コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:丙子の乱

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

美女3000人献上説

[編集]

美女3000人を毎年収めていたという説は、黄文雄によるものであり、その根拠は宣教師ダレの伝聞による記録である。その根拠は薄弱であり、モンゴル統治時代ないし紅巾族侵入時代の事象が誇張されたものと思われる。よって清代・李氏朝鮮時代の中国・朝鮮にその記録のないこの記事を削除する。以上の署名の無いコメントは、Boxingowl会話履歴)氏が[2006年12月25日 (月) 2:09 (UTC)]に投稿したものです。

女性をそんなにたくさん送ったと言う記録は清と朝鮮の歴史書どこにも記録がないです。 それは 2ch ソースで根拠ない捏造. 戦争敗北の供え物は毎年減少しているということを実録の記録で確認することができます。

仁祖 46卷, 23年(1645 乙酉 / (順治) 2年) 閏6月 5日(乙酉)
○淸人減歲幣細麻布一百匹、諸色紬七百匹、諸色木綿布四千一百匹、蘇木二百斤、茶一千包、佩刀二十把。

Alertkeep 2008年7月20日 (日) 02:12 (UTC)[返信]

美女3000人説は著書として出ているもののようですので、一つの説として載せておけばよいでしょう。他の出典ある部分を除去した理由が不明です[1]。--Texas588 2008年7月21日 (月) 01:18 (UTC)[返信]

  • 『仁祖実録』37卷, 16年 7月 8日 擇各司婢子之在諸道者十人, 入送瀋陽, 以淸國曾有侍女之請故也。
10人を侍女に送ったのです. 3000人娘ではなくて
  • 『仁祖実録』34卷 15年 正月 28日 備局抄啓婚媾女子六人。
結婚する女 6人を中国に送ったのです。 この記録どこにも強制という内容がなくて, もし強制と言っても 3000人娘送り出し説は相変らず根拠ない捏造です

美女 3000人送り出し説は確かに根拠がない捏造だから消したし。 『仁祖』37巻, 『仁祖』34巻の記録は 1. 果して清が先に要求したか(強制性) 2. 丙子胡乱と果して関係があるかに対する疑問があります。 だからこのページに相応しくないと思います。 Alertkeep 2008年7月25日 (金) 04:44 (UTC)[返信]

どうな '説'で認められようとすればそれなりに明らかな根拠がなければならないのに, 根拠に対する説明も全然なくて, 原文確認も不可能な文章を wikipediaに適用する必要はないと思います。 算術的に計算しても 258年 * 美女 3000人 = 777000 という意味なのに, 果してこんな大きな事件が中国と朝鮮の歴史書に記録されなかったんですか? またこんな内容は朝鮮民衆の間にも伝えて来ない内容で, こんな大きな事件が朝鮮民衆の間に伝えて下っていないということですか? 2chの捏造ソースは相応しくないです. 言い換えるが, 根拠の不明確だけでなく '説' 自体が存在するかも疑問です。 Alertkeep 2008年7月25日 (金) 06:11 (UTC)[返信]

もう一つの 2chの捏造ソースは "朝鮮は琉球より中華序列が低かった." "毎年美女 3000人, 馬3000を送った" "貨幤の鋳造圏さえなかった" などなのに, その 2 chの文章はすべての内容が完全に根拠がないし, 簡単に論破可能です。

  • "朝鮮は琉球より中華序列が低かった."
朝鮮は琉球から朝貢を受けました. 中華序列は当時 2位でありましたよね。
太祖 2卷, 1年(1392 壬申 / 25年) 閏12月 28日(甲辰) "○是年, 琉球國中山王察度稱臣奉書, 遣通事李善等, 進貢禮物, 幷送還被虜男女八口。"
衮龍袍に竜の足指の爪が 4個である国は朝鮮が唯一でした. (日本は竜の足指の爪が 3個, 中国は足指の爪が 5個)
  • "毎年美女 3000人, 馬3000を送った"
典型的な 2chの捏造
258年(1637~1895)間毎年送ったと言いながら記録が一つもないと言うことが疑問(259年の間毎年送りながら抜け落ちが可能?), 民衆レベルの記録もなくて, 青衣記録もない。
戦争の後, 女性が一部引かれて行ったという説もあるが(事実のようだが), '毎年 3000人?'は相変らず根拠がない。
  • "貨幤の鋳造圏さえなかった"
'常平通宝'は何ですか?

その他捏造も指摘することができるから知りたければ尋ねて見てください 主題から脱した話をしたが, 美女 3000人毎年送り出し説は 2ch 捏造で完全に根拠がないです Alertkeep 2008年7月25日 (金) 06:11 (UTC)[返信]

2chって何でしょうか??宣教師ダレの伝聞による記録により、黄文雄の文献に記載されていることですので、一つの説として載せることに何ら問題はないでしょう。『仁祖実録』部分については、より出典の通り、詳細に記載しておきました。--Texas588 2008年7月25日 (金) 19:43 (UTC)[返信]


