ノート:古田重然
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[編集]http://www.ibaraki-kankou.or.jp/rekisi/03.html
大阪府茨木市の、古田織部紹介とほぼ同文なのですが、 どちらが先なのでしょうか?--以上の署名のないコメントは、210.253.213.32(会話/Whois)さんが 2006年4月27日 (木) 02:54 (UTC) に投稿したものです。
- ええと、ある程度加筆したものですが、先に書いております。もっとも、証明する手立てがないのでいけませんが。どうしましょうかね。Aboshi 2006年5月19日 (金) 04:25 (UTC)
(検証)ほぼ同文といっても、最新版の文章は部分によって加筆された時期が異なります。
- >しかし利休と同じように反骨精神が旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。このため、家康から次第にその存在を危険視されるようになる。そして1615年の大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児・豊臣国松を匿ったこと、豊臣氏と内通した嫌疑などをかけられて切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したという。
この部分は初版、最新版、外部サイトがほぼ一致します。しかし「織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害し」の部分は最新版と外部サイトにはあっても2005年2月20日 (日) 04:12 210.141.37.158の初版にはありません。以下の部分
- >また茶の湯を通して全国の大名に多大な影響力を与える存在でもあり、
が加筆されたのは 2005年8月25日 (木) 15:15の版 58.0.15.239 です。他の部分も同様で、 もし、ウィキペディア側が転載なら複数の執筆者が別々の日時に転載をしたことになります。が、それはちょっと考えられません。外部サイトに
- >利休と親交のあった諸将が秀吉とかかわりあいに恐れるなか、織部と細川忠興のみが利休の見送りを行った。
の一文が欠けていることから、この文が加筆される2006年4月30日 (日) 04:54の版 Aboshi 以前、かつ古田重然に移動(2006年1月15日)以降に転載されたものと考えられます。また同サイトは、古田重然の頁だけ、ウィキペディアの人物の頁のスタイルに酷似しています。出典はウィキペディであると明記するよう、求めるべきではないでしょうか? --miya 2006年5月19日 (金) 05:57 (UTC) 修正2006年5月19日 (金) 06:23 (UTC)