ノート:イスラーム期のクレタ
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アブー・ハフスの出身地バッルートについて
[編集]バッルートの位置にかかわる記述の要検証の件についてちょっと調べてみました。結論から先に書くと、手持ちの本に情報が一切なく、検索でもよくわかりません。一応確認した関連情報をまとめると以下の通りです。
- 英語版原文:furthermore, the Andalusians' leader, Umar ibn Hafs ibn Shuayb ibn Isa al-Ballūṭi, commonly known as Abu Hafs, came from a locality (Fahs al-Ballūṭ) that was far from Córdoba. - 訳文としては現状の記事の記述は間違っていないかなと思います。
- 出典での記述:該当箇所の出典になっているKubiak (1970)はオンラインで無料公開されていたので記述を確認してみました。恐らく該当する部分は以下の通りです(p. 52から引用)。
- The early history of these Spanish sailors is still obscure. This is not a proper place to discuss the problem at length, it should be stressed, however, that the theory that they come from ar-Rabad, a suburb of Cordova destroyed by al-Hakam I, cannot be maintained. In spite of abundant evidence it is still repeated occasionally; cf. for instance S. M. IMADUDDIN, Jurnal of Pakistan Hist. Soc. , 8 (1960), pp. 297 ff. and recently M. CANARD in the Cambridge Medieval Hist., vol. IV, I p., p.709. E. LEVI-PROVENCAL, op. cil., pp. 165-166, n. 1, clearly showed that the rebellion of ar-Rabad, a suburb of Cordova, the subsequent massacre and expulsion of its inhabitants from Spain, took place in April 818, i.e. four years after a visit of Andalusians to Alexandria had been recorded and this was by no means their first visit. Moreover, as we learn from al-Yaqut, the leader of the Spanish conquerors of Crete came from a village Butrūh in the district Faḥs al-Ballūṭ, which was a considerable distance from Cordova. Al-Maqrizi first identified the Andalusian pirates with Cordovan rabels; evidently he correlated two independant historical events. The year 182(798/799 A. D.) which he gives as the date of the Cordovan rebellion, unless it was a copyist's error, should therefore refer rather to the past history of the Andalusian sailors in Alexandria. For the Cordovan rebellion all older sources give the year 198 or 202 h. (814 or 818 A. D.)
- 検索でのHit:Faḥs al-Ballūṭで検索をかけた結果次のような文章がヒットしました。
- Firrīs̲h̲: in the province of Seville, north of the Guadalquivir valley between Cazalla de la Sierra and Hornachuelos, in the neighbourhood of Constantina. The kūra (or region) of Firrīs̲h̲, adjacent to that of Faḥs al-Ballūṭ [ q.v.], lay two stages distant to the north-west of Cordova. There were and still are chestnuts and cork-oaks in its region, but its forests were composed then as now chiefly of evergreen oaks as in Faḥṣ al-Ballūṭ. Its principal wealth lay in the exploitation of its iron, which gave it its names… ([1])
- まとめ
- Kubiak (1970)の文章としては、後ウマイヤ朝の反乱とクレタ島の征服を関連付ける説明はアル=マクリーズィーが二つの独立した事件を関連付けたものであり、彼の記録にある時系列が矛盾するので後ウマイヤ朝の反乱とアレクサンドリアのアンダルシア人は関係無いと見るべきである。またFaḥs al-Ballūṭはコルドバからかなりの距離(a considerable distance)離れている。となっています。