  • また毎年美女3000人も献上したという根拠ない説も存在している
この本一つの文章が '説'になれなくて, 根拠必要
  • しかし丙子胡乱と関係が出来ているのか, 強制的なことかは不確かだ。
この文章は必要であり, 1. 強制性があるのか, 2. 丙子胡乱と関係があるという根拠提示お願いします
  • 中国と朝鮮の歴史書と民衆レベルでも伝わらない確認することができない根拠不明の主張も存在するようだ。
この文章は必要であり, 中国, 朝鮮, 日本歴史でどこにも記録されなかったという事実
本一冊の根拠不明の文章 vs すべての東アジア歴史書 + 民衆レベルで伝わる話
どこがもっと正しいですか? Alertkeep 2008年7月26日 (土) 05:58 (UTC)[返信]

根拠があるかないか、あなたが決めることではありませんよね?宣教師ダレの伝聞が根拠がなく、史書だけが根拠があるとも言えませんし、私たちはただ、ここにはこういう説や話がかいてあると記述すればいいだけですよね?それがwikipediaの方針のはずです。あなたの意見・感情は必要ありません。反証を書きたいのならば、ソースを提示して記載してください。そもそもどこに強制と書かれているのでしょうか?これ以上、リバートされた場合、コメント依頼させていただきます。--Texas588 2008年7月26日 (土) 06:09 (UTC)[返信]


ソースがないという事実は私個人の意見ではなく, factに基盤したことで, 文章を消さなければならないどんな理由もならないです. おっしゃった他の主張は消さないでいかしていますが, 読者にこんな主張は他の記録にはないということを知らせてくれることも wikipediaに行き違わない思いますAlertkeep 2008年7月26日 (土) 07:20 (UTC)[返信]

  • 『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には8歳から12歳の6人の女を送ったり
実録の記録によれば 6人の結婚する女と書いていて, WP:ORは許容されないです
  • しかし丙子胡乱と関係が出来ているのか, 強制的なことかは不確かだ。中国と朝鮮の歴史書と民衆レベルでも伝わらない確認することができない根拠不明の主張も存在するようだ。
読者にこんな主張は他の記録にはないということを知らせてくれることも wikipediaに行き違わない思います Alertkeep 2008年7月26日 (土) 07:24 (UTC)[返信]

あなたの編集だけが '絶対正義'というふうの revertは許容することができませんね 疑問があったら仲裁要請をして見るのがどうですか? 明確に 'その他の主張'もいかしているし, 私の編集にどんな wikipedia rule 違反はないと思いますAlertkeep 2008年7月26日 (土) 07:24 (UTC)[返信]


日本語が通じているのか、不安ですが・・。 何をソースと仰っているのか?黄文雄は「美女3000人を清国に朝貢することが義務づけられていた」と著書に記載しているのは事実であり(黄文雄『中国・韓国の歴史歪曲』(光文社、1997.8)p.128)、これもソースとなります。しかしシャルル・ダレは「満州人が中国を失って自国に引っ込まざるをえなくなった場合、朝鮮は娘三千人を送り届けねばならず、用意をしていると言われるが、この点に関する公的史料を発見することはできなかった」(ダレ『朝鮮事情』p.39)と言ってます。ダレは準備であり、公的資料はないと語っています。これもソースです。Alertkeep氏の主張は間違っていますが、3000人説の部分は除去しても私はかまいませんよ。もしくはソースの通りダレの論も記載するか選択してください。


「結婚する女」でもけっこうですが、年齢を消さないで下さい。また、あなたの意見を書かないで下さい。--Texas588 2008年7月26日 (土) 07:41 (UTC)[返信]

いくら実録の記録を捜してもその年齢に対するソースを捜すことができませんが Alertkeep 2008年7月26日 (土) 09:28 (UTC)[返信]


朝鮮は清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建て、清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、「三跪九叩頭の礼」により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。 >> oh, sorry. this is a VANDALISM. self made fabricarion source.Alertkeep 2008年11月26日 (水) 17:39 (UTC)[返信]

出典ある記述につき、単純なrvはお止めください。否定したいのならば反証を出し、記述すればよいことです。また、正確な日本語でお願いします。--Dondokken 2008年11月27日 (木) 05:57 (UTC)[返信]

迎恩門 - また明皇帝の宮殿方向で '「叩頭の礼」(五拜三叩頭)'をしたことは事実で(明宮殿の方向にしたことであり, 使臣の方向にしたのではない.), 実は朝鮮は明に多くの助けを借りたことは事実なのでこれは可能だったが.

1634年, 清使臣を応待する時から変わります. 清異民族は野蛮族だと思って, 清使臣を応待する時からこれは公式的に中断.

