ノート:丹那駅
立てました
[編集]立項しました。一番の難題は正確な駅の位置がわからないことで、駅間距離からの推測や多くの地図の表示では「広島南警察署」交差点(かつての踏切より若干東)の北と見て取れるのですが、一部の地図では南としているものもあります。インターネットの宇品線関連サイトでは南警察署の前、すなわち交差点の南側と推定しているものが多いような印象を受けました。最後の頼みは長船氏の近著『宇品線92年の軌跡』しかないのですが、p.27に掲載されている丹那駅の写真は、左手(東側=ホームがある方)の奥に現在の「海岸通り」らしき土手道を見て取ることができ、そうなるとやはり交差点の南側ということになりますが、先述の駅間距離とのズレや、同書巻頭に掲載されている国土地理院の1952年発行の地図では交差点の南と記載されていることとの矛盾が気になります。旧駅の位置(?)からズレたところにモニュメントが設置されていることも混乱に拍車をかけているようです。どうしようもないので注記で両論併記ということにしましたが、より正確なソースをお持ちの方、その他詳しい方の加筆訂正をお願いします。--Straysheep(会話) 2012年7月25日 (水) 11:49 (UTC)
- 長船氏の著書に掲載されていた国鉄中国支社作成の宇品線の線路一覧略図に基づき、いちおうの結論として「踏切の南側」としておきました。より詳しい情報をお持ちの方の加筆編集をお願いします。--Straysheep(会話) 2012年7月30日 (月) 15:28 (UTC)
丹那駅の位置についての考証(覚書)
[編集]丹那駅の位置について、現時点ではなかなか最終的な結論が出そうにないので(上記の通り暫定的に「丹那踏切」(広島南警察署前交差点のやや西)の南としていますが)、手元にあるいくつかの文献にあたって、北側としているもの、南側としているものの論拠をまとめておきたいと思います。長くなりそうなので、以下、何日かに分けて書きます。
ソースについて。まず地図ですが「塔文社レトロマップシリーズ」から出ている『昭和27年の広島と現在の広島』に1952年発行の塔文社版「詳細広島市街地図」が収録されています(以下「塔文社1952年地図」とします)。もう一つ、(財)日本地図センター発行の『地図で見る広島の変遷』があり、年代の異なる国土地理院発行の1/25,000地図が6葉入っているのですが、丹那駅の位置が記されているのは、そのうち「1950年頃(の地図)」だけです(以下「国土地理院1950年地図」とします)。長船氏の近著『宇品線92年の軌跡』ではp.1に国土地理院発行の1957年の1/25,000地図がありますが、先述の国土地理院1950年版地図と同じですので省略します。同書には、今となっては貴重なものになってしまった現役時代(旅客営業を行っていた時期)の宇品線の写真が多数掲載されているのですが、丹那駅近辺のものは少なく、p.27に1966年10月の廃止直前の丹那駅とホームを撮った長船氏自身による写真が掲載されています(以下「1966年写真」とします。ちなみにこのサイトにある「丹那駅」の画像(撮影年代不詳)と"ほぼ"同じものです)。同書中、丹那駅そのものが入っている写真はこれ1枚のみであり、駅近辺を撮影したものとしては、1954年の宇品→丹那間(丹那駅の南、上り方向)を走っていると思われるディーゼル動車(キハ41569)の写真がp.19に掲載されているだけです(以下「1954年写真」とします)。写真以外には、旧国鉄が作成した図面が2葉収録されており、そのうち国鉄中国支社が1961年に作成した「宇品線の線路一覧略図」には丹那駅について広島駅からの営業キロ、ホームと駅舎の配置、近くを通る県道との位置関係が示されており、同じく国鉄中国支社作成の「信号機建植位置図」(1969年)は丹那駅廃止後のものですので駅の位置については記述はありませんが、丹那踏切の位置(および広島駅からの距離)が示されています(pp.42-43、以下「1961年一覧図」「1969年信号機位置図」とします)。今日はとりあえずここまで。--Straysheep(会話) 2012年8月11日 (土) 19:16 (UTC)
承前。今回は以上のソースのうち地図および国鉄作成の図面に関して。これらのなかで、丹那駅が丹那踏切の北側に所在したことを明示しているのは国土地理院1950年版地図のみです(したがって、長船氏の著作p.1に載っている地図も同様です)。しかし、それ以外の3つのソースはすべて、少なくとも1950年前後の時期、および1960年代初頭においては丹那踏切の南側に所在したことを直接的・間接的に示しているか、あるいは北側に所在していたことを否定しています。地図では、塔文社1952年地図が駅が丹那踏切の南側にあったことを明示しています。国土地理院作成の地図とほぼ同時期であることを考えると、どちらかが誤りであることになると思います。次に、国鉄中国支社作成の2つの図面は、1960年代初めの時点で駅が踏切の南側にあったことの傍証となっています。