- 別の地名記事の付帯情報ですが、Encyclopaedia of Islam(このサイトの信憑性がわからないですが・・)の記述ではFaḥs al-Ballūṭはtwo stages distant to the north-west of Cordova の位置にある。
確認する限り日本語の出典ではクレタ島を征服したアラブ人たちの出自をハカム1世の反乱に結び付けて記述するのが一般的で、Kubiak (1970)で書かれているような主張は採用されていないように見えます(桃井治郎『海賊の世界史』、余部福三『アラブとしてのスペイン アンダルシアの古都めぐり』、太田敬子「クレタ島のアンダルス人」など)。- Faḥs al-Ballūṭの正確な位置がわからなかったのですが、上の文章に出てくる関連する地名をGoogle Mapで確認すると、なんとなくですがコルドバからFaḥs al-Ballūṭまでの距離は東京-静岡間くらいの距離のイメージに見えます。地中海というスケールで見ると、コルドバのすぐそば、という指摘は妥当であるように思います。
- 長々と書きましたが、どのようにすべきかちょっと判断がつかない状態です。--TEN(会話) 2019年4月4日 (木) 15:38 (UTC)--TEN(会話) 2019年4月11日 (木) 11:38 (UTC)(修正)
- TENさん、もろもろの検証と情報提供、ありがとうございます。
- Kubiak (1970) がすぐに見つからず『イスラーム百科事典』の"Abū Ḥafṣ ʿUmar b. Shuʿayb al-Ballūṭī" の項、"Abū Ḥafṣ ʿUmar b. Shuʿayb al-Ballūṭī (d. c. 231/846), an inhabitant of Faḥs al-Ballūṭ, a district near Córdoba, the capital of Muslim Andalusia, ..." の記述に基づいて、要検証タグを入れました。少しつづりが違いますが Faḥṣ al-Ballūṭ の項も発見しました。コルドバから北へ3日間の行程でイベリア半島のど真ん中、内陸ですね。情報源はヤークートかイドリースィーのようです(レコンキスタ以後の地名との間には断絶がある?ようです)。間に箱根のような険阻な山がないので、江戸から小田原ぐらいでしょうか。遠いか近いかは感覚的な問題なので、ある程度アブー・ハフスの出身地とされる場所が特定できたという点で検証が済んだと考えたいです。
- ところで、Brill の Encyclopaedia Islamica は、この分野では一番信頼できるといってもいい文献です。ただしABC順に刊行してZまでたどり着くのに50年かかったりしているので、全巻そろうと最初のほうは内容が古くなってしまっているという弱点があります(ABU... は古いかも)。Firrīs̲h̲ や Faḥṣ al-Ballūṭ の項を執筆した es:Ambrosio Huici Miranda も eswp に記事があります。
- この記事の内容をもう少し詳しく知りたいのですが、頻繁に参照されている Makrypoulias (2000) の de:Graeco-Arabica というジャーナルがオンライン公開されておらず読めないので困ったなあと思っております。--ねをなふみそね(会話) 2019年4月5日 (金) 03:15 (UTC)
- 返信 きちんと読んでいないので検証箇所について進展はないですが、一応オンラインで見つけることができた出典についてリンクを作成しました。Makrypoulias (2000)も見つけました。ダウンロードは有料ですが、ブラウザ上で見るなら現時点では無料で参照できそうです。--TEN(会話) 2019年4月7日 (日) 08:39 (UTC)
- リンクを見つけていただき、ありがとうございます。--ねをなふみそね(会話) 2019年4月10日 (水) 06:27 (UTC)
- es:Valle de los Pedrochesですよね? 直線距離ではありませんが、道を辿って行くと110キロメートル強くらいです。--Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 11:42 (UTC)
- 返信 今更ではあるのですが、余部福三『アラブとしてのスペイン』p.3に記載の地図にファフスル・バッルートが記載されていました。グアダルキビール川とグアディアナ川に挟まれた広い範囲、現在のアンダルシア州コルドバ県およびハエン県とその周辺に広がってそうな広大な範囲に「ファフスル・バッルート」と太字で記載があります。また、p. 49に「コルドバはスペイン最大の沃野グアダルキビル川の中流北側に臨み、北方には羊や馬の飼育に適し、小麦生産がさかんで、水銀など鉱産資源に富むシエラ・モレナの山々が連なる。カシの木が茂るため、アラブはその広大な地域をファフスル・バッルート(かし畑)と呼んだ。」と説明があります。「関東地方」並みに広い範囲を指しているので、当時の用例がこうだとすれば、コルドバのすぐそば、もコルドバから3日も間違っていないような気がします(ファフスル・バッルートのどこの出身か、で相当変わる)。--TEN(会話) 2019年5月27日 (月) 11:50 (UTC)
- es:Valle de los Pedrochesですよね? 直線距離ではありませんが、道を辿って行くと110キロメートル強くらいです。--Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 11:42 (UTC)
- リンクを見つけていただき、ありがとうございます。--ねをなふみそね(会話) 2019年4月10日 (水) 06:27 (UTC)
- 返信 きちんと読んでいないので検証箇所について進展はないですが、一応オンラインで見つけることができた出典についてリンクを作成しました。Makrypoulias (2000)も見つけました。ダウンロードは有料ですが、ブラウザ上で見るなら現時点では無料で参照できそうです。--TEN(会話) 2019年4月7日 (日) 08:39 (UTC)
首都の名称について
[編集]イラクリオンの古名として enwp に記載されている ربض الخندق, rabḍ al-kḫandaq について、いろいろと疑問があります。