仁祖 29卷, 12年(1634 甲戌 / 명 숭정(崇禎) 7年) 6月 14日(戊辰) 1번째기사

○戊辰/禮曹啓曰: “卽見遠接使狀啓, 天使問: ‘今番儀註, 何無五拜三叩頭及開讀禮?’ 云。 卽取 《五禮儀》 及 《大明集禮》 、 《會典》 等書考之, 《大明集禮》 藩國接詔儀注, 只云: ‘王出迎於國門外, 迎至宮中之後, 使者宣制曰: 「皇帝勑使某, 持印賜爾國王。」 云云, 而無開讀之事, 只四拜而無五拜, 大略與 《五禮儀》 相同矣。 唯 《大明會典》 迎接詔赦儀云: ‘本處官員, 出郭迎接, 行五拜禮。’ 有開讀事, 又有問聖躬萬安之節。 又云: ‘凡出使在外者, 如遇詔赦, 則出迎郊外, 與本處官, 一同行五拜三叩頭禮。’ 迎接勑符儀云: ‘不許本處官司迎接, 直至衙門開看, 使者取符宣讀, 衆官行再拜禮。’ 此則乃 中 朝外方官吏, 迎詔勑事也, 非外國當行之禮也。 竊聞我國儀注, 自前郊迎, 無五拜三叩頭禮, 中間因天使之言, 添此一節。 必是其時, 天使見 中 朝外方之行禮如此, 令我國亦依此行之, 故中間儀注, 皆有此一節也。 然只於迎詔時有之, 迎勑則雖皇朝, 亦無此禮, 我國迎勑儀注, 亦未有此禮。 開讀之節, 只行迎詔之時, 而迎勑則本無此禮。 大明 禮制可考者如是, 今當據此以答之。 蓋彼之所言, 只要重其禮而有此詰問。 我國唯當據前例以待, 何可以過禮, 而承奉乎? 宜令問禮官, 齎 《大明集禮》 、 《會典》 等書, 從速發去。” 上從之[2]

翻訳 :[...]しかしこれは中国の他の地方役人たちが詔勅を迎接するのに関することで外国でしなければならない儀礼ではないです.[...] したら王がこれをよった.
すなわち明時代(五拜三叩頭-冊封する時だけ-)にはあったが清で対象が変わりながらその手続きを無くしました. 以後にもしたという記録はただ1行も存在しないです.

Alertkeep 2009年2月13日 (金) 10:31 (UTC)[返信]

是非捏造を挿入しないでください

[編集]

嫌韓たちが捏造で作った, あるいは誤った資料を引用して編集をしないでください Alertkeep 2009年2月14日 (土) 04:52 (UTC)[返信]

出典が「捏造」「誤った資料」であることの根拠(出典)を示してから編集をおこなうようにお願いします。くれぐれも投稿者の独自解釈による編集は控えてください。--花蝶風月雪月花警部 2009年2月14日 (土) 06:10 (UTC)[返信]

丙子胡乱

私の見解ではなくて, 嫌韓たちが作った捏造資料というのをノートに明らかにしました [3]

  • 1. 中国と韓国のオリジナル古文献歴史書にそんな記録がない.
  • 2. 1634年に公式的に中断したという確かな記録がある.

嫌韓たちが韓国に対する情報をほとんどすべての水準で惨めに描いて手広く捏造したいことは分かるが, 偽りは偽りで捏造は捏造だからウィキピデ−アに相応しい情報ではないです. 言い換えるが疑問があれば反論を討論してくださって, アメリカで運営する日本語版ウィキピデ−アは日本人専用空間ではないです. 嫌韓によって意図的に捏造された文章 Alertkeep 2009年2月14日 (土) 08:22 (UTC)[返信]

Alertkeep氏は問題としている記事とその出典が「嫌韓たちが作った捏造」である根拠として、さらに、公刊された信頼できる情報源(研究者による具体的な指摘など)を出典として示す必要があります。現状ではAlertkeep氏個人による「独自研究」の域を出ていません。wikipedia:独自研究は載せないもお読みください。--花蝶風月雪月花警部 2009年2月14日 (土) 10:13 (UTC)[返信]
Alertkeep氏に於いては、いきなり実力行使に出るのではなく、ガイドラインに沿った上で日本語を使った編集案を提示してから編集して下さい。yasumi 2009年2月14日 (土) 10:21 (UTC)[返信]

三跪九叩頭の礼

[編集]

朝鮮は清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建て、清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、「三跪九叩頭の礼」により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。逆に朝鮮から清への朝貢使は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。

要するに上記の部分の出典を示せばいいんですよね。これ全部『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』に書かれてるんですか?この主張が本当なら何か基となった文献なり資料があるはずなんですが。--NAZONAZO 2009年2月14日 (土) 10:50 (UTC)[返信]

名称を「丙子の役」へ改名すべきだと思います

[編集]

「丙子胡乱」という朝鮮人が使っている名称は、あらゆる意味で不適格だと思います。朝鮮人の小中華思想の悪弊の極みです。敗者の負け惜しみの極みです。池乃めだかのギャグみたいな話なんです。 「丙子胡乱」は朝鮮にとって決定的な意味を持つ戦いでした。この戦いを機に、宗主国がかわりました。明の属国から清の属国へとかわりました。 まず「乱」が不適格です。「乱」というのは体制への反抗とか叛逆という意味です。朝鮮人は丙子胡乱を体制は李氏朝鮮で朝鮮様に蛮族が叛逆をしてきたという意味で使っています。胡乱の「胡」はご本家漢族の中華思想由来です。漢族が北部や西部の遊牧民への蔑称として「胡」を使っていました。匈奴なんかも胡だったようです。朝鮮人が漢族様になったつもりで、朝鮮の北部や西部にいた女真(漢族にとって女真は東夷)を「胡」になぞらえ、偉大なる朝鮮様に北部や西部の蛮族が刃向かってきたというのが「胡乱」にこめられた意味です。 この戦い以降、1895年の下関条約まで朝鮮は清の属国でした。「丙子胡乱」は正真正銘、池乃めだか的バカバカしさなんです。客観的立場にあるべき外国(日本)が使うべき名称ではありません。 本当は英語圏で使われている「Second Manchu invasion of Korea」が事の本質を明快に示していると思いますが、日本語表記に馴染みません。よって勝者(清⇒中国)が使っている「丙子の役」に名称を変更することを提案します。--Jumpin' Jack 2010年12月24日 (金) 01:48 (UTC)[返信]

