ノート:上山寺
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この「上山寺」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2021年10月29日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
確認
[編集]良質な記事の選考で、指摘しましたが、対応のないまま通過したので、確認をお願いしたく、ノートに記載します。内容的に問題があるだろうと思われる部分のみ選考のページから加筆修正のうえ、転記します。
- 歴史節
- 5段落目、寺領を接収したのは、「公儀」なのでしょうか。安土桃山時代であれば、接収者もしくはその上位者の管理下に置かれたのではないでしょうか。出典にそう書かれているのでしょうか。
- 文化財節
- 奈良国立博物館
- 唐突に「旧塩田コレクション」と出てきます。塩田コレクションとは「塩田岩治」氏のコレクションのことのようですが、塩田岩治氏が収集し、ご家族などが寄贈したものなのでしょうか?奈良国立博物館で検索しても見つからないようなので、出典にそう書かれているのでしょうか。
- 菩薩像懸仏を奈良国立博物館で検索すると出てきますが、同一のものでしょうか。大きさが異なるほか、伝来が「西明寺」とされており、違うもののように思われます。それとも、検索結果にはないもので、出典にそう書かれているのでしょうか。
- 奈良国立博物館
以上、出典を確認できる方にお願いしたいと思います。--Kodai99(会話) 2021年11月29日 (月) 14:54 (UTC)
- いずれも出典に書いてある通りの記述であり、修正・補足の余地はないものと存じます。菩薩像懸仏についても同様で、奈良国立博物館がこの1点しか所蔵していないということでも、全ての収蔵品のオープンデータ化を完了しているということでもないのでしょう。--漱石の猫(会話) 2021年11月30日 (火) 12:56 (UTC)
- コメント 参考までに、『丹後国竹野郡誌』(1915年)613頁には大略「天正5年に中野城主が没落、この時に上山寺の寺領も細川越中守に召し上げられた」云々とあるので、「公儀」とは細川氏のことであると思われます。ただし細川氏の丹後支配は天正8年以降と思うので、あくまで寺伝であって歴史的事実かどうかというのはまた別の話でしょうが。--taisai429(会話) 2024年3月30日 (土) 13:29 (UTC)