ノート:フランシスコ (ローマ教皇)/過去ログ22
このページは過去の議論を保存している過去ログページです。編集しないでください。新たな議論や話題は、ノート:フランシスコ (ローマ教皇)で行ってください。 |
その他
[編集]節の付記について
[編集]「教え」の付記に「聖職者の独身主義及び著書『天と地について』における神学については、「教皇フランシスコの神学論(英語版)」を参照」とあります。というか、突然付記が追加されています。しかし、該当の英語項目にはそれ以外の事柄についても広範に言及されています。それなのに、なぜわざわざ「聖職者の独身主義」云々などという、誰が考えても論争を呼び込みそうな付記がついているのでしょうか?「下掲以外のテーマについては」くらいで良いのではないでしょうか?Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 04:54 (UTC)
- 「聖職者の独身主義及び著書『天と地について』」以外のテーマは本項目で述べられているからですよ(遺漏は若干あるかもしれませんが)。「下掲以外のテーマについては」と言っておいて、ほとんど同じ内容だった、というより親切でしょう。一番良いのは、本項目で「聖職者の独身主義」について一節割いて記述することだと思いますが、Tizizanoさん、やります?あと、『天と地について』についての記述は英訳本も出ており、英語版の「教皇フランシスコの神学」においてたくさん書きたがる編集者がいたのだと思いますが、『アパレシーダ文書』程の権威づけもない
数十ページの本からあんなに書いていたら、著作権法的にも「ヤバい」気がしますね。『天と地について』についての記述は日本語版に全訳しない方がよいだろうとわたしは思います。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月3日 (水) 05:42 (UTC)--(打消・訂正)何かで勘違いしました。220ページある本でした。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月4日 (木) 20:31 (UTC)- 「Tizizanoさん、やります?」って、ジャコウネズミさんも面白いですね。そんな議論百出しそうな件を辞書項目で「やる」わけないでしょう(笑)。おまえは粗暴だとかさんざん悪口を言われていますが、書き物関しては、私は慎重居士なのですよ。でも、『天と地について』には、小項目が色々あるので「聖職者の独身主義」だけが残っているとは言えないと思いますけどね。特に、同性愛についての個所などはヒヤヒヤもので、これがどんなに繊細さを必要とするテーマか分かっているので、非常に穏当な教皇自身の言葉を付記していたくらいですから。まあ、ジャコウネズミさんがお書きになりたければ、それでもいいですが、思想的なものならともかく、独身主義云々について誰か行って来たら、私の主戦場ではないので、ジャコウネズミさんが対応して下さい(笑)。「4点を遵守する」と再三述べているのに、なかなかKinno Angel さんがお聞き入れにならないので、ブロックされたら、そそもも書けなくなりますが。そうなったら、もう加筆もできないので、ジャコウネズミさん、Isamitさん、きぶそんさんを初めとするみなさんで、この項目をGAにすべくブラッシュアップなさって下さい。Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 06:13 (UTC)
- わたしはWikipediaの執筆編集に関して臆するところがないので節「独身制」を訳出いたしました。GA云々は正直わたしはどうでもいいのですが(極私的見解ながら、仮に査読依頼に掛けた場合、ためになる指示も多く頂けると思いますが、Tizizanoさんが中心となって苦心して書いた「注釈」もボコボコにされる予感がします)、ある種の「熱狂」にある西語版とも、「福音派の圧力」の強い英語版とも一線を画した記事であればよいな、と思っています。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月3日 (水) 07:44 (UTC)
- 「独身制」の訳文はいいですね。内容もそれほど問題にならないでしょう。私も実社会では新聞や雑誌で論争することもありますから、「臆するところ」はないんですよ。ただ、Wikipedia は論争の場ではなく、コンパクトにまとまった記事を書きたいと思っているわけです。そして、人権や名誉に関する事柄については、何度も何度も考え抜いて推敲してから投稿するようにしています。この項目のなかで、慎重の上にも慎重でなければならないのは、「同性愛」の節だと思います。世界各地で差別的な処遇を受けているのは事実ですから、いかなる考えの執筆者であっても、その人権擁護という点で格別の留意をする必要があると思います。査読依頼の際の懸念は同感です。内容的にはさほど問題なくて、私の記事の査読の時も指摘されたのはもっぱら形式のことばかりで、要するに 「jpwp の推奨する形式にしてくれ」っていうことでした。カトリックについてもキリスト教についても、日本では知る人は少ないので「注釈」はそのためにあるのですが、査読で発言される常連の方々には「うっとうしい」と思われる方が多いと思います。まあ「神の見えざる手」にお任せするしかないのですかね。例えば、最初の説教を「イエス・キリストを告白しないなら、悪魔の俗っぽさ、悪霊の俗っぽさを語ることになってしまうのです」と朝日新聞は訳していますが、これは聖書的知識がないことによる完全な誤訳であって、そういう意味でもあの「注釈」は無意味ではないと思います。またカトリック系の学校の校長なども、すでに Wiki の本項目から引用されていると聞きました。ですから、いろいろな意味で残念です。Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 08:00 (UTC)
