です)「国属化工厂」これらの場合、企業なので日本語では「国有」と訳されます。 ある企業の紹介には「企業性質」の欄に「国属」と一言書いてあるだけです。 学校でも国立・公立ということでしょうか、「北京怀柔航天技术培训学校(国属)成立1992年」などという表記が見えます。「国属粮库」は国の穀物倉庫です。「国属銀行」もあります。 「国に属しているもの」という意味で「国属」という言い方を使用している現状から、「大清国属」の4文字は「大清国に属している」という意味で、使用されていると解釈するのは無理なことではないと思います。所属の宣言として使用する、という形だと思います。 ちなみに、「市属」(市立とか市営)、「区属」(区立とか区営)、という表記もあります。--利用者:manmt 2006年8月14日 (月) 17:17
- こんどは「現在の中国語」ですか。 「国家」「政治」「資本」「経済」などの単語は現在の中国でも使われておりますが、これらは辛亥革命後、日本に留学した中国人が持ち帰った単語であり、中国から見たら清朝の時代には無かった「外来語」である事はご存知ですよね。 言葉や単語は絶えず変化しているのですよ。 多くの現代中国人が封建時代の漢文を読めないのもご存知ですよね。 現代中国語と清朝など封建時代の中国語は別物と見ても過言ではありません。
- また、「国属」は貴方も仰るとおり日本語に訳すと「国有」となり、ご存知かと思いますが、「国」と「有」の漢字二文字で国有」という一つの単語を作ります。 「国有」で一つの意味を持った単語だという事はご存知ですよね。 清朝の時代、「国有」という意味で「国属」を使った例はありません。 つまり、当時は無かった単語なのです。 百歩譲って封建社会である清朝社会で「国有」という観念が存在し、「大清国属高麗国旗」の「国属」が「国有」だとしたら、その訳文は「大清国国有の高麗国の旗」、又は「大清国国有の高麗国旗」となります。 貴方は「この高麗国旗は清国所有」という意味で「大清国属高麗国旗」と書いてあると思っているのですか?--阿修羅 2006年8月17日 (木) 09:05 (UTC)
決定的というか、中国語の資料を見つけました。これには、「英国属」(英国領)、「美国属」(米国領)という表記があります。さらに「国」が抜けた表記方法、「英属维尔京群岛」(英領バージン諸島)、「美属维尔京群岛」(米領バージン諸島)という表記もあります。その国の領土を表すのに「~属」という表現方法が使用されていたということで、文言の解釈については、これで解決ではないですか? 「大清国属 高麗国旗」は(大清国領 高麗(自治)国旗)というようなことではないでしょうか。阿修羅さんいかがでしょうか。リンクを貼っておきますので、意見を聞かせてください。 http://www.xzqh.org/waiguo/america/ 利用者:manmt 2006年8月14日 (月) 18:51
- “現代中国語と、今度は「現代中国語の略語」ですか? 「決定的」とまで言うので、私も心が躍ったのですが、失望しました。”が 私の意見です。 理由は上に書いておりますので悪しからず。--阿修羅 2006年8月17日 (木) 09:05 (UTC)
直接否定する理由になってませんよ。否定するなら「英国属」(英国領)の使用方法が当時使われていなかった、ということを直接述べないと意味ありませんよ。この使用方法が「これらは辛亥革命後、日本に留学した中国人が持ち帰った単語であり、中国から見たら清朝の時代には無かった「外来語」である」ということなのですか? それから、「言葉や単語は絶えず変化しているのですよ。 多くの現代中国人が封建時代の漢文を読めないのもご存知ですよね。 現代中国語と清朝など封建時代の中国語は別物と見ても過言ではありません。」との理由を挙げても、現在の中国で使用されているすべての表現が対象になりようがない以上、特定の表現を評価する上では、理由として意味はありません。
「悪しからず、ですか。あらら、阿修羅さん。こちらこそ”失望しました”。「ノートで議論してから~常識でしょう」などと、物事の道理を述べられてましたので、もっと物事をきちんと検討される方なのだと思っておりましたから。 ちゃんと「英国属」(英国領)と、私が提示した使用方法が無かった、と直接結論づけるだけの材料も何も示していただいてませんよ。そのころ以降の外来的用法ですか、この使用方法は? であれば、そうだとの資料をあげてください。 いつごろから使用されるようになったのですか? 具体的な特定の表現方法を「失望」するほど明確に否定するのですから当然、ご存知なんですよね。 もちろん、お忙しいようでしたら、わざわざ回答されなくてもかまいません。--[[利用者:manmt] 2006年8月18日 (金) 07:38
- 私は19世紀末の資料として、清国が李氏朝鮮と条約を結ぶ欧米各国へ出したの書状の「朝鮮素為中国属邦. 而内治外交. 向来均由大朝鮮国主自主.」を出していますが、貴方は場違い的な「現代中国語」を根拠としてあげております。 まずは貴方が私と同じ土俵に立ち、「大清国属高麗国旗」が書かれた同じ時期の資料を根拠としてあげるべきですね。
- 老婆心ながら申し上げますが貴方も子供ではないので、議論の場で意味の無い場違いな資料を出すばかりか「使用方法が無かったと直接結論づけるだけの材料を示せ」という悪魔の証明を要求するような幼稚な行為はやめましょう。 私をこれ以上失望させないでください。--阿修羅 2006年8月18日 (金) 03:33 (UTC)
同じ土俵に立つ、とおっしゃっていますが、あなたの土俵というのは直接「大清国属 高麗国旗」を解釈する上で、大して意味ありません。単に「同時期の資料を提示する」だけに過ぎないからです。もちろん、まったく同じ表記といえるものであれば、説得力を持つでしょう。あげるなら、当時の「大清国属」のような「国」+「属」のみで構成されているという組み合わせをあげてください。それが、「この表記は当時はこう解釈をしていた」という証明になります。それ以外のものは、単に「朝鮮に関することを述べた資料」であるだけで、何ら答えそのものではありません。土俵などいくらでもあります。こういう議論の場では、誰かが誰かの土俵のみに一方的に立つ、という議論方法では解決などしませんよ。--[[利用者:|manmt] 2006年8月18日 (金) 22:38 老婆心ながら申し上げますが貴方も子供ではないので、使用方法が無かったと直接結論づけるだけの材料も提示できないのに、 意味の無い場違いな資料として、検討の場から一方的に排除してしまうというような頑なで幼稚な行為はやめましょう。 私をこれ以上失望させないでください。--[[利用者manmt] 2006年8月18日 (金) 22:14
- 少しはまじめにお願いします。 「国属」は貴方の解釈ですよ。 何で私が貴方の「国属」の解釈を根拠証明をしなくてはならないのですか?