改名提案

[編集]

Wikipedia:記事名の付け方Wikipedia:検証可能性 (google books で4件、丙子胡乱は0件)、Wikipedia:中立的な観点に合致するため、「丙子の役」への改名を提案いたします。Takabeg会話2015年7月14日 (火) 09:27 (UTC)[返信]

コメントgoogle booksの検索結果では「丙子の役」5件[3]、「丙子胡乱」38件[4]ですよ。もう一度よくご確認ください。--211.14.206.193 2015年7月22日 (水) 03:09 (UTC)[返信]
googleの件は間違えてしまったようです。申し訳ありません。ただし、その用語を使用しているのは韓国人のものを翻訳したものが多いというのが私の受けた印象です。重要なのはWikipedia:中立的な観点であり、「胡乱」という用語が中立性を犯している点を危惧しています。もちろん、記事名だけが中立的で中味がそうではない例もあります (例えばジェネラル・シャーマン号事件)。Takabeg会話2015年7月22日 (水) 04:05 (UTC)[返信]
(追記)Takabegさんは「丙子の役」への改名を提案したのに、どうして「丙子の役」ではなく「丙子の乱」に改名したんですか? ちなみにgoogle booksでは「丙子の乱」は16件[5]です。--211.14.206.193 2015年7月22日 (水) 03:18 (UTC)[返信]
丙子の役がこのページへのリダイレクトになっていたからです。この記事名修正の目的は「胡乱」という自文化中心主義的で人種差別主義的な表現を改めることにありますので、「丙子の乱」でもよかったのです。他言語のウィキペディアでは、戦争や戦闘など複数の当事者がかかわる記事の記事名の中立性に関してかなり敏感なのですが、日本語版ウィキペディアはあまり気にしない傾向にあるのでしょうか?Takabeg会話2015年7月22日 (水) 04:05 (UTC)[返信]

[編集]
  • 「胡」の字を含むので中立的でないという趣旨もあるかと思われますが、の記事冒頭の「卑しんで呼んだ言葉」という記述に不審を感じて調べた結果、虚偽記載の疑いも生じたため、ノート:胡に出典明記のお願いをしました。
    「胡」が『日本語漢字辞典』『広辞苑』『漢辞海』『大辞林』に書かれている通りに、単に「異民族」や「外国から渡来したもの」の意味であれば、改名理由の中立的うんぬんの主張も根拠を失います。
    私は日本語版ウィキペディアにおける「虚偽記載」に関してはかなり敏感で、気にする傾向があります。--114.181.36.77 2015年8月2日 (日) 09:29 (UTC)[返信]

再改名提案

[編集]

2015年7月14日になされた改名提案およびその提案の僅か一週間後になされた改名に関し異議がありますので、いったん元の『丙子胡乱』に戻す事を提案します。

先の改名への異議その1

[編集]
Wikipedia:記事名の付け方Wikipedia:検証可能性 (google books で4件、丙子胡乱は0件)、Wikipedia:中立的な観点に合致するため

とあるが、全く根拠が示されていません。ウィキペディアのルール名を列挙するだけではなく、なぜルールに合致していると言えるのかを示さなければ意味がありません。

先の改名への異議その2

[編集]

提案をして僅か一週間で何の意見表明もされる前に改名してしまうというのは、いかがなものでしょうか。Takabeg さんは、ノート:辛未洋擾#改名提案では

丙寅洋擾から朝仏戦争への改名と辛未洋擾から朝米戦争への改名では改名テンプレートを貼らずに改名したのは、なぜですか?--211.14.206.193 2015年7月22日 (水) 03:38 (UTC)

と指摘をされるほど拙速な改名を行っており、これでは言い方は悪いですが「不意討ちを仕掛けた」という印象を受けざるを得ないのが正直なところです。

先の改名への異議その3

[編集]

改名提案を出した8日後の2015年7月22日に 211.14.206.193 さんから「google booksの検索結果では「丙子の役」5件[3]、「丙子胡乱」38件[4]ですよ。もう一度よくご確認ください。」と決定的とも思える誤りを指摘されても

その用語を使用しているのは韓国人のものを翻訳したものが多いというのが私の受けた印象です。

などと、出典を示すのではなく単なる個人の「印象」として 211.14.206.193 さんの意見を退けています。これで「Wikipedia:検証可能性」を口にするのはダブルスタンダードです。この件は後に詳しく示しますが、改名提案の8日後に決定的な誤りを指摘されさがら、改名は済ませてしまっているから元には戻さないのですか。これでは改名のために手段を選ばないやり方と言わざるを得ず、こういう事を認めるわけにはいかないと感じます。

先の改名への異議その4

[編集]

「丙子の役」への改名を提案しながら「丙子の乱」に改名しています。それ程にいい加減などうでもいい改名だったなら最初から提案しなければ良いでしょう。それともWikipedia:リダイレクトの削除依頼を出して対処されるのも待てないぐらいに慌てて「反対される前に何でもいいからとにかく改名してしまえ」と急いだのでしょうか。

先の改名への異議その5

[編集]

