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ノート:やまと新聞

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NDL新聞情報詳細

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NDL新聞情報詳細検索で分かったことをメモしておきます。

  • 警察新報(創刊:1884) [1] 警察新報社  1884-1900 日刊 明17.10.4「警察新報」創刊→明19.10.7「やまと新聞」→明33.11.1「日出国新聞」(4236号)→明37.12.10「やまと新聞」(5704号)[2]
    • やまと新聞(創刊:1886) [3] やまと新聞社 明17.10.4「警察新報」創刊→明19.10.7「やまと新聞」(1号)→明33.11.1「日出国新聞」(4236号)→明37.12.10「やまと新聞」(5704号)[4]
  • 帝都日日新聞(創刊:1932)[5] 帝都日日新聞社 1932-1969 日刊 昭7.8「帝都日日新聞」創刊→昭19.4休刊→昭30.7復刊→昭44.7.1「やまと新聞」[6]
    • やまと新聞(創刊:1969) [7] 「帝都日日新聞」→昭44.7.1「やまと新聞」[8]

--miya 2010年7月3日 (土) 08:50 (UTC)[返信]

やまと新聞編集部です。 こちらの情報を訂正願いたいのですがどのようにしたら良いのでしょうか? 先日までのやまと新聞記事にも訂正依頼を出し、正しい情報を提供する旨示したのですが削除となっており、現在再び誤った情報が掲載されているために問い合わせに苦慮しています。また、やまと新聞からアクセスが無いとの記載もありましたが、再々に渡り訂正依頼をしておりますが、この方法ではないのでしょうか。良く分かりませんのでご教授願います。info@yamatopress.comまでお願いします。現実に弊社は明治19年から存在し活動してきていますので、廃刊、東京スポーツなどは全く関係ありません。GHQの政策によりやまと新聞は焚書扱いとなり、世の中からその存在を消されました。そのため誤った情報が氾濫していますが、現実は違います。焚書のため一般への新聞発行できず(発行しても没収となりました)読者や関係者には廃刊と思われていましたが(西尾幹二氏著GHQ焚書解体に記載があります)細々と活動は続けておりました。ウィキペディア編集部の皆様、正しい情報の提供を宜しくお願い致します。--以上の署名のないコメントは、Yamatopress会話投稿記録)さんが 2010年7月9日 (金) (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。

戦時中の新聞事情をどこまでご存じでしょうか。戦局悪化と共に大小新聞社は統廃合を進められて行きました。大新聞を別とすれば1県につき1紙に絞られ、夕刊紙もなくなります。この流れのなかで、帝都日日新聞も廃刊となったのでしょう。国立国会図書館のデータベースでも昭19.4に休刊したことが確認できます。
史料が見つかれば、帝都日日新聞の記事を立てて、そちらでやまと新聞に言及することはできます。またやまと新聞 (1969-)として立項も可能でしょう。ですが、「GHQの政策によりやまと新聞は焚書扱い」などとウィキペディアに書くためには、GHQ史料など信頼できる情報源(自主サイト以外)をお探しください。GHQが日本占領中に発禁扱いにした出版物ならプランゲ文庫で公開されている可能性があります。--miya 2010年7月12日 (月) 07:04 (UTC)[返信]

書いた記事が「ノート参照」とだけ書かれて消されたものの、ノートに理由が書いていないのでよくわかりません。削除依頼も見ましたが、依頼は著作権侵害かどうかが問題点だったはずですから、私の記事には関係ないはずだし。あと、私が書いた内容には「GHQの政策によりやまと新聞は焚書扱い」とか、いつ創立とかの記述はありませんので本ノートで書かれていたような記事内容に関する問題点もないはずです。ソースとしては公式以外に書籍も発刊している著名人のブログも用意しておきました。wikipedia的にはソースとして使えたと記憶してたのですが、最近書いてなかったのでルール変わったかルールを記憶違いしてたでしょうかね?今ではgoogleで「やまと新聞」と検索するとwikipedia以外は全て私が加えた方のやまと新聞の記事等が10位までに出てきますし、書籍も発刊している著名人のブログでも紹介される知名度であることを考えると、そのような存在の新聞社があると言及することは自体には問題ないと考えています。内容が増えれば別途やまと新聞 (1969-)などとして立項も可能でしょう。(私自身は創立年に関して特に調査していないので、1969年が正確な創立年かどうかは知りません。)--180.144.131.14 2010年8月9日 (月) 16:21 (UTC)[返信]