- まず、خندق の一文字目は無声軟口蓋摩擦音なので、ISO 233-3:1999 に基づいて ẖandaq とラテン文字表記できます。カタカナ表記ですと「ハンダク」にするのが普通です。なお、خَنْدَق を辞書で調べると、ditch, trench などと出てきますので、「溝」「掘割」を指すと考えてよさそうです。
- elwp(現代ギリシア語版ウィキペディア)などを参照すると、ربض الخندق にはギリシア文字で Χάνδακας, Χάνδαξ と書かれていますので、カタカナにすると、「ハンダカス」か「ハンダクス」になるでしょうか。「カンダクス」が適切かどうか、という点がまず気になっています。
- 次に、ربض の部分について、私は、誤記を疑っています。この単語は辞書を引くと、رَبَض rabaḍ と読み、意味は suburb です。少なくとも rabḍ と vocalize するのはおかしい。
- 一方で、音がよく似た رباط という語もあって、アンダルスやマグリブに多く作られた城砦兼宗教施設です(リバートの項参照)。رِبَاط الخندق (リバートル・ハンダク)だと意味がまさしく Castle of the Moat「環濠の城」になります。
- とはいえ、アラビア語一次史料に ربض الخندق と書かれているという話であれば、それはどうしようもない話です。年代記作家の誤記か写本製作者の写し間違いが疑われますが、あまり深入りすると独自研究になってしまい、まじめに研究されている方に迷惑がかかりますのでやめます。
長くなりましたが、クレタ島を支配したムスリムの政権が首都とした場所は、「ビザンツ側のギリシア語史料にはハンダクス Χάνδαξ と記録されており、現代の町イラクリオンの近くにあった~」のような記述にしようかと思います。--ねをなふみそね(会話) 2019年4月10日 (水) 05:00 (UTC)
- コメント検証と記事の修正ありがとうございます。私では不可能な水準での検証が行われていてちょっと感動です。また、Encyclopaedia Islamicaの説明もありがとうございます。全く知識不足でしたが、勉強になりました。
- 首都の名称について一応コメントです。とはいっても私はアラビア語の知識もギリシア語の知識もないので日本語文献での用例のみでの話になります。
- 本記事と別記事を書く際に確認した資料の中でΧάνδακας, Χάνδαξのカナ書き用例は次の2件しか発見できませんでした。
- 高田良太「第八章 一二〇四年とクレタ」『ビザンツ 交流と共生の千年帝国』p. 211「一方で、アラブ人が築いたカンダックスの城塞(アラビア語でal-handaqといい、これは元々は掘割りを意味した。この名称はヴェネツィア共和国統治時代も受け継がれており、またクレタ島の別称にもなった)はエーゲ海に面した良港であったため...」
- ジャン・テュラール、幸田礼雅訳『クレタ島』p. 135「彼らは自分たちの伝統にしたがって、新たな首都をつくろうと、島の北部でクノッソスからほど遠くない地点に建設した。当初それは単なる砦(アラビア語でカンダクス)にすぎなかったが、のちにその名〈カンディア〉は都市ばかりか島全体を指すようになった。...」
- このうち、『クレタ島』は訳者の方が仏文学の専門家のようなのですが、個人的に翻訳から見て訳者の方にギリシア語・アラビア語やビザンツ史に関する知識はあまり無いと考えており、本当に参考だけです。一方で、高田氏はアラビア語について詳しいのかはわかりませんが、論文等を見る限り中世ギリシア語の史料を研究に実際に使用している方のようなので、その方が「カ」を選択していることは考慮すべきではないかと思っています。
- また、直接この主題に触れた書籍ではないですが、ビザンツ史研究家の尚樹啓太郎氏は『ビザンツ帝国の政治制度』などの書籍でΧαを「ハ」でカナ転写しています(cf Χαλχή⇒ハルキ宮殿)。尚樹氏は中世ギリシア語のカナ転写に一家言ある方なので、参考にはなるかと思います。
- まとめとしてなのですが、基本的にねをなふみそねさんの意見に賛成です。原語を検証した結果であり、カナ転写法としても尚樹氏のそれと合致すると考えるためです。ただ、カンダックス(カンダクス)は実際に日本語の書籍で用例があることもあり、カナ転写法として不適当だとしても、括弧書きか注釈で入れておいてもいいかなと思います。アラビア語の誤記(誤写)の可能性の件に関してはとても興味深いです。しかし私に判断できる知識が何もなく、完全に印象論になってしまいますが、ねをなふみそねさんの見解の通り深入りしない方がWikipedia的に良いのかなと思います。--TEN(会話) 2019年4月10日 (水) 15:57 (UTC)
- コメント 感動されたとのこと。光栄です。たまたま辞書を引いたら「城」の意味がないので、怪しいぞと思いました。
- "الخندق + إقريطش" でGoogle検索すると、クレタのアラブ人が基地にしていた場所の名前が "الخندق" であったことを示す文献は見つかった(Rostam Asad (1955))ものの、"ربض الخندق" であったことを示す文献は見つかりませんでした。Miles 1964: p11, Makrypoulias 2000: p351, Kubiak 1970: p51note3 を参照すると、基地の名前は "al-Khandaq" であり、そのまえに "rabd" をつけるのはやはり間違いと思います。しかし、enwp のこの "Rabd al-Khandaq" が Heraklion のまちの語源だとする記載は、arwp, eswp にも引き継がれ、ネット検索すると enwp をソースとして広まっていることが確認できます。
- ついでに言うと、"رِبَاط الخندق" も見つかりませんでした。Google がインデックスしているアラビア語の文献の範囲内では、どちらもないということです。
- kha- をカタカナにするとき「ハ」にするか「カ」にするかについて。究極的にはどっちでもいいのですが、いまは「ハ」が多いですね。しかし古い本では「オマル・カイヤム」「カイバル峠」などの表記をよくみます。昔の日本人には「カ」に聞こえたようです。逆に言うと「カ」の守備範囲が広かったのかもしれません。