- 貴方の鸚鵡返し議論も、ふざけているとしか思えません。 まずは落ち着いて今までの議論の経過を確認してみてください。 貴方の主張と解釈は支離滅裂ですよ。--阿修羅 2006年8月19日 (土) 02:33 (UTC)
ふざけている、ですか?「国属」という言葉に対しての「属」の用法は、あなたの言う「属」の用法と違っているということです。最初からそのことを申し上げているのですよ。{「国に属しているもの」という意味で「国属」という言い方を使用している現状から、「大清国属」の4文字は「大清国に属している」という意味で、使用されていると解釈するのは無理なことではないと思います。}と「国属」そのものを当てはめる意見などこちらは言っていません。用法による解釈を最初から披露していますが?--[[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 18:31 あなたは、「国属」という言葉について、「清朝の時代、「国有」という意味で「国属」を使った例はありません。 つまり、当時は無かった単語なのです。」と、言葉自体が存在しないことのみを問題視して「国属」という言葉に対して否定的な意見を述べていますが、同じく現在使用されている言葉で下のほうで議論している「北属期」については、この「国属」を否定したときのあなたの意見をあなたに突きつけたところ「私は私の見解の根拠となるのは“「北属期」での「属」の用法”と言っていますよ。 誰が“「北属期」の単語”と言いました? 人の発言を勝手に作り出した挙句、勝手に「シラけました。」とは・」と、今度は「国属」のときには触れもしなかった「用法」を言い出す始末。単語として当時存在したかどうかということではなくて用法が問題なのならば、「国属」を否定したときの意見は意味をなしません。支離滅裂でふざけているのは、貴方でしょ。--[[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 18:05
- 何をそうお怒りになっているのか良く分かりませんが、議論は喧嘩ではありませんので、もう少し冷静にお願いします。
- 「北属期」に関してですが、そもそも「北属期」を持ち出したのは私ではなく貴方ですよ。貴方が何も知らず私の解釈の根拠となる「北属期」を持ち出したので、「北属期」の「ベトナム北部が属した時期」という意味であるので、“「北属期」の「属」の用法は、私の見解の根拠となる”と貴方に分かりやすく説明して、どちらにせよ、貴方の解釈の根拠にはならないと言ったのですよ。 少しお休みになり、精神を安定させてからもう一度ゆっくり私と貴方の議論過程を読み直してください。
- また、貴方が例として挙げた現代中国語の「国属」(国有という意味の単語)ですが、以前にお話したように、清朝の時代、「国有」という意味で「国属」を使った例はありません。 貴方は清朝の時代に「国有」という意味で「国属」を使っていたという資料でもお持ちなのでしょうか?--阿修羅 2006年8月22日 (火) 06:25 (UTC)
「何をそうお怒りになっているのか良く分かりません」ですか。ブレーンストーミングの基本が身についていないのですね。それなら、こういう場でなぜこちらが怒ったのか判らないのも無理はありません。こういう場での議論はブレーンストーミング的に進めていけない方には向いていませんよ。--[[利用者:manmt] 2006年9月11日 (月) 10:48
どうしても「国属」という単語が使われている、とでも私が言ったというような流れにしようとなさっているようですね。私の説明は「国に属しているもの」という意味で「国属」という言い方を使用している現状から、「大清国属」の4文字は「大清国に属している」という意味で、使用されていると解釈するのは無理なことではないと思います。」と最初から「国」という団体に対する「属」という字の用法を言ってますが?「貴方は清朝の時代に「国有」という意味で「国属」を使っていたという資料でもお持ちなのでしょうか」とは、まるで的外れですね。
それから、あなたの土俵に近い内容を提示しておきますよ。 調べたところ、1919年ごろ執筆されている本で「南洋群島──英屬之部」(南洋群島--イギリス領の部)という題のものがあります。朱鏡宙という方が書いています。この方は「英屬馬來半島」(イギリス領マレー半島)という本も書いています。1890年生まれのこの方は、まだ清の時代に教育を受けており、これでは、少なくとも、あなたのように「現代中国語の略語」と簡単に片付けて一蹴するには無理がありますね。 これは、貴方の言う「多くの現代中国人が封建時代の漢文を読めないのもご存知ですよね。現代中国語と清朝など封建時代の中国語は別物と見ても過言ではありません。」の読めないような「現代中国語」「別物」にあたるのですか? すでにその時代には親の世代の文章が読めないような中国語となっていたのですか? 彼は清の時代に教育を受けていますよ。 また、「英屬」なんていう言い方は日本からの外来語ではありませんね。日本なら「英領」でしょ。--[[利用者:manmt] 2006年9月10日 (日) 03:14
- 清朝と民国は、社会制度が正反対の国家ですよ。 また、貴方は朱鏡宙という人が生まれた瞬間から言葉を喋れたと思ってるのですか?
意味ありませんよ。その御意見は。 喋れるわけありません。そんなこと当たり前です。 では、教育を受けたのは何時でしょうか? 彼は、清朝時代に学生生活を過ごしているのです。 解りませんか? 清朝時代に教育を受けているのです。言語取得は教育の賜物でしかありません。そして、中華民国が発足して、わずか数年の安定していないころに書かれた本です。言語というものはもちろん新しい単語・表現方法も随時入ってきますし、進化していきますが、まだ行政機構を構築し始めの中華民国がいきなり全国的に新しい言語体系に切り替えた教育を全国民に対して行い、わずか数年で取得させるなどということが、可能だと思っているのですか?。当時使われた「英属」=「英領」という意味での表現が、新しい表現方法であったという結論を得るには、何も材料を示していただいていませんよ。単純に、御自分の知っている資料には記載されていないから、というのでは否定の理由にはなりませんよ。このころにこのような表現方法が存在した、ということは事実ですから、「大清国属」の表現も、そうである可能性がある、と、少なくとも有力な「可能性」ということは言っても間違いではないはずです。「有り得ない」と一蹴するだけの情報ではありません。--[[利用者:manmt] 2006年11月6日 (月) 19:17
本日、「大清國屬臺灣島」という表現を発見しました。もちろん「大清国領台湾島」です。「大清國屬」という表現方法については、これで「大清国領」ということで、間違いないと言っても良いのではないかと思います。「大清國屬」という表記を別の意味でしている例をご存知の方がいらっしゃるようでしたら、挙げていただきたいと思います。
http://www.haichuan.net/BBS_Data/1/700/40/7000/700/636615.asp?oD=1
また、「屬」の用法としては、「清屬揚州府」「清屬泰安府」「清屬江西省袁州府」など、「領」として表現されている例は探してみると、あちらこちらで見かけます。。--manmt 2006年11月12日 (日) 00:45
:あなたは物凄い時間差議論されるようですね。 忘れた頃に何とやらですか。 お陰様で私も半年近くあなたの反論を発見できませんでしたよ。 さて、あなたが提示したリンク先をのぞきましたが、あいかわらず同じ勘違いばかりされてますね。 リンク先を最後まで読んでみましょう。 資料を《鐵道年鑒》 南京 中華民國二十五年版(1936年)、《中國鐵道建設史略(1876-1949)》 偽中國鐵道出版社 北京 1997年版、2000年版となっており、以前から私が指摘していますが、時代的に参考にならないものですよ。 また、議論になってるのは「大清國屬高麗国旗」です。 あなたの論理では、国家が国家を属領と表現した例を示さなければいけないのに、島や列島、一地方などや挙句には学校など、いちいち反論するのも意味の無い論理ばかりですね。 国家が国家を属領と表現した例が発見できないから意味の無い例ばかりを並べているのでしょうか?--阿修羅 2007年5月4日 (金) 23:08 (UTC)
:それから、議論の場でブレーンストーミングなんてお笑いですね。貴方は普段から、なぁなぁ式の馴れ合い議論ばかりか、相手の発言の捏造までするようですね。 [4]
捏造について、私には覚えがありませんね。 確かに、このサイトの履歴を確かめたところ、改竄をしてある状況が確認できます。 なぜ、そのような状況なのか私もわかりません。?--manmt 2006年11月6日 (月) 19:26
:リンク先を見れば一目瞭然ですよ。--阿修羅 2007年5月4日 (金) 23:08 (UTC)
: あと、ほかの人からも注意されているようですが、いい加減に偽署名を止めたらどうですか?--阿修羅 2006年10月15日 (日) 22:34 (UTC)
偽署名など、してませんが? 意味ないでしょ? そんなことしても。 どこに、私がしたのですか? 何か、証拠でも?--manmt 2006年11月6日 (月) 19:26
:時刻つきの署名をしなければ、偽署名と一緒ですよ。--阿修羅 2007年5月4日 (金) 23:08 (UTC)
「本文の編集は、ノートでの議論で結果が出た後にしてください。」とのことですが、おっしゃることは分かります。であれば、私が変更した前のものは「結論」だったのでしょうか? 解釈について分かれているということを生かした表記であるならば、そのような表記になっていたはずですが、そのような状況ではありませんでした。ですので、変更を致しました。 元々、結論が出ていないものである以上、そういう複数の意見を生かす表記が必要ならば、そのような表記に元々の文章をしていただければ、別の解釈として、と記載できました。--[[利用者:manmt] 2006年8月2日 (水) 18:17
