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ノート:大山古墳

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仁徳天皇陵からの分離については、仁徳天皇陵のノートを参照してください。Stanislaus 2005年1月1日 (土) 09:19 (UTC)[返信]

2005年7月15日 (金) 04:50 (UTC)の編集にて『延喜式に記載された仁徳天皇陵は大山古墳に間違いない』との記述が追加されましたが、これは『平安時代に仁徳天皇陵であると考えれらていたのが大山古墳であることは間違いない』ということでしょうか? もしそのような意味なら、考古学的視点とは全く別なのではないか、端的に言えば『実際には仁徳陵ではないが、昔からそう言われていたのが大山古墳であることは確かだ』ということもあり得るのでしょうか? -- NiKe 2005年7月16日 (土) 02:56 (UTC)[返信]

7月15日(金)に投稿した者です。
>『平安時代に仁徳天皇陵であると考えれらていたのが大山古墳であることは間違いない』
延喜式にみる兆域の広さの記述を検討すると上記のような結論にいたります。
>考古学的視点とは全く別なのではないか、端的に言えば『実際には仁徳陵ではないが、昔からそう言われていたのが大山古墳であることは確かだ』ということもあり得るのでしょうか?
『実際には仁徳陵ではないが』という部分には違和感があります。本文でもにおわせていますが,大山古墳が後に「仁徳」と呼ばれるようになった王者の墓である可能性は,以前よりも高くなっています。仁徳陵以外でも,誉田御廟山古墳(現応神陵)は鎌倉時代以前には応神陵として認識されており,それが延喜式記載の恵我藻伏崗陵であることも間違いないようです。延喜式記載の古代天皇陵の位置については記紀の所伝をベースにしていると考えられますが,記紀記載の天皇陵の所在地は,神武およびいわゆる欠史八代と呼ばれる実在性の低い天皇を除外してみると,大和(おおやまと)古墳群(奈良盆地東南部)→佐紀古墳群(奈良盆地北部)→古市古墳群(河内平野)・百舌鳥古墳群(和泉平野)→三島野古墳群(淀川中流右岸)→飛鳥近辺(大和盆地南部)→近つ飛鳥周辺(南河内),と移動します。ところが,現在考古学的に「大王墓」と呼び慣わしている巨大古墳の所在地の変遷を見ていくと,上記のような記紀の記載から導かれる天皇陵の所在地の変遷と一致します。つまり,記紀に見られる天皇陵の伝承は根拠なく作られたものではなく,何らかの事実が投影されている可能性が非常に高いのです。
IP:202.221.5.234さん 2005年7月20日 (水) 09:48 (UTC)[返信]