- 和書の記載のご確認、ありがとうございました。余談ですが、引用していただいたテュラールの「彼らは(中略)クノッソスからほど遠くない地点に建設した」のように、イラクリオンをクノッソスと絡めて書くのは書き方に気をつけなければと思いました。クノッソスが滅びてから2000年以上経っているので、ムスリムのクレタ島支配の時代から現代までの1100年間よりも長いからです。--ねをなふみそね(会話) 2019年4月21日 (日) 06:02 (UTC)
- 横からすみません。TENさんが随分面白い記事を書いたものだなぁと眺めていたら、ノートがあるのに気付きまして、ねをなふみそねさんの調査も面白いので、ちょろっと調査してみました。イラクリオンの古名ではなくて、ハニアの古名のことですよね? ربض الخندق, rabḍ al-kḫandaq は、あります:مدينة ربض الخندق。イドリースィーのFile:TabulaRogeriana.jpg もうちょっと拡大したもので見ると、南北逆ですがエジプトの北にクレタ島があって西北岸に Rabd al Handak というのがあります。krit クリート、ras tini ラース・ティニ、gezira akritas ジェズィーラ・アクリタスなどが書かれている島です。ドイツ語の解説がありますが古いです。rabd al handak ربض الخندقの南にあるrabd al gobn ربض الجبنは、フランス語の解説ではRabd al-Gibn という形もあって、ドイツ語のものもフランス語のものも「チーズの郊外」とか「チーズの城外」とかいう意味のようです。簡単な調査しかしていませんので、現在のどの町に相当するのか特定できませんでしたが、Between 1139 and 1154 the Arab geographer al-Idrisi praised Cretan cheese, exported to many countriesとあり、クレタのチーズがお気に入りだったんでしょうか。-- Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 11:42 (UTC)
- Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi24巻303頁 Kandiyeの項目から抜粋・翻訳・引用いたしますと (トルコ訛ですみません)、「クレタの北岸にある島最大の都市。ミノス文明の中心クノッソスの直近に在る。同市は、クレタがアラブ人により征服された後、古い居住地区の直近に城塞として建設された。アラブ人はここにラブズルヘンデク (Rabazulhendek) ないしはヘンデク (Hendek)という名は、後にギリシア語とイタリア語で、カンダカ (Kandaka)、カンディカ (Kandika) という形になった。ヴェネツィアの史料には、この名が13世紀にはカンディカ (Candica)、カンティガ (Cantiga)、15世紀にはカンディダ (Candida)、ヨーロッパの史料には、カンディア/カンディエ (Candia/Candie) として登場する。」とあります。--Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 11:47 (UTC)
- コメント Takabegさん、面白い情報をありがとうございます。上記の情報、とても興味深いのですが、rabḍ al-kḫandaqがハニアの古名という話でしょうか?ハニアの古名については日本語情報は管見の限り皆無なのですが、en:Kydoniaにはアラブ時代のハニアは「al-Hanim」と呼ばれていたとあり、en:Chaniaの説明も同様です(こちらは出典がないです)。日本語の資料的にはハンダクス(ハンダク)がイラクリオンの古名(前身)であることは疑いないと考えています。「クレタ島の西北岸」だと確かにハニアが該当する都市ではあるのですが、紹介していただいた地図だと、ハンダクスとその後背地の平野があるはずの島中央部北岸に山地が描かれており、あまり地理的な正確性は無いようにも見えます(実際には島西部のスファキア地方の方が山岳地帯です)。南岸にあるrabd al gobnはよくわからないですね。南岸にあり、わざわざ地図に記すほどの重要性がある都市で、ハンダクスから真南であるという立地から考えると(ハンダクスがイラクリオンとすれば)古典古代以来の有力都市でアブー・ハフスの征服までクレタ属州の首都が置かれていたゴルテュン(en:Gortyn)が一番可能性が高そうだとは思いますが、軽く検索した程度では情報が見つかりませんでした。--TEN(会話) 2019年5月13日 (月) 16:24 (UTC)
- ちょっと誤解を招いてしまう表現があったようで申し訳ありません。Kandiye = イラクリオンですが、イドリースィーの地図を見る限り、どう見てもハニアの場所ですよね、ということを言いたかっただけで、「ربض الخندق という表記もありますよ」というのが主題です。--Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 20:36 (UTC)
- Takabeg 情報提供ありがとうございます。もろもろの「??」が解けました。まず、イドリースィーには مدينة الخندق / ربض الخندق という記載があること。"the Moat" (al-ḫandaq)という名前の城の外側(rabaḍ)に町(madīna)ができたということですね、そしてこのマディーナが、のちのハンダクス→カンディア→イラクリオンへと名前を変えながらもつながっていく、と理解しました。あと、イドリースィーの「ルッジェーロ図」(原本1154年)について。Commons にあるボドリアン図書館本は、1554年にカイロで製作された写本のようです。ボドリアン図書館本で rabd al-handaq の位置は、確かに島の北東部にあるように見えますが、ほかに示していただいたドイツ語の解説書ではp125にクレタ島の拡大図が示されており、rabd al-handaq は島の中央部、まさに現在のイラクリオンの場所にあるように記載されています。一般的に地図の写本はランドマークの位置を緯度と経度で表さない限り、手で写ししていくうちに必ず形状が変形しランドマークの位置がずれていくものですから、原本から400年後の写本ではずれてしまった、というところではないでしょうか。--ねをなふみそね(会話) 2019年5月17日 (金) 10:03 (UTC)
