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ノート:マリア様がみてる/過去ログ2

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登場人物 内の表について

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登場人物 の章に 山百合会幹部 と題した表が3つありますが、その2番目の物についてです。表題は

山百合会幹部:小説第21巻終了時(作中での1年が経過した時点)

となっています。しかし、第1巻は祐巳が1年次の学園祭およびその少し前のお話ですから、「1年が経過した時点」とは『特別でないただの一日』(第19巻、プレミアムブックを除くのであれば第18巻)の終了時点を差すのが適切ではないでしょうか? --59.156.221.81 2008年7月16日 (水) 03:49 (UTC)

山百合会幹部:小説第34巻終了時

となっていますが、既に新刊が発行されており、終了時に世代も交代している訳で、いい加減更新してはどうでしょうか。 219.106.221.149 2009年1月5日 (月) 11:44 (UTC)

(コメント)記述だけが更新されて、巻数が合ってませんね。プレミアムブックやイラストコレクションを省いたのでしょうか。それでも、最新刊終了時点なら有馬菜々は正式なブゥトンですし、祥子や令はいないわけで矛盾してますので、更新しました。---t-forces 2009年1月5日 (月) 13:15 (UTC)

パロディは検証不可能な独自研究

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以下のような理由でパロディの項目に書かれている内容のほとんどが検証不可能であり、独自研究と判断して除去してもよろしいでしょうか。

  • 「マリア様がみてる」と一部が同じだからといってその場面が真似やオマージュだと決めつけることは、特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成になると判断します。
  • Wikipedia:検証可能性の冒頭には「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。」と書かれています。パロディの項目に書かれているような場面が作中にあったことは検証可能ですが、それが「マリア様がみてる」のパロディとして登場させたのかどうかは作者に聞くことが出来ないので検証不可能です。

そもそもパロディの節を作る必要性は無いと思います。ある程度の人気作が真似されることは普通のことですし、数回だけ行われたパロディを集めることが「マリア様がみてる」を理解する役に立つとは思いません。--吹く都心 2007年12月5日 (水) 10:59 (UTC)

反対がありませんでしたので除去いたしました。--吹く都心 2007年12月24日 (月) 23:50 (UTC)
全削除よりも、作品名のみ残す形のほうが、良かったのでは? --idea 2007年12月25日 (火) 00:52 (UTC)
作品名のみ残す形であっても記載基準自体が推測でしかない独自研究であり、それがパロディとして登場させたのか検証不可能なのでウィキペディアには必要無いと思い全部除去しました。それに上にも書いたようにパロディの節を作る必要性は無いと思います。--吹く都心 2007年12月25日 (火) 01:33 (UTC)

非表示テンプレートの乱用

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「既刊」の節にて、非表示テンプレートの乱用があまりに酷すぎると思います。個人的には、節の中で1つ・記事全体で2~3程度、ここぞという超重要なネタバレ箇所において使用するなら、なんら問題ないと思います。しかし、それ以上であれば「事前・事後に同意を得る」必要があるように思うのです。他の作品同様、非表示テンプレートを用いることなく、作品の魅力を過不足なく伝えることは、十分に可能だと思われます。2~3ヶ月ほど様子見しますので、今後の改変を望みたいと思います。--idea 2007年12月8日 (土) 22:54 (UTC)

ideaさん、こんにちは。乱用について、ideaさんのおっしゃるとおりだと思います。
現在ネタバレ注意の非表示テンプレートはエピソードごとに設定されているため、たとえば短編集「フレーム オブ マインド」だけでも、非表示テンプレートが9つ並ぶことになります。また、仮に各巻ごとに設定するとしても、現在全32巻ですから、非表示テンプレートが32個並ぶわけで、これでも「乱用」と言わざるを得ないと思います。
確か、昨年秋の特定版削除の直前の版は、現在各巻に分割されている非表示テンプレートの内容を一つにまとめていたと思います。そこで、非表示テンプレートをすべて一つにまとめ、「既刊」の一番最後、「キラキラまわる」の解説文の下に置いてみてはいかがでしょうか。
とはいえ、他の方のご意見も見ていきたいので、私もideaさんに合わせて、しばらく静観したいと思います。--Whaa 2008年1月21日 (月) 15:52 (UTC)

ノートの過去ログ化

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を行って下さい。重すぎて話になりません。--Lonicera 2008年1月5日 (土) 18:53 (UTC)

/過去ログ1に過去ログ化しました。--新芽 2008年1月5日 (土) 19:36 (UTC)

概要部の記述除去提案

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概要に「本シリーズの記述形態は特徴的である。本文は基本的に一人称の視点で記述されるが、視点の主は固定されておらず、章あるいは場面ごとにその場の中心人物の視点で物語が描写される」ですが、一人称で視点が移動していく作品ならいくらでもあるので「特徴的」とは言えないと考えます。例を挙げろというなら、夏目漱石の『こころ』でも芥川龍之介の『藪の中』でもいくらでも揚げられれますし、ライトノベルだって『ブギーポップ』シリーズなどいくらでも出てきます。「現実と同調はしていないが作品内においてもきちんと時間が経過している」についても同様で、これがさほど珍しいとも思えません。さらに「本作における、全校生徒に慕われ“薔薇さま”と呼ばれる三人の生徒会役員の存在や、普通の少女が憧れの先輩に選ばれるという設定は、池田理代子の漫画「おにいさまへ…」を彷彿とさせる」は、いかにも執筆者の主観に基づく見解なので、削除が適当と考えます。ざっと考えただけでも氷室冴子の『クララ白書』『アグネス白書』なんかも出てきますし、西谷洋子あたりの60~70年代の少女漫画をあたればもっと出てくるんじゃないでしょうか。そういった、「女子校もの」の系譜をきちんと押さえた研究書を引用して作例を出すなら問題はないんですが、執筆者がたまたま思い浮かべた「似たような話」を書くのはアウトだと考えます。みなさんのご意見を伺った上で、削除を考えさせてください。--おーた 2008年3月29日 (土) 03:20 (UTC)