「著名人のブログ」での言及は出典、執筆根拠としては原則として認められません。おまけに、その2ちゃんねる出身の作家・経済評論家氏は、GHQに焚書扱いされたと主張している「やまと新聞」が公式サイトに書いていることをブログでそのまま紹介しているにすぎないように見えます(その正確性について検証した様子はありません)。今、公式サイトは「やまと新聞って?明治19年創刊?」というページで「帝都日日新聞」が「焚書により活動を停止」「活動範囲を国会内のみ」と書いておられますが、新聞研究者による論文や書籍などによりきちんと事実関係が検証されるまで、とりあえず、ウィキペディアの「やまと新聞」に書くのはご遠慮いただきたいと思います。--miya 2010年8月10日 (火) 06:08 (UTC)[返信]
「著名人のブログ」での言及OKはご本人のことだけでしたっけ。それはともかく少なくとも私の記述では、創刊年も書いていませんし、焚書により活動を停止・縮小したかどうかも書いていません。活動範囲を国会内のみと言うのもGHQが云々したからとかのことを書く気もなく、前は国会内で活動していたけれど最近国会外に向けた活動を開始したと言う「事実の提示」と考えられる範囲でのみ記載してます。単に「そう言う団体もあるけれど、ここの記事のやまと新聞とは別ですよ」と書いたに過ぎないのですが。検証しなければならないほどのことを書いているわけでもなく、それすら遠慮するように言われる意味は正直わかりませんね。私が加えた方のやまと新聞社は、少なくとも現在活動中ではあるはずで、この記事で紹介されている現在は活動していない新聞社と区別して「そう言う団体がある」と書いておく事自体には問題ないと考えています。そうでないと現在活動中の「やまと新聞」のことを調べようとwikipediaを訪れた人が「廃刊している」と驚くことになり、良くないのではないでしょうかね。--180.144.131.14 2010年8月10日 (火) 13:18 (UTC)[返信]
2009年(平成21年)まで国会内で活動していた」というのは、検証可能ですか?どこを見たら検証できるのでしょうか?もし本当に刊行されていたのだったら、日刊ですか? 実物をスキャンして掲載してあるページがあれば、参考にできるとは思うのですが、公式サイトにも見当たりませんでした。国会議員経験者が検証可能な書籍で「やまと新聞は2009年以前から国会内で活動していた」とお書きになっている出典はありませんか? そういうものがなければ、ウィキペディアに掲載することは難しいと思います。それと、公式サイトでは「やまと新聞の足跡」が「連載6回」とあるのに、実際には1から4までしか掲載されていません。5と6には何が書いてあったのでしょうか。気になります。--miya 2010年8月11日 (水) 14:42 (UTC)[返信]

天下無敵のメディア人間 喧嘩ジャーナリスト・野依秀市」(小学館) 佐藤卓己著より 『帝都日日新聞』について分かったことを記載いたします。

1932年(昭和7年)8月10日 野依秀市が創刊した。
1940年(昭和15年)11月『東京毎日新聞』の発行・営業権を買収。
東京毎日新聞』は、わが国最古の日刊紙(明治3年創刊)『横浜毎日新聞』の流れ
1944年(昭和19年)4月3日 東条内閣批判により廃刊。--歴史家会話2013年1月19日 (土) 15:02 (UTC)[返信]

『日本新聞年鑑』

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日本新聞年鑑』 かつて新聞研究所が刊行、現在復刻され主要な図書館に置かれています。新聞研究に非常に役立つのではないでしょうか? また国会図書館近代デジタルライブラリーで一部公開されています。 『日本新聞年鑑』昭和16年版 [9] 

20コマ目 新聞統合の現状が記載されています。
49コマ目 『やまと新聞』の現勢が記載されています。
52コマ目 『帝都日日新聞』の現勢が記載されています。
180コマ目 議会・翼賛会関係(新聞関係諸機関一覧内)の一覧があります。 議会には議院記者会帝国議会記者倶楽部があることが分かります。 帝国議会開設とともに帝国議会記者倶楽部が組織され、昭和12年に議院記者会が分離独立していることが分かります。 やまと新聞津久井龍雄議院記者会に所属しています。