- やっぱり、Kompekさんから「シビル・ユニオン」って定訳があるから誤訳を直せとの指摘がさっそくありましたでしょう。この同性愛云々はわからないんですよ、実際のところ。先に訂正したときも「ヒヤヒヤもの」で、「慎重の上にも慎重でなければならない」と指摘させて頂いたのはそのためです。まあ、よく事情に通じている方が訂正して下さったのは良かったですが。Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 23:15 (UTC)
- ジャコウネズミさんの節の入れ替えは正解ですね。各節の分量も自然だし、分量の多いところは「小見出し」でアクセントがあり、段々いい感じになって来たと思います。クリックした瞬間に「読んでみよう」と思わせる工夫は、これからもいろいろと出てくる気がしますね。Tizizano(会話) 2013年4月4日 (木) 01:15 (UTC)
- やっぱり、Kompekさんから「シビル・ユニオン」って定訳があるから誤訳を直せとの指摘がさっそくありましたでしょう。この同性愛云々はわからないんですよ、実際のところ。先に訂正したときも「ヒヤヒヤもの」で、「慎重の上にも慎重でなければならない」と指摘させて頂いたのはそのためです。まあ、よく事情に通じている方が訂正して下さったのは良かったですが。Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 23:15 (UTC)
- 「独身制」の訳文はいいですね。内容もそれほど問題にならないでしょう。私も実社会では新聞や雑誌で論争することもありますから、「臆するところ」はないんですよ。ただ、Wikipedia は論争の場ではなく、コンパクトにまとまった記事を書きたいと思っているわけです。そして、人権や名誉に関する事柄については、何度も何度も考え抜いて推敲してから投稿するようにしています。この項目のなかで、慎重の上にも慎重でなければならないのは、「同性愛」の節だと思います。世界各地で差別的な処遇を受けているのは事実ですから、いかなる考えの執筆者であっても、その人権擁護という点で格別の留意をする必要があると思います。査読依頼の際の懸念は同感です。内容的にはさほど問題なくて、私の記事の査読の時も指摘されたのはもっぱら形式のことばかりで、要するに 「jpwp の推奨する形式にしてくれ」っていうことでした。カトリックについてもキリスト教についても、日本では知る人は少ないので「注釈」はそのためにあるのですが、査読で発言される常連の方々には「うっとうしい」と思われる方が多いと思います。まあ「神の見えざる手」にお任せするしかないのですかね。例えば、最初の説教を「イエス・キリストを告白しないなら、悪魔の俗っぽさ、悪霊の俗っぽさを語ることになってしまうのです」と朝日新聞は訳していますが、これは聖書的知識がないことによる完全な誤訳であって、そういう意味でもあの「注釈」は無意味ではないと思います。またカトリック系の学校の校長なども、すでに Wiki の本項目から引用されていると聞きました。ですから、いろいろな意味で残念です。Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 08:00 (UTC)
- わたしはWikipediaの執筆編集に関して臆するところがないので節「独身制」を訳出いたしました。GA云々は正直わたしはどうでもいいのですが(極私的見解ながら、仮に査読依頼に掛けた場合、ためになる指示も多く頂けると思いますが、Tizizanoさんが中心となって苦心して書いた「注釈」もボコボコにされる予感がします)、ある種の「熱狂」にある西語版とも、「福音派の圧力」の強い英語版とも一線を画した記事であればよいな、と思っています。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月3日 (水) 07:44 (UTC)
- 「Tizizanoさん、やります?」って、ジャコウネズミさんも面白いですね。そんな議論百出しそうな件を辞書項目で「やる」わけないでしょう(笑)。おまえは粗暴だとかさんざん悪口を言われていますが、書き物関しては、私は慎重居士なのですよ。でも、『天と地について』には、小項目が色々あるので「聖職者の独身主義」だけが残っているとは言えないと思いますけどね。特に、同性愛についての個所などはヒヤヒヤもので、これがどんなに繊細さを必要とするテーマか分かっているので、非常に穏当な教皇自身の言葉を付記していたくらいですから。まあ、ジャコウネズミさんがお書きになりたければ、それでもいいですが、思想的なものならともかく、独身主義云々について誰か行って来たら、私の主戦場ではないので、ジャコウネズミさんが対応して下さい(笑)。「4点を遵守する」と再三述べているのに、なかなかKinno Angel さんがお聞き入れにならないので、ブロックされたら、そそもも書けなくなりますが。そうなったら、もう加筆もできないので、ジャコウネズミさん、Isamitさん、きぶそんさんを初めとするみなさんで、この項目をGAにすべくブラッシュアップなさって下さい。Tizizano(会話) 2013年4月3日 (水) 06:13 (UTC)
