ノート:フランス革命
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フランス革命の期間について
[編集]本文の冒頭には、フランス革命の期間として、1789年から1794年とあります。これはどのような根拠によるのでしょうか。たとえば山川の世界史小辞典は1789年から1799年としております。Wikipediaの他言語版でも1799年が多いようです。---Redattore 2006年7月6日 (木) 02:02 (UTC)
- 専門外で細かいことまでは分からないですが、革命などの期間は解釈によって取り方は幾通りもあるようです--忠太 2010年10月13日 (水) 16:17 (UTC)。フランス史の授業を受けたときは、フランス革命の完成には100年を要した、という話もありましたし。単に数字の問題ではなく、革命全体のヴィジョンに関わってくる問題なのかもしれません。S kitahashi(Plé)2006年7月6日 (木) 02:07 (UTC)
なるほど。これは不用意な質問だったのかもしれません。定義部分を調整するとともに、本文に期間についての解釈(学説)を追加すると分かりやすくなりますね。---Redattore 2006年7月6日 (木) 04:04 (UTC)
- 先ごろ本項目に加筆した者です。フランス革命は何かの事件をもって終了と明確に定義できるわけではありませんので、どの年を区切りとするかは正しいとか間違いだとかいうものでもないと思われます。私の編集で1794年のテルミドールの反動を区切りとしたのも以前からの版の記述を尊重したためです。概要部分で触れていますが1799年を区切りとする見方もあると思います。後者の考え方を取る場合は加筆が必要になりますので、今後折を見て作業します。どなたか他の方が加筆いただいても結構です。--猪山人 2006年7月6日 (木) 13:00 (UTC)
- 専門的な議論はわかりませんが、一般には1799年までを指すと理解されているのでは?(手元の遅塚「フランス革命」・安達「物語フランス革命」巻末の年譜など)。"完成には100年を要した"というのはまた別の話でしょう。 --忠太 2010年10月13日 (水) 16:17 (UTC)
- フランス革命の終りはブリュメール18日です。テルミドール9日ではありません。変更するのが適切です。テルミドールを終りというのは、革命の精神についてであって、歴史学上の認知された正式な区切りというわけではないです。どこで終わるかという以前に、総裁政府期がフランス革命期に含まれないというような学説は(私の知る限り)存在しません。総裁政府期の社会の変化、特に土地所有農民と都市ブルジョワの関係は、マルクス先生も言っているように非常に重要で、それが革命の終焉に直結するテーマとなります。革命は突然脈絡なく終わったわけではないです。決着とすべき成果ができたから終わったとするわけです。歴史の区分論は、大概、(事件ではなく)内容重視できまります。だから1799年です。ま、この記事もいろいろ変える所がありますね。--LaBedoyere 2010年11月14日 (日) 13:54 (UTC)
- 補足ですが、岡本明著「ナポレオン体制への道」のpp.278-283に「フランス革命の終結点はどこなのか」という四篇の序章があります。参考になると思います。--LaBedoyere 2010年11月16日 (火) 07:00 (UTC)
こちらの編集を見て気になって調べたところ地元の図書館の百科事典はいずれも1789-1799となっていました。(『グランド現代百科事典』『世界大百科事典』『ブリタニカ国際大百科事典』) また、いくつか他言語版を確認したのですが1789-1799となっていました。(フランス語版、英語版、中国語版、韓国語版) 日本語版内でもフランス革命の年表では1789-1799となっています。ただフランスの歴史#フランス革命では1789-1794広義には1799としてます。 終わりを1795としたのはこちらの編集と理由みたいですが、出展の『フランス革命史入門』が地元の図書館に無かったので記載内容は確認できませんでした。 ちょろっと調べて書き換えようかな?と思ったのですが私はフランス革命については学校の授業で習ったなー程度の知識でwikipediaの編集も誤字修正程度しかしたことがなく適切に修正出来なさそうなので情報だけここに残します。 現状はgoogleで「フランス革命」と検索すると最上段に「1789年5月5日 – 1799年11月9日」と表示され、右ペインの概要として「フランス革命とは、フランス王国で1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きた市民革命。」とwikipediaの見出しの後に「日付: 1789年5月5日 – 1799年11月9日」と書かれると言う、メインカルチャーのビックコンテンツとは思えないカオスな情報が展開されています。(この手の話はgoogleの問題と切り捨てられることが多いですが...)--Kimchi1616(会話) 2024年5月11日 (土) 05:58 (UTC)
評価
[編集]最近の編集では、フランス革命をテロと評価し、その部分を強調する傾向が見られます。しかしテロという視点が市民社会形成の先駆けと評価を二分しているとまでは言えないでしょう。冒頭からテロと書くのはやり過ぎではないでしょうか。「中立的な立場での編集」とは曖昧な書き方をすることではありません。歴史上の事件は、個人の視点まで含めれば様々な評価があるのは当然のことで、それらを書いて曖昧にするのは正しい措置ではありません。何年か何十年か後には、ただのテロだという評価が支配的になるのかもしれませんが、百科事典では現在の一般的な評価に基づく解説を行うべきです。ちゃんと「評価」という節もあるのですから、別な視点があることはそこで解説するのが適当な編集と考えます。瓦礫 2007年7月24日 (火) 05:17 (UTC)