「本シリーズの-」の一節を書いた者です。「特徴的」が誤解を招いたようですね。「本作では、時間の流れも含めてこういった記述(叙述)形式をとっている」ということを述べておこうとしただけで、特に「珍しいという意味で特徴的である」というつもりはありませんでしたので、冒頭の一文を削除しておきました。記述形式等の紹介など不要である、いうことになるのであれば改めて他の部分も除去しましょう。「本作に-池田理代子-」の部分については、私が書いた部分ではないので始めに書いた方の意図は分かりかねますが、個人的にはおーた様に同意です。--螢66 2008年3月29日 (土) 05:47 (UTC)
リバートを受けて、改めて意見を述べさせていただきます。この小説は主人公の語り、つまり「私は~」云々という形にはなっていない。ということは、形式的にはあくまで三人称で書かれているのであり、その事実は明確にすべきだと思います。ただし話の視点が各パラグラフ毎に一人物(要するに、その場の主人公)に固定されており、各登場人物の呼称なども、視点の人物からのものに揃えられている。そのため「あたかも一人称小説である」かのように受け取られているのでしょう。そこは独特といえば独特でしょうけれど、他に同様の例があるかどうかについては寡聞にして存じません。--死郎 2008年3月29日 (土) 12:20 (UTC)
登場人物に寄り添いながら三人称で書かれている例なら幾らでもありますけれど。そして、それが視点移動していくのも別に珍しくありません。たとえば、宮部みゆきの『模倣犯』でも東野圭吾の『白夜行』でもいくらでも例はあります。『マリア様が見てる』の文体がそれほど独特のものであると名の有る批評家が言明しているんですか?そういうのがあるなら話は別なんですけれど、私には執筆者の方の勝手な思い入れにしか見えません。信頼できる出典が出てこないなら独自研究なんじゃないでしょうか。--おーた 2008年3月30日 (日) 14:06 (UTC)
おーたさんに聞きたいんですが、独特とか特徴的とかは関係なく、出典を示さずにどのような形式となっているかを記述することについて、記述すべきないとお考えですか?
「本作における~」はどこかでそういった発言がなければ削除、それと「時間が経過している」も前の部分を削除、後の括弧内の部分も1巻と○巻で○年が経過という表現よりも進級しているとか卒業・入学があるというふうにしたほうがいいと思います。
後、既刊の一覧があの場所にあってさらに離れた場所に詳細が書いてあるのもおかしいと思います。後ろのほうに詳細なしの一覧か、詳細のついた一覧のどちらかだけでいいと思います。「メディア展開」の節も概要に入れたほうがいいと思います。is_ma_s 2008年3月30日 (日) 17:20 (UTC)
is_ma_sさんの質問の趣旨が理解できているのかどうか、よく判りませんが、とりあえず回答しておきます。
極端な話、『マリア様が見てる』第一巻の句読点の個数を数え上げてそれを「誰でも確認することができる事実」として本文に書こうとする人が居たら、「それって何か意味があるんですか?」と聞くでしょうね。文章が極端に短かったり長かったりする文体については、句読点の個数(というか頻度)でそれを実証する場合があるんですが、『マリみて』でそういうデータが有用とも思えない。そういう、無意味と思えるデータならいくらでも思い付くんですよ。それぞれの薔薇様の出現頻度と巻毎の推移とか、巻毎の視点移動の回数とか、シスターの出現頻度とか。そういうデータは書く必要ないですよね?
文体の形式についてですが、私が「書く意味がない」と判断するのは、「そんなの、そこらの小説でいくらでもあるじゃん」と考えるからです。『マリみて』の文体の特徴をせっせと書いていただいた執筆者には申し訳ないんですがwikipedia:特筆性を満たすとは考えられません。--おーた 2008年3月31日 (月) 15:08 (UTC)
私はただ議論がかみ合ってなかったので質問しただけで削除に反対の意思はありません。おーたさんがそうお考えであるのならば他に言うことはありません。--is_ma_s 2008年4月3日 (木) 11:12 (UTC)
ええと。繰り返しになりますが、当方としては特徴的かそうでないか、他に同様の例があるかどうか等々については関知しません。ただ文中に「一人称の視点で記述される」云々とのみあるのが、いささか誤解を招く表現であろうと思いましたので、はっきりと「文体としては三人称で記述されている」旨を加えるべきだと述べたまでです。議論の結果この部分の元の文が削除されるなら、それはそれで全く構いません。--死郎 2008年3月30日 (日) 19:44 (UTC)
私は小説の「人称」や「時間経過」について記載することが無意味だとは思いません。奇しくもおーたさんが書いているように、立派な「『マリみて』の文体の特徴」ですので、特に削除する必要はないと思います。「『特徴的(珍しい例)』と書くかどうか」という問題とは分けて考えるべきだと思います。「『そこらの小説でいくらでもある』から要らない」という論法だと「コバルト文庫から発行」とか「アニメ化された」とかいう記事も要らないことになってしまうと思うのですが。「本作における、全校生徒に慕われ…云々」の段落については、出典不明なら削除、でいいのではないかと思います。なお、wikipedia:特筆性って、その記事自体(ここだと「マリア様がみてる」という記事全体)がwikipediaに記載されていいかどうか、という基準だと思うのですが。ついでに書くと、これ今のところ「草案」で拘束力はないのでは?--60.32.123.58 2008年4月4日 (金) 11:23 (UTC)
うーん。ある猫の描写をしたとしますね。虎柄だとか、三毛だとか、黒猫だとか、そういうのは確かにその猫の特徴ですよ。でも、同時に猫としてはありふれた柄ですよね。別にめずらしくもなんともない。どうもね、こうした記事を見ていると、愛猫家が一生懸命自分のお気に入りの猫を細かく描写しているように見える訳ですよ。でもさ、そういう作品への思い入れと、百科事典としての記述は分けて考えてくれないと困るわけです。ファンでもない人がとりあえず『マリ見て』の概要を掴もうとしてこうした記事を読んだときに、別に珍しくもなんともない文体の特徴を読まされてどう思うのか。私はそう考えます。
で、このように編集者の意見が割れたときのルールはご存知ですよね。この記述を残したい方は、『マリ見て』の文体がそういう特徴を有しているとする文献(信頼できて検証可能性のある文献)を明示ください。よろしく。--おーた 2008年4月4日 (金) 15:58 (UTC)
IP氏を除いて削除には合意いただけました。IP氏についても、1週間待ちましたが私の説明に反論がありません。もう少し待って、反論がなければ合意が成立したものとして該当部分の削除を行いますので、ご了承下さい。--おーた 2008年4月12日 (土) 14:47 (UTC)
削除を実行しました。問題あれば指摘ください。--おーた 2008年4月17日 (木) 00:13 (UTC)
気づくのが遅かったので、削除が実行されてからになってしまいましたが、私も60.32.123.58さんとほぼ同意見で、削除には反対です。で、疑問なのですが、ここで議論のように見えるものは全く議論になっていないように見えます。というのも、おーたさんは、ご自分の意見だけをおっしゃっておられて、他の方からの疑問に何一つまともに答えておられないように見受けられるからです。
is_ma_sさんや60.32.123.58さんの質問や疑問に直接答えずに、ご自分に都合のいい回答が得られるような「まったく別のたとえ話(句読点や猫)」を持ち出してくるのは議論とは言わないと存じます。まず、「『そこらの小説でいくらでもある』から要らない」というおーたさんの論法において、「コバルト文庫から発行」とか「アニメ化された」とかいう記事は必要かどうか、ということをご自身の回答として述べられるべきではないでしょうか。これはもちろん「検証可能だからいい」とかいう主旨のすりかえではなく、「『そこらの小説でいくらでもある』から要らない」というおーたさんの論法に則って答えられるべきものです。wikipedia:特筆性に関する疑問についても同様で、賛意なり反意なりを述べられるべきかと存じます。
また、「IP氏を除いて削除には合意いただけました。」とありますが、上の記述をみる限り、削除に同意しているようにとれるのはis_ma_sさんだけ(この方も議論が噛み合っていないと指摘されていますが)で、螢66さんと死郎さんは「議論の結果に従う」と述べられているだけで、賛成とも反対とも明言されておりません。もう少しまとめてから結論を出すべきだと思います。--125.174.54.229 2008年4月17日 (木) 04:13 (UTC)

Hello,

Some of you have posted on the French Wikipedia a question regarding French words in マリア様がみてる:

http://fr.wikipedia.org/wiki/Discuter:Maria-sama_ga_miteru#les_mots_francais_dans_cet_oeuvre

It has been a long time since the question has been asked, and because I don't speak nor read Japanese, I don't know if you got an answer in the meantime. Anyway, I wanted to let you know that I just replied, and you'll find the reply in the above-mentioned link.

Regards.