意訳した語について
[編集]難解さ故に、現在「妊娠中絶、安楽死と高齢者問題について」の節の引用文中《我々は自らが聖体拝領に相応しいか弁えるべきです》と訳出している《we should commit ourselves to ‘eucharistic coherence’》の‘eucharistic coherence’は、現在わたしが調べた中では、2005年の文書及び1994年の文書まで遡ることができました。前者の言うところはベルゴリオとほぼ同じであり、後者に拠ればこの語は《be bound up with the Eucharist》を名詞化又は熟語化したもの(右欄のラテン語訳では‘Eucharistia cohaerent’となっている)であり、「聖体(拝領)との密接な結びつき」といったところではないかと思いました。現在の意訳はコリントの信徒への手紙一11章27-32節に基礎を置く語であるという認識が前提になっていますが、訳の妥当性、より良い訳出、指摘等がございましたら拝聴致したい次第です。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月5日 (金) 07:00 (UTC)
- 補足:Tizizanoさん情報。後者は《1992年12月7日に、第2バチカン公会議開会30周年を記念して発表された『カトリック教会のカテキズム』の一節で、日本カトリック協議会教理委員会訳では「諸秘跡もまた同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事もすべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています」となっている》。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月5日 (金) 07:25 (UTC)
- ご指摘の通りだと思います。一見しただけではわかりずらい生硬な各国語訳があるは、ラテン語正文の“Eucharistia cohaerent”を直訳したからで、ご案内の文書にも繰り返し出てくる所から見ると、この言葉で「聖体(拝領)との密接な結びつき」のことを指すことが暗黙の了解になっているようですね。典拠の所に、該当するカテキズムの個所を cf. として挙げておけば、熱意ある閲覧者の方は見て下さるのではないでしょうか。離婚が教会の教えとそぐわないことは明白ですが、ヘンリー8世の時代とは異なり、現在は離婚即破門とはならないようです。現在のように離婚が多い社会でそのような措置をとれば、特に欧米社会が混乱状態に陥ることは必至です。現在は離婚しても聖体拝領から遠ざけられるということもないようですが、さりとて「必ずこうすべき」という方針もなく、以下の「イタリア司教委員会の公文書」(1979年4月26日)のようなものが存在すること自体が、個々の事情を斟酌せず一概に聖餐を拒否する司祭がいることがある証拠であり、新教皇は、そうした硬直した姿勢を批判されているのだと思います。浜口吉隆訳「離婚・再婚した者及び不法と困難な結婚事情にある者の司牧」(イタリア司教委員会の公文書)
- quote の個所の所の目立つ引用は、一応訳文を再検討しておいた方が良いかもしれませんね。職場や学校の新しいタームが始まったので、みなさんお忙しいと存じますが、できれば、スペイン語は、HenaresさんやLorettibarrend さん、ドイツ語とラテン語は Sonus peregrinus さんにご点検して頂けるのではと期待を持っています。フランス語は私がやらせて頂きます。訳文で気になるのは、主語と述部が離れすぎている個所と、長すぎる関係代名詞節で2文にした方がいいのではないかと思える個所です。また、「独自研究」云々の指摘があれば、少なくとも自分で書いた「注釈」は放棄してもかまいません。ただ、日本にはクリスチャンが少ないので、あった方がわかりかすいとは思います。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 10:32 (UTC)
- 新カテキズム第2部第1章2「この秘跡の呼称」の1329条には、「エウカリスチア」(シュクナシス)は教会を目に見える形で表す信者のつどいで行われるからです(注157)」とあり、この(注157)には「一コリント11:17-34」を参照」と明快に記されています。「〜をわきまえる」という訳語も適訳だと思います。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 11:07 (UTC)
- 多謝!--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月5日 (金) 12:44 (UTC)