- ノートに議論の場が出来る以前は各自の本文編集は仕方ない事ですが、ノートに議論の場が出来た後は、先ずはノートで議論をしてから結果を得て、その後に本文の編集をするのが常識だと思いますが?--阿修羅 2006年8月7日 (月) 00:57 (UTC)
もちろん、常識として理解しています。ただし、私が書き込む前の状態は、ノート上に残っている書き込みが少なく、結論が出ていないにもかかわらず、本文上に断定して記載されていた、という状況でした。本文の記載について、ノートの議論は重要視されていないんだな、と理解しました。それだけのことです。--[[利用者:manmt] 2006年8月16日 (水) 11:59
- 私も含めて偶に、ノートでの議論に気付かずに本文編集をしてしまう人もいますが、貴方は議論に気付きながら本文編集した確信犯だったのですか?--阿修羅 2006年8月17日 (木) 09:05 (UTC)
その議論が本文に反映されてなかったので、(議論している人たちも結論がでていないことを本文に反映させることをしていなかったので)、このノートは単なる参考意見を述べたい人が述べているだけとの認識でした。--利用者:manmt 2006年8月18日 (金) 01:04 (UTC)
すみません。
「大清国属 高麗国旗」自体を書いたのは、誰がどこで、というのは特定されていませんでしたね。
ただ、後年、正式な国の旗を作成するときに、龍を入れろ、という清国の横やりがあったとの話からも、「大清国属 高麗国旗」について清国が作った、とするには、説得力がないと思います。普通に、朝鮮で作成されたもの、とするのが妥当だと思います。。--[利用者:manmt] 2006年8月2日 (水) 18:46
ただし、「大清国属 高麗国旗」の文言については、清国が旗の説明として書いたものだと思います。--[利用者:manmt] 2006年8月16日 (水) 22:42
さらに、「高麗」という表記についてですが、少なくとも西欧諸国は現在に至るまでKoreaまたはCoreaと表記しているわけで、対外的な問題は中国との間のみ。「朝鮮」という国号自体、中国の明に決めてもらったもので、朝鮮からすると屈辱の象徴のようなもの。元々「李氏朝鮮」の太祖李成桂は高麗王として王位についたが、明に認めもらえない上、国号も変えさせられた。何とか「高麗」という表記をどうにか使用したい、と思うのは朝鮮側の悲願のようなことでもあったとも考えられないでしょうか。--[利用者:manmt] 2006年8月2日 (水) 19:46
- なにか勘違いなされているようですね。 権知高麗国事を参照願います。--阿修羅 2006年8月7日 (月) 00:57 (UTC)
あの、勘違いはしていません。
まず、高麗王として王位についたが、認めてもらえなかった。そこで、再度、新しい国ということで認めてもらおうと、国号を変えることとした、という流れで、もちろん、明が「変えろ」と言ったわけではありません。認めてもらえなかったので、そのような提案をする羽目になった、ということについて、「変えるアクションをすることになった」との考え方です。すべて日帝が悪いと結びつける「恨」という朝鮮人気質で考えていただければ、想像できませんか。そこまで、突っ込んで考えての発言なのですが。
朝鮮戦争・朝鮮が分断されている現状は「日本」のせいだとする、嫌いなものは徹底的に嫌うという気質での考え方です。。--[利用者:manmt] 2006年8月7日 (月) 20:03
- やはり勘違いされてるようですね。 李成桂は王位簒奪後、自ら「権知高麗国事」と称して明国へ使者を送り、高麗の臣民から「権知軍国事」に推戴されたので、それを認めて欲しいとしております(李朝実録 太祖 1卷 元年 8月 29日)。 確かに国内では王位に着きましたが、明国に対して高麗王として認めて欲しいとは要求していませんね。 李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求した資料でもお持ちなのでしょうか?--阿修羅 2006年8月8日 (火) 09:22 (UTC)
当然ですが李成桂は「権知高麗国事」で良いとは思っていなかったはずです。国号を変えよう、という動きがなぜ起こったか?、というところに注目しているのです。最初の明国への使者を送った際(これは明国の感触を探るという意味合いがあったと理解します)、「現状では明国からは、国王として認めるのは難しい」との感触を得たのではないかと思うのです。であればこそ、屈辱的なことではあるが「国号を決めてもらうこと」で、国王として認めてもらおう、と考えたのではないかと推測するのです。
もっとも、今回の議論を通して、「大清国属 高麗国旗」の文字自体は、清国側で書いたのだろう、と確信してきましたので、朝鮮側が記載に当たっての理由にした、ということについては、撤回致します。--[利用者:manmt] 2006年8月16日 (水) 11:44
- 推測だけで議論されては困ります。 私も忙しい身なので真面目にお願いします。
- 前にも書きましたが、李成桂が明皇帝に要求したのは「権知軍国事」であって「高麗国王」では無いのですよ(李朝実録 太祖 1卷 元年 8月 29日)。 それとも貴方は李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求した資料でもお持ちなのでしょうか?
- 国号を変える動きは、明国の礼部(外務省)から「高麗での事情はもう過ぎた事だ。国に兵乱が無く、東夷の民衆が平和に暮らせるのなら、使節を交換する。この文が着いたら早く国号をどう変更するか決めて報告するように」と言われてから始ったのですよ(李朝実録 太祖 2卷 元年 11月 27日)。 それとも貴方は李成桂が王として冊封を受けたいから国号を変えようとしたという資料でもお持ちなのでしょうか?
- 私は、李成桂の行動と記録から、李成桂は明皇帝から冊封を受けた高麗王を殺して王位についていたので、明皇帝からは領土安堵の確約を貰えれば十分だった。 李朝実録を見ても、李成桂は高麗王を殺した言い訳に必死だったことが分かる。 国内の実権を手に入れた李成桂にとって、明国皇帝からどういう称号を貰えるかより、明国皇帝から討伐されるほうが心配だった。 だから明国から王朝交代を認める国号変更を催促されて時、李成桂はこれは罠ではないかと勘ぐり、「朝鮮」と「和寧」という二つの案を出して明皇帝に国号を決めてもらうことで付け入られる隙を作らないようにした。 これを李成桂が「屈辱的」と考えたかどうかは分かりません。--阿修羅 2006年8月17日 (木) 09:05 (UTC)
あなたも、資料から、「推測」されているではないですか。誰でも「資料」を読んで推測して発言します。歴史的な資料では誰でも行っていることです。 「私も忙しい身なので真面目にお願いします。」ですか。 忙しいなら、無理して別にお答え頂かなくて結構ですよ --[manmt2006年8月18日 (木) 01:10]
- そうでしたか。 私の場合、は史実と資料を提示しながら議論していますが、一方、貴方は一切資料の提示が無かったので、貴方は資料も無い憶測だけの人かと思ってしまいました。 これは失礼しました。 それでは、「李成桂は明皇帝から王位を認めてもらう為に国号を変更」の資料と「国号を高麗とするのは朝鮮側の悲願」の資料を提示してください。 「李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求」の資料もお忘れなく。--阿修羅 2006年8月18日 (金) 03:33 (UTC)
変なことをおっしゃってますね。「李成桂は明皇帝から王位を認めてもらう為に国号を変更」と「国号を高麗とするのは朝鮮側の悲願」というのは私が推測で述べた部分ですが? 誰でも「李朝実録」を見て、推測をします。資料は。資料をどのように解釈をするか、ということに過ぎません。あなたと同じ資料を読んでおり、私なりの解釈を提示した。あなたは、その解釈はおかしいとおっしゃっているだけでしょ?--[[利用者:manmt] 2006年8月18日 (金) 23:33
- もう少し他人の発言を真面目に聞きましょう。 私は“それでは、「李成桂は明皇帝から王位を認めてもらう為に国号を変更」の資料と「国号を高麗とするのは朝鮮側の悲願」の資料を提示してください。 「李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求」の資料もお忘れなく。”と言って貴方に資料提出を求めているのですよ。 誰も私の解釈だと言っていません。
- 私の場合、解釈の根拠となる資料として“(李朝実録 太祖 1卷 元年 8月 29日)”や“(李朝実録 太祖 2卷 元年 11月 27日)” と、具体的に李朝実録のどの文を根拠としているか明示していますが、貴方は根拠となる資料も提示せずにいます。 貴方の解釈である「李成桂は明皇帝から王位を認めてもらう為に国号を変更」、「国号を高麗とするのは朝鮮側の悲願」、「李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求」の根拠資料を明示するのが常識ですよ。--阿修羅 2006年8月19日 (土) 02:33 (UTC)
言っている意味が全然、判らない方なんですね。では、どうぞ。