改名理由に

記事名修正の目的は「胡乱」という自文化中心主義的で人種差別主義的な表現を改めることにあります

とありますが、胡に「卑しんで呼んだ言葉」という記述は前述の通り虚偽記載の疑いがあるので出典の明記を依頼している所です。もし胡に「卑しんで呼んだ言葉」という意味があるという出典が示されないなら、これは虚偽と見なさざるをえず、そうなれば

「胡乱」という自文化中心主義的で人種差別主義的

という主張は根底から崩れます。

「胡」が『日本語漢字辞典』『広辞苑』『漢辞海』『大辞林』に書かれている通りに、単に「異民族」や「外国から渡来したもの」の意味なら、結局は今回の改名は理屈の上では

丙子
丙子

と、「胡」が持つ「異民族」という意味が抜け落ちるだけの「改悪改名」にしかなりません。

先の改名への異議その6

[編集]

Takabeg さんは本記事の改名提案と同時期すなわち 2015年7月14日にノート:丁卯胡乱を書き、そこで

まず「胡乱」は日本語ではない用語です。

のような事実に反する主張をなさり、私に「胡乱なら広辞苑にすら載っています」と指摘されていますが、ご反論を頂いておりません。こうなりますと、「主張」と「実際」を比較すると

  • 「胡乱」という自文化中心主義的で人種差別主義的 → 胡は「卑しんで呼んだ言葉」というのは虚偽の疑いが濃厚で出典を要求中
  • 「胡乱」は日本語ではない用語 → 広辞苑に載ってます
  • google books で4件、丙子胡乱は0件  → 「丙子の役」5件、「丙子胡乱」38件

となると、もう改名理由が完全に壊滅しています。事実と異なる改名理由を掲げてなされた改名と分かった以上、改名は無効とすべきですが、正直、これ程に調査能力の無い人に改名提案などして欲しくありません。周囲の利用者が「復旧作業」を強いられ迷惑なだけです。

先の改名への異議その7

[編集]

Takabeg さんのこの改名に対する釈明ですが、

その用語を使用しているのは韓国人のものを翻訳したものが多いというのが私の受けた印象です。

こちらで少し調べただけで、Takabeg さんが主張するのとは正反対の結果となり、朝鮮史の書籍では『丙子胡乱』表記の方が一般的でした。

書名 著者 ページ 用語
朝鮮史研究入門 朝鮮史研究会編 糟谷憲一 148 丙子胡乱
韓国の歴史 水野俊平著 李景珉監修 114 丙子胡乱
朝鮮を知る事典 新訂増補 伊藤亜人監修 383 丙子の乱
朝鮮史 武田幸男 198 丙子胡乱
朝鮮王朝実録 改訂版 朴永圭著 神田聡訳 尹淑姫訳 311 丙子胡乱

それとも、Takabeg さんの方で、朝鮮史で定評のある本で、韓国人のものを翻訳した書籍の、書名と何ページにどの用語が使われているのか、答えていただけませんか。既に文献を調査したからこそ、丙子胡乱の用語を使用しているのは韓国人のものを翻訳したものが多いという印象を受けた筈ですから、問われれば即座に何冊も示せる筈ですよね?

仮にもし書名と筆者とページ数と用語のリストを、私の調査をひっくり返せるぐらいに十分に示せないのであれば、Takabeg さんが書籍を調べたのか怪しくなり、日本においてそれなりに定着している「朝鮮史」という学問分野を否定し自分で新たに歴史を造りたがっているのか、あるいは『丙子胡乱』は別に差別ではないと理解できず差別だと誤って思い込んでいるのか、それとも Takabeg さんの考える中立とは平均的な人の中立とかけ離れているのか、という事になります。

また Takabeg さんは、Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/過去ログ13#記事名の中立性、Common nameの日本語訳で節を設けて議論を始めているが、ここで記事名は common name で付けるべきという点で自分自身、納得している筈です。そうであれば、本記事は朝鮮史の分野における common name すなわち『丙子胡乱』とすべきであって、もしこれと異なる主張をするなら、記事名の付け方のノートにおける議論は、自分自身が実際に考えている事ではなく、強引な改名を正当化するための口実とするのが目的だった事になります。

まとめ

[編集]

今回のような異常極まりない改名により「丙子の乱」を既成事実化するのはふさわしくありません。改名理由が軒並み事実ではなかったと判明した以上、記事名を『丙子胡乱』に戻すべきです。そうなっても Takabeg さんは改めてきっちり調査の上で説得力のある改名提案を出し、普通に議論して合意を取る道は残されています。なお Takabeg さんは、私の異論に対し反論や間違いの指摘がある場合は、出典の伴った主張をお願いします。出典は書籍が望ましいです。有効な反証がなされない場合は再改名に異論無しと見なさせていただきます。通常は2~3週間ほど待つ所ですが、相手が Takabeg さんなら一週間で十分な筈です。--114.181.36.77 2015年8月6日 (木) 02:39 (UTC)[返信]

ウィキペディアの方針・ガイドライン・精神に沿ったまとめ

[編集]

