ノート:オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)
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この「オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
---|---|---|---|
1. | 2020年11月23日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
執筆・翻訳者の広場での質問の告知
[編集]Wikipedia:執筆・翻訳者の広場#「オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)」の競馬関連の出典についてにて「人物」節の記述と参考文献の紐づけについて質問したことをこちらでも告知いたします。--ネイ(会話) 2020年7月17日 (金) 14:46 (UTC)
メモ
[編集]2020-07-19T16:34:20の編集について気になったことを書き残しておきます。
- 「シェルバーン伯爵らとの会合を放って競馬に行った」エピソードについて
- 私が参照した情報源には、この会合を放置した件を、後日ホレス・ウォルポールから「……to a whore and a horse-race.」と風刺された、とありました。しかし「1768年4月に」という情報はありませんでした。(私の情報源では、「首相在任中」より詳しい日時は不明)
- 私の修正前には「政務と妻子を放置して」とありました。が、他の所に書いてあるように、妻は1764年1月以降別居です。この「放置事件」が正確にいつのことかは不明ですが、首相在任中なので1768-1770(「第一大蔵卿」を含めても1766-)でしょう。とすると、この時期に「妻子を放置して」というのは無理があるように思います。なので「妻子を」だけ除去しました。(愛人とはエリザベスとの結婚前には手が切れていたらしいので2番めの妻のことを指すわけでもない。)--柒月例祭(会話) 2020年7月20日 (月) 05:04 (UTC)
- 返信 "It was in April 1768 that the prime minister appeared with her at the opera"(DNBより)、"Walpole to Conway, 16 June 1768, Walpole, Corr., 39.101"(ODNBより、ウォルポールの言葉の出典)といった記述があるので、パーソンズとオペラに行ったのは1768年4月、ウォルポールの風刺は1768年6月のことです。「妻子を」の除去に異議はありません。--ネイ(会話) 2020年7月20日 (月) 16:30 (UTC)
2020-07-20T14:56:35 の編集について。(迷った結果)記事には書かなかったこと。
複数の情報源に、グラフトン公爵を「(ものすごい)奇人(奇行)」と表現するものがありました。
- P・ウィレット『サラブレッド』
- イギリスの奇人の中でも最も風変わりな人物の1人であった
- Mortimer
- one of the most curious of English eccentrics
後者では奇行の実例(his eccentricity was demonstrated by his order for ……)として「自宅から競馬場までの道を造らせた」エピソードが説明されています。
ただこの2情報源はいずれもPeter Willetが関わっているので、「複数の独立した」とは言い切れない。この道路造成のエピソードは他の情報源にもありますが「奇行」とは書いていない。
ほかに「奇行」とする具体的エピソードもない。なので記事には書きませんでした。そのため「道路」のエピソードはやや唐突かもしれません。(もしかすると、政務を放置して競馬場へ行ったとか、神学の件なんかも「奇行」の一部なのかも。)もしもまったく別の情報源からも「奇人」などの評がでてくるようなら、そういう評判が広くあるといえるのかも。--柒月例祭(会話) 2020年7月20日 (月) 15:18 (UTC)
- 私が参照した出典(DNB、ODNB、HOP)ではそのような記述は見あたりませんでした。帰属化して書くか、現時点の記事のように「自宅から競馬場までの道を造らせた」という事実だけ書いておく程度で大丈夫でしょう。--ネイ(会話) 2020年7月20日 (月) 16:30 (UTC)