明国の礼部(外務省)から「高麗での事情はもう過ぎた事だ。国に兵乱が無く、東夷の民衆が平和に暮らせるのなら、使節を交換する。この文が着いたら早く国号をどう変更するか決めて報告するように」(李朝実録 太祖 2卷 元年 11月 27日)。あなたもあげたこの文で、なぜ、「高麗での事情は過ぎたことだ」という言い方を明はしているのでしょう。明としては「問題あり」として認めるものも認めることができなかったということだからでしょう。新しい国号とすることで、従前のような正常な関係を結ぶ、という意思表示をしています。これに関し、「李成桂はこれは罠ではないかと勘ぐり、「朝鮮」と「和寧」という二つの案を出して明皇帝に国号を決めてもらうことで付け入られる隙を作らないようにした。」というのがあなたもしている解釈。当然、以前にいくら自分が申し出た権知高麗国事を認めてもらったと言っても安心していなかったからです。その際に「明」から全面的な支持を得られていない、ということを感じていたからでしょう。当然、最高権力者に対して王として封じることが「明」として最終的な全面的な承認です。「高麗での事情はもう過ぎた事だ。」、この言葉で、李成桂の提案に乗ろうという意思表示だと解釈できます。もちろん自分から提案したものの、李成桂側は罠かもしれない(本当にすんなり認めてくれるのか)という疑心暗鬼はあるものの、乗ってくれるのであれば全面的な承認(王として認知)につながることになります。李成桂の目的は当然、「明」からの全面的な承認なのはいうまでもないことです。 次に「李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求」ですが、当たり前ですが「資料」の中に、「実際に要求をした」などというものはありません。権知高麗国事に認めてもらうという行為そのものが高麗王として認めてもらうためのアドバルーン(婉曲な要求)だと推測しています。権知高麗国事は認めてもらったものの、とても「高麗王」という全面的な支持にはいたらないだけでなく、李成桂自身が不信感を抱くような対応であったと推測しています。「高麗での事情はもう過ぎた事だ」、この一言からもそう推測しています。
それから、「国号を高麗とするのは朝鮮側の悲願」ということについては、当時のことを示す何かの資料を読んで、その資料から、ということではありません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、じゃないですが、「昨今の朝鮮情勢」に限らず、虐げられたと感じていることに対しては、そのような反応を示す民族性からのものです。そういう資料など「反日系の法律」などであふれています。
元々これら3つの事柄に関しては「「朝鮮」という国号自体、中国の明に決めてもらったもので、朝鮮からすると屈辱の象徴のようなもの。元々「李氏朝鮮」の太祖李成桂は高麗王として王位についたが、明に認めもらえない上、国号も変えさせられた。何とか「高麗」という表記をどうにか使用したい、と思うのは朝鮮側の悲願のようなことでもあったとも考えられないでしょうか。」という流れでお話しています。それぞれの推測に対して当時のことを述べた資料からのものもあれば、そうでないものもあります。--[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 14:03
- 貴方は「高麗での事情は過ぎたことだ」での「高麗での事情」が何かを知らないようですね。 「高麗での事情」とは、高麗王の禑王の遼東侵攻と、恭讓王の中国侵略計画(李朝実録 太祖 2卷 元年 10月 25日)ですよ。
- やはり貴方は何の資料も無しに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」だけで、「李成桂は明皇帝から王位を認めてもらう為に国号を変更」、「国号を高麗とするのは朝鮮側の悲願」、「李成桂が高麗王として認めて欲しいと要求」と思い込んでいる訳ですね。 貴方の解釈は何の根拠も無しということでよろしいですね?--阿修羅 2006年8月22日 (火) 06:25 (UTC)
その後、いろいろ調べた結果で、今までの「高麗国」表記に対する、私の推測は、取り下げさせていただきます。 というのは、清の時代の当時、朝鮮のことを「高麗国」や「高麗」とも表現されていたということが解って来たからです。 それで、「高麗国」を「高麗王朝」(918年 - 1392年)や「高句麗王朝」のように時間的にずれていることを無視して解釈する必要性はないということが解りました。清国のころのことを述べている文章の中に「高麗国」表記がありました。 「清政府得知此事,為了顯示其天朝大國的氣派,向高麗國的皇宮贈送了數臺救火激桶,」というくだりです。 http://big5.huaxia.com/wh/gjzt/2006/00532124.html さらに下の資料は、民族名ですが、清の時代は「朝鮮」または「高麗」と表現されていたようです。阿修羅さんのおっしゃる「民国と清は違う」というのは、これに関してはそのとおりですが、ただし民国になってからは逆に「朝鮮」だけの表現になっています。皮肉なことですね。阿修羅さん。 http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~dahcr/91-6c4-2-5.pdf#search='%E6%B8%85%2C%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%9C%8B' 英語でも「korea」「corea」という表現を中核として、中世以降現代でも使用しています。これも当時の英語表記の地図などで簡単に確認できますよね。 日本でも朝鮮通信使が何度か訪問していましたが、「高麗国」という表現が報告書レベルの中に出ていました。弘化三年(1846年)、平田善太夫という人物が琉球から薩摩に出した報告書に以下のくだりがあります。 「~本文運天津来着之節者人数三百人乗之段 申出此節ハ二百人乗之段申出候ニ付人数 及間違候訳且於高麗国仏人三人被打果候 儀有之右糺方モ可致其外亜米理幹英吉利~」 そういう意味でも、正式な王朝名ではなく世界的に使用されていた表現として当時、「高麗国」という表現が存在していたのだと結論できると思います。--manmt 2006年11月12日 (日) 00:45
- これも物凄い時間差議論ですね。 私もまんまと引っかかって約半年後の反論で失礼。 先ずは「清政府得知此事,為了顯示其天朝大國的氣派,向高麗國的皇宮贈送了數臺救火激桶,」のリンク先のページ最後を見てみましょう。 「來源:法制晩報」とありますね。 資料が法制晚報。 清雍正年間に法制晩報はありましたか?
- 次のリンク先は開けませんね。http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~dahcr/91-6c4-2-5.pdf#search='%E6%B8%85%2C%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%9C%8B' あなたお得意の捏造でしょうか?
- 報告書レベルの「高麗国」ですが、国旗を説明した国家名を報告書レベルと合わせるとはお笑いですね。 貴方の理論だと、例えば世界に公示する資料で日章旗を説明する文を「扶桑国旗」やら「倭国旗」としているようなものですよ。
- 最初に反論と申しましたが、これは間違いの指摘程度でしたね。--阿修羅 2007年5月4日 (金) 23:59 (UTC)
それから、この「大清国属 高麗国旗」が出ていた朝鮮日報の記事について、自分として、釈然としない疑問があります。それは、日本版の記事を目にすると、この「大清国属 高麗国旗」が1882年7月に米海軍省(Navy Department)航海局(Bureau of Navigation)が発行した『海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations)に収録されたもの、としか考えられないあっさりとした記述なのですが、韓国版と英語版の記述を見ると、「大清国属 高麗国旗」の写真の下に付随する説明が書かれており、それには、『1883年3月に清国の外交文書上に記載されている「高麗国」の旗』との説明書きがあるのです。その記事上では、今回見つかった旗の写真ってどこに載せているの、という感じがするのです。ちなみに中国語版の記事には、そもそも「大清国属 高麗国旗」の写真自体、載せられていません。そのあたりの正確なことを知っている方はいらっしゃいますか?。--[利用者:manmt] 2006年8月3日 (水) 10:24
もう一度、朝鮮日報の日本語版・朝鮮語版・英語版・中国語版を見て検討してみたのですが、どうも英語版と中国語版それぞれの最初に載せられているものが、記事の主題である今回見つかったものではないかという感じがします。(そうすると、その記事の対象となる旗の写真は日本語版・朝鮮語版には載せられていないという考えづらい状況になってしまうのですが。日本版に至っては朝鮮語版にはあった、「大清国属 高麗国旗」の下にあった付随説明すらないため、勘違いするしかない状況となります)。なお、そうだとすると、起源の章で、Kahusiさんが「大清国属 高麗国旗」が起源である場合の根拠としてあげていらっしゃるこの記事自体が根拠足りえないこととなってしまうのですが。ほかに検討された方はいらっしゃらないでしょうか?。
--[利用者:manmt] 2006年8月3日 (木) 11:08
たびたび、すみません。「大清国属 高麗国旗」が清の公式文書に載せてあったものだとすると、「大清国属 高麗国旗」という文字自体は清の方で書き足したということも十分考えられます。その場合には、「属」の意味として「一族・一門」とするのは考えづらいことになります。「属」は「従者」・「下に立つもの」・「属国」との意味での表記となるのではないでしょうか。--[利用者:manmt] 2006年8月3日 (木) 11:40
- そうであるならば、清朝が当時の公文書で朝鮮に対して位置づけとして使用した「属国」「属邦」「藩属」などを使い、「大清属国」「大清属邦」「大清藩属」などと表記したはずです。--阿修羅 2006年8月7日 (月) 00:57 (UTC)
「藩屏」などという表現もありましたね。 おっしゃる表現はどれも十分考えられると思いますが、逆に言うと、それだけ多様な言い方を使用しているということだと思います。そのような多様的な表現が散見される状況で、「属」のみの名詞的表現や、現在でもよく見かける「附属」などで使用される用法などは否定する、ということができるのでしょうか。どうでしょう。 もちろん、朝鮮側で記載したということも考えられますので、朝鮮側の立場であれば別の意味を考えることが必要になりますが。 というか、中国の方に実際にモノを見せて、「どう読むの?」とか「どういう意味?」と聞いてみるしかないのかもしれませんね。あと、漢文の大家の方なんかに。。--[[利用者:manmt] 2006年8月7日 (月) 19:18