フランス語としては誤り?について

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編集合戦になりそうな部分であるので、もう一度ここで記載について議論したほうが良いと思います。私の意見を述べますと、まず争点の一点目ですが、記述するとしたら「フランス語としては間違い」ではなく、「フランス語ではこうなっている」というふうにするべきだと思います。また二点目については、はじめは一点目と同じように節のタイトルに準じて現実との相違点について書かれているように見えますが、間違いと断定できない可能性についても言及しているなど、「相違点とすることが独自研究」であるように思われます。--春日椿 2009年3月12日 (木) 15:30 (UTC)

まず一点目の「フランス語ではこうなっている」とすべきだ、という意見には同意します。二点目は確かに仰る通りなのですが、むしろ「ブゥトン」と「プティ」の間に中黒がない理由なども含め、「ただし~」以下の部分こそ作品にとって重要な考察なのではないかと(個人的には)思う次第です。とはいえ「現実との相違点」という項目の下に置くには内容的にどうか、というところはありますね……どうしましょう。ご意見求む。--死郎 2009年3月12日 (木) 16:02 (UTC)
WPで個人の考察を乗せることはできません。春日椿氏のおっしゃる通り「フランス語ではこうなっている」と述べるにとどめ、「~は誤りである」「~かもしれない」などといった独自研究は除去すべきでしょう。--Personofedo(会話/履歴) 2009年3月13日 (金) 00:23 (UTC)
ううむ。「考察」とは書きましたが、個人的なものというよりは、誰が読んでも明白なことから類推できる範囲のことしか書かれていないと思います。とはいえ、こちらの第二項については、削除に賛成の意見が多ければ(他に積極的反対がなければ)従う所存です。--死郎 2009年3月13日 (金) 07:04 (UTC)
えーと。上記にあるように、もう2年前も前にAphaiaさんがフランス語記事のノートで問い合わせた回答が、先ごろ寄せられました。 fr:Discuter:Maria-sama ga miteru#les mots francais dans cet oeuvre
要するに、
  • 「プティット・スール」が正しい(つまり、プティ・スールは駄目)
  • 「ロサ・キネンシス・アン・ブトン」はまったく正確
  • (ロサ・キネンシス・アン・ブトン・プティ・スールについて)「プティット・スール・ドゥ(ラ)・ロサ・キネンサス」という言い方なら出来る
とのことであります。なので、長らく放り置かれた「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン」等も間違いである。は削除しましょう。それからプティ・スール、グラン・スールは、フランス語としては間違いである。スールは女性形であるので「プティト」、「グランド」と発音する方が近い。の「と発音するほうが近い」は「と発音する」でよいと思います。「間違いである」はそのままで良いと私は考えます。だって、フランス語の初級のどの教科書を見ても「プティ・スール」は間違いなんですから。ロサ・キネンシス・アン・ブトン・プティ・スールについてはフランス語として語順がやはり変であることは確かです。それは書いておいて構わないし、それに続く、、、読まれるべきなのかもしれないは死郎さんの「誰が読んでも明白なことから類推できる範囲のことしか書かれていない」という意見に賛成します。ここは残しておけばよいです。--おーた 2009年3月13日 (金) 15:15 (UTC)
それについては別の考えを持っていて、「本作では用語としてフランス語が使われているとされている」のか「本作では用語としてフランス語の単語が使われている」のか、ということで違ってくるように思います。少なくとも私は後者であるという出典しか持っていません。それで考えると、「間違いである」と書くのは正しいとは考えません。
2項目については、フランス語記事のノートでの回答によると、こちらも「フランス語としては~となる」というようにしか書けないものと思います。「分別のある大人なら誰でもわかる」という独自研究の例外には、あたらない表現ではないでしょうか。--春日椿 2009年3月13日 (金) 16:03 (UTC)
ほかのところは皆さんのおっしゃる通りで構いませんが、ひとつだけちょっと納得できないんですが……。「ただし原作の表記を子細に見てみると、例えば「紅薔薇のつぼみ」に「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン」、「妹」に「プティ・スール」とそれぞれルビが振られており、一続きの単語ではないようにも見える。つまり全体としては「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンのプティ・スール」のように読まれるべきなのかも知れない」というのは確かに「誰が読んでも明白なことから類推できる範囲のこと」でしょうけども、類推している時点で(たとえ万人が同じ類推をするとしても)それは独自研究ではないでしょうか。--Personofedo(会話/履歴) 2009年3月14日 (土) 13:16 (UTC)
一週間以上経過しましたが反論がないため、異論なしと判断し当該記述の修正を実行します。--Personofedo(会話/履歴) 2009年3月23日 (月) 00:28 (UTC)
反論がなかったのではなく、両者の意見が並行したまま議論が止まっているものと感じていましたが……それは良いとしても、『この点について~追認されている』は削除された部分に対してなので、そこも手直しが必要に思えます。--死郎 2009年3月23日 (月) 07:46 (UTC)
手直しということであれば、「と発音するほうが近い」は「と発音する」とすることもよろしく。どのフランス語の教科書を見ても、女性名詞を形容するときは「プティット」「グランド」の語尾の子音は発音すると書かれていますから。--おーた 2009年3月23日 (月) 12:29 (UTC)
原作の記述通り「ブゥトン」と「プティ」の間に中黒がない形に修正しました。上でも書きましたが、これは一続きの語句でない重要な証左であろうと思います。しかし、そう判断するかどうかは読者に委ねるしかなさそうですね――とはいえ不親切な感は否めない。あるいはいっそ、この項はなくしてしまうほうが正しいのかも知れません。
それから上の項の『~発音するほうが近い』については、原音と日本語の発音(≒片仮名表記)では隔たりがあるため、そのような表現になっているのだとばかり思っていました。とはいえ、こちらは修正済みのようですね。--死郎 2009年3月24日 (火) 07:42 (UTC)

皆さん、熱心に議論されているところ申し訳ないのですが、そもそもフランス語でどうであるかというのは重要でしょうか。 「マリア様がみてる」という作品の中で用語としてそのような使われ方をしている以上、その世界の中ではそれが正ではないでしょうか。 私としては「現実との相違点」自体が不要と思いますが、それは今回の話から外れるので置いておくとしてフランス語として正しいかどうかが「マリア様がみてる」を語る際に特筆すべきことですか。 この作品はフィクションであり、フランス語の教科書ではないでしょ。 --207.46.92.19 2009年3月24日 (火) 08:59 (UTC)ごろんた