まず、この事件にコモンネームがあるのか、日本語に定着したものがあるのかを調べてみました (ただし、google books 日本語版はそれ程網羅的ではないようです)

google books で見た限り、丙子の乱という用語を使用している信頼できる情報源 (研究者によるもの)は以下のようなものがあります

  • 金台俊安宇植『朝鮮小説史』、平凡社、1975年、73、107、115頁。
  • 金思璇『朝鮮文学史』、金沢文庫、1973年、376、385頁。
  • 川瀬俊治『もうひとつの現代史序説: 朝鮮人労働者と「大日本帝国」』、ブレーンセンター, 1987年、38頁。
  • 三木栄『朝鮮医学史及疾病史』、思文閣出版、1991年、194頁。
  • 斎藤善之『市場と民間社会』、新人物往来社、1996年、461頁。
  • 渡辺浩朴忠錫『韓国日本「西洋」: その交錯と思想変容』慶應義塾大学出版会、2005年、xxiv頁。
  • 太田秀春『朝鮮の役と日朝城郭史の研究: 異文化の遭遇・受容・変容』、清文堂出版、2006年、316、328、404頁。
  • 呉善花『日本人として学んでおきたい世界の宗教』、PHP研究所、2013年、230頁。
  • 辻大和「丙子の乱後朝鮮の対清貿易について」『内陸アジア史研究』30号、2015年、1~21頁。
  • 太田誠「宋時烈及び孝宗における尊明意識」『国際文化研究』第20号、東北大学国際文化学会、2014年、31~44頁。(丙子の戦役、丁卯・丙子の両難を使用)

google books で見た限り、丙子胡乱という用語を使用している信頼できる情報源 (研究者によるもの)は以下のようなものがあります:

  • 若松実『韓国の古時調: 対訳注解』高麗書林、1979年、165、167頁。
  • 姜萬吉『韓国近代史』高麗書林、1986年、64、65、115頁。
  • 金泰俊『虛学から実学へ: 十八世紀朝鮮知識人洪大容の北京旅行』東京大学出版会, 1988年、13、59、232頁
  • 菅沼晃『講座仏教の受容と変容: 韓国編』佼成出版社、1991年、244、245頁。
  • 田中健夫『前近代の日本と東アジア』吉川弘文館、1995年、425、440、445頁。
  • 李離和『人物 朝鮮の歴史』明石書店、2000年、250、259、260頁。
  • 田中明『物語韓国人』文春新書、2001年、65頁。
  • 宮嶋博史金容德『近代交流史と相互認識』慶應義塾大学出版会、2001年、20頁。
  • 琴秉洞『朝鮮人の日本観: 歴史認識の共有は可能か』総和社、2002年、66、74頁。-「胡乱」という用語を否定的に捉えています
  • 金基燦『空白の北朝鮮現代史: 白頭山を売った金日成』新潮社、2003年、?
  • 黒田慶一『韓国の倭城と壬辰倭乱』岩田書院、2005年、316、538、546頁。
  • 鄭章植『使行録に見る朝鮮通信使の日本観: 江戶時代の日朝関係』明石書店、2006年、130、159、292頁。
  • 黒田慶一『東アジア陽明学の展開』ぺりかん社、2006年、109、205、314頁。
  • 桑野栄治「朝鮮後期における国家祭祀儀礼の変動 : 壬辰倭乱直後の朝鮮と明」『久留米大学文学部紀要』 国際文化学科編 23号、2006年、31~53頁。

また、『韓国の歴史: 国定韓国高等学校歴史教科書』、『韓国の歴史教材『東アジア史』の真実』など韓国の学校教科書を扱ったものは「丙子胡乱」となっています。韓国の公的機関・組織から日本語で出版されているものですと、 大韓民国文化体育観光部海外文化弘報院『韓国文化へのガイド: 韓国文化へのガイド』2013年では「丙子胡乱」、韓国国際交流財団『韓国の文化と芸術』では「丙子の乱」、英語版では"Second Manchu invasion"となっています。なお、スペシフィクな研究でタイトルに事件名が入っている作品は、発見できたものでは「丙子の乱後朝鮮の対清貿易について」のみです。光州事件のようなケースとは異なり、日本語における使用頻度において一つの呼称がその他の呼称を圧倒している情況は無いようです。コモンネームが定まっていないということです。

