ノート:ウクライナ=コサック国
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このページについての重大な欠点
[編集]この記事が根本的に誤りであるとする説明
①第一に諸国民の春の当時にリヴィウはオーストリア帝国の領土でありロシア帝国への圧政に対する蜂起とするのは難しい点。
②第二にキエフ・リヴィウでの同時蜂起に関する根拠がない点。具体的にいえばリヴィウに主要ルーシ評議会が存在し、1848年にガリシアでの反乱を起こしたが、キエフとの連帯を目指したというよりかは同ガリツィア・ロドメリア王国内のポーランド評議会との連携をしていたということ。また、主要ルーシ評議会の目的がガリツィア・ロドメリア王国の独立というよりかはガリツィア・ロドメリア王国内のルーシ人の権利を認めさせること、ウクライナ語教育などのオーストリア国家から離反を目的とした内容ではなかったこと。
③第三にキエフで活動した聖キリルと聖メソジウス団は農奴解放を求めていたが、そもそも蜂起に至る前(正確にいえば1847年)に当局に弾圧され早々に沈静化している点だ。
これらを総括するに明らかにウクライナ=コサック国の独立宣言というのは論理的整合性が取れておらず、リヴィウ蜂起と聖キリルと聖メソジウス団の結成という2つの出来事を意図的に混ぜて書いたと考えられるからだ。--27.142.148.240 2024年11月19日 (火) 08:57 (UTC)
- こ--27.142.148.240 2024年11月19日 (火) 08:59 (UTC)
- --27.142.148.240 2024年11月19日 (火) 09:01 (UTC)
- コメント 削除依頼を提出しました。--HWTOF(会話) 2024年11月24日 (日) 18:00 (UTC)
- コメント私はそもそもこの国家がなかったのではないか、と考えます。
- なぜならグーグルでこれに対するニュース記事などを検索しましたが、まったく出てこない。
- だから、存在しなかったと私は思う--あもあす(会話) 2024年11月23日 (土) 03:30 (UTC)
- 27.142.148.240さんの記述に関して、補足を置いておきます。
- 【①の補足】
- リヴィウは第1次ポーランド分割(1772年)以来、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊まで、ハプスブルク君主国の領域であるのに対し[1]、当時のキエフは遅くとも1686年以来、ロシア帝国領でありました[2]。また上記出典には、キエフはポーランド・リトアニア大公国との対立の中でモスクワ国家(ロシア)に帰属する事となったとあり、そのような歴史的経緯の中で連帯するとなれば、根拠史資料がある筈だが、一切見当たりません。
- 【そもそも記事中の記述がおかしい話】
- また、ガリツィアにおける1846年の蜂起に関して、岩崎(2017)p.277では「一八四六年にガリツィアで起きた独立運動では、この問題が劇的な形で表面化した。自由主義ナショナリストの貴族がハプスブルク支配の打破と社会改革を掲げて蜂起したとき、民衆の多くは同調しなかったばかりか、むしろこれを貴族に対する積年の怨恨を晴らす好機とみて、蜂起した貴族たちを逆に襲ったのである。運動は民衆による領主貴族の無差別殺戮に一変し、最後は軍によって鎮圧された[3]」とあり、同pp.276-277には「自由主義ナショナリストはまた、社会問題に対する関心が低かった。……(中略)……このため民衆は、彼らの運動にさして興味を示さなかった。ハプスブルク王朝に対して純朴な敬愛心を保ち、自分たちの困窮の原因を、目の前の『お偉方』と『君側の奸』にあるものと考えたのである[4]」とされております。1848年のいわゆる「諸国民の春」といった運動は、こうした自由主義的な運動を背景としており、従って記事中にあるような「しかし、ウクライナ=コサック政府が農奴を解放してその農奴に大地主が持っている土地の分配を『ウクライナ農民に対する大綱』によって約束すると、その地域にいた農民もロシア帝国の支配に対して武装して反発した。」という事態は考え難いです。
- 【誰が(どの階級が)反乱を起こしたのか】
- 記事中では、この「ウクライナ=コサック国」が、貴族階級か、知識人か、農民か、一体誰を主体として発生したのかが全く不明です。
- 仮に「聖キリルと聖メソジウス団 (キリル・メトディウス団)」が主体であるとするならば、③の指摘にあるように、1847年春に全員が逮捕されており[5]、これは矛盾です。
- 【キエフとリヴィウを支配したという記述の矛盾点】
- 「キーウ周辺とリヴィウ周辺しか支配していなかった」
- 仮にキエフとリヴィフの両方を一時的にでも支配していたのであれば、それはロシア帝国領とオーストリア帝国領との国境に成立したものであり、2国間での協議であったり、或いは1国で解決したのであれば「リヴィウへのロシア帝国軍の介入」(または「キエフへのオーストリア軍の介入」)があった事になります。協議としては実際、オーストリア帝国領ハンガリーにおけるコシュートの蜂起(ハンガリー革命)では、ロシア帝国軍による軍事援助がなされています。ところで、このコシュートの蜂起を鎮圧するためのロシア軍はトランシルヴァニア山脈周辺を通過する事になりますが、この文脈において「1849年に滅びた(=1年以上の長期的抵抗を見せた)ウクライナ=コサック国」への対処の話題が一切出て来ない点は、記事投稿者による創作の可能性を示唆しています。
- 【荒らしユーザーによる作成である点】
- 本記事は利用者:くきはきくにより作成されていますが、この利用者は殆ど全ての編集を差し戻された上でブロックされております。また本荒らしユーザーの編集傾向([1])が、他の荒らしIPの編集傾向([2]、[3])と類似している点から鑑みるに、グローバルブロックされている2001:268:C28A:E190:C486:A1F2:C946:AE2Eによるアカウントである可能性が否定できません。--HWTOF(会話) 2024年11月24日 (日) 17:45 (UTC)
- 追記
- 1848年のリヴィウ蜂起についての出典[6]を見つけました。この中に「キエフとの」連帯を示唆する表現は(私が読む限り)見られません。--HWTOF(会話) 2024年11月24日 (日) 18:16 (UTC)
- ^ 岩崎周一『ハプスブルク帝国』2017年、講談社、p406
- ^ ジャパンナレッジ「キーウ」(2024-11-25閲覧)
- ^ 岩崎(2017)p.277
- ^ 岩崎(2017)pp.276-277
- ^ コトバンク「キリルメトディウス団」(2024-11-25閲覧)
- ^ Головна Руська Рада「ЗАХІДНА УКРАЇНА В СКЛАДІ АВСТРО-УГОРЩИНИ (кінець XVIII — XIX століття). Революція 1848-1849 pp. та її вплив на розвиток краю」https://uahistory.co/book/dovidnik/138.html