仰りたいことは理解できますし、もちろん「作品の中では正しい」には同意します。とはいえ興味の持ち方は人それぞれで、作中のどの部分を「重要」とするかも各人で違うものと存じます。誰かにとって興味がない点だからといって、それが書くに値しないとは言えないのでは? 少なくとも、この作品を通して仏語に興味を持った年若い読者などにとっては有用な記述であろうと思います(そして、そのような意味ではまさに「重要」ではないかと)。--死郎 2009年3月24日 (火) 12:19 (UTC)
興味がないかではなくて百科事典として必要かで考えてみてください。
フランス語に興味を持ったのであれば、少なくともwikipediaの「マリア様が見てる」を見るよりか「フランス語」を見ればいいのです。
冷たい言い方かもしれませんが、フランス語に興味を持ったのであれば各自で勉強すればいいことであって、何もこのページが正しいフランス語を教える必要はないでしょう。
まして、この作品に書かれているフランス語が絶対に正しいのだと盲信する人もいないでしょう。
例えばこの作品を通して「女子高」に興味を持った人に「現実との相違点」として、ほとんどの女子高ではスールなどのシステムはないと書きますか?
上の方にもありましたが、ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。
作者がどこかで「このフランス語は間違えてました」といっていて出展を明記して記載されていれば納得も出来ますが、それがないのであれば独自研究の域を出ません(それがフランス語として正しいとしても)。
確かに興味や重要となるポイントは各人で違いますが、wikipediaに載せる項目は"その作品の中で"重要な点であり、現実世界でどうであるかは個人では重要でも、作品としては重要ではないと思いますがいかがでしょうか。
これは私の感想ですがフランス語を含めた「現実との相違点」はただの揚げ足取りにしか見えません。--210.197.180.90 2009年3月24日 (火) 18:01 (UTC)ごろんた
要するに210.197.180.90さんは、この点を重要だと思わないということですよね。僕もこの節にこだわるわけではないのですが、少なくともあなたの意見は説得的ではないし、賛同できません(ついでに、検証可能性については純粋に言語上の問題であり、作者の言及は無関係です)。揚げ足取りのように感じるのは多分に書き方の問題で、むしろ内容的には作品そのものへの興味を惹き起こす要素の一つであるように思えます――というのは個人的な感想ではありますが、一応このように感じる人間もあるということで。まとめとして、あなたと同様にこの節を不要と考える方が圧倒的多数であるなら、削除も致し方ないでしょう。しかし、それを誰もが当然とは思わないからこそ、ここまで議論が続いているのでは? --死郎 2009年3月25日 (水) 06:33 (UTC)
「説得的」や「検証可能性については~」の部分は意味がよくわからないのですが、反対であるということはわかりました。ご意見ありがとうございます。
広くいろいろな方からの意見を聞きたいという部分については私も同感です。しばらく経過を見守りたいと思います。--210.197.180.90 2009年3月25日 (水) 14:36 (UTC)ごろんた
こちらこそ貴重なご意見ありがとうございます。また、あまり一般的でない言葉遣いだった点はお詫びします。「説得的でない」は「説得力がない」と読み替えてください。単語ではなく内容についてわからないということでしたら、どのように理解できないのか仰っていただかないと説明できません(あるいは、意見の違いから『理解したくない』という遠回しの表明でしょうか。それはそれで構いませんが)。ともあれ一区切りとなったようなので、当方も他の方のご意見を待ちたいと思います。--死郎 2009年3月25日 (水) 15:52 (UTC)
なかなか意見が出ませんね、寂しい限りです。
いろいろ廻ってたら今回の内容とまったく同様の話がwikipedia:井戸端でされていました。(映画内容解説の~というものです)。こちらでもやはり、この手の内容は独自研究に該当するとなっています。また、よく陥りやすい勘違いの典型のようです。
私はこのフランス語の話が重要かどうか以前に、独自研究に当たるから不要だと申してますが、伝わってますでしょうか。検証可能性のコメントを私なりに理解したところ話が平行線になっている気がします。
私の説得力云々のレベルの話ではありません。Wikipedia:独自研究は載せないをよく読んでご理解いただきたいと思います。
ちなみにこのまま意見が出なければ存続ということになりますでしょうか。--210.197.180.90 2009年3月28日 (土) 13:12 (UTC)ごろんた
一応はじめの意見の繰り返しとなりますが、やはり2点目は独自の研究として記載されている部分が主で(そのの部分こそ作品にとって重要な考察との意見もありますが、だからこそ「ここがその考察の最初の発表場所であってはいけない」のです)、その部分以外は1点目と同じフランス語としての誤りの指摘であることから、NGでしょう。1点目については、正しい文法や発音はこうであるという表現で、「用語としてフランス語が使われている」とされている場合は有用な情報だと考えます。--春日椿 2009年3月28日 (土) 17:39 (UTC)
ええとですね。春日さんの仰ることとは重なるのですが、本文中、当該の(少なくとも、現在残されている)部分について「独自研究である」という210.197.180.90さんのご意見自体、説得力がないと申し上げているのです。仰るリンク先の『映画内容解説のページに、史実との違いを指摘し記述する事について。』を見て、そこで取り上げられている記事の過去の版を見てみましたが……たしかにあちらは検証可能性について問題があったと思いますよ。しかし、似てはいるもののこちらとは内容の性質が違うのではないでしょうか。その辺りは春日さんも書かれている通りです。ご指摘の点を充分検討してみても、ちょっと的外れという印象を免れません(以上、編集競合があったため一部書き直して再投稿しました)。--死郎 2009年3月28日 (土) 20:08 (UTC)
なぜ過去の版はみるけど、井戸端で行われている会話やリンク先のノートの内容については理解しようとしていただけないのでしょうか。これらがなぜ独自研究扱いとなっているのか、なぜ独自研究は認められないのか。本当に理解できないのであればルールを理解してから参加するべきですし、理解してるけど無視してるのであれば迷惑な話しです。的外れというなら具体的にご指摘いただきたいです。
繰り返しになりますが、私は説得してるのではありません。ルールを理解してくださいといっているのです。
この作品で「フランス語が違うのでは?」となった時に検証すべきことはフランス語の辞書を引くのではなく、マリみての本文やあとがき、雑誌などにある作者のインタビュー記事をみて、作者がフランス語についてどのようにコメントしているかを探すことですよ。その点、春日椿さんが知っているという「本作では用語としてフランス語の単語が使われている」というものの出展は有効かもしれませんが、それを突然貼り付けても意味が通じないですよね、そうすると解説を入れなくてはなりませんが、その解説は独自研究になります(上記の中黒点の持つ意味のようにね)。
作品というのは作者がすべてです。極論すれば作者が言ってないことはすべて独自研究になります。一番致命的なのは、それについて書くwikipediaで、作者がどう言ってようが関係ないと言い切ってしまえること自体がwikipediaを理解されてない証拠だと思います。--210.197.180.90 2009年3月29日 (日) 04:19 (UTC)ごろんた
上記の通り井戸端での会話は充分吟味しましたし、過去の版についてはその結論を端的に表している例として示したまでです。理解なさっていないのはあなたのほうではないですか。それとも、ご自分に都合のいい結論のために、話を曲解しているのでしょうか? 井戸端での結論は「独自研究は載せない」「検証可能性」の原則に従うということでしたし、これも繰り返しになりますが、あちらで問題となり不可となった例と当項目の件の部分とでは、個別に検証が可能かどうかという点で明らかに区別されます。それを一緒くたにしているあなたの理屈のほうが筋が通っていません。「作品というのは作者がすべてです。極論すれば作者が言ってないことはすべて独自研究になります。」と仰っていますけれど、それはまさに文字通りの極論であり、牽強付会以外の何物でもありません。ともかく、堂々巡りはいささか疲れます。きちんと「理解してください」はこちらが申し上げたい。それから続けましょう。--死郎 2009年3月29日 (日) 13:21 (UTC)
申し訳ございません、私も正しく理解したいと考えてはいますが、いつもそのものずばりを書いていただけない事と私の読解力と説得力がないために大変苦慮しております。私が理解していない点はどのようなところでしょうか。私が思っているのは以下のとおりです。
私「フランス語として正しいかどうかは、作者が間違えてましたというコメントを出してない以上、独自研究なので削除でしょ」
死朗さん「マリみてを読んでフランス語に興味を持った人のためにもフランス語として正しいかどうかは重要である、フランス語として正しいかどうかは調べればわかるし。あとはオマエの説明が下手だから」
まあ最後の一言は冗談ですが、この節にこだわりがないが説得力がないとおっしゃってましたので。
また、私は井戸端の内容と今回の内容が同じと"勘違い"していますが、「個別に検証が可能かどうか」が違うとは具体的にどのようなところでしょうか。向こうは検証できないが、こちらは検証できるという意味でしょうか。私は検証可能性についてはどちらも出来ると思います。
「映画」の中の「敬礼」は史実と違う。出典敬礼
「マリみて」の中の「フランス語」は現実と違う。出典fr:Discuter:Maria-sama ga miteru#les mots francais dans cet oeuvre
フランス語として正しいかどうかは検証できるからOKということであれば、逆に検証可能であれば何でも書いていいということになりますよね。前にも書きましたがスール制度にあこがれて女子高に入ろうとしている人にとっては、現実にそんなシステムの学校はないということは大変重要なので追記していただけますか?そうではないですよね、でも、原作の内容で現実と違うところをあげ連ねていったらキリがありませんし、それは独自研究です。ここがマリみてのファンサイトならば私も正しいフランス語ではないという点については興味がありますが、ここはwikipediaですよ。(例は混乱させてしまうかもしれないので取り消しました。)--210.197.180.90 2009年3月29日 (日) 19:29 (UTC)ごろんた

