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ノート:大罪

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大幅改稿

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現行の「カトリック教会のカテキズム」などの要理書にもとづき、本文を大幅改稿しました[1]。 これまで出典として引用されていた『公教要理』は第2バチカン公会議以前の非現行のもので、『聖ピオ十世公教要理詳解』『カトリック小事典』は教会の公式な要理書ではないうえ現行の「カトリック教会のカテキズム」が出版される以前のものです。用語・訳語なども含め、これらは必ずしも現在のカトリック教会の教義を正確に反映しているとは言えないと判断しました。 --Lorettibarrend会話2014年2月10日 (月) 14:08 (UTC)[返信]

大幅改稿に 賛成 趣旨、内容、共に異議ありません。「何とかした方が良い記事だ」とは思っておりましたが、如何せん私には手に負えない分野でした。ありがとうございました。--Kinno Angel会話2014年2月10日 (月) 14:24 (UTC)[返信]
何点か、事実誤認があるようです。まず、聖ピオ十世のお書きになった『公教要理詳解』は、教皇庁の発刊した権威ある要理書で、「教会の公式な要理書ではない」ということはありません。どころか、日本のカトリック中央協議会の発行する要理(『公教要理』、『カトリック要理』、『カトリック教会の教え』)よりも権威があります。なぜなら、後者は各国語に翻訳され、世界各国で発刊されることはありませんが、前者はそうされているからです。(日本では、オプス・デイの運営する精道教育促進協会が翻訳)リンクしました通り、例えば、英語版にも記載があります。よって、wikipediaのWP:RSを満たしており、削除案件には当たりません。また、『カトリック小事典』は確かに要理書ではないですが、カトリックの専門書には違いなく、同じく信頼できる情報源と言えます。以前にも、他の記事のノートに書いたことがあるかと思いますが、wikipediaはカトリックの為の媒体ではありません。よって、カトリックの掟や習慣等ではなく、wikipediaのルールWikipedia:信頼できる情報源に沿って、編集されないといけません。カトリックの辞典といえど、wikipediaの基準は満たすと言えますので、コメントアウトされた箇所は、再掲させて頂きます。カテキズム以外からの掲載はしてはいけない、とは、wikipediaのルールのどの箇所にも書いてはありません。--Michael tiara会話2014年2月20日 (木) 18:52 (UTC)[返信]
また、ローマ教皇ベネディクト16世は、断絶と不継承の解釈学は誤りとし、「第二バチカン公会議を、教会の伝統の断絶と見なすべきではない」という趣旨のことを繰り返し、述べておられます。そして、「公会議前を称揚して現在の教会を否定する者も、公会議を称揚して過去の教会を否定する者も、教会の伝統の連続性を認めないという点で同じ過ちを犯している」と警告しています。第二バチカン公会議が、教義に関するものではなく、司牧的な公会議である、というのはご存知かと思います。要するに、公会議前と公会議後で、組織の運営の仕方等は多少変化しても、ドグマに変化はないわけです。教義は改められておらず、公会議前に大罪であった罪は公会議後も大罪であり続けるわけです。よって、その意味からも、現行の前の要理書等典拠の情報も記載して良いかと思います。情報はなるだけ詳しい方がいいでしょう。--Michael tiara会話2014年2月20日 (木) 19:56 (UTC)[返信]
Michael tiaraさんには失礼ですが、一部は再度差し戻しのうえ[2]、あらためて具体例についてより詳しく内容を補記しました[3]。まず、『聖ピオ十世公教要理詳解』について、「教会の公式な要理書ではない」というのは私の誤りで、おわびいたします。しかし、(英語など他言語版はどうか知りませんが)少なくとも日本語版については、『カトリック教会のカテキズム』の内容を反映していないはずだと思いますし、同じ教皇庁による公式なものなら、新しい『カトリック教会のカテキズム』の方が優先されるべきものだと考えます。第2バチカン公会議によって教義は改められていないのはわかりますが、教会法は変わっています。「公会議前に大罪であった罪は公会議後も大罪であり続ける」かどうかは微妙なところではないでしょうか。もし、詳細についてまでまったく変更がなく公会議後の今も大罪であり続けるのなら、『カトリック教会のカテキズム』やその要約(『コンペンディウム』)、『カトリック教会の教え』(日本カトリック司教団)のいずれにも、『聖ピオ十世公教要理詳解』に書かれていたとおりの詳細な具体例が書かれていないのは不思議です。そもそも第2バチカン公会議によって要理が変わっていないのなら、『カトリック教会のカテキズム』などの書籍を公布・出版する必要もなかったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