- この聖体(エウカリスチア)との結び付きに関しては、むしろ「幼児洗礼問題」の節の方が念頭にあったのですが、これはどちらにも当てはまりそうですね。要するに、教皇はプロライフの立場であり、政府や医療関係者が中絶に係わることは殺人であるから聖餐にあずかるのに相応しくない。また、離婚などは教会の教えには反するが、情状を無視するのは救いに例外を設けなかったイエスの教えにそぐわず、また子供に累を及ぼすべきではないので、洗礼を拒否してはならない。つまり、殺人などの大罪には断固たる拒否を示し、弱さや過ちによるつまずきにはむしろ同情すべきであり、小罪を一概にとがめるべきではない。大罪を犯しながら聖餐にあずかることは汚聖にあたるが、小罪は個々のケースを考えて情状酌量あってしかるべきであるということでしょうか。聖体の秘跡に関するこの柔軟な考え方には驚かされます。まさに、信仰が人間を「生かす」ためにあるものであり、裁くものではないとお考えなのでしょう。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 13:13 (UTC)
- 多謝!--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月5日 (金) 12:44 (UTC)
- 新カテキズム第2部第1章2「この秘跡の呼称」の1329条には、「エウカリスチア」(シュクナシス)は教会を目に見える形で表す信者のつどいで行われるからです(注157)」とあり、この(注157)には「一コリント11:17-34」を参照」と明快に記されています。「〜をわきまえる」という訳語も適訳だと思います。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 11:07 (UTC)
- quote の個所の所の目立つ引用は、一応訳文を再検討しておいた方が良いかもしれませんね。職場や学校の新しいタームが始まったので、みなさんお忙しいと存じますが、できれば、スペイン語は、HenaresさんやLorettibarrend さん、ドイツ語とラテン語は Sonus peregrinus さんにご点検して頂けるのではと期待を持っています。フランス語は私がやらせて頂きます。訳文で気になるのは、主語と述部が離れすぎている個所と、長すぎる関係代名詞節で2文にした方がいいのではないかと思える個所です。また、「独自研究」云々の指摘があれば、少なくとも自分で書いた「注釈」は放棄してもかまいません。ただ、日本にはクリスチャンが少ないので、あった方がわかりかすいとは思います。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 10:32 (UTC)
- ご指摘の通りだと思います。一見しただけではわかりずらい生硬な各国語訳があるは、ラテン語正文の“Eucharistia cohaerent”を直訳したからで、ご案内の文書にも繰り返し出てくる所から見ると、この言葉で「聖体(拝領)との密接な結びつき」のことを指すことが暗黙の了解になっているようですね。典拠の所に、該当するカテキズムの個所を cf. として挙げておけば、熱意ある閲覧者の方は見て下さるのではないでしょうか。離婚が教会の教えとそぐわないことは明白ですが、ヘンリー8世の時代とは異なり、現在は離婚即破門とはならないようです。現在のように離婚が多い社会でそのような措置をとれば、特に欧米社会が混乱状態に陥ることは必至です。現在は離婚しても聖体拝領から遠ざけられるということもないようですが、さりとて「必ずこうすべき」という方針もなく、以下の「イタリア司教委員会の公文書」(1979年4月26日)のようなものが存在すること自体が、個々の事情を斟酌せず一概に聖餐を拒否する司祭がいることがある証拠であり、新教皇は、そうした硬直した姿勢を批判されているのだと思います。浜口吉隆訳「離婚・再婚した者及び不法と困難な結婚事情にある者の司牧」(イタリア司教委員会の公文書)
注釈の根拠等について
[編集]現時点でわたしが気になるのは、
- 「隠れキリシタン」の件で本項目でメーガン・クラインの言説に言及する必要性に対して疑問(軽微。削っても本項目を読解する上で支障はないと考える)。
- 「悪魔の世俗性、悪魔的な世俗性」を“principe del mondo”(この世の君)を踏まえた表現と断定する根拠(難題。現状、これを前提としないと解説が書けない)。
- 「神の先行性」について「1ヨハネ4:19-21」を踏まえた表現と断定する根拠(中程度。もう一箇所くらい提示して、聖書の言葉に基づく言い回しであることが示せればよいと考える)。
です。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月5日 (金) 13:56 (UTC)
- これは同感です。もっとシンプルなものにしてみたいと思います。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 20:40 (UTC)