- 返信 ねをなふみそねさんの説明、とても納得しました。確かに上記の通りとすれば「郊外」という地名でも合理的ですね。Takabegさんが紹介してくれたフランス語の解説(続きのページが見れないのでアドレスを変更しています)だと、rabd al-Gibnもハニアの古名なようですね。南岸にあるのが腑に落ちないのですけれども。完全に機械翻訳頼りなので私の読解はこころもとないですが、次のページの説明も含めると、イドリースィーの叙述の中にクレタ島の経済についての情報が含まれていて、当時(12世紀?)のクレタ島のアレクサンドリアへの主要輸出品にチーズと蜂蜜があり、名産品といえる扱いだったようです。積み出し港だったのでチーズの名前で呼ばれるようになったのでしょうか。この記事的には完全に余談ですが、現在でもハニアには街の名前を冠した伝統的チーズのブランドがあるようです⇒[2](es:Pichtogalo Chanion)。さすがに当時の製法が伝わってるとかいう証明はできないとは思いますが。--TEN(会話) 2019年5月17日 (金) 11:54 (UTC)
- ちょっと誤解を招いてしまう表現があったようで申し訳ありません。Kandiye = イラクリオンですが、イドリースィーの地図を見る限り、どう見てもハニアの場所ですよね、ということを言いたかっただけで、「ربض الخندق という表記もありますよ」というのが主題です。--Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 20:36 (UTC)
- コメント Takabegさん、面白い情報をありがとうございます。上記の情報、とても興味深いのですが、rabḍ al-kḫandaqがハニアの古名という話でしょうか?ハニアの古名については日本語情報は管見の限り皆無なのですが、en:Kydoniaにはアラブ時代のハニアは「al-Hanim」と呼ばれていたとあり、en:Chaniaの説明も同様です(こちらは出典がないです)。日本語の資料的にはハンダクス(ハンダク)がイラクリオンの古名(前身)であることは疑いないと考えています。「クレタ島の西北岸」だと確かにハニアが該当する都市ではあるのですが、紹介していただいた地図だと、ハンダクスとその後背地の平野があるはずの島中央部北岸に山地が描かれており、あまり地理的な正確性は無いようにも見えます(実際には島西部のスファキア地方の方が山岳地帯です)。南岸にあるrabd al gobnはよくわからないですね。南岸にあり、わざわざ地図に記すほどの重要性がある都市で、ハンダクスから真南であるという立地から考えると(ハンダクスがイラクリオンとすれば)古典古代以来の有力都市でアブー・ハフスの征服までクレタ属州の首都が置かれていたゴルテュン(en:Gortyn)が一番可能性が高そうだとは思いますが、軽く検索した程度では情報が見つかりませんでした。--TEN(会話) 2019年5月13日 (月) 16:24 (UTC)
- Türkiye Diyanet Vakfı İslam Ansiklopedisi24巻303頁 Kandiyeの項目から抜粋・翻訳・引用いたしますと (トルコ訛ですみません)、「クレタの北岸にある島最大の都市。ミノス文明の中心クノッソスの直近に在る。同市は、クレタがアラブ人により征服された後、古い居住地区の直近に城塞として建設された。アラブ人はここにラブズルヘンデク (Rabazulhendek) ないしはヘンデク (Hendek)という名は、後にギリシア語とイタリア語で、カンダカ (Kandaka)、カンディカ (Kandika) という形になった。ヴェネツィアの史料には、この名が13世紀にはカンディカ (Candica)、カンティガ (Cantiga)、15世紀にはカンディダ (Candida)、ヨーロッパの史料には、カンディア/カンディエ (Candia/Candie) として登場する。」とあります。--Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 11:47 (UTC)
- 横からすみません。TENさんが随分面白い記事を書いたものだなぁと眺めていたら、ノートがあるのに気付きまして、ねをなふみそねさんの調査も面白いので、ちょろっと調査してみました。イラクリオンの古名ではなくて、ハニアの古名のことですよね? ربض الخندق, rabḍ al-kḫandaq は、あります:مدينة ربض الخندق。イドリースィーのFile:TabulaRogeriana.jpg もうちょっと拡大したもので見ると、南北逆ですがエジプトの北にクレタ島があって西北岸に Rabd al Handak というのがあります。krit クリート、ras tini ラース・ティニ、gezira akritas ジェズィーラ・アクリタスなどが書かれている島です。ドイツ語の解説がありますが古いです。rabd al handak ربض الخندقの南にあるrabd al gobn ربض الجبنは、フランス語の解説ではRabd al-Gibn という形もあって、ドイツ語のものもフランス語のものも「チーズの郊外」とか「チーズの城外」とかいう意味のようです。簡単な調査しかしていませんので、現在のどの町に相当するのか特定できませんでしたが、Between 1139 and 1154 the Arab geographer al-Idrisi praised Cretan cheese, exported to many countriesとあり、クレタのチーズがお気に入りだったんでしょうか。-- Takabeg(会話) 2019年5月13日 (月) 11:42 (UTC)
- コメント 感動されたとのこと。光栄です。たまたま辞書を引いたら「城」の意味がないので、怪しいぞと思いました。
「クレタ首長国」について
[編集]アラビア語の imārat, 英語の emirate の訳語としての「首長国」には、使い方を注意しなければいけないという説があったと思います(ただしどの本に書いてあった情報が忘れてしまいました)。理由は、「アミールが君主の国」の意味としては不適切な場合があるから、というものです。
- コトバンクの「首長」のページ がいろいろと集めているように、本来 (tribal) chief の意味である「酋長」の言い換えで「首長」と呼んでいる場合があります。