また、「公教要理」は明らかに非現行のもので、Wikipediaの出典として掲載してはいけないとまでは言いませんが、「以前はこのように教えていた」という参考資料のようなものに限定されるべきと考えます。じつは他の記事でも、プロテスタントの信者と思わしき編集者が公教要理から引用して「カトリック教会では・・・」と第2バチカン公会議以前の規定等がいまもそのままであるかのように編集していたものがあり、「公教要理は出典として古すぎる」と苦言を呈してきたばかりです。(ノート:ノンクリスチャン
それから、「wikipediaはカトリックの為の媒体ではありません」というMichael tiaraさんのご主張はごもっともだと思います。だからこそ、他者の誤解を招かないためにも最新の要理書にもとづいて書かれるべきであり、「具体例」や信者の「掟」をあえて『カトリック教会のカテキズム』からの引用を除去してまで以前の書籍を引用して詳しく書く必要はないのではないでしょうか。特に、「安息日に、・・・重い労働をすることは第三戒に反する大罪とされる。具体的に禁じられている労働とは、・・・耕作、土木、建築、機械工作、運送などを指す」の部分は、『カトリック教会のカテキズム』等にはそのような記述はまったく見られず、現代社会においては(少なくとも日本の)カトリック教会で実際にそのように教えたり言及していることはまずありえないと思われ、どうみても現代にそぐわない記述だと思うのですが。
最後にMichael tiaraさん、編集はできるだけ少ない回数で行っていただくよう、お願いします。——以上の署名の無いコメントは、Lorettibarrendノート履歴)さんが 2014年2月24日 (月) 09:52 (UTC) に投稿したものです(Kinno Angel会話)による付記)。[返信]
コメント 大体Lorettibarrendさんに異議ありません。
カトリック教会以外の例になりますが、正教会でも、現在は「聖書は聖伝に含まれる。聖書は書かれた聖伝の中で最も重要」と整理されるのが主流ですが、19世紀、西方教会の影響が強かった時代の正教の定理神学書を見ますと「聖書と聖伝」といった表現が主流でした。
これを「正教会は変わって居ないのだから、19世紀のものを使って良い」とは考えられません。「捉え方・表現方法が変わって居る」(正教会の見解に従えば「成長した」「過去の誤りないし行き過ぎを修正した」)のであれば、たとえ教義が変わっていないとしても、過去の出典を現在の出典に優先させる合理的理由はありません。
そもそも「教義が変わって居ないのであれば過去も現在も完全に変化無し」では無い事は前提です。
他方、「過去においてこのような表現がなされ、保守派は今でもこれを是としている」といった記述は、量的バランスを崩さない限りにおいては可能とも考えます(これもLorettibarrendさんに異議無いところですね)。--Kinno Angel会話2014年2月24日 (月) 13:26 (UTC)[返信]
Lorettibarrendさんのコメントに対してのお返事です。やや断片的になってはしまいますが、思い付いたことから書かせて頂きます。
『カトリック教会のカテキズム』からの引用を除去してまで以前の書籍を引用して
私は必ずしも引用をしているとは限りません。mortal sinとgrave sinの違いについては、小辞典の説明があまりに的を得ているように思いましたので、そのまま載せましたが(というか、私の編集前に双方の違いに疑問を呈するような典拠不明の文章が載っていましたので、それと差し替えるような、答えるような形になっています)。また引用について私の考えを書きますと、Lorettibarrendさんの教理に関する文章は、少しそれが過度なように思います。必要止むを得ないなら引用してもいいでしょうが、もっと簡潔な言葉で説明ができるのに、物によっては回りくどいカテキズムの表記を、括弧で抜き取って継ぎ接ぎ的な文章ばかりを作る必要性がどこにあるのか、と私には思ってしまうことがあります。wikipediaとは辞典のはずですが、そうした百科事典が他にあるでしょうか。何を典拠とすべきかに意見の相違があるようですが、『公教要理』や『公教要理詳解』等も用いたとはいえ、私はそうした書き方はしませんでした。過度に引用にこだわるより、要約して簡潔に書かれた方が、見る者にとって利益になると思います。
