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ノート:二本松村国

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改名提案

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現在の二本松畠山氏歴代当主の各項目名を以下の通りに改名することを提案致します。

二本松氏の名が同時代においても二本松の畠山氏を指して用いられることはありましたが、これらは石橋尚義大内定綱を塩松、田村清顕を三春などと称したのと同様にあくまでも俗称に過ぎません。リダイレクトとして使う分には問題ありませんが、本項目名として用いるのは不適切と言わざるを得ません。おそらくこれらが「二本松」として立項されたのは「信長の野望」に由来すると思われますが、二本松を自らの氏としたのは大名としての畠山氏が滅亡したあとに別家を興した義綱の弟・二本松義孝ですし、現に二本松市により文化財指定された義国の位牌は「畠山義国位牌・厨子」という名称で登録されております。「二本松義国」ではありません(参照:二本松市ホームページ「畠山義国位牌・厨子」)ゆえに上記の各項目名はいずれも畠山に是正すべきと考えます。--220.211.1.74 2012年3月9日 (金) 15:42 (UTC)[返信]

コメント (現時点では反対寄り)これらの記事のうち義継を除く四人は『二本松市史』を参考として挙げていますが、同書の記載はどうなっているのでしょうか。私にはすぐには検証できませんが、もし二本松表記となっているのなら、信頼できる情報源にその表記もあることになり、もう少し検討が必要と思います。次に、二本松市ホームページですが、表題は「畠山義国位牌・厨子」となっていますが、位牌の表には「前修理大夫義國其阿彌陀佛」、裏面には「畠山六郎秩父之重忠 十六代後胤」と書かれてあるということで、畠山重忠は二本松とは関係ないので二本松重忠と書かれていないのは当然ですが、かといって義国の方も畠山義国とは書かれていないとになります。最後に、『朝日日本歴史人物事典』では義継は二本松義継[1]、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』では義綱は二本松で義綱で載っており[2]、それぞれ二本松表記での用例が見られますので、こちらからも直ちに改名する理由には不十分ではないかと考えます。--立花左近会話2012年3月11日 (日) 13:04 (UTC)[返信]

立花左近様、御意見を有難うございます。ご質問の件につき回答致します。

>『二本松市史』を参考として挙げていますが、同書の記載はどうなっているのでしょうか。

では、『二本松市史』第1巻の目次を抜粋致しますのでご覧下さい

第三章 室町期の二本松
第一節 畠山満泰の時代 -畠山氏と篠川御所-
第二節 二本松畠山氏と室町幕府
第三節 二本松畠山氏の一族分立 -畠山氏の在地支配-
第四章 戦国時代
第一節 伊達と畠山
2 伊達氏天文の乱と畠山氏
3 畠山義国
第三節 畠山氏滅亡と伊達氏の二本松支配
2 二本松開城 -畠山氏滅亡-
上記の通り目次上では全て畠山で統一されておりまして、本文中でも満泰の別名として「二本松七郎」が一箇所登場する程度です。

>二本松市ホームページですが(中略)~義国の方も畠山義国とは書かれていないとになります。

同項の上から四行目をご覧下さい。「二本松城主の畠山氏10代義国は」と、明らかに畠山義国と書かれております。さらに下から七行目に「二本松氏第6代の義廉が」とあり、二本松氏のカウントは義孝から始まっていることが明らかです。

>『朝日日本歴史人物事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』

俗称の二本松で立項された事典類があることも確かですので、二本松義継・二本松義綱などの項目名を完全な誤りとするのではなく、リダイレクト元としては残すと予め前提条件を示してあります。完全な項目名の抹殺ではありません。

現状では(俗称)二本松←(正式)畠山の形になっているものを(俗称)二本松→(正式)畠山に直すだけのことであり、俗称からでも項目に辿り着ける状態にはなります。故に速やかに是正措置を施しても何ら問題は無いと考える次第です。--220.211.1.74 2012年3月12日 (月) 03:13 (UTC)[返信]