- 私が何時「附属」の用法を否定したでしょうか? 「属」のみの名詞的表現も、組織と名詞と関連させる文は「大清国属高麗国旗」以外に見たこと無いので疑問が残ると言っているのです。 ですので本来なら、「大清属邦高麗国旗」などと書くのではないかと言っているのですよ。--阿修羅 2006年8月8日 (火) 09:22 (UTC)
確かに、元々私も、今回に関連した文書以外に「ある組織」+「属」という書き方は見ていません。「史記」でも吾属「我が一族」、若属「お前たちの仲間」という言い方で出ています。 ただ、Philoloさんの情報によると、別の文書に「大清属高麗国旗」という表記もあったそうなので、「属」に「邦」や「国」がつく「はず」と結論付けるのは、やはり早計ではないでしょうか。--[[利用者:manmt] 2006年8月9日 (水) 15:56
さらに、たとえば「北属期」という言い方があります。ベトナムの歴史を語る上で、北(中国のことです)の支配を受けていた時期を意味する言葉です。この場合「北」というのは中国という国・組織を指しています。「北の国の支配下にあった時期」「北の属国であった時期」という意味で使用されています。実際にそのような言い方が存在していますから、動詞的に考える場合でも「大清国に属している」という解釈法は成立しますし、名詞的な「大清国の属国」という言い方も成り立つのではないかと思います。。--[[利用者:manmt] 2006年8月10日 (木) 1:20
ちなみに「北属期」という言い方は日本でのみ使われているわけではありません。念のため。 「越南历史上的北属期结束了」(ベトナム史上の北属期は終わった)と中国人も書いています。(変換されてないかもしれませんが、中国語の文の左から3文字目は「雁垂れに力」、右から3文字目は「結」の略字のようです)--[[利用者:manmt] 2006年8月10日 (木) 1:53
- ベトナム史での「北属期」とは、「北(中国のことです)の支配を受けていた時期」ではなく、「ベトナム北部が中国の王朝に服属していた時期」という意味ですよ。 私も忙しい身なので、もう少し真面目にお願いできないでしょうか?--阿修羅 2006年8月17日 (木) 09:05 (UTC)
単なる言葉尻に属すことですね。忙しいなら、たかだかこんな言葉尻の入力などわざわざ行うだけ時間のムダですよ。--[[利用者:manmt] 2006年8月18日 (金) 1:16
- いいえ、これは単なる言葉尻の問題ではないですよ。 まさに「属」の用法に関する重要な一つの例ですよ。
- 貴方は「越南歴史上的北属期結束了」の「北属期」を「北(中国のことです)の支配を受けていた時期」と訳し、これを根拠に「大清属高麗国旗」に対する貴方の見解が正しいと主張しております。 しかし、ベトナム史での「北属期」は、「ベトナム北部が中国の王朝に服属していた時期」であることはベトナム史の上では常識であり、「北属期」での「属」の用法は「大清属高麗国旗」に対する私の見解の根拠となります。
ちゃんと、北属期のことを知らないようですね。「支配を受けていた」というアバウトな言い方が正しいのですよ。なぜなら、その期間の形態は「時代・地域によって様々な支配形態を取った。唐以降、徐々に在地勢力が自立してゆき、独自の国家形成へと進んでゆく。」という状態で、朝鮮のように「服属していた」という状態ではないからですよ。私の勝手な見解だとでも思っていたのですか? ひとつリンクを貼っておきますので確かめてください。http://www6.plala.or.jp/dragonfly/chro/data/bac.html それから、「「北属期」での「属」の用法は「大清属高麗国旗」に対する私の見解の根拠となります。」って、阿修羅さん、「北属期」って現在中国で使用されている言葉ですよ。あなたは現在中国で使用されている単語は根拠にならない、とおっしゃっていたはずではないですか? それで私があげた「英国属」(英国領)の資料価値も否定したはずです。結局、いい加減なこと言っていただけですか。 どうしようもないくらいシラけました。[[利用者:manmt] 2006年8月18日 (金) 23:16
- 話が逸れて行きそうですので、話を元に戻します。 確認ですが、「北属期」は本来、「北(ベトナム北部)が属していた時期」と訳すのですが、貴方は「北(中国)に属した時期」と訳すと思っているのですね?
もう、失笑するしかないですね。ベトナムの「北属期」というのは、確かに主に現在のベトナムの北部にあたる地域が中国の支配下にあった時期です。だから「北属期」の「北」は「ベトナムの北部地域」と訳す、ですか。 なんとまぁ・・・。残念ながら、間違っていますよ。ご自分だけの解釈をごり押ししても事実は変わりません。阿修羅さんって、まず結論ありきで強引に自分の結論からはずれないように明確な事実も勝手な解釈で曲解される方だということが良く判りました。勉強していだくために判りやすいHPを一応紹介しておきすよ。「ベトナムが中国の支配を受けた前179年から後938年までの時期は、ベトナムでは通常「北属期」とよばれている。「北方の中国に属した時期」といった意味である。」 http://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/book_history.html 『北(中国)の支配によって北の制度・文化を押し付けられたが、我々は民族の伝統を守り通して、その良い点だけを摂取し、民族の独立のために常に努力していた』 http://www004.upp.so-net.ne.jp/terrarium/history/vietnam/viethis02.html ベトナムって、ベトナム戦争当時、北ベトナムって言っていた地域の歴史観(最初は中国とも仲が良かった)を大元にしてモノを言ってますし、ベトナムで「北人」「南人」って言い方があるんですが、「北部のベトナム人」「南部のベトナム人」ではないんですよ。両国の関係を語る中で、「北人」は「中国人」、「南人」は「ベトナム人」のことを指します。 ベトナムと中国のかかわりを考えるときの、そのような常識すらわかっていないんでしょうね。--[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 11:05
- 自分では資料を探そうともせずに、他人の解釈を何の恥じらいも無く堂々と自分の解釈の根拠とあげる貴方の純情さには脱帽です。
- なぜ貴方は他人の解釈を自分の解釈の根拠としてあげるのですか? 貴方は何か資料を見つけてから資料を根拠に解釈してゆくのではなく、まずは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を基とした自分の希望があり、その希望に沿う他人の解釈を探しているだけではないですか?
- その証拠に、他人の解釈を自分の解釈の根拠としてあげるわりには、この人の解釈は無視していますね。
- 『ちなみに「北属期」という言い方もヴェトナム北部に成立した諸王朝からの呼称であって、チャンパ王国を含むものではありません。』北属期
- ベトナム独立戦争からベトナム戦争初期までは同じ共産主義ということで中国共産党と仲良かったですが、ここはやはりベトナムと中国、ベトナム戦争中期以降は犬猿の仲となりましたよ。
- ベトナムでの「北人」「南人」は、清朝を「北国」と言い、自国を「南国」と言った阮朝ベトナムからベトナム独立までの「南国意識」が有った時までですよ。 独立以降は、統一されるまでの南ベトナムで、共産主義の北ベトナムから逃げてきた人を「北人」と言い、地元の人を「南人」と言って、「北部のベトナム人」「南部のベトナム人」として使っていました。
- ちなみに私が「北属期」の「北」は「ベトナムの北部地域」を指すという根拠は、
- ①ベトナム北部が交州として中国の支配を受けていた当時、ベトナム中部から南部にかけてチャンパ王朝が存在し、しばしば交州日南郡を攻撃する独立王朝が存在した。
- ②「北属期」と同じくベトナムの歴史区分として「属明期」があり、大越とチャンパが共に明国に滅ぼされて直接支配を受けて、21年間ベトナムの王朝が存在しなかった時期は「属明期」として、被支配の程度によって明確に書き方を分けている。
- それでは、他人の解釈ではなく、史実や資料を基にした貴方の「北属期」を「北(中国のことです)の支配を受けていた時期」と訳すという根拠を提示してください。 そして、私の二つの根拠に反論してください。 こんどこそ真面目にお願いしますよ。--阿修羅 2006年8月22日 (火) 06:25 (UTC)
おやおや、「北属期」という言葉は、あなたが作られた言葉でしょうか? あなたが「北属期」という言葉をどう考えるか、ということをお聞きしても意味が無いことです。現在、「北属期」という言葉が存在しており、その言葉の文字は、どういう意味で広く使用されているか、ということです。「私はこう解釈したほうが良いと思う」ということは単なるあなたの感想であって、実際とは違います。こんな意味の無いことを堂々とお話になるとはホントお笑いです。「こっちがふさわしい」などというあなたの意見ではなく、「北属期」の「北」の字は「ベトナム北部を指す」と述べている資料の提示をよろしくお願いします。散々、私に資料を提示しろ、といっているんですから、当然あなたは提示していただけるんですよね。。--[[利用者:manmt] 2006年8月22日 (火) 17:42
- あの、「北属期」は「ベトナム北部が交州として中国の支配を受けていた時期」という意味で広く使われていますよね? まさか「ベトナム全土が中国の支配を受けていた時期」では無いですよね?