教会法は変わっています。
変わっている物と変わっていない物があると思いますので、正直な話、そこら辺はいつか確認したいです。○○については教会法はこれこれなので、日曜日に故なく教会に行かないのは大罪である、みたいに書いている信者のサイトもありましたし、気になるところではあります。
他、また書かせて頂きたいですが、英語版との違いには驚きます。なぜ、英語版ではあれだけのことが大罪として挙げられていて、日本語版の少なくともLorettibarrendさんの編集では、(あれらより)少ないのでしょうか。もし大罪等がどうでもいいことなら、教養・豆知識的に、新旧の要理の情報を共に載せてしまっていいと思います。ガンダムあたりの記事が、いろんな図鑑やらコミックやらを典拠にやたら詳しくなっているのと同じくです。それは単に教養的な情報として価値があります。またもし大罪がカトリックにおいて言われるように霊的に大きなことなら、知らずにそうしたことを犯せば大罪とはならない、可能性もありますが、やはりあまり良いことではないですから、信者の利益の為に、情報はなるべく豊富に載せるべきだと思います。が、Lorettibarrendさんの現行の要理にはない、とのご意見も一理ありますので、新旧分けて載せてはどうでしょうか。--Michael tiara会話2014年2月24日 (月) 13:37 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。私の拙い編集方法は、ヘタに自分なりに要約するよりもそのまま文章を引用する方が読む人の誤解を防げると考えたからです。あまりに不格好なら適宜修正していただいてかまいません。ただ、カトリック教会の教義・要理は、信者以外の人にはいろいろと誤解されている部分があると常々思っていましたので、特にWikipediaのような不特定多数の人が閲覧するところでは、できるだけ正確に書きたいと思ったまでです。これはカトリックに限らずキリスト教全般に言えることでしょうけど、同じキリスト教のプロテスタントの人たちからでさえカトリックのことを誤解されている記事・記述があるのを見ると、特にそう思います。
英語版との違いには驚きます。 とのことですが(Wikpediaの?)、en:Mortal sinに列記されているのは、「大きな(重大な)ことがら」のことだと思います。節冒頭部に"The Catechism of the Catholic Church (CCC) defines these sins as grave matter: (This is not necessarily all of the possible grave matters.)" と書かれていますし、過去の版を調べてみると元々この節タイトルは"Grave Matter" だったものがいつの間にか"Mortal sins" に変更されているものです。カテキズムなどを読めば、これらの「大きなことがら」を罪であるとはっきり意識して、意図的に行われたもの(だけ)が「大罪=死に至る罪」になると解釈されるはずです。そして英語版に列記された一覧は、おそらく『カトリック教会のカテキズム』の英語版から"grave sin","grave matter","grave offense" などを丁寧に拾い上げて書き込んだものだと思われますが、『カテキズム』の日本語版に書かれている「大罪」「重大な罪」は私の編集で大部分を掲げたつもりです(本文を再度編集し[4]、一部省略していたものを追記しました。他にも記載漏れがあるかもしれませんが)。さらに、英語版のen:Mortal sinには、"The Church itself does not provide a precise list of sins, subdivided into the mortal and venial categories."(教会は自身のために、大罪と小罪に細分する罪の精密なリストを提供しません。?)という記述があります。これが正しいなら尚更、カトリックのための媒体ではなく広く一般の読者のためのWikipediaでは、大罪の具体例を(現在は教会がリストを作っているわけでもないのに)リストとしてもれなく列記する必要はないと考えていました。
しかし、新旧ということで、たとえば1974年発行の『聖ピオ十世公教要理詳解』には、次のことがらを大罪として掲げていた。 のように冒頭に明記して、現在の版に追記するのなら、Michael tiaraさんが以前書いておられた大罪の一覧を本文に載せるのには反対しません。
それからkinno Angelさん、前回の私の署名忘れを補記していただき、ありがとうございました。お手数をおかけしてすみませんでした。。 --Lorettibarrend会話2014年2月27日 (木) 09:13 (UTC)[返信]