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ノート:多羅菩薩

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典拠の提示されていない記述(真言)

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2013年11月13日 (水) 04:23にIP61.46.218.110(会話)氏がこの編集にて付加した一節について、2016年12月12日 (月) 06:34にRyo氏が「要出店タグ」を貼りましたが、2ヶ月近くたっても典拠の提示がありませんでしたので、ノートに移転しました。大日経の第二巻や第四巻には「真言蔵品」や「密印品」という名称の章がありますが、唐代の中国で翻訳された漢訳経典であり、ローマ字転写やカナ表記はありません。--Dalaibaatur会話

下記引用の文面は削除させていただきましたが、密教学者による2次的な著作などを参考に、これに相当する記述をほぼおぎないました。この履歴一覧の新旧対照部分のうち、最下部に、この補足の典拠をしめしてあります。左記の新旧対照には、別の方による編集も一部ふくまれていますが、詳細は、履歴にて個別にご確認ください。--Dalaibaatur会話2017年10月18日 (水) 04:25 (UTC)[返信]

A.「密印品」
 Namah samanta-buddhanam tare tarini karunodbhava svaha
  ナウマク・サンマンダ・ボダナン・タレイ・タリニ・キャロダオンバベイ・ソワカ
B.「真言蔵品」
 Namah samanta-buddhanam karunodbhava tare tarini svaha
  ナウマク・サンマンダ・ボダナン・キャロダオンバベイ・タレイ・タリニ・ソワカ
C.その他
 Om tare tuttare ture svaha
  オン・タレイ・トゥタレイ・ツレイ・ソワカ
 Om padma tare hum
  オン・ハンドマ・タレ・ウン

真言のチベット音について

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真言のチベット音のカナ表記については、ポタラ・カレッジの方々による表記(以下、「東京系」)と、SAMAYAの平岡宏一氏(以下「大阪系」)による表記には、いちじるしい相違がありますが、私の印象では、東京系は「音写というよりは、梵字の綴り寄りの表記」、大阪系は「実際に聞こえる音を、なるべく近いカナで写そうとした表記」にみえます。いずれにせよ、2017年11月3日の時点の記事の文面は、典拠の記載どおり(但し下線、破線など特殊記号は除く)となっています。また、とある記事のノートで見かけた印象的な一文を、自戒もこめて引用しておきます。--Dalaibaatur会話2017年11月3日 (金) 08:00 (UTC)[返信]

ウィキペディアで大事なのは、「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にあります。

ご忠告痛み入ります。まさに「梵字の綴り寄りの表記」であって、これは「真言のチベット音」ではなく、「真言のサンスクリット音」なのではないでしょうか。ついでに言うならサンスクリットのにおける長母音規則にも不注意で、(おそらく執筆者はチベット語には堪能だがサンスクリットはそうではない)疑問を覚えざるを得ない記述です。--Ryo 625会話2017年11月3日 (金) 08:26 (UTC)[返信]
「東京系」のカナ表記については、チベット音のつもりで投稿したものなので、著者自身により「チベット人の一般的な慣用読み」(参考文献15,p.90「あとがき」)であると明示されている典拠に変更し、「チベット音」の節において「大阪系」と並べる方式にもどしました。--Dalaibaatur会話2017年11月4日 (土) 04:52 (UTC)[返信]

「誕生(後期密教) 」の節の典拠 をめぐって

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「誕生(後期密教) 」の節の典拠について、この編集で追加した文献13(索南卓瑪,2017)について、これを「1次資料」だと主張している方がおられるようですが、以下を問題提起させていただきます。
【1】学術論文についての一般論