ざっとしか読んでませんが。アニメDVDの初回特典である「マリア様にはないしょ」でも、フランス語との違いはネタにされていましたが、作中で使われているのはニックネームであってフランス語ではないという点を考えれば、「違い」を語るのは独自の研究でしかありません。他の節でも「の意味のフランス語」とかちゃんと説明されている事ですし、わざわざ独立節で解説する必要もなければ、フィクションの中の独自の風習などを現実と比べる必要もありません。そういった事はファンページの領分ですから、「現実との相違点」節は、全部除去する方が良いでしょう。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 06:59 (UTC)

まず210.197.180.90さんへ。「敬礼」だけを持ってきて例として比較するのは恣意的に過ぎるでしょう。「男たちの大和/YAMATO」の項目にしてみても、実際に問題となっているのはその周辺の考察部分ではないですか。一読しただけでも「~に大きな疑問が残る」「興ざめと竜頭蛇尾の印象が強く残る」など、これは百科事典の記述ではなく論評ですよね。それはもちろん独自研究として斥けて構わない(ここは同意していただけますよね?)。しかし、今こちらで議論されているのはそれとは異なる、と申し上げています。なお個人的には「敬礼が実際と違う」ということまでは書いても構わないと考えます。以上はピンポイントの反論ながら(いや、今まで具体的に説明をと仰っていましたが、そもそもどこがおわかりにならなかったのかがわからなかったもので。やっと相違点が見えてきた気がします)。
寝ず見さんへ。上で「敬礼」についても書きましたが、こうした明らかに現実と異なる点について端的に書くことは問題ない(もちろん独自研究にはあたらない)ということを前提に、作品の特徴を語るうえでむしろ必要だと(僕は)思います。ニックネームであるから、元になったフランス語と全く無関係というのはどうでしょうか。とはいえ、これらの記述をこの節にまとめるべきかどうか(分散して余所へ移動するか)、考慮の余地ありという点は賛同できます。--死郎 2009年3月30日 (月) 08:38 (UTC)
死郎さんへ:Wikipedia:独自研究は載せない#発表済みの事実の合成から、「比較」すること自体はOKだとしても、それをもって「間違っている」というのはアウトになりますから、書くのであれば単純に書くことになるでしょう。とすれば、マリア様がみてる#独特の用語ですでに説明されているので、それを修正すれば十分でしょう。また、作品ではフランス語が元となる「コトバ(=独自の用語)」が多用されているだけで、特にフランス語そのものが重要な小道具になっている(=特徴)とは思えませんので、「小説」で使用されているニックネーム等とフランス語の違いを百科事典で説明する必要があるとは思えません。--寝ず見 2009年3月30日 (月) 09:54 (UTC)
死郎さんへ:評論が独自研究であるということは同意します、こちらで議論されているのはそれとは(評論とは)異なるということにも同意します。だって読んでほしいところが違うんですもん。井戸端の会話は読んでいただけましたでしょうか。私は検証が出来たとしても書くべきではないものがあるというのを言っているのですが。死郎さんがわかって来た気がする相違点というのは
私「検証できるからといってなんでも書いていいわけではない」
死郎さん「検証できるから書いていい」でしょうか?
寝ず見さんへ:コメントありがとうございます。話しが進展して助かりました。いろいろな観点からの考え方は大変参考になります。--210.197.180.90 2009年3月30日 (月) 17:25 (UTC)ごろんた

今までの意見をもとに私の考えをまとめてみました。

  • 「現実との相違点」 こちらはやはり独自研究なので削除。ここはフランス語についての話だけということであれば残りは改めて別項目で議論しましょう。
  • 「薔薇のつぼみの妹 」そもそもルビが本文より長いために混乱が生じている。紅薔薇のつぼみの妹(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン プティ・スール)と1つで考えてしまうとフランス語の文法として間違えているが、紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)の妹(プティ・スール)とした場合は間違えていない。2つの文の組み合わせであるというのはブゥトンとプティの間だけ中黒点ではなくスペースだから。ただしどちらが正しいのかは検証できない以上独自研究であり、読者に判断をゆだねられるので、余計な混乱を生まないためにも「この単語の並び方はフランス語を完全に逸脱している様に見える(下項参照)。 」は削除
  • 「姉(お姉さま、グラン・スール) 」 グランスールを姉という意味で使うのは作品の中の話であり、これをフランス語として書かれているために間違いかどうかの話が発生している。比較することは問題ないようなので以下のようにしてみてはどうか。
スール関係にある上級生と下級生の内上級生の事を指す。制度上は単に「姉」なのだが、作中では記述形式上ほとんどの場合「お姉さま」と表現されている。スール関係にある上級生に呼びかける時は「お姉さま」と呼ぶのが慣習である。逆に、姉にあたる上級生が妹にあたる下級生に呼び掛ける時は、名前を呼び捨てにする。スール関係にない特定の上級生を「お姉さま」と呼ぶのは大変な非礼になる。ただし、複数の上級生を「お姉さま方」と呼ぶ事に問題はない(「先輩方」と同義である)。 (フランス語で姉はグラント・スール)
  • 「妹(プティ・スール) 」 姉同様に比較として書いておく
スール関係にある上級生と下級生の内下級生の事を指す。 (フランス語で妹はプティット・スール)

いかがでしょうか (またIPアドレスが変わってすみません・・・)--221.189.118.161 2009年3月31日 (火) 01:43 (UTC)ごろんた

(インデント戻します)こんにちは。「独自研究」という観点では不毛な議論が続きやすくむしろ「特筆性」という観点で議論したほうが良いのではないでしょうか。

私は以前、この作品の「文体の特徴」について特筆性無しとして削除を主張した人間なのですが、この一件については特筆性はあると考えてきました。ファンの人から見れば、単なるイチャモンに見えるのでしょうが、この作品はカトリック文化やキリスト教文化に馴染んでいる人から見ると奇妙な違和感を感じさせることは間違いが無いからです。カトリック文化に縁の無いファンの人たちから見れば「知らねぇよ、そんなこたぁ」なのかもしれませんけれども。ただ、現在の本文記事のように現実世界との相違点を箇条書きでトリビアなネタのように並べているのもあまり格好のよろしいものでは無いことも確かです。

以前から加筆しようかと思っていたのですが、この作品は明治以降の日本人に抱かれた「ミッション・スクール」のイメージを利用しており、研究者が書いた佐藤八寿子『ミッション・スクール あこがれの園』中公新書、などにもとりあげられています。ただ、あくまでもイメージの利用なのであって、実際のミッション・スクールとは少しズレているのだということも書かれてあります。例えば、「ミッションスクールには「やんごとない」ムード」や「ノーブルな雰囲気が付随する」とこの本の著者は指摘し、現在の皇后や皇太子妃がミッション・スクール出身者であることなどがそうしたイメージを補強しているものの「華族のために作られたミッション・スクール」なんてものは一校も無かったし、むしろある時期まではミッション・スクールは異端視されていた学校であり、華族の子弟が通ったのは少数例に留まったとしています。(そもそも皇后も皇太子妃も民間人出身。)

『マリア様がみてる』のその他の設定や描写もそうしたミッション校をめぐるイメージと現実のズレなのであって、そういうのは百科事典として書いておいてよろしいのではないかと思っています。具体的には、以下の文案を参照ください。

(文案ここから)

ミッション・スクールとしての描かれ方(案)

[編集]