中立的な観点は、ウィキペディアの根本的な方針の一つであり、ガイドラインであるWikipedia:記事名の付け方の上位規定です。他のオールターナティヴが日本語による研究書や研究論文において使用されている以上、丙子胡乱という名称は、少なくとも二つの観点から中立的な観点に反しています。まず、「胡乱」という用語の「胡」の意味が、中国語では古代中国の北方・西方民族に対する蔑称 (相原茂/荒川清秀/大川完三郎主編『東方中国語辞典』東方書店/北京商務印書館共同編集、2004年、ISBN 978-4497203120、554頁)、朝鮮語で胡 (호)は、中国で夷狄を呼んだ言葉 (安田吉実、孫洛範 [編]『エッセンス韓日辞典 机上版』1989年1月20日発行、民衆書林、ISBN4-89174-105-8、2437頁)のほか、女真族を指すこともあるのですが、「中國東北人」とされています (弘字出版編集部 [編]『最新漢韓辞典』、1984年初版発行、1989年1月20日改訂版発行、民衆書林、ISBN 4-89174-106-6、六二六~六二七頁)、また、『エッセンス韓日辞典』の2239頁には「胡亂」=「胡人による兵亂」、2243頁には「胡人」=「満洲人、野蠻人、外国人」となっています。朝鮮語文献では「淸 (清)」のことを「胡國 (胡国)」と呼称することがあり、三省堂『大辞林』によれば、「胡国」①(中国の)胡の国。 → 胡 ② 野蛮な国。未開の国。とあります。これだけでも、中立的な観点に反しているのが分かります。辞書関係はこの辺りにして、二次資料を見てみますと、「人倫的および文化的には夷狄胡虜視する対清観が一貫して流れていた」(飯沼治郎, ‎姜在彦『近代朝鮮の社会と思想』未来社、1981年、46頁。)。「当時の支配的な思考方法である朱子学名分論に基づいて明を崇め、清を胡として蔑しめる風潮があった」 (金哲央『人物・近代朝鮮思想史』雄山閣、1984年、76頁。)「朝鮮の儒学界はそれ以来、中国における中華文明の伝統は清朝によって夷狄化したとして蔑視し、その人びとを「胡虜」か「犬羊」とけなした。そして中華の正統を継ぐのは朝鮮だけだという唯我独尊的な「小中華思想、、、」(河宇鳳『朝鮮実学者の見た近世日本』ぺりかん社、2001年、389頁。)。「「胡乱」の「胡」とは「エビス」で北方系の民族をいう。清に臣礼をとらされていた時期にも、歴史的呼称ではその清を胡と位置づけていた」、「清を衛正斥邪の見地から夷狄視していた」 (琴秉洞『朝鮮人の日本観: 歴史認識の共有は可能か』総和社、2002年、66頁。)とあるように、「胡」、「胡乱」、「胡国」などが差別的に用いられていたことは明白であり、中立的な観点に反します。さらに、この「事件」には二つの当事者がおり、それらは李氏朝鮮であり、「丙子胡乱」という名称はあくまでも李氏朝鮮側の名称ですから、中立的な観点に反します。記事の内容はともかく、記事名に関しては少し中立に近づいたのですから、この後におよんで中立的な観点に反して、記事名を「朝鮮POV化」するのは、ウィキペディアの基本的方針と精神に反するものであります。したがいまして、当然のことではありますが、反対の立場をとります。Takabeg会話2015年8月10日 (月) 12:02 (UTC)[返信]


コメント Wikipedia:ページの改名#改名前にすべきことのガイドラインには「2. 続いて、そのページのノートで、改名提案の趣旨を述べてください。」とあるのですが、Takabeg さんは「Wikipedia:記事名の付け方、Wikipedia:検証可能性 (google books で4件、丙子胡乱は0件)、Wikipedia:中立的な観点に合致するため」とルール名を並べるだけで理由を何ら示しておらず、これでは到底、改名前に”改名提案の趣旨を述べ”た、とは見なせません。それとも「google books の数は示したぞ」とおっしゃいますか。しかし、全然、間違っていていましたよね。これでは改名前にすべきだった証拠提出を怠っていたと見なさざるを得ません。このような不備な改名提案を出して、コメントが付く前の状況で7日経つや速攻で記事移動、そして8日目に間違いを指摘されるや「googleの件は間違えてしまったようです。」などと称し、ある意味、ここで初めて改名提案に気づいた利用者と実質的な改名議論が始まったわけですが、まだ合意は得られていません。ここでこうして議論になっています。紳士的なやり方としては、「コメントが一つも付かないのであと2週間待ちます」のような方法をすべきではありませんでしたか。みなさん、空いている時間を Wikipedia のために役立てたいと思ってくれているのであって、Wikipedia のために生きているわけではない。「一週間」というのは、出来たばかりなどで多くの編集者により盛んに更新されている最中の記事なら妥当でしょうが、本記事のように

  • 2015年7月2日 (木) 17:33‎ 雪融
  • 2015年5月14日 (木) 15:22‎ 敷島健一
  • 2015年4月5日 (日) 09:00‎ Isebito
  • 2015年3月1日 (日) 06:31‎ Hogerene
  • 2014年12月28日 (日) 09:26‎ CommonsDelinker

のようなペースで今年に入ってから半年で3回しか編集が無かった、すなわち”落ち着いている状態の記事”にまで、いきなり改名提案のタグを貼って、意見が付く前に速攻で記事移動、8日目に間違いを指摘され議論となっても、もう記事を移動したから、いったん記事名を戻して改めて議論をしたりはしない、と。婉曲表現をしますが”対立を煽るやり方”とは思いませんか。もちろん、知っていてやったのでしょうから、これで「善意に取れ」などとは無理な話です。ウィキペディアの方針・ガイドライン・精神というか仁義を踏みにじって改名を強行するのはおやめくださいとしか言いようがありません。

とにかく、Wikipedia:ページの改名#改名前にすべきことのガイドラインに反し、異議を出されてから初めて合意形成すべく調査資料を示していただけましたが…なぜ改名提案時に出さなかったのですか。これだけでも、「いったん記事移動を差し戻して合意形成すべき」となってもおかしくはないでしょう。

調査には感謝しますが、その結果が「丙子の乱」が10件、「丙子胡乱」が14件ですか。10対14なら、「丙子胡乱」の方が多いではありませんか。研究者による信頼できる情報源で丙子胡乱という用語を使用している物の方が一般的すなわち Common name なら、本記事は、数の上といいますか、より一般性のある名称として『丙子胡乱』に再改名し、記事冒頭に「丙子の乱という名称も使われる」と説明すべきではありませんか。