まず、1961年一覧図では、丹那駅が広島駅から「3K940M」(3.94km)の位置にあったこと、さらに駅から広島駅方面に寄ったところ(駅の北側)で宇品線が「県道」(86号線か)と交差しており、さらにホーム・駅舎が、宇品駅方面に向かって左側(図面では上側)にあった(=つまり線路の東側にあった)事が示されています。1969年信号機位置図では、作成時で既に丹那駅は廃止されていますので駅の所在地については表示されていませんが、丹那踏切が広島駅から「3K856M」(3.856km)の位置にあったことが示されています。幅の広い幹線道路との交差点ですので踏切が大きく移動するとは考えにくいこと、また上記2つの図面において他の駅の位置(広島駅からの距離)について数値が一致していることを考えれば、数値上両図面の間で食い違いはなく、廃止直前の1960年代においては丹那駅は踏切の南側にあったと推定できます(鉄道については門外漢ですので、上記2図面からはもっと多くの情報を読み取れるのでしょうが今のところは力不足です。皆さんのご教示をお願いします)。ただし上記2図面の数値は、長船氏の著書p.41の「宇品線停車場の変遷」に示された駅間距離・累計距離の数値と若干食い違っているものがあり(丹那駅(芸備鉄道により設置されたもの)の広島駅からの累計距離は「3,820」mとしている)、この数値の典拠が同書中に言及がなく不明なのですが(あるいは実キロと営業キロの違いということも考えられます)、この点は今後の課題です。今回はここまで。--Straysheep(会話) 2012年8月12日 (日) 15:17 (UTC)
承前。最後に写真です。1954年写真では、キャプションによると宇品線の丹那駅の南方面を走っている電車が写っています(先日は「宇品→丹那」の上り方向としましたが、キャプション通りその逆方向かもしれません)。長船氏の著書や先述の『地図で見る広島の変遷』に掲載・所収の明治・大正期の地図によれば、丹那踏切より南の宇品線の線路は、明治期に造成された宇品新開(埋め立て地)の東の堤防に沿って敷設されていますので、キャプションに指摘されているとおり、この写真の時期(1950年代半ば)には、宇品線の東の土手道(現在の「海岸通り」)の先(写真では向かって左)がまだ埋め立てされておらず、海であったことが見て取れます。が、丹那駅などが写り込んでいないので、同駅の位置について何らかの情報を与えてくれるものではありません。続いて1966年写真です。この写真には丹那駅の駅舎・ホーム・線路が写っています。先述の通りホームと駅舎は線路の東側にあったということですが、ホームの東側に線路に沿ってまっすぐ伸びている並木道は先ほどの土手道(海岸通り)と推定できますので、(写真に丹那踏切が一緒に写り込んでいない以上推論でしかないのですが)廃止直前のこの時期において丹那駅が丹那踏切の南側に位置していたことの傍証になり得ると思います。以上より、とりあえずの結論として、1950年代から廃止までの時期においては、丹那駅が丹那踏切の南側にあったということはまず間違いないと言えるのではないでしょうか(ということは、丹那駅を踏切の北側と記載した国土地理院1950年版地図は、誤った表示であったということになります)。ちなみにこの問題に関連して、ヤフー知恵袋に次のような質問があるのを見つけました。当該のカラー写真は「国鉄宇品線がまだ健在であった頃の写真」とあるのみで、撮影年代がわからないのが残念ですが、この写真に写っている地点が、もし回答者の記憶通りかつての丹那駅の跡地であるならば、写真の奥(広島駅方面。北方向)に踏切らしきものと、さらにその先、向かって右側に学校(広島市立翠町小学校ということになります)の校舎らしきものが見えますので、やはり同様に、丹那駅が踏切の南側にあったことを裏書きすることになるでしょう。ただし、詳細な駅の位置の確定は今後の課題です。
さらに補足ですが、本記事の外部リンクで言及したみなみ区回遊MAPには、宇品線各駅の跡地が示されています。この図は、上大河駅のところでも少し述べましたように、比治山駅と(2代目)上大河駅の関係など、私が記事を立項するにあたって大いに参考にした長船氏の著書と食い違う記載が若干あり、それだけにどう扱えばいいのかいささか困りものなのですが、丹那駅の位置についても、大正8年(1919年)以前においては踏切の南側、昭和5年(1930年)12月については踏切の北側とし、ここでも位置関係に関しては長船氏の記述とは全く逆になっています(しかし1950年前後以降の駅の位置としては誤っているのは既に述べたとおりです)。また(長船氏の著書には全く述べられていませんが)戦前と戦後で丹那駅の位置が移動した可能性(例えば踏切の北側から南側へ)も考えなければならないかもしれません。さしあたり、この問題に関する私の考証は以上です。--Straysheep(会話) 2012年8月13日 (月) 19:48 (UTC)