  1. 学術論文は、2次的資料です。
  2. 学術論文の文面は資料や別人の著作の引用をふくめ、著者が文責を負っています。

【2】本節の典拠について

  1. 一般論として翻訳は何語によるものであれ、原典が加工されています。つまり、2次資料です。
  2. 当該箇所の典拠は1次資料が文献16(བསྟན་པ་རྒྱ་མཚོ(ཐབས་མཁས་རྒྱ་མཚོ), རྒྱལ་ཡུམ་རྗེ་བཙུན་སྒྲོལ་མའི་ལྷ་ཆོས་ཀྱི་ལོ་རྒྱུས་གཡུ་ལོ་བཀོད་པའི་དགའ་ཚལ་ཞེས་བྱ་བ།།,1857、2次資料が文献16「の中国語訳を引用」したと称する文献13(索南卓瑪,2017)です。
  3. 文献13(索南卓瑪,2017)p.458に「度母源流の中国語訳の引用」と称して提示されている文章は、単に「文献16の翻訳」を「引用」したのではなく、原典で29葉(表裏で57ページ)296行ある文章を1ページ未満29行に要約・圧縮するという、極めて大規模な加工が施されています。
  4. 文献13(索南卓瑪,2017)p.458に引用されている文章は、著者・索南卓瑪氏により、氏の論拠の一つとして採用された文章です。
  5. 以上より、文献13(索南卓瑪,2017)p.458に引用されている文章が「1次資料」であるという主張は不成立。

以上より、文献16(1次資料)に文献13(2次資料)をあわせ示しているので、「高次出典要求」は満たしています。--Dalaibaatur会話2017年11月6日 (月) 04:37 (UTC)[返信]

引用された一次資料部分が二次資料になるという主張は成立しません。何度同じことを繰り返したら気が済むのですか。
チベット語の原典資料を示すほど知識がおありでしたら、既存のチベット仏教関連の図書から適切な資料をもってくるのは簡単だと思いますが、その労を惜しまないでください。
資料について「調査中」などと書かれていますが、本当に「調査」はされていますか?--Ryo 625会話2017年11月6日 (月) 09:14 (UTC)[返信]
1次資料を「引用」している著作は二次資料ですよ。参考:Wikipedia:信頼できる情報源#情報源Wikipedia:信頼できる情報源#注意すべき論点資料#図書館の資料。--Dalaibaatur会話2017年11月8日 (水) 02:57 (UTC)[返信]
「調査」の1例--Dalaibaatur会話2017年11月6日 (月) 14:56 (UTC)[返信]
Ryo 625氏が「引用された一次資料部分」だと思い込んでいる文面(文献13(索南卓瑪,2017,p.458の3-29行)は、学術論文の文中において、著者が全29ページ296行の原典(1次資料)の内容を10分の1の行数で要約・紹介したもので、完全無欠に論文著者の著作物です。すなわち2次的資料に該当します。--Dalaibaatur会話2017年11月6日 (月) 09:39 (UTC)[返信]
出典は「甘肅省藏學研究所『香敦・丹巴嘉措大師文集』「度母源流・玉葉世界」甘肅民族出版社、2004年11月」と書いてありますが、著者が意訳したという根拠はどこでしょうか。--Ryo 625会話2017年11月6日 (月) 10:31 (UTC)[返信]
CiNiiで検索すると2004年に出版されたテンパギャムツォ(丹巴嘉措)の著作集はチベット語版しかヒットしないので、索南卓瑪氏が示したその出典は、このチベット語版に収録されている原典そのもの(=文献16)を指すと思われます。(1)この場合、「度母源流」の中国語への翻訳、大規模な要約いずれも索南卓瑪氏自身の作業となります。あるいは(2)日本の所蔵機関に収録されていない中文版が別に刊行されていて、索南卓瑪氏はこれを典拠に「大規模な圧縮」のみを実施、(3)中文版の訳文自体が「原典の正確な翻訳」ではなく「文量を大幅に減らした意訳・要約」で、索南卓瑪氏はこの中文版を忠実に引用しただけ--等のパターンも考えられますが、(1)~(3)のいずれであれ、索南卓瑪,2017,p.458の3-29行に収録されている文章は原典の内容を大幅に圧縮して要約・紹介した2次的な資料であることに変わりはありません。--Dalaibaatur会話2017年11月6日 (月) 14:47 (UTC)[返信]

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コメント ちょっと待ってください。仮に中国語版があったとしてもCiNiiがそれを網羅しているという根拠は何ですか?