- 17-19世紀の漢字文化圏の知識人は、世界の国々の国名を翻訳するに際し、主権者を重視しました。王が主権者なら王国、帝が主権者なら帝国といった具合にです(民衆が主権者の国、アメリカが「合衆国」になったというのは、なぜ「合州」でないのか、という疑問とセットで有名な話かもしれません)。ここで、アラビア半島沿岸いくつかの国々は部族長が主権者だったので、漢字文化圏の知識人はこれらの国々を「酋長国」や「土候国」と呼びます。ところが、アラビア半島の clan leader は自分たちを「アミール」と称していました(カリフの別名アミールル・ムウミニーン(信徒たちの長)を想起させてかっこいいからだったと思います)。英語の "emirate" は建て前をそのまま受け入れていますが、"酋長国"(>首長国)は実質的に部族制社会であったアラビア半島沿岸諸国の社会構造に着目しています。そのため、過去に存在したより広い地域の数々のイマーラまで「首長国」と呼んでいいものかどうか。
- 残念ながら、私はこの話を何の本で読んだか失念してしまい、裏が取れません。しかし、私の独自研究ではなく、イスラーム国家論の分野で比較的有名だと思います。
- sultanate の訳語として「スルターン国」が定着しつつあるようです。emirate も「アミール国」と訳す手があります。中央アジア史では過去にブハラに成立した国を「ブハラ・アミール国」と呼ぶことが定着しています。一方で、コルドバの emirate は「後ウマイヤ朝」と呼ぶことが普通です。
個人的には改名提案をしたいのですが、代替案を出すのが容易でなく、とりあえずのコメントです。--ねをなふみそね(会話) 2019年4月21日 (日) 06:02 (UTC)
- いろいろと勉強になります。いくつか参考になりそうな書籍をあたっては見たのですが、これと言えるようなものが思いつかず結論を先に書くと私の方もコメントだけになります。ただ、「クレタ首長国」は記事名を付ける時に適当な名称が見つからず完全に暫定でつけたもの(正直に言って「首長国」の出典は英和辞典です)なので、より適切な名前への改名には賛成です。
- クレタ島のムスリム政権については、日本語の出典による限りは「名前が存在しない」としか言いようがないと思います。時代的にも類型的にも非常に似通った存在として参考になると思うのがアサド・ブン・アル=フラートの遠征を切っ掛けに誕生してアグラブ朝の臣下としての立ち位置のまま半独立勢力とも言える振る舞いをしたシチリア島のムスリム政権(en:Emirate of Sicily)なのですが、困ったことに高山博『中世地中海世界とシチリア王国』やジャン・ユレ『シチリア島』はこの政権を一応アグラブ朝の一部扱いにして「クレタ島のムスリム政権」同様に特定の名前を与えていません(日本語版Wikipediaだとシチリア首長国へのリンクが結構な数ありますが、恐らくどれも英語名の直訳から来ていて訳語選択としては本記事と同じ問題がありそうです)。単純に言って日本語の関連分野の書籍・論文では地中海島嶼部のムスリム政権には独立した名称を与えない傾向にある、とは言えそうです。Makrypoulias, Christos G. (2000)を始め、英語圏だとEmirate of Creteはそこそこ使用実績がありそうなのですが・・・。
- 「アミール国」について、ブハラ・アミール国の例は、チンギス党原理との角逐の中で登場してきたアミール位ということで、ハン位と明確に区別することに意味がありそうですが、一方で当時の地中海世界にいくつも成立したアミール統治下の政権(カリフ/ハリーファorスルターン政権でも同様ですが)は後ウマイヤ朝に限らず大体「〇〇朝」と書かれるのが通例であると思います(アグラブ朝、トゥールーン朝、イフシード朝、etc)。この点を考えると、「アミール国」と訳すのは「首長国」と同程度に問題があるように感じてしまいます。正直現状では地中海の政権にこれを当てるのはかなり独自研究要素が強い選択と言えると思います。
- ただ、橋爪烈『ブワイフ朝の政権構造』や佐藤次高『中世イスラム国家とアラブ社会』のアミールやイマーラについての説明を見ると、そもそも「イマーラを保有している」=「独立勢力の君主」とは全く言えないようですし、また湾岸諸国の社会に根ざした用語ということで、単純にemirateを「首長国」と訳すのが適切であるかどうか、という指摘には全面的に同意です。
- 上記の本を読んでる時に個人的には「幕府」という単語が浮かんでしまったのですが^^;それはさておき、日本語の出典に厳密に従うならば「クレタ島のムスリム政権」「クレタ島のアラブ人勢力」「クレタ島のアンダルス人」のような不格好な名称を用いるしかないように思われ、決定打となる記事名が思いつきません。--TEN(会話) 2019年4月23日 (火) 15:13 (UTC)
- 当初「アミール国」がいいかと考えたのですが、やはりご指摘の通り独自研究になる危険性がありますね。「軍事政権」か、あるいはざっくり「王国」でいいのではとも思います。『イスラーム研究ハンドブック』(栄光教育文化研究所、1995年)を調べたところ、巻末のイスラーム歴史地図、900年ころの地図ではシチリアは特に独立した名前が与えられておらずアグラブ朝の範囲内という記載になっています。クレタとキプロスも同様に名前が与えられてはおらずイスラーム圏内でトゥールーン朝とアッバース朝のどちらの範囲内とも読み取れる曖昧な記載になっています。同書pp70-77, 前近代のマグリブ(執筆担当は私市正年)は「イスラーム・シチリア史」「イスラーム期のシチリア」と書いています。「シチリア首長国」なる記載はありません。ちなみに肝心のクレタについては同書内に記載がありません。
- 「コルドバ首長国」が立っていることに最近気づいたのですが、ウィキペディア以外で見たことがないので、問題があるならそのことを指摘せねばと思案中です。酋長から首長に言い換えた時点でクラン・リーダーうんぬんの特別な意味合いは抜けており、「首長国」になんの問題もない、という議論もありうるのかなと思いもします。ところが、『イスラーム研究ハンドブック』の近現代のマシュリク(執筆担当は福田安志)pp114-115, には「首長制諸国」のタイトルでクウェート、カタル、バハレーン、UAEなど湾岸の首長制諸国の歴史研究の現況が述べられています。ここでいう首長は明らかにクラン・リーダーが近代国家の元首も兼ねる(でいいのかな?)ものとして書かれており、地理的時代的に限局した使い方になっています。他の時代、他の地域の「アミールが支配者の国」を「首長国」と呼んだばあい、上記近代的な「首長制国家」であることを含意してしまうかもしれません。