私立リリアン女学園は、いかにもミッションスクールらしい描写で構成され、非常にリアルに日本人のイメージするところのミッションスクールを描き出している[1]。しかし、それはあくまでも平均的日本人のイメージするカトリック系ミッション・スクール像なのであって、実際とは微妙に異なるものである。

ミッションスクールには「やんごとない」ムードやノーブルな雰囲気が付随するが[2]、リリアン女学園のように華族のために作られたミッション・スクールというのは存在しない[3]。リリアン女学園のように明治に遡るカトリック系ミッション・スクールはすべてフランス系であり[4]フランス語教育が行われてきたが、リリアン女学園で使われる「プティ・スール」のような言葉はフランス語としては文法が誤っているし[5]、「ロサ・キネンシス・アン・ブトン・プティ・スール」のような言葉はフランス語としてみると語順が狂っている[6]。作中によく出てくる「マリア様のこころは、、、」の歌は、あきらかにカトリック典礼聖歌407番『マリア様のこころ』だが[7]、これは戦後に作られた歌なので作中のように年配の卒業生が昔を懐かしみながら歌っているというのは時代が合っていない。また、カトリックで用いられるロザリオは手に持って使われる祈りの道具であって[8]、親しい相手の首にかけて授受するような習慣は無く[9]、作中のこうした描写はカトリックの文化からすると大変に奇妙なものである[要出典]

  1. ^ 佐藤八壽子『ミッション・スクール あこがれの園』中公新書1864、2006年、p.6
  2. ^ 同『ミッションスクール』p.73
  3. ^ 同『ミッションスクール』p.6、また、華族の子弟の大半が通ったのは華族のために作られた学習院でありミッション・スクールへ通ったのはほんの少数派である(pp.67-73)。
  4. ^ 同『ミッションスクール』p.239-246のミッション・スクールの一覧を参照のこと
  5. ^ フランス語なら「プティット・スール」が正しい。
  6. ^ フランス語なら「プティ・スール・ドゥ・(ラ・)ロサ・キネンシス・アン・ブトン」が正しい。
  7. ^ 『典礼聖歌・詩編をうたう』[1]
  8. ^ 『カトリック教会の教え』カトリック中央協議会、2003年、pp.447-451、ISBN4-87750-106-1
  9. ^ 修道女などは腰からロザリオをぶら下げることがある

(文案ここまで)

もっとも、最後の「カトリックの文化からすると大変に奇妙なものである」は、カトリック文化に親しんだ人なら十中八九同意はいただけると確信していますが、文献は示せません。{要出典}をつけて、しばらく放っておくしかないと思っています。--おーた 2009年4月7日 (火) 14:46 (UTC)(文案加筆)--おーた 2009年4月8日 (水) 14:07 (UTC)

文案の中でこの節で取り上げていない部分は今回は意見を述べませんが、以前のとおりでプティ・スールに関する指摘は書き方の問題である部分も大きいですが、「ロサ・キネンシス・アン・ブトン・プティ・スールのような言葉は~」に関してはやはり、間違いと指摘することが独自研究(ブトンとプティの間は中黒ではないため)であり、特筆性も持っていないと思います。実際に何らかの文献でこの作品のフランス語としての間違いを指摘していることでもない限り、記載するべきではないでしょう。--春日椿 2009年4月8日 (水) 15:24 (UTC)
こんにちは。「ロサ・キネンシス・アン・ブトン・プティ・スール」については、現実にそのような順番で切れ目無くフランス語の単語を模したカタカナが並んで印刷されております。「その単語の並びに実は切れ目があるのかもしれない」は確かに独自研究っぽくはありますが、「その並びのままフランス語で解釈するのは無理がある」という趣旨で書くなら独自研究的な要素は何処にも無いと思うのですが、いかがでしょうか?--おーた 2009年4月16日 (木) 13:46 (UTC)
「解釈」が入ってる時点で独自研究です。その「解釈には無理がある」と考えているのは誰ですか?--221.189.118.161 2009年4月17日 (金) 03:43 (UTC)
フランス語の初級文法を理解している人にとっての常識的「解釈」を「独自研究」と断定されるのは、あまりにもWikipedian達の知能を低く見る行為ですからお止めになったほうが良いのではないでしょうか。--おーた 2009年4月18日 (土) 05:21 (UTC)
いくら初級とはいえ、フランス語に関する常識が日本語話者にとっての独自研究ではない、ということにはならないと思いますが(この辺はいくらでも探せば出典は出てくるものと思うので)その「解釈」については問題なかろうと思うのです。この場合は「この作品で使われているフランス語の文法は間違いである」とすることであって
>「ロサ・キネンシス・アン・ブトン・プティ・スール」については、現実にそのような順番で切れ目無くフランス語の単語を模したカタカナが並んで印刷されて
「ブトン」と「プティ」も中黒で繋がっていましたっけ。私が持っているのはないものなのですけど(アニメのHPでは~ブトンプティ・スールでしたが)。--春日椿 2009年4月18日 (土) 12:12 (UTC)
もう少し冷静になってください。このような書き込みはご自分の評価を下げますよ。母国語以外の言語を知っていることを常識として、それを知らないことを知能が低いという考え方を持つこと自体をやめた方がいいと思います。ここは日本なんですから日本語以外は知らなくてもおかしくはないことを前提に考えるべきです。フランス語に詳しくないのが私だけであれば、知能の低い私と同等に見られて他の人も迷惑かも知れませんが、現にここの人たちもフランス語のwikipediaまで文法を確認しにいってるのですから、その人たちの知能が低いといっているようなものです。「無理」なくそのまま受け入れてる人は知能が低いのですか?それと未だに「ブトン」と「プティ」の間に中黒点をつけてますが、問題点を理解されていますよね?--こゆっきー 2009年4月18日 (土) 18:32 (UTC)
ちょっと勉強すれば理解できる常識は「独自研究」とは言わないと言っているだけです。こゆっきー(旧ごろんた)さんの主張は「俺はそれを知らない。だから独自研究だ」と言っているに等しいですよ。--おーた 2009年4月18日 (土) 23:39 (UTC)
そんなことは書いてませんよ、「解釈には無理がある」と考えているのは誰なのかを示せていないので独自研究ですといってるのです。--こゆっきー 2009年4月20日 (月) 05:20 (UTC)
おーたさんへ:突っ込みどころはいろいろありますが・・・とりあえずおーたさんがカトリックの文化に詳しいことは良くわかりましたが、その内容は見事なまでに独自研究です。独自研究だから消そうという話の中で、それは不毛だからで片付けられると話をそらせてるとも取れますよ。また、特筆性についてはフランス語の部分については春日椿さんの言うとおりです。そのほかの部分は『ミッション・スクール あこがれの園』の特筆性として新しいページを作って、正しいミッションスクールとはを語っていただければと思います。このページで出来るとしたら関連項目のところに「正しいミッションスクールは『ミッション・スクール あこがれの園』に詳しく書かれている」とリンクを張るぐらいでしょうか。リンク先で「やっぱ本物はこうだよね~マリみておかしいよね」と思うのか「ふーん」で終わるのかは個々の感想であって、このページで語ることではないです。ここはwikipediaであって、自分の違和感を語るところではありません。どうしてもカトリック視点のマリみて解析を書きたいのであれば、それこそご自身のブログやファンサイトに書いていただければと思います。着眼点は面白いと思いますよ、これみたいで--221.189.118.161 2009年4月10日 (金) 02:33 (UTC)ごろんた
まず、継続して編集に参加されるつもりがあるなら、アカウントをおとりください。それから、ご提案されるような編集方針は、要するにオリジナルテキストの内部で確認できることで記述を固めてしまおうというもので、そんなものは百科事典ではありません。ただの、ファンサイトのデータベースです。サブカルチャー外部のしっかりした文献の中に、この作品への言及があって「日本人が抱いているミッションスクール像の典型」としている以上、それは書いたほうが宜しかろうと私は思いますけどね。--おーた 2009年4月16日 (木) 13:46 (UTC)
そんなことは言ってませんよ、「マリみては日本人が抱いているミッションスクール像の典型として書かれている(出典:どこかの本の何ページ)」と書かれていれば私はOKです。以前、猫の話をしていたおーたさんならご理解いただけると思ったのですけどね。私にはカトリックやフランス語に詳しい方が一生懸命自分の得意分野について語っているように見えるのです。これからマリみてを読もうと思ってる人や、"マリみての世界"が好きな人がこのページを見たときにフランス語がおかしいとか現実ではありえないと書かれていたらどう思うでしょうね?で、この記述を残したいのであればルールに従って、それが記載されている出典を出してください。『ミッション・スクール あこがれの園』は確かにミッションスクールの実態が書かれているのかもしれませんが、マリみてとその本を"比較"することが独自研究ですから出典以前の話です。その本に「マリみてはおかしい」ってことが書かれてあれば出典になります。まあ、私は出典があるない以前に、わざわざ世界観を壊すことをしなくてもいいのになとは思います。おーたさんは誰のためにこのページを書いてますか?違和感を感じているカトリック文化に詳しい人のため?マリみてファンのため?自己満足のため?wikipediaのため?ちなみにアカウントはとりましたよ、残念ながらごろんたは取れなかったので、また変えたら混乱するかなと思って。とりあえずここではIPで行こうかなと思ってましたが。。。--221.189.118.161 2009年4月17日 (金) 03:43 (UTC)
アカウントをお持ちなら、それで書き込んで(旧ごろんた)とでも括弧書きで書いていただければそれでよろしいです。ところで、「わざわざ世界観を壊すことをしなくてもいいのになとは思います」というところに221.189.118.161さんの編集参加動機が如実に出ていますよね。要するに、作品の世界観を壊されるのが不愉快なだけでしょ。だから、そういうのは「ファンサイトのデータベース」にしか行き着かないと言っているんです。「おーたさんは誰のためにこのページを書いてますか?」という問いには、「百科事典として多面的に事柄を記述するため」としか答えようがありません。百科事典執筆者として当たり前の話なんですけどね。--おーた 2009年4月18日 (土) 05:21 (UTC)
実際のミッション・スクールに関する記述はどちらかといえばその項目に書かれた方が良いかとは思います。--春日椿 2009年4月18日 (土) 12:12 (UTC)
おーたさんの目的が自己満足であることはわかりました。ご返答ありがとうございます。常々思うのですがWPを執筆される方は「書かなくてはいけない」という思いに駆られて書かなくてもいいことまで書いていることが多い様に見えます。例えばネタばれは禁止されていないので結構作品の重要なところまで書かれているものがあります。ただ、先に知ることでその作品の面白みがなくなるのでネタばれされたくない人もいます(中には先に知りたい人もいると思いますが)。それと同じで世界観を壊すような内容は禁止されていませんが、このような不特定多数が見る場では中には不快に思う人がいるかもしれません。そういう人のことも考えてあげてはどうですか?勘違いされているようですが、上でも書いたように私はおーたさんの内容は面白いと思っています。勘違いであれ私が不快に思っていると考えていたということは、この内容が一部の人にとって不快な内容であることは認識されている訳ですよね。人の嫌がることはするなと教わりませんでしたか?それとも、その人が望まなくても、マリみてを読むには知っておかなければならない重要な内容ですか?--こゆっきー 2009年4月18日 (土) 18:32 (UTC)(旧ごろんた)
えーとね、その作品を読むためのガイドブックの機能以上のことを書くなというのでしょうか?ファンの気に障ることは書くなと?まー、ごろんたさんの、百科事典観がその程度のものであることはよく分かりました。これ以上書いても平行線でしょうから、ごろんたさんに申し上げることは何もありません。--おーた 2009年4月18日 (土) 23:39 (UTC)
そんなこと書いてないですよ、要は出典を書いてくださいということです。それと、自分で要出典をつけてまで人を小ばかにした内容「大変に奇妙なものである」を書きたい気持ちは理解できないといってるのです。これって逆に言えば「奇妙に思わないのはミーハーな似非カトリックファン」って言ってますよ。上の「無理がある」も「無理なく受け入れられるのはフランス語を知らない知能の低いやつ」と同じです。--こゆっきー 2009年4月20日 (月) 05:20 (UTC)