ご返事ありがとうございます。かなり古い議論なのですが、ノート:二本松氏の海衛士さんのようなご意見もありますね。そして、それで気がついたのですが、220.211.1.74さんは、二本松氏から二本松畠山氏Wikipedia:分割提案を行わずに分割されたのではありませんか? ノート欄に海衛士さんのようなご意見があるにもかかわらず(小項目は作っても、分割までは想定しておられない)、提案を行わずして分割なさったのは、手続き上問題があったのではないかと思います。それとは別に、ホームページとか目次とかの間接的な記載ではなく、二本松氏が正式に用いられたのは義孝からという明確な記述のある信頼できる情報源のご提示をお願いいたします。『二本松市史』にあるなら、その巻数やページ数で結構です。--立花左近会話2012年3月12日 (月) 04:03 (UTC)[返信]
早速のご返答有難うございます。直接その旨を記述した「文章」はありません。しかしながら、義綱以前の二本松畠山氏が二本松氏に改姓していたと断定し得る史料もまた有りません。加えて義孝は兄の義綱から直接家督を譲り受けているのでもありません。故に「二本松氏が正式に用いられたのは義綱以前からという明確な記述」が無い(何故二本松畠山氏→二本松氏の移動の際にこのような記述が一切示されずとも可とされたのかはわかりませんが。なお二本松錠という人物は存在しますが、二本松錠識なる人物は存在しません)以上、状況証拠を元に水野氏に仕官した義綱の弟・二本松義孝を以て二本松氏初代と見るより他にない。というのが当方の考えです。「二本松氏が正式に用いられたのは義綱以前からという明確な記述」は管見の限り見当たりませんので、こうした記述の所在を御存知ならば是非とも後学の為に御教示いただきたく存じます。本件につき、当方の申し分では規則面より見て不十分であるため改名不能というのならば現状維持も止むを得ません。他に御意見が無いようでしたら最終的な判断はお任せします。--220.211.1.74 2012年3月12日 (月) 05:27 (UTC)[返信]
細かいことをあげつらうようで申し訳ありませんが、ウィキペディアは検証可能性を満たすのが大原則ですので、ご理解下さい。すると、220.211.1.74さんは、二本松義孝を新規作成された際、「はじめ畠山国次と名乗り、のちに故地にちなんで二本松を氏とし二本松義孝と称した」とお書きになっていますが、これも出典はないのですか。状況証拠だけですと、そう断定してしまうのはちょっとまずいと思うのですが。それと、義綱には満重という遺児があり、義孝は義綱から正式に家督を譲られたのではないとしても、最終的には義綱の死後その跡目を継いだことになっているということはないですか。「二本松系図」の他に、『寛政重修諸家譜』にでも載っていることはないでしょうか。で、もしそうだとすると、結局義孝以降も二本松畠山氏の宗家ということになって、北条早雲の論理で遡って二本松氏と言えなくもないということにもなるのですが。
そもそも、畠山も二本松も姓ではなく苗字(本姓は源氏)なのですから、義綱以前にも名乗ったり呼ばれたりした可能性がなくはないわけで、発給文書なり他者の日記なりで誰のときからそういう呼称が見られるのか裏づけがないと(そういう検証を経た二次資料がないと)、軽々しく正式名称としたり、それをあちこちに書いたりすべきではないと思うのですが。しかし、それはそれとして、村国と義氏の間の家泰が畠山で立項されてしまっているし、持重も畠山になっていますので、このへんを不統一にしたままにするのも良くないとは思います。--立花左近会話2012年3月12日 (月) 07:22 (UTC)[返信]
「最終的な判断はお任せします」と申し上げた以上、当方の記述で不適切な箇所があるとお考えなら、随意に処置していただきたく存じます。
>不統一にしたままにするのも良くない
政国・持重・家泰も二本松にすべきとお考えでしたら、そのように改名の手続きをなされば宜しいかと存じます。当方は今後畠山の記事には手を出さないことに致します。お手数をおかけしました。--220.211.1.74 2012年3月12日 (月) 07:51 (UTC)[返信]
お気を悪くなされたのなら、お詫び申し上げます。「二本松畠山氏」におきましても、『時宗辞典』や『室町期南奥の政治秩序と抗争』を挙げられるなど、いろいろお調べになられていらっしゃると拝察いたしますので、今後もぜひ編集はお続けになられるよう希望いたします。独自研究出典の明記にご留意いただければ、何の問題もございません。改名については、他のご意見の方もいらっしゃるかもしれませんし、もう少し様子を見られてはいかがでしょうか。--立花左近会話2012年3月12日 (月) 08:09 (UTC)[返信]