- また、私は北史や旧唐書、大越史記全書などの史書を資料として、前にも以下の史実を根拠に「北属期の北はベトナムの北部を指す」としています。
- ①ベトナム北部が交州として中国の支配を受けていた当時、ベトナム中部から南部にかけてチャンパ王朝が存在し、しばしば交州日南郡を攻撃する独立王朝が存在した。
- ②「北属期」と同じくベトナムの歴史区分として「属明期」があり、大越とチャンパが共に明国に滅ぼされて直接支配を受けて、21年間ベトナムの王朝が存在しなかった時期は「属明期」として、被支配の程度によって明確に書き方を分けている。
- 以上のように、私は何度も資料と根拠を提示していますので、今度こそ私の根拠とその資料に対する反論と、貴方の根拠とその資料を提示してください。--阿修羅 2006年8月24日 (木) 05:43 (UTC)
「北属期」は「ベトナム史上、主に国土の北部地方が中国(北)の支配を受けていた時期」という意味で広く使われていますよ。「北史や旧唐書、大越史記全書などの史書を資料として、史実を根拠に「北属期の北はベトナムの北部を指す」としています」ということですが、その資料から、あなたが「北という言葉の意味は、それがふさわしい」と判断した、ということだと思いますが。違いますか? それとも、どれかの資料に「北属期の北とは北部を指している」とでも記載されているのでしょうか。あなたの発言は、表記の文字が実際にこのような言葉の意味で使用されているという「事実」を述べているものではありませんね。「このような資料から私はこう考えます」に過ぎませんが? 私は自分が学習したときに、そのような言葉の意味だということを学習しました。だから私が考える「属」の用法と近いと考え、例に出したわけです。それがあなたを説得する材料としては意味を持たないようですから、この件については続けてもムダのようですね。--[[利用者:manmt]2006年9月20日 (水)14:59
- ですから、「広く使われている」などという子供じみた釈明はよろしいので、いい加減に史実や資料を基にした貴方の「北属期」を「北(中国のことです)の支配を受けていた時期」と訳すという根拠を提示してください。 これで何度目ですか? --阿修羅 2006年10月15日 (日) 22:34 (UTC)
- あと、私は私の見解の根拠となるのは“「北属期」での「属」の用法”と言っていますよ。 誰が“「北属期」の単語”と言いました? 人の発言を勝手に作り出した挙句、勝手に「シラけました。」とは・・・ 見ている方がシラける虚しい独り相撲ですね。--阿修羅 2006年8月19日 (土) 02:33 (UTC)
「用法」ですか。それが問題なのであれば、私の「英国属」(英国領)を否定するときも、そのようにおっしゃれば良いのです。「辛亥革命以降の新しい外来語云々、多くの現代中国人が封建時代の漢文を読めないのもご存知ですよね。現代中国語と清朝など封建時代の中国語は別物と見ても過言ではありません。」などと、包括的な理由のみを、おっしゃらなければ良いのです。外来語であろうと、新しい現在の単語であろうと、阿修羅さんが考える用法で作られているものであれば、かまわないのでしたら、最初からそうおっしゃれば良いのです。見ている方がシラける虚しい独り相撲ですか? あなた自身の発言じゃないですか。それは。--[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 11:16
- 貴方は朝鮮やベトナムなどのアジアの小国に対して、何か先入観を持っているようですね。 ベトナムの歴史を元に常識的に「北属期」を解釈したら、「北属期」の「北」が中国を指すと思う事など絶対に有り得ませんから。--阿修羅 2006年8月18日 (金) 03:33 (UTC)
は? 先入観ですか? ベトナムの歴史を学習した人なら、「北属期」の「北」とは中国の歴代王朝をさすのは常識ですよ。 あなたは学習されていなかったから、意味不明な、「アジアの小国に対して、何か先入観を持っているようですね」などと言うような発想が出るのでしょうね[[利用者:manmt] 2006年8月18日 (金) 23:26
- 「北属期」の「北」が中国の歴代王朝をさすのが常識ですか・・・ それでは、貴方は以前に“「越南歴史上的北属期結束了」(ベトナム史上の北属期は終わった)”と言っていますね。 「越南歴史上」と言ってるので、「北属期」とはベトナムから見た呼び方も常識ですよね。--阿修羅 2006年8月19日 (土) 02:33 (UTC)
両国が関係する歴史を語るとき、「南」はベトナム、「北」は中国を指すのが常識です。ちゃんと勉強してから話してください。[[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 11:19
- 貴方の他人の解釈を根拠とする「常識」は結構ですので、私が質問している“「北属期」とはベトナムから見た呼び方なのか?”に答えてください。 答えたくなければ、それはそれで返答してくれなくても結構ですけど。--阿修羅 2006年8月22日 (火) 06:25 (UTC)
もちろんお答えしますよ、「北属期」の「北」はベトナムから見た呼び方です。ベトナムの北は「中国」ですから。さらに「越南」という地域名の「南」は中国から見た呼び方から来ています。中国の南はベトナムですから。そして、ベトナムでも中国でも「北属期」「越南」を使用しています。それから、他人の解釈を根拠としないで、自分だけの解釈をする貴方、おかしいと思いませんか。世の中の「常識」とは、自分の解釈がどうあれ世間の多くの人が認めている他人の解釈です。常識を話すときは必ず他人の解釈でもあることを述べられないと意味がありませんよ。。[[利用者:manmt] 2006年8月21日 (月) 17:59
- 私が質問しているのは、“「北属期」の「北」とはベトナムから見た呼び方なのか?”ではなく、“「北属期」とはベトナムから見た呼び方なのか?”ですよ。「北」ではなく「北属期」ですよ。質問を理解してから答えてますか?