- [注の1〜6]までは、まったく問題ないと思います。[注7]では、記者のコメント部を削除しました。[注8] では、「これは悪魔の異称 “principe del mondo”(この世の君)を踏まえた表現である」「悪魔の世俗性、悪魔的な世俗性」を論難するする教皇の説教は、霊的なもの、精神的なものをないがしろにし、「現世的なもの」(世俗性)に空しく執着することに対する批判を含意している」の部分をとっても意味は通じるので、この部分を削除しました。[注10]削除。以上、「独自研究」との疑義が発生しそうな個所を除去しました。その他、考え得るのは[注12]で、ここは「大久保光夫訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年、p.〜」という典拠が必要だと思いますが、残念ながら同書が手元にありません。どなたかお持ちではありませんか?Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 21:45 (UTC)
質問
[編集]Colegio とは、スペイン語圏の中等教育機関だと思うのですが、以下の訳語ではダメなのでしょうか?元のままの方がよいのでしょうか?
- コレヒオ・マクシモ・サン・ホセ → マクシモ・サン・ホセ学院
- コレヒオ・デ・ラ・インマクラーダ → インマクラーダ学院
- コレヒオ・デル・サルバヴァドール → サルバヴァドール学院
インマクラーダは「無原罪(の御宿り)」(=聖母マリアに関するピオ9世の教義宣言による呼称)、サルヴァドールは「救世主」(=イエス)の意。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 22:17 (UTC) - 若干訂正。Tizizano(会話) 2013年4月5日 (金) 22:30 (UTC)
- コメント訳すなら、「コレヒオ」と「コレヒオ・マクシモ」の訳を見出す必要があるのではないか。例えば「学院」と「高等学院」、「校」と「大学」のように訳せるなら訳出に賛成します。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月5日 (金) 22:56 (UTC)
「語録」の選択
[編集]「語録」は、新教皇の考えや人となりが、長々と説明するより印象的と多くが思えるものに絞るべきだと思います。そうでないと逆効果で、特に「その後、さまざまな冗談を述べた人がいました 〜」は、ちょっと考え物ではないでしょうか?「これから冗談を言いますよ」と前置きのある冗談くらい面白くないものはありません。カトリック信者以外からは、むしろ反感を買うような懸念ありと考えますが、みなさんはどうお考えでしょうか?Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 02:02 (UTC)
- 今後の編集方針を拘束するつもりはありませんが、Wikiquoteでない本項目における「語録」の分量は、現行程度がベストだと感じています。ご指摘の「ジョーク」については、丁度その分量程度のより良い「語録」(わたしも短い語句の方が好ましいと思いますので、2、3個)の訳出と引き換えに編集除去したい考えです。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 02:24 (UTC)
トピックについて
[編集]en: Pope Francis, es:Francisco (papa), it:Papa Francesco, fr:François (pape), de:Franziskus (Papst) を巡回したところ、以下が目につきました。コメントがあればお聞かせください。
- fr:François (pape)#Éducation sexuelle→「社会教説」か。
- fr:François (pape)#Rapport au péronisme→「思想・信条」よりむしろ「経歴」として。
- it:Papa Francesco#La pedofilia、(en:Theology of Pope Francis#Celibacy of priestsにも関連した言及あり)--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 02:09 (UTC)
- 分類はそれでよいと思いますが、ペロン主義への加担に関するフランス語版の記述は、いささかニュアンスを欠いていると思います。当時はハンガリー動乱(1956)直後であり、ソ連の介入という現実の脅威が存在したわけで、こうした時代背景に触れずに「反共主義」を強調することは、公平さを欠くことになると思います。「米ソ冷戦下という時代背景から、青年時代のベルゴリオは〜」などの紹介があればよいと思います。時代背景も説明なく、ムッソリーニに親近感を抱いていたペロン主義への加担だけ述べれば、保守反動の代名詞とでも捉えかねられず、それは新教皇様の思想的スタンスと異なると思います。「ヨハネ・パウロ2世 → ベネディクト16世 → フランシスコ」という流れは、大雑把に言えば「朝日新聞 → 産経新聞 → 読売新聞」くらいの感じで、ベネディクト16世による右旋回によるトラブル多発を快く思っていない枢機卿が少なくなく[1]、新教皇の選出は、保守派と革新派の妥協の産物ですが、フランシスコ教皇は反動派ではありません。それ以外のご案内の欧文版は参考になると思いますが、テーマがテーマだけに、またもめ事がたくさん起こりそうな気配が …(笑)Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 02:38 (UTC)