数の上、すなわち一般的な名称という点で『丙子胡乱』に負けている「丙子の乱」に改名するからには、余程の理由が必要です。オールターナティヴがあるというだけの事ならメインストリームを置き換える理由にはならないので。

中立的な観点は、ウィキペディアの根本的な方針の一つであり、ガイドラインであるWikipedia:記事名の付け方の上位規定です。

なるほど。記事名の付け方のガイドラインなどどうでもいいと Takabeg さんがお考えになっていて、それを踏まえての一連の行動だったと分かりましたが、「胡乱」は中立的ではないという Takabeg さんの説には、大きな問題が2つあります。

1. Takabeg さんの観点に基づく主張そのものであること。
Wikipedia:五本の柱には「ウィキペディアは中立的な観点に基づきます。これは、どの観点に基づく主張もしないような項目を書くように努力することを意味します。」とありますね。逆説的ですが、胡乱は中立的ではないという Takabeg さんの長い説明が、「これは Takabeg さんの観点に過ぎない」という証拠になってしまっています。あえて言いますが、私は Takabeg さんの考えなど興味はありません。信頼できる情報源が丙子胡乱という用語はふさわしくないとしている出典を示してください。
2. 三大方針の「独自研究は載せない」に反すること。
Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成の典型ですが、
  • 「胡」は、古代中国で蔑称の意味あった。
  • だから「丙子胡乱」は蔑称に決まっている。
こういうものは独自研究は載せないによれば、
これらの記述は「独自研究」となり、記事本文から除去されます。

とある通りで、かなりまとまった分量で「胡」に関して力説していただきましたが、それらの大半は独自研究に過ぎません。意味があるとすれば琴秉洞『朝鮮人の日本観』のみです。この書籍から論じるには入手して確認するのに少し待ってもらえればと思いますが、いま言えるのは、著者が琴秉洞とありますので、Takabeg がノート:丁卯胡乱でおっしゃっていた

書籍や論文を実際に調べてみると、韓国・朝鮮人や韓国・朝鮮系の人物が日本語で書いたもの (朝鮮文化の影響下にあることが多い)、朝鮮語文献からそのまま転記して使用しているもの

と矛盾します。丁卯胡乱で、韓国・朝鮮系の人の著書は信用できない、のような発言をしておきながら、丙子の乱では琴秉洞さんの著書を引き合いに出して少数の名称に改名すべきとの論拠に用いている。改名議論をする記事ごとに言う事を180度変えるというのは都合が良すぎますね。どちらかを選んでください。韓国・朝鮮系の人の著書は出典になるのか、ならないのか。もし「なる」とするのであれば、丁卯胡乱における Takabeg さんの改名の論拠を、自己否定する事になります。

また、「胡」は蔑称以外の意味が無いかのような主張も、改名のための事実捻じ曲げです。おっしゃる説によれば、「胡椒」「胡弓」「胡桃」「胡錦濤」は蔑称だったのか、という話になってしまい矛盾します。よって、「胡」には蔑称以外の意味もあるというのが事実です。『最新漢韓辞典』の「胡」には【胡亂】すなわち胡乱の見出しがあり、〔劉氏鴻書〕「五胡亂華、漢人避兵者、凡事皆倉卒、不能完備、相率胡亂。」とあります。意味としては”五胡が華を乱し、漢人の兵を避ける者、みな大慌て、備えもできず、これを胡乱と呼ぶようになった”あたりでしょうか。広辞苑に書いてある意味の由来は、劉氏鴻書にあったのですね。劉氏鴻書が何なのかは知識不足でわかりませんが、Takabeg さんが自ら引き合いに出した『最新漢韓辞典』に【胡亂】が載っており、そこには蔑称という意味が何も無かったというのは致命的ですね。これには触れなかったのは恣意的な議論です。

一方の『東方中国語辞典』は、同じ本だと思いますが、


1 [名]
1 古代中国の北方・西方民族に対する蔑称.
2 北方・西方民族より伝わったもの,外来品.
2 [代]
なぜ.
3 [副]
でたらめに,いい加減に.
4 [名]
ひげ.

とありました。このように、蔑称が意味の全てというわけではありません。「古代中国」がいつまでを指すのか、は調べきれていませんが、三省堂『大辞林』の「胡」の見出しには、

中国で、漢以前には北方の匈奴(きょうど)の称。のちには西域民族の総称。えびす。→五胡

とあります。途中で意味が変わったようです。『小学舘中日辞典』では

  1. 北方と西方の異民族より入った(もの);(広く)外来の.
  2. <古>(北方と西方の)異民族.
  3. <姓>

とあります。

三省堂の『辞海』の【胡乱】には

  • [仏]禅宗で、一定の位次によらないで座につくこと。又、その座席。

という意外な意味が書かれており、【胡】には

  • 胡 (名)漢以前、北方にいた匈奴(きょうど)の称。後には広く支那本部以外に住む種族の総称。

とありました。

以上ですが、Takabeg さんの主張する所が事実であれば、なぜ研究者による信頼できる情報源で丙子胡乱という用語を使用している物の方が多いのでしょうか。社会で受け入られていない自分の見解を Wikipedia の記事を書き換えて広く宣伝したいというのであれば、それは目的外使用です。--114.181.36.77 2015年8月16日 (日) 09:31 (UTC)[返信]