(1)ならば通常、「訳は筆者による」などの索南卓瑪氏による断り書きがあるはずです。ないとしても原書に当たって確認していないのに出典に用いるのは不適切では?。

(2)それはDalaibaaturさんの推測ではないのですか?

(3)のパターンは問題、というか、Dalaibaaturさんの編集の出典にはなりえないはずですが、現代中国語の知識をお持ちになり、内容を理解されているのですか?


いずれの場合でも問題含みですが、なぜこのような新しく、使用に問題のある資料に頼るのですか?Dalaibaaturさんが一次資料に行き当たるまでに参考にした二次資料はないのですか?仮にないとしても図書館へ行く等して信頼性の高い情報源を探すことはいくらでもできると思いますが、なぜそれらのことをしないのですか。--Ryo 625会話2017年11月10日 (金) 13:03 (UTC)[返信]

せっかくの長文のご質問ですが、「二次資料は一次資料ではない」点を得心いただけたのなら、私のほうではお答えすることはありません。「二次資料であるから、典拠として活用した」というだけのことです。これもある編集者のことばですが、ウィキペディアで大事なのは、「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にあります。文献13(索南卓瑪,2017)p.458は、検証可能な典拠です。--Dalaibaatur会話2017年11月12日 (日) 20:21 (UTC)[返信]
資料の信頼性に関わる疑問点を無視してのリバートはやめて下さい。あなたの資料は検証されていません。ノートページに於いて自分が提示した出典について疑問を投げかけられたなら、それに答えるのは当たり前ではないですか?
そこを「これは二次資料だ。以上。」では何の説明にもなっていません。
Dalaibaaturさんは現代中国語が読め、自身の記述と照合されているかも大きな疑問点です。質問が多すぎて答えられないというなら、この点にまずお答え下さい。あなたは現代中国語が読めた上で自身の記述の出典にしているのですか?--Ryo 625会話2017年11月13日 (月) 00:04 (UTC)[返信]
文献13(索南卓瑪,2017)p.458は、検証可能な典拠です。こちらからPDFファイルをみるのも容易です。このp.458をみると、「観音の左右の瞳からの涙」とは異なるターラの仏伝の2次資料が掲載されています(以上で「検証可能性を満たす、満たさない」というWikipediaの出典表示に関する「検証」は完了です。つまり、「索南卓瑪,2017.p.458」という文字列と参考文献欄における正式タイトル,掲載誌名の提示により、「検証」のための情報は十分に提示されていることになります)。これを「1次資料」よばわりする特殊な独自のマイルールは受け入れかねます。--Dalaibaatur会話2017年11月13日 (月) 00:31 (UTC)[返信]
もはやこれが1次資料か2次資料かはどうでもいいです。
回答が頂けないというのはDalaibaaturさんは自身の記述の出典としている現代中国語が読めないのに使用しているという疑いが強くなってきました。--Ryo 625会話2017年11月13日 (月) 08:41 (UTC)[返信]
この↑論点そらしはまったく受け入れかねます。(1)私はどうでもよくないし、(2)ノートを覗く第三者にむけて記録を残すため(3)Ryo氏の編修や議論はこびに全く反対であることを示すため、まずこの件について決着させるべく、ひきつづきこのテーマで発言をつづけます。
論拠をさらに補足します。文献13(索南卓瑪,2017)p.458 では、「度母源流」の紹介につづけて、「以上がチベット語の文献による多羅菩薩の伝説である」とあります。すなわちp458の「本来の情報源はチベット語文献であった」、つまりp458における「中国語による「度母源流」の紹介」は、翻訳されたものすなわち2次的な資料である、といえます。--Dalaibaatur会話2017年11月22日 (水) 03:22 (UTC)[返信]

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二次資料性は認めます。その上で中国語の内容に沿った記述に修正しました。資料の提示ありがとうございます。--Ryo 625会話2017年11月22日 (水) 04:18 (UTC)[返信]