- カトリック教会の性的虐待事件は、現在解決が求められている喫緊の課題であり、もっとも忌まわしい事件は、2002年1月に『ボストン・グローブ』紙が報じた、米国ボストン司教区のジョン・ゲーガン神父の例でしょう。前教皇は、この問題が拡大していたのに対応が遅れ、どんどん被害が拡大し、退位の理由の一つは、この不祥事にあると思います。米国の刑務所内でも子供に手を出した者は、もっとも軽蔑されるようで、この元神父は刑務所内で撲殺され、「全米でもっとも忌まわしい男」と報じられたそうです。聖職者に対する子供たちの無邪気な信頼感を裏切り、騙し、虐待した、本当に恐ろしい事件です。
- 【聖職者による性的虐待被害者の団体、ローマ法王の退位を歓迎】
- http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2927280/10269326
- [2]のAFP電では、2011年5月にバチカンの教理省は、小児性愛の疑いのある聖職者を小教区で児童に近づけないことを命じた文書を発したことを論じ、新教皇は、この問題に対して断固とした姿勢で解決を目指すことを報じています。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 06:46 (UTC)- 一部情報追加。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 07:00 (UTC)
教皇フランシスコに対する賛否両論の記述の募集
[編集]現在、本項目は、教皇フランシスコに対して概ね好意的に書かれていますが、存命人物の記事として書かれざるべき誹謗中傷としての意味ではなく、カトリックの保守的な立場からの批判的見解は当然あるわけで、記事量が130kbを超えつつ、そのような記述が見られないのは、記事の公平性を欠いていると思われます。
- 節「教皇就任後」の最後尾の節として「賛否両論」のような節を設けたい。
- 現在記事内の出典として新ローマ法王:型破りな言動 好意と注文が交錯(毎日新聞)がありますが、海外のソースや一次ソースの裏付けも集めて記事としたい。
- (例えば上記記事中の「ラテン語によるミサ」というキリスト教サイトとはこのサイトだと思われますが、3月27日の当該記述をまだ探せていません)
- 低俗なレベルの揶揄は必要ないと思いますが、歓迎する立場と共に、特に、保守層からの「ある程度権威のある」又は「神学上ないし西方ローマ教会の運営上重要な見地からの」批評を数件お寄せ願えませんでしょうか。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 09:21 (UTC)
- そういうものは、もちろんたくさんありますよ。しかし聖ピオ十世会の司祭たちは、破門を説かれたもののいまだ聖務停止中であり、保守派というより極右(戦犯ポール・トゥヴィエの隠匿、ペタン元帥への支持、反ユダヤ主義、ホロコースト否定論)という方が正確でしょう。教皇フランシスコは、明確に「伝統派や原理主義者」を否定しているのですから、教皇選出の直後から、「ベネディクト16世は良かった」論を展開し、盛んに新教皇を攻撃しています[3][4]。Wikipedia:中立的な観点 には、「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください」と明確に規定されているのですから、必要以上のスペースを割くべきではないでしょう。聖ピオ十世会のシンパを調子に乗らせるとこの項目自体が壊滅します。これは、決して誇張で言っているのではありません。先の厳しい縛りのなかで、1パーセントもあれば充分だと思います。先のWikipedia:中立的な観点に規定されている「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」という原則からすれば、両論併記などもっての他であり、実勢に照らせ合わせれば、1パーセントでも多いくらいです。この点を楽観的に考えていると、これまでのわれわれの努力は一瞬にして水泡に帰しますよ。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 09:48 (UTC)
- 毎日の記者はカトリック事情に疎いので『「ラテン語によるミサ」というキリスト教サイト』などというお気楽なことを書けるのであって、ラテン語典礼の復活を目論んでいる連中というのは、新教皇に限らず第2バチカン公会議以降のほとんどの教皇に反旗を翻し、その近代主義(アジョルナメント)と批判しているわけです。ですから、特に教皇フランシスコだから批判しているわけではないのです。つまり、ラテン語典礼復活派からの近代主義という批判は、教皇フランシスコに特化されたものではなく、破門を解除したベネディクト16世以外の第2バチカン公会議ほとんどの歴代教皇を対象にしたものだということです。このあたりを読み違えると、おかしなことになると思います。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 10:11 (UTC)