- また、ふつう議論の時、自分の解釈の根拠を説明するときに「他人の解釈の根拠」を引用する場合はありますが、貴方のように「他人の解釈」のみを自分の解釈の根拠とするようなことは有りません。精神構造を疑われるだけですよ。
- 最後に、言葉の誤用は珍しい事ではありません。例えば「役不足」のように、多くの人が間違った解釈で使用しています。言葉にはその由来などがあり、これを知らないと間違った解釈して使用します。事実、「役不足」は私も間違って使用していました。しかし、普通の人なら間違いに気付いた時、「ああ、そうだったのか」程度に思って正しい使用を始めますが、「阿修羅」的な人は、目的が言葉の正しい使用ではなく、嫌いな者に関する事なら理由も無く何でも嫌うのが目的なので、意地になって間違いを認めないようですね。私も閑人ではないので、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な人と議論をするような無駄はしたくありません。貴方も貴方の目的に合った人を探して、その人とお遊びになった方が楽しいのではないでしょうか?--阿修羅 2006年8月24日 (木) 05:43 (UTC)
そうですね。まさに阿修羅さんの対応は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な対応をなさってますね。阿修羅さんは阿修羅さんの目的に合った人を探して、その人とお遊びになった方が楽しいのではないでしょうね。 このような場は、自分の土俵だけに固執せず、いろんな解釈について、お互いに「まず可能性を考えてみる」というところから出発しないと正しい結論など得ることはできません。ブレーンストーミングの基本が身についてから、このような場での議論に参加されないと今回のようになりますよ。私が提示した中国語の資料をあげての話について、第一声が「失望した」では、基本が身についていないな、と充分感じることができました。--[[利用者:manmt] 2006年9月11日 (月) 10:48
- 議論の場でブレーンストーミング方式? 議論でのブレーンストーミング方式は、「とりあえず、この場だけを収めよう」的な結論しか出ませんよ。あなたは普段からもその場その場限りの適当なやり過ごしだけで人生を送ってるのではないですか? おまけに相手の発言までも捏造。 [5] これでは誰でも失望しますよ。--阿修羅 2006年10月15日 (日) 22:34 (UTC)
誰が最後までブレーンストーミングで完結させると言いました? こういう決定的な状況がわからないものに対しては、議論の最初はブレーンストーミングで入ると良いのですよ。阿修羅さん、あなたは他の考えに対して、最初から、自分の土俵で判断して一蹴する、というスタンスを取っています。それでは建設的な議論に発展しないと言っているのです。はっきりしないものについて皆が議論するためには、まずいろんな考え方を肯定的に出し、そこから、話し合いながら、それぞれの論点と問題点を明らかにしていく、というフェーズで議論していくものです。それから、すごいですね。私が人生をどう送っているか、などという言及などというのは、悪意以外の何物でもないですね。相手の発言の捏造、ですか。確かにそういう状況が確認できますが、私は知りませんよ。私的に、そんなことに何の意味があるのです? 改竄された内容を見ても、内容自体が議論自体とは関係の無い部分で、ここまで大騒ぎするほどの内容なのですか? これだけ、何度も繰り返し言及して、わざわざ別段落で項目を作ってまで大騒ぎする。はっきり言って異常ですよ。阿修羅さん。これではみんな阿修羅さんに失望ですよ。最初は冷静にきちんと議論される方かと思っていましたよ。本当に残念です。。--manmt 2006年11月6日 (月) 21:59
- 途中から失礼します。漢文の読み方以前の問題として「大清国属高麗国旗」と書かれた太極旗は清の李鴻章が編纂した『通商章程成案彙編』(1886年)に掲載されたもので太極旗の起源とまではいかないのではないでしょうか。Philolo 2006年8月7日 (月) 05:33 (UTC)
そうだったんですか。 そうすると、朝鮮日報の1983年3月の表記はどういうことなんでしょうね。 ほかの資料から「高宗(コジョン)は1883年3月6日、太極模様を中心に、四隅に四卦を置いた太極旗を国旗に制定・宣布した。 」らしいですので、そのときのものが1886年の通商章程成案彙編に掲載された、ということなんでしょうか。 どうも朝鮮日報の記事自体にすっきりしないものを感じるので、こういう情報はありがたいです。。。--[[利用者:manmt] 2006年8月7日 (月) 19:32
- 文献が出版されたのが1886年なので1883年から1886年までの太極旗と考えられます。ただし、1874年の太極旗だという説もあります。なぜなら『通商章程』は1874年の清と外国とで交わされた条約などを収めたものだからです。しかし、1882年8月に朴泳孝が日本に向かう船のなかではじめて八卦を四卦に削った太極図を作り、1883年3月に公式に国旗としたというのが通説でしたからそれ以後のものと考えるのが普通でしょう。ここで「大清国属高麗国旗」の題と太極旗の部分だけの写真が多いので分からないかもしれませんが、実際はその横にも他国の国旗が揚げられています。そのほかの清側の史料として『通商約章類纂』(1886年/1898年)があり、同様の図案が掲載さていてそこでは1886年版では「大清属高麗国旗」1898年版では単に「高麗国旗」とされているそうです。その朝鮮日報の記事の『Flags of Maritime Nations』第5版が発見されるまで最も古い四卦太極旗を残したものは日本東京の日刊新聞『時事新報』1882年10月2日で、これが朴泳孝が考案したものであろうと考えられていました。これは新聞ですから白と黒だけで表され、青とか赤とか五色とか漢字で書かれており、旗のうえには「朝鮮国旗」と記されていました。なお2004年に朝鮮日報で発見が報道された『Flags of Maritime Nations』第5版は1882年7月の出版なので今までの定説を覆す史料ということになります。ちなみにここでは旗の上に「Corea」下に「Ensign」とあるだけで、旗の名前は記されていません。検索したところFlags of Maritime Nationsと朝鮮日報2004年1月27日11面の写真がありましたので参考にどうぞ。
いろいろと情報をありがとうございます。
整理すると、1986年の『通商章程』で「大清国属 高麗国旗」の表記、同じ1986年の『通商約章類纂』で「大清属高麗国旗」の表記、1898年の『通商約章類纂』で「高麗国旗」の表記、ということですね。このあたり、日清戦争以前は、清としては対外的には、「朝鮮は清の属国である」というスタンスであったわけですし、日清戦争後はそのようなスタンスを放棄した、という状況を正に示しており、興味深いことです。
しかし、これだけ何年にもわたって「高麗国」という国名を何度も公式文書上に堂々と載せているということは、清国としては「高麗国」でも「朝鮮国」でも同じ、という意識だったのでしょうね。「明」が命名した「朝鮮」という国名は、清からすると打倒した明の宗主国としての証明のようなものなので、否定的だった部分もあるのかもしれません。明の公式文書であったならば絶対に「朝鮮国」の表記だったでしょうね。
ちなみに、『通商約章類纂』で「大清属高麗国旗」の表記というのは「大清属」と「高麗国旗」は別々の行であったり、字の大きさが異なっているのでしょうか。ご存知でしたらお教えください。
それから『時事新報』1882年10月2日でのものは、朝鮮日報で「大清国属 高麗国旗」の左に掲載されていたものですね。「朝鮮国旗」という文字については日本人が勝手に書いたものか、そのまま書き写したものなのかは分かりませんが、日本としては朝鮮通信使という言い方からも「朝鮮国」という言い方が完全に定着していたのでしょうね。
また、紹介していただいたリンクで実際にFlags of Maritime Nationsを見てみると、やはり、朝鮮日報の記事で発見されたと言っていたのは、英語版、中国版の最初に掲載されているものですね。朝鮮語版はネット上の記事には載せていなくて、翌日日付の紙面には載せていたんですか。とすると、「日本語版」だけにはフォローもなく、掲載しなかったということですか。単に「いいかげん」だったのしょうか。--[[利用者:manmt] 222.228.86.248 2006年8月9日 (水) 15:4107:29(UTC)偽署名抹消--hyolee2 2006年8月9日 (水) 07:32 (UTC)
偽署名抹消って、Hyolee2さん、どういう意味なのでしょうか。ログインし忘れて編集作業をすると、当然ログイン名は出てきません。ログインし忘れていることも多いので必ずmanmtと署名しているのですが、確かめたり状況を聞かずにいきなり人の署名を抹消するというのは失礼ではないですか。それから、時間もおかしいと思っているのかもしれませんが私の実際に投稿した時間が表示されないようなので、実際の時間を入力しています。--[[利用者:manmt] 2006年8月10日 (木) 0:54
- いい加減に捏造と偽署名は止めていただけませんか?--阿修羅 2006年10月15日 (日) 22:46 (UTC)
久しぶりに覗いてみたら、捏造と偽署名騒ぎですか。 私の投稿を自分でも調べてみたら、阿修羅さんご指摘の9月投稿分で確かに、阿修羅さんの発言が改竄されているようですね。こちらでは「坊主憎けりゃ」の部分を「阿修羅」に改竄した覚えはありません。そんなことしても意味ありませんから。原因は私も知りたいですね。それから、私自身、偽署名なども一切していませんが。--manmt 2006年11月6日 (月) 17:38
- でしたら本来の文章に直したらいかがですか?--阿修羅 2007年5月4日 (金) 23:59 (UTC)
私がやったことなら、謝罪をした上で訂正しますが、私がやったのではないので、謝罪など、おかど違いです。 はっきり言って、犯人だという濡れ衣を押し付ける、あなたに対して怒りを覚えています。 署名は偽署名などするわけありません。--manmt 2008年11月6日 (火) 15:05
初めまして。議論に参加させていただきたく、まず基本的な質問をさせて下さい。
阿修羅さんは、「大清国属高麗国旗」の意味は「大清国が属する高麗国の旗」となる、と仰っていますが、
これは阿修羅さんが身に付けた"当時の漢文"に関する素養を元にこう読まれるのでしょうか?
