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ノート:モンゴル帝国

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差し戻しについて

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2020-10-10に当セクションでの合意にもとづく主ページ導入部の改稿が実施されました(特別:差分/79917041)。--Yumoriy会話

利用者:‎Big sausageさんの差し戻しを、取り消したところ、再度差し戻しが行われたのでコメントします。私見として、現行のバージョンより版番79757488をベースに参考文献を追加していった方が良いものと思います。現行のバージョンの冒頭部は英語版からの翻訳とのことですが、ref付きか否かという以前の話として内容的に問題があります。翻訳に絞って問題点を指摘すると以下のような例です。

  • 単純な用語・訳語不統一の問題:冒頭部だけでもチンギス・ハーンとチンギス・カンが混在しており不統一になっています。また、khanatesという英単語をハンナートというカナ書きで用いるのも普通見ない方法です。
  • 誤訳:日本語文がおかしくなっている箇所もありますが、簡単な確認でも非常に単純な誤訳が複数見つかり、内容が不信の状態です。以下は例です。
    •  (英)...Originating in Mongolia in East Asia, the Mongol Empire eventually stretched from Eastern Europe and parts of Central Europe to the Sea of Japan,... ⇒ (日)モンゴル帝国は東アジアのモンゴルを起源とし、最終的には東ヨーロッパと中央ヨーロッパの一部から日本に広がり...
    •  (英)...In 1304 the three western khanates briefly accepted the nominal suzerainty of the Yuan dynasty,...(日)...1304年には西の3つの漢民族は元朝の名目上の宗主権を一時的に受け入れたが...

これらは日本語版Wikipediaの内容がおかしいことはモンゴル史についての概説書一冊でも確認すれば一見してすぐわかるものです。従って現在の記事冒頭部は単純におかしいです。他の部分もここまで決定的ではないにせよ問題があります。--TEN会話2020年10月1日 (木) 17:26 (UTC)[返信]

  • 反対 全て直しましたがまだ文句ありますか? 自分の追記がより良い記述に置き換えられるのはかまいませんが、refなしの記述で置き換えられるのは問題外かと思います。後から追記するとかいう言い訳はWikipediaでは通らないかと思いますよ。ちなみにチンギス・ハーンやチンギス・ハンの混在はこの記事の他の箇所でもあったわけですが、あなたの主張ですとこの記事は全て信頼できないですね。--Big sausage会話2020年10月1日 (木) 23:05 (UTC)[返信]
  • まだ文句ありますかと言われればまだまだ沢山あるのですが、ここでいちいちあげつらっても建設的ではないので、即時脚注をつける形での更新ならばBig sausage氏は納得できるということでよろしいでしょうか。とりあえずHaydar氏の文章を元にした試案を挙げますので、他の方の納得が得られればこちらに改訂いたします。--カラ会話2020年10月2日 (金) 13:23 (UTC)[返信]

導入部の改訂文試案

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モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原遊牧民を統合したチンギス・カン1206年に創設した遊牧国家中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルスᠶᠡᠭᠡ
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Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した[1]

モンゴル帝国の創始者チンギス・カンとその兄弟・子息たち、『四駿四狗』に代表される部将(ノヤン)たち、及びそれらの後継者たちはモンゴル高原から領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパアナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はアフガニスタンチベットミャンマー、東は中国朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた[2]。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。二大洋に面していた。

モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、「アルタン・ウルク(「黄金の一族」の意味)」と呼ばれるチンギス・カンの子孫の王族たちと彼らに従属する部将(ノヤン)たちによって、主に戦功等に応じて各地に分与された領民と領国を支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした[3]。モンゴル帝国は、「千戸(ミンガン)制度」と呼ばれるテュルク・モンゴル系の騎馬軍団を基礎とし、皇帝の命によって分与されたそれら数十もの千戸軍団を各モンゴル王族や部将たちが管轄し、軍団や征服地域の租税や民政の管理を皇帝直属の財務官僚(ビチクチ)たちが担った。彼らの行動規範は「チンギス・カンの遺訓(ジャサク)」によって律せられ(これを職掌したのが「断事官、ジャルグチ」)、モンゴル皇帝はこの「チンギス・カンの遺訓」に基づき、これらの諸ウルスの存廃と租税管理を最終的に統御する存在でもあった[4]

しかし、1260年に、第4代皇帝モンケの死去に伴い皇位継承戦争が勃発し、その次弟クビライ上都で第5代皇帝としてこれを制して即位したが、当時の主要なモンゴル王族であったジョチ・ウルスベルケ、クビライの実弟フレグチャガタイ家アルグらが相次いで死去したため、モンゴル皇帝を正式に選出する全帝国的な統一クリルタイの開催が事実上不可能になってしまった[5]。そのため、クビライは自らが直接支配できていた中国とモンゴル高原チベットを中心とする、現在の区分でいう東アジア部分の統治機構を整え、あわせてモンケの死去によって中断されていた南宋遠征を完遂させる事で、モンケの後を継いだ事実上のモンゴル皇帝である事を内外にアピールした。この過程で、中央アジアのモンゴル王族たちとの紛争の前線基地と化していたカラコルムに替わり、1271年に帝国の中国方面支配の拠点のひとつであった金朝の旧都・中都の北隣に大都(現在の北京)を建設し、帝国の東半分の地域は事実上クビライとその子孫が領国として継承する体制ができあがった。他の地域もそれぞれの地域の主要な王族たちが領民と領国を囲い込むようになり、13世紀後半、帝国はモンゴル皇帝による全土支配の時代から、徐々にモンゴル皇帝を盟主としジョチ家チャガタイ家オゴデイ家フレグ家のような各地の主要王族を頂点とする諸ウルスの連合による緩やかな「連邦」化が進んで行った。このうち、クビライはモンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した[6]