- 出典に名前が挙がっている太田敬子 氏が、まさにこの地域この時代の専門家のようですので、この人の著作を確認してみようかと思います。—ねをなふみそね(会話) 2019年5月7日 (火) 04:44 (UTC)
- 返信 追加でちょっといくつか書籍を調べてみましたが、やはり好適解は見つかっていません。山辺規子『ノルマン騎士の地中海興亡史』ではシチリア島のムスリム政権はやはり名無し(948年以降はカルブ朝)です。一般的な表現としてシチリアの政権を指す場合には「シチリアのアミール」「アミール」と表現しています。また、ジュゼッペ・クアトリーリオ『シチリアの千年』でもシチリア政権は名無しで、政治権力を表現するためには単に「アラブ人」、時代や文化を表現する際には「アラブ的シチリア」という言い方になっています。
- 松尾昌樹『湾岸産油国』では日本語ではしばしばシャイフの訳語として「首長」が当てられていること、また湾岸諸国のUnaited Arab Emiratesを含む「首長国」「スルターン国」について全て「君主国」として扱うなどの、ねをなふみそねさんの指摘と同種の前置きがありました。ただ、「本書では~として扱う」という形ですけれども。
- 今までに確認した本から整理すると「上位権力の臣下としてのアミール」と「独立勢力としてのアミール」の間に明確な境界線は無い。細かい言葉の定義や王権の性質に関わる問題を主題としない場合、こうした権力は和書では単に「アミール」とカナ書きされる傾向がある。という印象です。ほとんど唯一クレタ島政権にまとまった情報を提供している日本語出典の著者ですし、太田敬子氏がどのように言及しているかはかなり気になりますね。
- 前の書き込みと反して申し訳ないのですが、記事名として「クレタ首長国」と「クレタ・アミール国」の二つだけで比較するならば、「クレタ・アミール国」の方が問題が少ないのかも知れません。理由は先に指摘していただいた通りです。ちょっと強引な理屈ですが、そのままカタカナ書きすることで意味合いの齟齬を避けるという方式も、一般的なムスリム権力についての日本の研究者の方式と合致しているようにも思えます。独自研究問題はどうしても残ってしまうのですが、前者が1. Wikipediaにしか無い名称(独自研究的)。2. 近代的な「首長制国家」であることを含意してしまう可能性がある。という2つの問題を抱えているのに対し、後者は2の問題が無いという減点式で考えると、「クレタ・アミール国」の方が「より問題が少ない」でしょうか。
- 「王国」案はグラナダ王国の例もありますし、細かいことを気にせず君主制権力を指し示す日本語でもあるので、最終最後良案がなければこれが無難なのかもしれません。これまた積極的に賛成とは言えないのですが・・。
- 言葉のすわりの悪さには目をつむって「クレタ島のアミール」、或いは太田氏の出典タイトルを使わせてもらって「クレタ島のアンダルス人」もありかなぁという気がしています。日本語の名前が無いというのが記事名で伝わるような気がするという理由だけですけれども。あるいは現状と同じく出典が存在しない名前であることを強調した上で「クレタ・アミール国」か「クレタ王国」で行くというのも良いのかもしれません。
- コルドバ首長国については記事名もさることながら、中身を見ると後ウマイヤ朝の記事と同じ物を別の名前で立項している感が強いのが非常に気になります。別建てで立項するならば称号や王権についての説明は結構きちんと整理して分担させないといけないように思います。現状の内容であれば後ウマイヤ朝一本に絞って統合してしまう方がすっきりするような気も・・。後ウマイヤ朝の記事も現時点ではかなり貧弱ですが(^^;--TEN(会話) 2019年5月7日 (火) 13:42 (UTC)
- 返信 私自身、考えがまとまらず、「首長国」があながち不可とも言えないのではないか、ブハラ・アミール国のように「アミール国」はどうか、(ご指摘のグレナダ王国の例もあるように)「王国」はどうか、「太守領」はどうか、全部カタカナにして「イマーラ・イクリーティシ」は、などと考えていたのですが、今日、「実在しない神学者が書いた実在しない書物に依拠した論文を書いた」大学教授がいたというちょっと笑っちゃうようなニュースを目にして、思わず身震いしました。やはり現時点で造語になってしまうのはまずいですよ。そこで再度の提案ですが、上記『イスラーム研究ハンドブック』(栄光教育文化研究所、1995年)で私市氏が書いている「イスラーム期のシチリア」に倣って、「イスラーム期のクレタ」はいかがでしょうか。造語でなく、議論の存在しうる政権構造について特に何かを価値判断を含む名称でない。TENさんさえよければ、特に通常の改名提案の手続を踏まず(踏んでもいいですが)改名を実行しようと思います。以下、ここ2週間くらいでざっと目を通した本について、書きます。
- 『イスラームを学ぶ人のために』(世界思想社、1993年)。全時代、全地球規模がスコープに入っていますが、近代湾岸諸国以外に「首長国」の呼び名の適用はありません。近代湾岸諸国については「アミール制国家」と書いています。
- 桜井万里子編『ギリシア史 (新版 世界各国史) 』(山川、2005年)。「アラブ」と書いています。
- 根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』(山川リブレット、2008年)p28「クレタ島がアラブ人に占領され、」の記載。
- 太田敬子『十字軍と地中海世界』(山川リブレット、2011年)p6「九世紀前半にアンダルスのムスリム集団がクレタ島を占領した」。
- 太田敬子『ジハードの町タルスース』(刀水書房、2009年)、言及なし。ちなみに「9世紀頃のアッバース朝の版図を示す地図」においてクレタはアッバース朝の版図に入っていません。
- 太田敬子「ビザンツ帝国とイスラーム」『岩波講座世界歴史10』(岩波、1999年)、言及なし。「スグール」の状況が詳しく書かれています。
