ノート:原罪
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2006年3月6日 (月) 05:22 (UTC)
[編集]「もし二人が木の実を食べなければ永遠に生きることが出来たはずである。」というのはおかしい。二人は善悪を知る木からは実を食べたが、命の木からは実を食べなかったので不死身にはならなかったのである。 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(創世記3章22節) Shinobar 2006年3月6日 (月) 05:22 (UTC)
正教会の立ち位置
[編集]そもそも正教会の記述がユダヤ教と区分されずに新約聖書より前にあるというのはなんという失礼であるかと推敲しながら感じました。いくら「西に比して陽性印象のある東」といえどもそれはないだろうと。LR 2007年11月3日 (土) 23:34 (UTC)
- LRさん
- 不覚にもその点気付きませんでしたが、そうかもしれません。少し推敲して、簡単なものだけでも今晩辺り投稿させて頂こうかとも思っているところです。大体からして「正教会は復活重視、原罪無し」というのも通俗的に過ぎる見解かもしれません。私の知る神父様達は「『原罪』など正教会の発想には無い。」という方と「『原罪』という術語と概念には問題があるが、正教会にも『原罪』はあります。」と仰る方に分かれます(いずれも海外神学校留学経験のある学識豊かな方々です)。いずれにしましても難しい問題である事は間違い無さそうです。--Kliment A.K. 2007年11月3日 (土) 23:47 (UTC)
オーソドクスについて
[編集]Kliment.A.Kさんが「ユダヤ教改革派およびオーソドックスの原罪観」という項目名の部分を「ユダヤ教改革派および正教会の原罪観」と変えられて本文を修正されたようですが、この場合のオーソドクスというのはユダヤ教の「オーソドクス」すなわち「ユダヤ教正統派」のことです。それほどよく読まなくてもコンテクスト的にそこに「正教会」の話が入ることの不自然さはおわかりいただけるかと思います。(正教会の観点から)「明白な誤り」として記述の一部を削除されていますが、あとで直しておく必要があるのではないでしょうか。--Gakuinryou 2007年11月4日 (日) 02:42 (UTC)
- >>Gakuinryouさん
- オーソドックス(曖昧さ回避)もご覧下さい。ユダヤ教正統派などといった意味はありません。「ちょっと読めば」といったお言葉ですが、キリスト教について述べられている文脈で「オーソドックス」と言ったら、普通は「正教会」を当てます。「ユダヤ教正統派」だったら「ユダヤ教正統派」と書いて頂きたいですね。LRさんも同様の誤解をされている以上、誤解を招きやすい表現である事は間違いないでしょう。その事はお認め下さい。
- ですが結果的には私の誤解だった訳ですので、修正の件は了解しました。着手致します--Kliment A.K. 2007年11月4日 (日) 13:38 (UTC)
出典の明記テンプレ付与につき
[編集]小生はあまり出典を強く求めない方でありますが、神学的に非常に微妙な論点を孕む問題である上に、宗教学の領域や通俗的な領域においても最も問題にされ易い話題の割に、参考文献も外部リンクも、いずれも示されていないのは望ましいこととは思いません。
他の記事においては「参考文献もしくは外部リンクを一つでもいいので御示し頂きたい。」と申し上げる事が多いのですが、本件につきましてはより厳格に参考文献・外部リンクといった出典を求めたいと考えております。執筆者の皆様の御協力を頂きたく存じます。
後日、正教会の見解につきましては、出典を付けた上で加筆しようと考えております。--Kliment A.K. 2009年7月14日 (火) 15:18 (UTC)
上記と同様の理由により、テンプレート「参照方法」も付与させて頂きました。--Kliment A.K. 2009年7月14日 (火) 15:20 (UTC)
カルヴァン主義の原罪論
[編集]「洗礼によって自分の罪の咎めが赦されても」とする記述がありましたが、誤りです。1561年のベルギー信仰告白15条の「原罪」に 「それは、神の目にはきわめて下劣で忌まわしいものであるので、全人類を罪に定めるのに十分なほどである。水が泉からわき出るように、罪はこの忌むべき源から常に湧き出るため、洗礼によってさえ、それは全くなくなることも、根絶されることもない。」(エドウィン・H・パマー『カルヴィニズムの5特質』p.186の訳)とあります。またプリンストン神学のチャールズ・ホッジの『組織神学』を抜粋した『カトリックとは何ぞや』p.94は「洗礼を受けることを命ぜられている事は確かである。しかし此等は信仰によって服従する義務であって、救いの手段ではない」と述べます。改革派神学は洗礼による新生の理解をとりません。--イザヤ 2010年11月4日 (木) 12:20 (UTC)
編集報告
[編集]報告 この編集にて
- あまりにも露骨なIP氏による自説の演説行為を削除しました。明らかにWP:NOTに違反する怪しい記述は、即削除で構いませんでしょう。
- 「正教会」節の節stubタグを削除しました。一教派の説明量はこの程度にとどめておいた方が、事典レベルでは見通しが良くなると考えたためです。但し今後、加筆することは有り得ます。--Kinno Angel 2011年9月8日 (木) 14:00 (UTC)
抜本的な大幅削除と、大幅修正の提案
[編集]出典の明記要求から2年以上経過しましたが、これほど重要な概念の記事でありながら、一向に改善の兆しがありません。出典無き部分は大幅に削除しようと考えております。出典が無い部分は大幅に削除し、ユダヤ教、およびキリスト教教派ごと、ならびに教派・思想潮流ごとの考え方を、それぞれの出典に基づき列挙するする形に記事を整理構成し直そうと考えております。後10日間待って出典追加(もしくは異論)が無ければ、大幅修正をさせて頂こうと思っております。--Kinno Angel 2011年9月8日 (木) 14:00 (UTC)
- 提案後の長期の放置、申し訳ありません…
- 全く異議が出されていませんので、今月中に、
- 出典無き部分は大幅に削除
- 教派・思想潮流ごとの考え方を、それぞれの出典に基づき列挙するする形に記事を整理構成
- 以上、実施するつもりです。--Kinno Angel(会話) 2012年4月8日 (日) 13:58 (UTC)
編集報告1
[編集]予告通り、大幅改稿を開始しました。今週中に記事を完成させる予定です。
- 従前の記事のうち、出典の無い殆どの部分を削除させて頂きました。
- 従前の「『創世記』にみる「原罪」」節についてですが、「ヤハウェ・エロヒムはアダムとイヴ(エバ)が命の木を食べることを恐れ二人を呪い、」といった、疑問か、もしくは議論の分かれる文章があり(イヴとアダムに対する予言を「呪い」と解釈するかどうかは見解が分かれますし、呪いと解釈したとしても、これは楽園追放の前に起きて居ます。また、「神は恐れた」という文言は無く、これについても「恐れた」の表現が妥当かどうか、見解が分かれます)、「概略説明」としては相応しくない状態でした。従いまして、出来る限り創世記の内容をそのまま概略説明するものに変更しました。また、非常に重要かつ議論の分かれる聖書箇所である事に言及し、説明内容があくまで概略に止まっている旨、明記して読者に注意を促し、少しでも「解釈」「釈義」が含まれる記述には、聖書箇所のみならず、出典も付与しました。
以上、現時点の編集報告まで。--Kinno Angel(会話) 2012年4月30日 (月) 18:13 (UTC)