- そういうものは、もちろんたくさんありますよ。しかし聖ピオ十世会の司祭たちは、破門を説かれたもののいまだ聖務停止中であり、保守派というより極右(戦犯ポール・トゥヴィエの隠匿、ペタン元帥への支持、反ユダヤ主義、ホロコースト否定論)という方が正確でしょう。教皇フランシスコは、明確に「伝統派や原理主義者」を否定しているのですから、教皇選出の直後から、「ベネディクト16世は良かった」論を展開し、盛んに新教皇を攻撃しています[3][4]。Wikipedia:中立的な観点 には、「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください」と明確に規定されているのですから、必要以上のスペースを割くべきではないでしょう。聖ピオ十世会のシンパを調子に乗らせるとこの項目自体が壊滅します。これは、決して誇張で言っているのではありません。先の厳しい縛りのなかで、1パーセントもあれば充分だと思います。先のWikipedia:中立的な観点に規定されている「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」という原則からすれば、両論併記などもっての他であり、実勢に照らせ合わせれば、1パーセントでも多いくらいです。この点を楽観的に考えていると、これまでのわれわれの努力は一瞬にして水泡に帰しますよ。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 09:48 (UTC)
- 例を挙げていなかった故、誤解を招くのは致し方のないところではありますが、教皇フランシスコが「変えた」事柄に対する評価があってよいのではないかという提題であって、かねてより彼と対立している勢力に焦点を当てようという趣旨ではありません。就任してから「変えた事柄」、即ち「教皇を自称しないこと」「ラテン語ミサからイタリア語に変えたこと」「ホテル住まいにしたこと」等に対して「危ぶむ声」は出典たりうるレベルにおいては聞かれていませんか?という趣旨の「募集」であります。草の根から「厳格な雰囲気を懐かしむ」声が上がっていることは毎日新聞の記事でも出所をぼかしながら伝えているところです。わたしの身近にいる日本人からも「ラテン語が共通語なのだからイタリア語のミサは残念」という声を聞いています。統制のとれた西方ローマカトリック教会のことですから、まかり間違っても司教区が懸念を示すなどということはないでしょうが、厳かさ、崇高な権威及びカトリック教会の頂点たる教皇の求心力を求める筋からは、毎日新聞の記事のように、せいぜい皮肉が聞かれる程度のことでしかないのでしょうか?--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 10:53 (UTC)
- なるほど、そういうことなら一安心です。「ラテン語ミサからイタリア語に変えたこと」に対して「危ぶむ声」というのは、原理的にあり得ません。なぜなら、第2バチカン公会議以降のカトリック教会のミサは、基本的に各国語だからです。また「ラテン語ミサからイタリア語に変えたこと」という事実そのものがなく、そもそも各国語です。ラテン語によるミサは、信徒の一定数から希望があり、かつ司教など管轄者の許可があった場合に限られます。例えば「ウナ・ヴォーチェ」などのグループがそれです。それから、教皇は、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に司教座のある司教区の司教でもあるので、「ローマ司教」(Episcopus Romanus)とは、謙虚さからそう言われているのではなく、-- 実際「謙虚な」ご性格ですが -- ローマ教皇の称号の一つということだと思います。また別件ですが、「アパレシーダ文書」の英訳、仏訳をネット上で発見しましたので、挙げておきました。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 11:36 (UTC) - 情報追加。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 11:49 (UTC)
Tizizanoさんに質問
[編集]Tizizanoさんは、節「幼児洗礼問題」にて、2013年4月4日 (木) 21:46 (UTC) における編集をなさっていますが、出典の "La Vie", no 3524, du 14 au 20 mars 2013, p. 31. においてベルゴリオ自身が彼らを「新教権主義」と評していますか?fr:François (pape)#Discipline sacramentelleでの記述は "En mai 2012, il critique sévèrement certains prêtres argentins qui — dans ce qu'il décrit comme un « néo-cléricalisme » qui détourne les sacrements de leur objet — , refusent de baptiser les enfants de mères célibataires, affirmant que dénier le baptême aux enfants nés hors mariage est une forme de « gnosticisme hypocrite pharisien »[Référence] qui éloigne les gens du salut." であり、訳出当初から変わっていません。