例えば"美属维尔京群岛"をどう読まれますか?当時の漢文として訳した場合と現在の漢文として訳した場合で違いがあるなら、両方お教え下さい。--まひと 2006年10月23日 (月) 06:33 (UTC)
- 言葉というのはその時代によって変化するというのはご存知ですよね。 "当時の漢文"ももちろん当時の時代背景が反映されています。 ですので私は以前より繰り返し主張していますが、「大清国属高麗国旗」の意味は「大清国が属する高麗国の旗」だが、当時の時代背景から見て有り得ないといっているわけです。
- "美属维尔京群岛"はいつの時代の表記でしょうか? また、群岛と国家が同じ国際関係行政区分になるとお考えでしょうか?--阿修羅 2007年5月4日 (金) 23:59 (UTC)
既出ですが、再度。 あなたの土俵に近い内容を提示しておきますよ。 1919年ごろ執筆されている本で「南洋群島──英屬之部」(南洋群島--イギリス領の部)という題のものがあります。朱鏡宙という方が書いています。この方は「英屬馬來半島」(イギリス領マレー半島)という本も書いています。1890年生まれのこの方は、まだ清の時代に教育を受けており、これでは、少なくとも、あなたのように「現代中国語の略語」と簡単に片付けて一蹴するには無理がありますね。 この用法について、国と国での表記がない限り国と国の表記に当てはめられないと頑なに言い張って認めないのはあなただけでしょうね。--manmt 2008年11月6日 (火) 15:30
- まひとさん。こんにちは。manmtです。阿修羅さんとの議論での発言では、お見苦しいところを多々お見せしまして、申し訳ありません。この「大清国属 高麗国旗」については素人なもので、議論の初めころは「大清国が属する高麗国の旗」という、どう考えてもおかしいぞという印象の解釈が出ているだけの状態で、議論も閑散としてほとんど進んでいない状態でしたので、完璧に調べるというところを後回しにして、他の可能性を述べていました。その後、いろいろな情報を集めていく過程で、自分で前言を撤回するというお見苦しい状況も出てしまいました。でも、呼び水となり、誰かが正しい解釈や新しい情報を提供していただければ前進だ、というつもりで行っていましたのでお許しください。まひとさんとの間でも有意義な意見交換が出来れば幸いです。--manmt 2006年11月13日 (火) 19:01
興味深く読ませていただきました。4年も前の古い議論ですが一連の流れで疑問があり、議論が曖昧に終わっていることもあり、ノートをつけます。 疑問点は、この一連の議論の最初に主張してある「『大清国属』を『大清国が属する』と訳すべき」という主張に対して、阿修羅氏の解釈以外に検証可能な形で根拠が提示されていない点です。 逆に阿修羅氏が問題視している「『大清国属』を『大清国に属する』と訳す同時代の例文として、日清戦争の宣戦布告を提示します。1894年の通称「甲午战争大清光绪皇帝宣战谕旨」では、「朝鮮爲我大清藩屬〜」と「『大清国に属する』と訳すべき『大清藩屬』」の例が見てとれます。またこの資料は日清戦争勃発時、日本政府の宣戦布告に対して清国の朝鮮における立場を表明した文書になっているため、当時の清国の形式的かつ公式な朝鮮への立場が表明され「大清国に属する」と訳す根拠が与えられます。蛇足ですが、ここでの「藩」はモンゴル帝国以来の遊牧民が利用する国号であり、西欧接触以後の「国」でも清国近代政治改革後の「帝国」でもなく,敢えて古風な「藩」を用いることで「清」が「中国」になる(明を滅ぼす前に)朝鮮と朝貢関係を結んでいた歴史を強調しています。 敢えて「『大清国属』を『大清国が属する』と訳すべき」主張の根拠となる外部で検証可能な資料があるかもしれませんので、そちらの方も検討材料として探してみます。
- すいません、随分時間も経った話で本当に申し訳ないのですが・・・全てを拝見しても、そもそも何で議論になったののかが全く分かりません。
- まず第一に、日清戦争の宣戦布告文においても、その講和条約においても、明確に朝鮮は清の属国"扱い"をされていたのは完全なる事実でしか無い事は、阿修羅氏まで含めて認めておられますよね?
- そして、少なくとも現代中国語においては「国属」=「国”に”属する」の意味なんですね?
- もうこの時点で、「大清国属」については、やはり当時も現代と同じく「大清国”に”属する」という意味であった、という解釈しか成り立たないですよね。わざわざ無理に別の解釈の可能性を考える意味が分からない。
- 結局、言葉尻を拾った非道い揚げ足とりによる議論の拡散ばかりが成されて、歴史の全体像が完全に霞んでしまっています。しかも、その阿修羅氏の発言そのものの中を見れば
- >「属国」「属邦」「藩属」などを使い、「大清属国」「大清属邦」「大清藩属」などと表記したはずです(2006年8月7日 (月) 00:57 (UTC))
- ・・・とありますが・・・ 何で、「藩」の時だけは「国」を表す文字の場所が違うのか、その合理的な説明がありません。本当に普通に考えるなら、「属国」「属邦」”「属藩」”でなければならないでしょう。やはり、一番最後のコメントにある「藩=国の意味であり、しかも、日清戦争の宣戦布告文で明確に”大清藩属”=清 ”に” 属する、という意味で使われている事から、”大清国属”も 清 ”に” 属する、の意味と解するべき」という説明こそが、一番合理的ですよね。
- ということで、この話は完全に決着していて、初期の太極旗には「清に属します」と、堂々と書いてあった、という事に皆さん合意なさった、と言う事でよろしいのですよね?--Koreationbuster(会話) 2012年3月14日 (水) 10:51 (UTC)
阿修羅氏のガンバリは最早、度を越えていますね。どうして、清と李朝の主従関係くらい理解できないのかとビックリします。manmt氏が持ってきた英領バージン諸島の例をわざわざ現代語として勝手に定義してまで自説に拘っておられますが、Googleブックスの元の史料においても英属、徳属などの表現で書かれています。本当に中国語に詳しい方なのか疑問に思います。何故、こういうことに意固地になって認められないのか訳が分かりません。 --Seisato(会話) 2013年9月23日 (月) 14:03 (UTC)
manmtさんの捏造行為について
議論の場であるはずの上記の“「大清国属 高麗国旗」について”においてmanmtさんが他人の発言を書き換えて捏造しました。“「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な人は”を“「阿修羅」的な人は”に書き換え捏造 [6]
manmtさん自身はこの行為に関して、どのようにお考えなのでしょうか?--阿修羅 2006年10月7日 (土) 14:06 (UTC)
先ほども書きましたが、確かに改竄された状況がこちらでも確認できました。 ただし、こちらでは覚えがありません。同じ投稿のほかの部分は確かに私が入力したのは間違いありませんが、阿修羅さんの投稿の「坊主憎けりゃ~」の部分を「阿修羅」に変えた覚えはありません。そんなことをしても意味ありませんから。 それにしても、事実関係を調査もせず、まず、わざわざ独立の段落を作って個人を糾弾するなど、びっくりです。阿修羅さんってすごい感覚をしていらっしゃるんですね。--manmt 2006年11月6日 (日) 18:24
一応言っておきますが、さっき、ログインして入力していましたが、時間が長かったせいか、ログオフされていました。履歴にmanmt表示がありませんが、さっきの投稿は私です。 しかし、このノートのあちらこちらに、捏造・偽署名と何度も書き込んでいますね。阿修羅さんは。いやはや、驚きです。--manmt 2006年11月6日 (日) 19:38
- 貴方自身が本来の文に直せば皆さんも貴方の言い訳でも許すのでは? 書き換え捏造箇所[7]--阿修羅 2007年5月5日 (土) 00:05 (UTC)
久しぶりに覗いてみたら、何なんだか・・・。 許すも許さないも、やってないことを、あなたを含め他人に許してもらう必要などありませんが? 内容自体とは無関係なこのような単に個人を攻撃するだけが目的の段落は、単に反論できなくなったあなたの悪意の発露以外の感想しか持ちえません。 manmt|manmt]] 2008年11月6日 (木) 15:02
折衷案説について
朝鮮は、国旗制定にあたって清にお伺いを立てたみたいですよ [8]
類似品について
ペプシ、アップルの広告との類似については、韓国語ソースを確認したので「その他」に移動します。
なお、ペプシコーラのロゴが現在よく見られる形状(太い白帯つき)になったのは1906年1950年らしいです。
(細帯になったのはここ20年くらいのことではなかろうかと)
高宗による太極旗の公布が1883年ですが、同社関係者が太極旗を見たかどうかのソースは明らかなものがありませんでした。
--Lemmingdead 2007年3月17日 (土) 02:42 (UTC)
- こちらに変遷の画像がアップされてました(韓国人によるもの)。どうやら1950年ごろから上下に太極図がつき、徐々に白線が細くなって旧ロゴが省略され、韓国国旗に近づいてきたようで、細帯のロゴは1991年に韓国系アメリカ人がCEOに就任した以後のことらしいですが?--Lemmingdead 2007年4月3日 (火) 01:59 (UTC)
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=17&nid=78464
ページデザインが変
概要を示した表が図の左側に配置されているため、本文が変に押し出されています(伝わるかな?) 環境によるものなのかもしれませんが、もしGeneralに変に見えているなら誰か修正してください121.82.185.125 2007年6月2日 (土) 08:04 (UTC)
- テンプレート側を変更してみました。--kahusi (會話) 2007年6月2日 (土) 09:10 (UTC)
- 確認しました。ありがとうございます。121.82.183.165 2007年6月3日 (日) 10:15 (UTC)