- 中村廣治郎「イスラームの政治思想」『岩波講座東洋思想第三巻イスラーム思想』(岩波、1989年)。マーワルディーの政治思想に関する記述においてイマームの委任により「イマーラ(アミール職)」には特殊アミール職と一般アミール職があること、イマームの委任によらず地方で実力により成り上がった者「征服のアミール」はイマームへの服従を誓うなどすることで一般アミール職の称号をイマームから付与してもらうことなどが記載されています。征服のアミールは鋳造硬貨にイマームの名前を刻み、金曜礼拝時のフトバでイマームの名前を表明することで、イマームへの恭順を示し、その引き換えに自己の政治支配の正当性の根拠を得たそうです。中村廣治郎氏は「イマーラ」をアミール職と訳していることから、「imārat = emirate」でもないようです。
- 私が知っている範囲で、近代の湾岸諸国以外の国家や地域に「首長国」を適用している紙の本を念のため挙げます。『アフリカ文明史―西アフリカの歴史=1000年~1800年 』(バジル・デビッドソン (著), 貫名 美隆 (翻訳), 宮本 正興 (翻訳) 、理論社、1975年)。ハウサ諸王国に関する記述において「ダウラ首長国」「ケッビ首長国」などの記載があります。
- 「イスラーム期のクレタ」は英訳すると Crete in the Islamic era か Islamic period in Crete でしょうか。 Emirates of Crete とは少し意味がずれてしまいますが、これはウィキペディア・プロジェクトが多言語型プロジェクトであるゆえ、ある程度は許容されるべき、仕方のないものであり、許容できなければ wikidata id を新たに割り振って別項目にすればいいだけの話かなと考えております。ダラダラ長引いて申し訳ありません。ご意見いただけると幸いです。--ねをなふみそね(会話) 2019年5月11日 (土) 08:21 (UTC)
- 返信 「クレタ島のアミール」や「クレタ島のアンダルス人」と方向性としては同一であると思うので、「イスラーム期のクレタ」で異論はないです。改名手続きも現状議論しているのが2名だけですし、他に大きく加筆に関わっている人間もいないので不要だと思います。個人的には合理的な理由がある場合(今回の場合は対応する日本語名が存在しない)、Wikipedia内での造語でもそのことがきちんと説明されていれば(+その名前になった理由がきちんと存在すれば)それでかまわないとも思っていますが、日本語の資料だと「国」として扱うかどうかがまず怪しそうなので、「アミール国」よりさらに誤解が少ないと考えます。ただ、英和辞典的に導き出される名称であることから「クレタ首長国」はリダイレクトとして残した方が良さそうかなと思います。外国語記事との対応はとりあえずは「Emirates of Crete」と対応させる形式で問題が無いと考えます。
- 一応追加で確認した関連書籍での言及についてまとめます(クレタの情報はほとんど見つからなかったのでシチリアとコルドバの情報が中心です)
- フィリップ・K・ヒッティ、岩永博訳『アラブの歴史(下)』(講談社、1983年):シチリア島のムスリム政権について、「シシリー島のアミール国」という表現で言及されています。地中海島嶼部のムスリム政権について「アミール国」の用例が皆無ではない、ということは確認できました(ただ、訳書ということでEmiratesに当てられた訳語である予感がします。本文の記載を見ても用語として確立しているかというと、やはりそうではないとも思います)。またコルドバ首長国に該当する政権についての章に「スペインのウマイヤ家アミール領」という章名が割り振られています。
- 高山博『中世シチリア王国』(講談社、1999年):p. 43の地図で9世紀のシチリアは「イスラム教徒領」として塗りつぶされています。
- 『西洋中世史研究入門』(名古屋大学出版会、2009年増補改訂版):該当部分の執筆担当はこれも高山博ですが、「イスラム支配下のシチリア」という表現で言及しています。
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年):クレタ、シチリアともに言及されていますが、勢力としては「イスラム教徒」「クレタ島のアラブ人支配者」という漠然とした用語しか使用されていません。あと、別件ですが Χάνδακας について、p. 475でハンダクス(またはハンダク)というカナ転写がされているのを確認しました。
- 太田敬子「第1章 イスラムの拡大と地中海世界」『地中海世界史2 多元的世界の展開』(青木書店 2003年):シチリアは「アグラブ朝支配下」とだけ簡単に言及があります。
- 安達かおり『イスラム・スペインとモサラベ』(彩流社、1997年):コルドバ首長国の統治者について少し具体的な記載があります。簡潔に要約すると属州期のアンダルスとアブド・アッラフマーン以降の政権(コルドバ首長国/後ウマイヤ朝)は、同時代の頃には10世紀頃までは「曖昧」にしか区別されておらず、後世、14世紀頃までに明確に区別する歴史観が成立したそうです。君主の称号も属州期はワーリー(アブド・アッラフマーンについてはイマームを冠する)、アブド・アッラフマーン1世以降をアミールと明確に分けるものは後世に登場するものの、アブド・アッラフマーン1世以降も「ワーリー」という称号で言及されるものもあり、同時代人の間ではアンダルスの政権は「地方統治者」であるという認識も残留していたそうです(「コルドバ首長国」は視点によって属州アンダルスの延長とも後ウマイヤ朝の前身とも、あるいはそれら自体であるとも捉えることが可能、と言えそうです)。同書によればアンダルスに関する史料に登場する統治者の概念の変遷はかなり詳しい研究が行われているそうで、コルドバ首長国の記事名については「首長国」が適当でない点だけは間違いなさそうではありますが、クレタやシチリアとは異なるアプローチが必要なように思います。
- 長引いていますが、非常に勉強になり、個人的にはとても楽しませていただいています。記事自体もこれを通じてかなり改善していただいていると認識しています。--TEN(会話) 2019年5月12日 (日) 04:17 (UTC)
- 報告 結局、理由がはっきりしないのですが、少なくとも歴史の専門家が一般人向けに書いた本では、クレタのみならず他の "emirate" も含めて「首長国」が徹底的に避けられています(アラビア(ペルシア)湾岸諸国の "emirate" を除く)ので、本項の記事名を「イスラーム期のクレタ」に移動しました。ただし、「首長国」の訳語が "emirate" の訳語として一般的な英和辞典にも載っており、言葉狩りを意図するものでもないのでリダイレクトは残すこととしました。--ねをなふみそね(会話) 2019年5月20日 (月) 02:26 (UTC)