作中のこうした描写はカトリックの文化からすると大変に奇妙なものである」については執筆者の感想ですので、出典が見つからない限り{{要出典}}を付けていても避けるべきと考えますが、その他の点についてはおーた氏の案で概ね問題ないと考えます。

まず私は現状のWPにおけるサブカル記事での大きな問題の一つとして「有名作品であっても二次資料に基づいた記述が乏しく、一次資料のみに基づいたまとめサイトと化している」事があると考えていますので、第三者の発言である『ミッション・スクール あこがれの園』に基づいた多角的な記述は積極的に載せる記述であり、掲載しない理由はないと考えます。『ミッション - 』を読んだわけではありませんのであまり断定的なことはいえないのですが、中公新書からの出版と言う状況等から考え出典として問題はないでしょうし。

「フランス語としては間違い」についてですが、仏語は大学生であれば第二外国語として選ばれることも多く、習得している(ことになっている)人が多い言語ですし、一般教養としてWikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料の「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」と見なせると判断致します。これはJPOVとも言えますが、日本語版で日本語話者の大多数である日本人の教養レベルに照らし合わせるというのは合理的な判断であると考えます。--マクガイア 2009年4月19日 (日) 01:17 (UTC)

フランス語としては間違えていることは明確です。今回はフィクションの中で登場する言葉が、フランス語かフランス語に似た作者の造語なのかが不明なので、そもそも「間違い」といえるのかという話です。フランス語かどうかの出典がないので間違っているかどうかは明記せずに、比較として正しいフランス語を併記しておこうというのが大体の意見です。詳しくは上のほうにあるまとめを参照してください。なのでフランス語が一般教養かどうかは実はあまり重要ではありません。
『ミッション - 』はミッションスクールについて記載された本であればその項目に書くべきではないですか?例えば同性愛について書かれている本を出典として、本と同じ行動をしているのでこの本は同性愛を書いた本だという記事はOKですか?この本の特筆性だと思いますが、誰も触れてないのでタブー視されてるのかなと思ったり。でも出典があればそれがマリみてについて書かれたものではなくてもどんどん書いていいってことですよね。
要出典には賛同しますが、出典があれば何でも書いていいというのも違うなと私は考えています。それに今回は出典として適正かというのもありますが。繰り返しになりますが、何でフィクションの世界を現実と比較して、違いをあげていく必要があるのでしょうか。--こゆっきー 2009年4月20日 (月) 05:20 (UTC)

その後、意見も出尽くしたようですので再度まとめ
「独特の用語」については以前書いたまとめ[2]の内容について反論、修正点などの指摘がないこと、記載から一週間以上経過していることから合意形成できたと判断し、修正させていただきました。
「現実との相違点」について

  • ミッションスクールについて。作品と直接関係のない出典を元に記載されており、いわゆる情報の合成と考えられる。この場合「本作品のミッションスクールとしての描写が間違えている」事を記載した資料が出典となるべきである。別項目を立て、改めて記載。
  • フランス語について。上記同様、情報の合成と考えられるが「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」に該当する。ただし、「独特の用語」で正しいフランス語は併記されており、間違えていると判断するのは閲覧者が判断するものなので、こちらに記載する必要はない。
  • 歌について。そもそもこの歌が典礼聖歌407番であるという"独自研究"から始まっている。題名と歌詞が同じなので「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」と解釈し同じものとしても良いかもしれない。ただし、作品中の時代設定では、平成であることは書かれているが何年かは書かれていないので、もしかしたら未来の話かもしれない。よって時代が合わないという考察は独自研究である。