(インデント戻す)私の方でも少し調べさせていただきました。吉川弘文館刊『国史大辞典』第11巻(平成2年9月3日発行 第1版第1刷)235頁に「二本松氏」の項(小林清治 文)があり、そこでは国詮を祖とするとありました。寛正元年(1460年)の足利義政御内書から「二本松殿」と見えるようになり、永正11年(1514年)成立の『余目氏旧記』にも「二本松殿」とあるそうです。ただし、元亀2年(1571年)とされる『岩手県中世文書』弾正書状には「二本松畠山家」の称も見えるとのことです。そして義継が討たれ、翌年の二本松城開城をもって二本松氏は滅亡したとし、項目末尾には国詮から満重までの系図が載せてありました。
また、平凡社刊『日本史大事典』第5巻(1997年4月1日初版第4刷)609頁に「二本松氏」(今野真 文)があり、そこでは国詮が一時管領職に復した後、加美郡・黒川郡など遠方の所領を失い、子孫(誰からとは書かれていない)が安達郡二本松を根拠として二本松氏を称したとありました。そして先の義政の御内書を挙げ、二本松七郎の名があるとしています。そして、義綱が城(二本松城)に火を放って会津に逃れ、二本松氏は滅んだとしています。二本松氏と名乗ったのは国詮の子孫の誰からか明記はされていないわけですが、項目的には国詮から義綱までを解説しています。なお、同書には「二本松義綱」の単独項目があります。
これらから思料すると、どうも一般的には国詮から義綱までを二本松氏とし、その二本松氏は義綱で滅んだとしているようです。こういった大辞(事)典のレベルでは義孝以降については言及されていないものの、二本松氏は義綱で滅んでいるとする以上、別家と見る他はなく、かといって義孝以降を二本松氏とし、それ以前を二本松畠山氏と区別する根拠はないということになります。
もちろん、これら以外に信頼できる情報源たる出典により、義孝以降が正式に二本松氏を名乗ったのであり、それ以前は畠山氏であるという根拠があるならば、さらなる検討が必要になります(例えば、『二本松市史』は私はまだ見ることができませんでした)。しかし、それがないのであれば、今回の改名はすべきではなく、「二本松畠山氏」から「二本松氏」の分割も拙速であったかもしれず、それらの記事にある二本松氏を正式名称として初めて用いたのは義孝からである旨の記述も改めた方がいいかもしれず、またむしろ「二本松氏」と「二本松畠山氏」を再統合して「二本松氏」に改名するか、「二本松氏」を「二本松氏 (水野氏家老)」か何かに改名して、跡地の「二本松氏」に「二本松畠山氏」を統合するかした方がいいかもしれません。--立花左近会話2012年3月14日 (水) 12:36 (UTC)[返信]