- 「百科事典では現在の一般的な評価に基づく解説を行うべき」の根拠は何でしょうか。ウィキペディアは、事実に基づいて記述することが求められていますが、Wikipedia:中立的な観点において、「現在の一般的な評価に基づく解説を行うべき」との指針は示されていません。「フランス革命は市民社会形成の先駆け」という評価が日本国内で優勢であるということを言いたいのであれば、「わが国では、フランス革命は市民社会形成の先駆けであったと評価され教育され広く信じられている」という事実を書けばよいのだと思います。--うまやど 2007年7月25日 (水) 02:30 (UTC)
- 現在の記述は「評価」のところがかなり偏っているようです。 --忠太 2008年1月18日 (金) 14:14 (UTC)
- コメント この評価の節ですが、特定の観点のみからの記述(保守派と言われる人物の意見ばかりを採用)や曖昧な部分(「~が多い」といった記述)が散見され、Wikipedia:中立的な観点にしたがっているとは言いがたいものがあります。また出典の明記も求めましたが特に示されませんでした。したがいまして、いったん該当部分をコメントアウトします。執筆者は出典を明記した上で、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:独自研究を載せないを把握した上で該当部分を修正していただきますようお願いします。--Kurz 2009年6月1日 (月) 12:27 (UTC)
三部会
[編集]こちらのページでは三部会召集を「6月14日」と記述されていますが、他で少し探したところ「5月5日開催」とされているところもあるようです。 どの段階をもって「召集」「開催」と言うのでしょうか? 歴史に詳しくなくてよく分かりません、教えていただけると幸いです。 (追記)すみません、サインし忘れました。--Antique1967 2007年8月19日 (日) 14:52 (UTC)
- Antiqueさん、はじめまして。全国三部会の召集が布告されたのは1788年8月8日ですね。1789年1月24日よりその全国三部会の代表選出が始まり、1789年5月5日に三部会が開催されました。以上は、手持ちの『世界歴史大系 フランス史2』(山川出版社)によるものです。そんなにフランス革命に詳しいわけではありませんがご参考になれば幸いです。なお、英語版・仏語版の記事を確認してみましたが、1789年6月14日についての言及はなさそうです。それではまた。--Hasi 2007年8月19日 (日) 15:06 (UTC)
記事の書き方について。 「概要」がダラダラと長いです。 要約してせいぜい2行程度で納めるべきだと思います。 要点から書かずに時系列で書かれてあるためです。
- 「概要」はこんなものでしょう。むしろ前文(定義)が短すぎると思ったので加筆してみました。(色々ご批判もあるかと…) --忠太 2010年10月13日 (水) 16:17 (UTC)
8月10日事件のリダイレクトを解除します
[編集]現在、ループになっておりますので、8月10事件(テュイルリー宮殿襲撃ほか)のリダイレクトを解除します。ご了承ください。--LaBedoyere 2010年11月29日 (月) 12:15 (UTC)
日本における受容史
[編集]という節があると良いように思われます。本来なら日本のみならずヨーロッパ・アジア等他地域への情報の波及や思想・影響史を概括しつつ日本についてはどうかと位置づけるのが適当でしょうが、個人的には同時代の江戸期における日本では「革命」の情報はどう伝達・理解されていたのか、おそらく明治以降の近代に「革命」のもつ意義がより性格に理解され思想史的な影響史の流れがあるのであろうと思いますし、そのあたりの情報がほしいなと思いました。--でここ 2011年4月9日 (土) 11:29 (UTC)
- 「日本への影響」の節がいつの間にか消えているのですが、履歴を見るといつ削られたのかわかりません。なぜ履歴が残っていないのでしょうか?--でここ(会話) 2014年11月24日 (月) 13:11 (UTC)
- 「日本への影響」節は出典が全くなく、独自研究臭が強すぎるため、同じく出典無しで独自研究臭が強くコメントアウトになっていた「評価」節と同様の処置を施しました。Wikipedia:検証可能性、Wikipedia:独自研究は載せないをご参照ください。Wikipedia:信頼できる情報源の出典付きで「日本における受容史」を作成されるのは良いのではないかと思います。作成される気があるのでしたら応援いたしますので頑張ってください。私も資料を探してみます。--Omaemona1982(会話) 2014年11月24日 (月) 16:01 (UTC)
- ありがとうございます。そうでしたか。確かに出典がないのは問題ですね。しかし、政治思想的にフランス革命の影響が近代日本にないわけないと思いますし、重要な部分でもあろうと思います。なんとか典拠を見つけて、復活させたいところですね。--でここ(会話) 2014年11月25日 (火) 03:45 (UTC)
単一の出典
[編集]出典の内訳ですが、現時点において9割強が小林良彰の著書(なおかつ75パーセントが『フランス革命史入門』(1978)を出典にされています。ですので、Template:単一の出典を貼りました。他の出典を加えて加筆してください。今後、数か月かかるかもしれませんが私も文献を取り揃えて随時加筆していきます。--Loup and Law(会話) 2020年12月10日 (木) 16:00 (UTC)