以上のことから、やはり削除と考えます。念のためさらに一週間まって反論がなければ削除をしたいと思います。--こゆっきー 2009年4月28日 (火) 05:08 (UTC)(一部修正)--こゆっきー 2009年4月30日 (木) 02:52 (UTC)

独自研究をできるだけ排除する姿勢は良いのですが作品の中に閉じた記述だけで構成される記事もいかがなものかと思って、提案しましたが、ご理解いただけなかったようです。Wikipediaはコミュニティの判断を重んじますから、ここの編集に関わろうとする方々がそう判断するのなら仕方ありません。ただ、「作品の世界観を壊すから」などという理由を持ち出されて呆然としたことは、繰り返すようですが書いておきます。百科事典というものがどういうものなのかご存じないのでしょう。
ことに、こゆっきーさんが「この場合「本作品のミッションスクールとしての描写が間違えている」事を記載した資料が出典となるべきである」などと書かれているのを見て、心底馬鹿馬鹿しくなりました。もっともらしく色々書いておられますが、こゆっきーさんが示された文献を見てもいないのは明白です。
  • 「ごきげんよう」という挨拶、規律正しい校風、お嬢様学校、明治創立という伝統、華族のために作られた一貫校……。これらはすべてが、いかにもミッションスクールにふさわしく思われる。しかし、リリアン女学園はどこにも実在しない。(改行)たしかにミッション系私立校には一貫校が多いし、「学園」あるいは「学院」という校名も少なくない。しかし、華族のために作られた学校は現実には学習院しかない。(『ミッションスクール』p.6より引用)
念のために書きますが、学習院はミッション校ではありません。で、どうして文献も見ないで(しかも書店でも図書館でも簡単に手にすることができる文献なのに)、上記のようなことを断言して議論を仕切ろうとされるのでしょうか。日々文献を積み上げて執筆しているWikipedianたちを馬鹿にした行為だと言わせていただきます。その動機が「作品の世界観を守るため」だとしたら、言葉はきついかもしれませんが浅ましい根性としか言いようがありません。Wikipediaのルールをあれこれ調べて議論するより先に、文献の使い方を覚えるのが先なのではありませんか?
言うべきことはすべて書きました。もともとは、サブカル系の記事が百科事典から逸脱していくことに少しでも歯止めをかけたくて介入した記事ですが、それほど執着がある訳でもありません。これをもってウォッチリストから外しますし、もう口出しはしません。少しでも百科事典としてまともな記事になるよう、皆さんが精進されることをお祈りします。--おーた 2009年4月28日 (火) 15:54 (UTC)
こゆっきーさんの「作品と直接関係のない出典を元に記載されており、…」といった発言についてはおーたさんが指摘されているように深刻な誤解がありますし、「世界観を壊すから」という理由もどうかと思いますが、結論としてはこゆっきーさんによる「現実との相違点」の節を除去する提案に賛成します。
おーたさんが書かれた草案のうち脚注5以降の部分、あるいは現在の記事の「現実との相違点」の節に書かれているような、「マリみて作品中におけるフランス語の文法やカトリック文化の常識から考えておかしな点」についての指摘は、『ミッション・スクール あこがれの園』の中には確認できません。フランス語の初級文法が一般教養でありカトリック文化の慣習や聖歌の成立時期について出典を示せるとしても、(Wikipedia外部の情報源がまだ指摘していないような設定の不備を)Wikipediaで初めて指摘すること自体に独自研究のおそれがあり、また同時に百科事典の守備範囲外でもあると思います。
草案のうち脚注1・脚注2・脚注3が付されているところで指摘されている「作品と現実とのズレ」については『ミッション・スクール』内に(この作品に言及する形で)記述されていることが確認できるのでWP:VWP:NOR上の問題はないと思います。これについては記事に載せたい方がいらっしゃるなら反対しません。--貿易風 2009年4月29日 (水) 13:54 (UTC)
あー、ようやく理解しました。本当にその本に「リリアン学園は存在しない」と書かれているんですね。失礼しました。であれば。貿易風さんの言うとおり脚注1,2,3については削除する理由はありませんね。「現実との相違点」自体は野暮ったいのでいったん削除して、おーたさん提案の「ミッション・スクールとしての描かれ方」(の脚注1,2,3の部分のみ)を改めて書いていただきたいですが、おーたさんは戻っていただけるかな?戻ってこなかったら私が書きますが。。。(もともとこの話が落ち着いたら「あこがれの園」の新ページを作ってリンクするつもりでしたし)。出来れば4/17に私がミスリードしてる時点で、私への批判ではなく「いやいや、本当にこの本の中でマリ見てのことも書かれてるんだよ」~P.6引用~とでもしていただければもっと簡単に話は終わったのかもしれませんね。それから「世界観を壊すから」発言が波紋を呼んでいるようですが、世界観を壊す記述をすべて否定しているわけではありませんよ。出典があれば認めますし、書き方の問題もあると思います。今回は「奇妙である」「無理がある」など書かれており、わざわざそんな書き方しなくてもいいのになと思ったのでヒステリックに書かせていただきました。私が今までに読んだ百科辞典ではそんな書き方は見たことなかったので。上のまとめも修正しておきました--こゆっきー 2009年4月30日 (木) 02:52 (UTC)

特に反対意見が出ませんでしたので、合意形成できたと判断し「現実との相違点」を削除させていただきました。出典が確認できたものについては文を修正して別の項目に記載させていただきました。私の文が完璧だとは思っていませんが、本修正内容をもって私が言いたかった「わざわざ世界観を壊すような書き方をしなくても」という点についてご理解いただければ幸いです。合意形成にご協力いただき、ありがとうございました。--こゆっきー 2009年5月7日 (木) 02:41 (UTC)

「なかきよ」について

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「既刊・各話詳細」の項中、4巻の説明文に、本作で広く知られるようになったとの記述がありますが、「なかきよ」そのものは古くからあり、知られている習俗です。「(本作品の読者である)若年層に広く知られるようになった」とか「一部の地方での風習が全国的に知られるようになった」というのならともかく、不適切な説明ではないかと思います(例示した表現にしろ根拠を示していただく必要がありますが)。--左大文字 2009年5月21日 (木) 10:42 (UTC)

コメント えっ…と、履歴を辿ってみたところ、旧分割項目マリア様がみてるシリーズの作品一覧での加筆が発端のようです(2006年11月26日 (日) 11:49 の編集)。既刊・各話詳細自体については、これまでに記事の統合やテンプレートの廃止、多数の加筆・削除で幾度も手が加えられていますが、2年半以上に渡って変わらないままです。ひとまず、コメントアウトに…。 ---t-forces 2009年5月23日 (土) 10:43 (UTC)
異議なし。5巻のあとがきで「『ロサ・カニーナ』の発売以降に届けられたお手紙の大半に、「なかきよ」についての回答が書き添えられていました。~中略~読者レポーター(?)の100パーセントが「やりません」派でした。」(マリア様が見てる ウァレンティーヌスの贈り物(前編)あとがきより引用)とかかれていました。これが「やりません」ではなく「知りません」だったら出典になったんですけどね。あと細かいですが、この行を除去するなら、その後にある"なかきよ"をリンクにしておいたほうがいいかなと思ってリンクしときました。--こゆっきー 2009年5月23日 (土) 14:45 (UTC)