もう一つ出典が見つかりました。奥富敬之著・東京堂出版『日本家系・系図大事典』(2008年7月発行)762頁に「二本松」の項があり、畠山国氏の子国詮が陸奥国安達郡二本松を領して二本松氏を呼称し、義継が討たれて二本松城を攻め陥されて滅亡した旨が書かれていました。これだけ出版元も執筆者も違う書籍で二本松氏が国詮を祖とする言及がある以上は、「俗称」と片付けたり、殊更二本松畠山氏としたりする根拠に乏しく、二本松のままでおくべきと考えます。また、国詮と義綱の間で畠山となっている持重政国家泰は二本松表記に改名すべきと考えます。--立花左近会話2012年3月27日 (火) 13:38 (UTC)[返信]
議論に参加するつもりはないのですが、奥州畠山氏(二本松畠山氏または二本松氏)が「二本松殿」と呼ばれていたことは事実です。だからといって、「二本松」が苗字であったかとは別の問題と考えるべきです。なぜなら、源頼朝も「鎌倉殿」と呼ばれていましたが、決して「鎌倉氏」ではありませんでした。「二本松殿」と呼ばれていたからと言って、「二本松氏」であったとは言えないということです。ただ、畠山氏は「河内畠山氏」、そして、その分家筋の「能登畠山氏」そして、この二本松畠山氏、その他にも畠山氏は枝葉が存在し、「政国」や「義綱」などは二本松と河内に現れたり、能登と二本松に現れたりしています。それを後世の歴史家が便宜上、住地に基づいてわかりやすくしているだけでしかありません。ゆえに、後世の歴史書がどのように表記しているかではなく、本人がどのように発給文書に署名しているかで検討すべきではないでしょうか。本人が署名している名前で記事を作成するほうが故人の意思を尊重することになり、より正確な表現であるはずです。--阿波座行広会話2012年4月4日 (水) 12:02 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。それも一つの考えだと思います。そしてそれはノート:二本松氏での議論にも関係してくるのですが、北条早雲は生前に北条早雲と名乗ったことはないのに、項目名が北条早雲になっているのと同じような例とも考えられます。また、姓・苗字・諱・通称などが時期によって変化する人もおり、発給文書もそれに応じて変わる場合もあります(例えば織田信行とか)ので、簡単に決めることはできません。Wikipedia:記事名の付け方では「認知度が高い」と基本的には「正式名称を使う」という指針があり、そのへんの兼ね合いから個々に考えるしかないと思います。大変恐縮ですが、下記の通りすでに改名を済ませてしまったので、議論に参加するつもりはおありにならないとのことですが、もし気がお変わりになるようなことがありましたら、改めてご提案なさってください。よろしくお願いいたします。--立花左近会話2012年4月4日 (水) 13:14 (UTC)[返信]

改名提案2

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前節の議論に基づき改名提案を行います。前節の改名提案をされた220.211.1.74さんは、「最終的な判断はお任せします」とおっしゃり、「今後畠山の記事には手を出さないことに致します」ともおっしゃってはいるのですが、提案者でないのに勝手にクローズするわけにもいきませんので、便宜上220.211.1.74さんの提案をA案、私の対案をB案とし、並行して議論する形としたいと思います。

A案、B案のそれぞれに対し、賛否のご意見をいただければと思います。よろしくお願いします。--立花左近会話2012年3月27日 (火) 13:38 (UTC)[返信]

問題が発覚しました。畠山家泰はもともと二本松家泰として立項されていたのが、履歴不継承で畠山家泰にコピペされ、二本松家泰を畠山家泰へのリダイレクト化したようです。これについては対処します。--立花左近会話2012年3月27日 (火) 13:42 (UTC)[返信]
畠山家泰については即時削除依頼を提出し、二本松家泰はリダイレクト化前の版に戻しました。--立花左近会話2012年3月27日 (火) 16:28 (UTC)[返信]

報告 その後、A案の支持、B案の反対意見がなかったため、B案で改名を実施いたしました。--立花左近会話2012年4月4日 (水) 01:58 (UTC)[返信]

報告 二本松畠山氏二本松氏への統合も、反対意見がなかったため実施しました。--立花左近会話2012年4月4日 (水) 04:41 (UTC)[返信]