--歴史家会話2013年1月19日 (土) 22:19 (UTC)[返信]

新夕刊に関しての疑問

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1946年1月11日に児玉らの手によって、『やまと新聞』を発展させた新聞として『新夕刊』が創刊される。戦後創刊した新興夕刊紙の代表格とされ、一時期「サザエさん」も掲載されていた。

まもなく児玉が戦犯として収監されると経営権は児玉の腹心である高源重吉に移譲されるが」の記載に関して  児玉のA級戦犯指定による逮捕は 1945年12月2日です。

『占領期新聞資料集成 第2巻 』(ゆまに書房 2001.3 )237頁によると1945年10月に高源重吉がやまと新聞創立、1946年1月21日に『新夕刊』と改称(その後の版では、1月11日になっているようです)。

  • 推定ですが 10月に『やまと新聞』の復活を児玉らが図ったが 児玉の逮捕により頓挫、1946年1月に『新夕刊』として再スタートしたのではないでしょうか。あまり『やまと新聞』を出したくなかった・・ 公職追放G項指定作業の関係かもしれません。
  • 1947年9月 副社長 永井龍男 公職追放により退社 
  • 1947年11月 社長 高源重吉 公職追放 島田幸四郎が継承 

--歴史家会話) 2013年2月6日 (水) 13:04 (UTC)--歴史家会話2013年2月6日 (水) 13:04 (UTC)[返信]

やまと新聞の休刊時期

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「新聞統制と空襲被害のため1944年4月をもって休刊した。」

となっていますが 20416(昭和20年5月24日)が存在します。  国立国会図書館蔵書(NDL-OPAC) 5月24日未明から25,26にかけて大空襲でおそらく壊滅したのやもしれません。 『やまと新聞』の足跡 6 :やまと新聞 (昭和44年7月7日)とも合致します。

  •  国立国会図書館蔵書(NDL-OPAC) 請求記号:YB-414 によると

「原紙の出版者変遷: 新夕刊新聞社 (2号-1480号, 2337号4420号, 24375号-24481号) , 日本夕刊新聞社 (1481号-2336号) , 国民タイムズ社 (24482号-24728号) 」

やまと新聞と昭和33年(1958年)4月16日合併しています。 (24375号)

  • 24375-4421 = 19945号 これは昭和19年4月21日

休刊した日は 合併した号数より算出しているようで 実際とは異なるようです。 いろいろ関係者で問題があったように思えますが この合併により 文字通り 明治19年創刊のやまと新聞の後継になったのです。--歴史家会話2013年2月9日 (土) 00:51 (UTC)[返信]

明教新誌

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明治34年(1901年)3月1日 仏教新聞の『明教新誌』(隔日)を吸収合併しています。 仏教大とかに資料があるようです。

明治33年(1900年)11月1日に『やまと新聞』は、『日出国新聞』へ改題しています。 「日出ずる処の天子」 からきているのでしょうから 聖徳太子:仏教を意識している事になるかと思います。なにか関連があるような気がいたします。--歴史家会話2013年2月11日 (月) 19:45 (UTC)[返信]

謎のやまと新聞

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昭和20年代 ひっそりと 不定期でやまと新聞が発行されていた

題字と号数の保全のために 児玉誉士夫の指示で動いていたものだと考えられる しかし、日刊紙再発行の夢は果たせず 号数は、国民タイムズへ渡した。--歴史家会話2013年4月2日 (火) 14:39 (UTC)[返信]

わけの分からない修正されてますが様子を見ます。

》新聞の場合、題字と号数が社の歴史そのものであることから現在の『やまと新聞』が明治19年創刊のやまと新聞の正当な後継新聞である事は疑う余地がない。

これは面白い この『やまと新聞』は、1950年6月8日 No. 20455 なのです 今のやまと新聞は 2009年10月15日に 11812号 あきらかに号数が違う別物であるということ(帝都日日新聞)を継承しているから当然です。--歴史家会話2013年4月2日 (火) 14:46 (UTC) [返信]