この出典にURLリンクはありませんが、あなたはこの部分を検証なさいましたか?もし違うなら、フランス語はご専門でしょうから検証して頂けますか?大概の平叙文において読みやすく書き換えることに問題はありませんが、ここは注釈にてLa Vie誌の2013年3月と2012年9月での表現の違いにまで詳細に踏み込んでいるところです。同節の別出典であるVatican Insiderでは確かに "In this “hijacking” of the sacrament that marks the beginning of Christian life, the Jesuit cardinal sees the expression of a rigorous and hypocritical neo-clericalism which also uses the sacraments as tools to affirm its own supremacy." と書かれています。しかし記述を混ぜてしまうと「厳しく批判した」といった表現や注釈との関係が取れなくなってしまうため、わたしは敢えてこの部分を読みやすく書き換えていないのです。この際ですから、冗談や当てこすりではなく、わたしは本気で、あなたに上記仏語版の構文としてもベルゴリオ自身が「新教権主義」と評したのであるということの解説、または、 La Vie誌3月14-20日号31ページの検証と解説をしていただきたい。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 19:10 (UTC)--(最終修正)--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 19:25 (UTC)
- 追記:"qu'ils décrit" ではなく "qu'il décrit" であるから「『新教権主義』と評された」のではなく、ベルゴリオが「『新教権主義』と評した」ということでしょうか?--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 19:37 (UTC)
- まず、引用された原文は、大体以下のような意味です。「2012年5月、ベルゴリオは、秘跡を授けることに背を向けシングルマザーの子供たちに洗礼を拒否するアルゼンチンの司祭たちを「新教権主義」(un « néo-cléricalisme »)〔注1〕であるとして〔注2〕厳しく批判した(critique sévèrement)。ベルゴリオは、婚外子を否認することを「偽善的なファリサイ人によるグノーシス主義」〔注3〕であり、人々を救いから遠ざけるものであると断言している」
- 〔注1〕「一つの新たな聖職者中心主義」くらいの意と考えられますが、個人的には『バチカン・インサイダー』記者による理解と同じで、「新教権主義」だと思います。「教権主義/反教権主義」というのは、特に政治史などでは、ほぼ定訳です。
- 〔注2〕décrire A comme B は「AをBとして描く」の意。
- 〔注3〕実際の古代のグノーシス主義を指すのではなく「善悪二元論」による裁断くらいの意。
- 版による異同に関してはわかりませんが、『バチカン・インサイダー』による英文(「キリスト者としての生活の出発点をしるす秘跡を『強奪』すること〔注、「婚外子の洗礼拒否」のこと〕に関して、このイエズス会の枢機卿は、秘跡というものを自分たちの権限を確固たるものにする道具として利用しようという、律法主義的な偽善的『新教権主義』のあらわれであると見なしている」)の内容と上掲の仏文の内容は整合性があり、その言わんとすることは正確に一致していると思います。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 21:22 (UTC) - 一部加筆。Tizizano(会話) 2013年4月6日 (土) 21:34 (UTC)
- 懇切丁寧にご教示くださりありがとうございました。また、大変失礼いたしました。また「秘跡というものを自分たちの権限を確固たるものにする道具として利用しようという」という『バチカン・インサイダー』の記事も生かしたいところであります。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 22:35 (UTC)
- とりあえず、4/10あたりを目安にしていたのですが、文章の推敲、翻訳の点検も一応終わって、後は新たな加筆をまつ状態になり、初版も完成したのではないでしょうか。明日以降は諸事多忙となり、時々しか時間がとれません。宜しくお願い致します。Tizizano(会話) 2013年4月9日 (火) 12:06 (UTC)
- 懇切丁寧にご教示くださりありがとうございました。また、大変失礼いたしました。また「秘跡というものを自分たちの権限を確固たるものにする道具として利用しようという」という『バチカン・インサイダー』の記事も生かしたいところであります。--ジャコウネズミ(会話) 2013年4月6日 (土) 22:35 (UTC)