この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カン末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる[7]
— User:カラ

脚注

  1. ^ 例えば、第3代皇帝グユクが教皇インノケンティウス4世に宛てた書簡にはウイグル文字で「大モンゴル・ウルスの大海のごとくのカン(yeke mongγol ulus-un dalay-in qan)」、第5代皇帝クビライが日本に宛てた漢文書簡には「大蒙古国皇帝」とそれぞれ記されており、「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」がこの国家の公的な自称であったことが確認される(川本2013,13-14頁/高田2019,100-102頁)。
  2. ^ モンゴル帝国の広大な版図は、モンゴル帝国とその後継国家が残した詳細な地図によって正確な形が現在まで伝えられている。とりわけ文宗トク・テムルの即位記念に編纂された『経世大典』「輿地図」はジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、大元ウルスの4大ウルスの境界線を明確に示し、モンゴル系諸国家が西北は現ロシアのルーシ諸国(阿羅思)、西南はアナトリア半島からシリア、南は現アフガニスタンのガズニー(哥疾寧)・カーブル(何不里)まで及んでいたことを図示している(宮2007,115-118頁)
  3. ^ モンゴル史研究者の杉山正明は『集史』や『モンゴル秘史』などの検討により、即位直後のチンギス・カンによって諸子諸弟に与えられた6つのウルスと、その中央に位置するチンギス自身の中央ウルス(コルン・ウルス)の連合体こそが「モンゴル帝国の原像」であると論じている。そして、このような「チンギス・カン一族による共同領有の原理=モンゴル帝国の分有支配体制」はモンゴル帝国の急速な膨張を経ても変わらず、以後のモンゴル的伝統を引く諸国家のプロトタイプとなったと指摘している(杉山2004,53-57頁)。
  4. ^ 1996B,196-198頁
  5. ^ 1996A,198-203頁
  6. ^ とりわけ、武宗カイシャンの治世にはウルス間の活発な交流が行われ、全モンゴルの一体性が蘇った。しかし、そのカイシャンが弟アユルバルワダのクーデターによって死去すると、ウルス間の交流は断絶することはなかったものの低調となっていった。このような変化について、杉山正明は「(カイシャンの死によって)モンゴル帝国の東西和合の大流は、それでも押しとどめられることはなかった。しかし、決してそれ以上は進展しなかった」と論じている(杉山1996B,177-184頁)。
  7. ^ 杉山正明は15世紀以後を「ポスト・モンゴル時代」と称し、この時代特有の現象として「モンゴルほどではないが、モンゴル以前ではありえないような大帝国」、すなわち明朝/清朝、オスマン朝、ティムール朝/ムガル朝、ロシア帝国が相継いで誕生したこと、そしてその多くが20世紀に至るまで存続した「老帝国」であったことを指摘する。杉山はこれらの大帝国は直接・間接にモンゴル帝国の影響を受けた「モンゴルの遺産」であり、「陸」の時代から「海」の時代へ、中世から近現代への架橋の役割を果たしたと論じている(杉山1996B,226-231頁)。

(参考文献)
川本正知『モンゴル帝国の軍隊と戦争』山川出版社、2013年
杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996A)
杉山正明『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』講談社現代新書/講談社、1996年(杉山1996B)
高田英樹 『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
宮紀子 『モンゴル帝国が生んだ世界図』日本経済新聞出版社、2007年

--カラ会話2020年10月2日 (金) 13:23 (UTC)[返信]

一週間経っても反対意見がなかったので、上記の試案に基づいて改稿しました。できれば本文全体に注釈をつけたかったのですが、あまりにも時間がかかり過ぎるため、今回は見送りました。後々節単位で注釈を少しずつ増やしていこうと思っています。--カラ会話2020年10月10日 (土) 04:54 (UTC)[返信]
  • 賛成 ろくに日本語書籍も読んでいない、訳語は誤りだらけ、日本語としてもおかしいと、正直どのような意図でこのレベルの文章を載せたのか理解に苦しむ所です。いつかどうにかしないといけないと思っていたので、Haydar氏とTEN氏には感謝です。個人的には利用者:‎Big sausage氏の加筆部分はまるまる削除でも良いと思いますが、Haydar氏の版で参考文献が加筆されるのならそれでも良いと思います。--カラ会話2020年10月1日 (木) 21:44 (UTC)[返信]
  • 書籍たくさん読まれていても出典を付けることすらできないのはなぜでしょう? この記事もほとんど出典が付いてないゴミ記事なので一度全部消した方が良いかもしれないですね! --Big sausage会話2020年10月2日 (金) 03:45 (UTC)[返信]