ノート:お由羅の方
表示
郁姫と由羅の関係
[編集]島津斉宣の娘で後に近衛忠熙正室となった郁姫は島津斉興の側室・由羅の養女になったという内容が書かれていますが、身分秩序が厳しい江戸時代に五摂家の正室となった女性がわざわざ側室養女となったとは考えづらい話です。根拠となる史料があるのでしょうか。御教示をノートでお願いします。本文の修正はノートでの検証後にお願いします。 --こぶまき 2008年2月14日 (木) 09:22 (UTC)
- 「島津家正統系図」(尚古集成館編集)によると、郁姫は島津周子生存中の文化12年7月8日に斉興の養女になっており、養母については書かれていない。また、勝姫については天保14年に斉興の養女になっているが、あくまで、天保2年に松平康壽が死去して島津家に戻った後の話である。またこちらも養母は書かれていない。斉興の実の長女で文化10年10月12日に生まれた順姫は後に本多康融の妻になっているが、こちらは実母は関根氏で養母は周子である。
なお、この順姫は斉興が周子以外の女性との間に生まれた最初の子である。-こたつねこ-122.215.65.92 2008年7月27日 (日) 23:55 (UTC)
- 情報ありがとうございました。問題の記述については史料の裏付けがない偽情報ということが判明しましたので、消去いたしました。--こぶまき 2008年8月5日 (火) 09:12 (UTC)
- 編集除去によってすでに未検証タグの対象が記事中から無くなっていたため、未検証タグを除去しました。--Himetv 2010年12月14日 (火) 16:03 (UTC)
改名提案
[編集]一般的に流布している「お由羅の方」への改名を提案させていただきました。現在お由羅の方の呼び方として呼び捨てである「由羅」はほとんど使われてないようです(参照「由羅」google検索結果。wikipediaの当項目の次にくるのが焼肉屋、以下ブログのハンドルネームなど。)。尚、wikipediaの他の大名側室の項目を見ると院号を使っている例が多いようですが、お由羅の方は法名はあっても院号はないようですので、馴染みのある名前への変更を提案した次第です。詳しくはノート:千万 (島津氏)もあわせてご参照下さい。--こぶまき 2008年8月5日 (火) 09:12 (UTC)
- 特に反対意見もありませんでしたので、改名させていただきました。--こぶまき 2008年8月31日 (日) 12:39 (UTC)
「御国御前」の待遇について
[編集]脚注にて「なお「参勤交代の度に江戸と薩摩に連れて行く」のは薩摩藩では御国御前になった側室への待遇として当然の処置であった」とこの版にて補足されていますが、参考にされた資料名の提示をお願い申し上げます。--こぶまき 2008年10月22日 (水) 14:07 (UTC)
- 直近で回答できる例としては『日吉町郷土史』に掲載される『歳久公正統系図』に継豊の側室御嘉久が参勤交代で一緒に着いてきていた話があった記憶がありますし、島津綱貴の継室江田氏も参勤交代で付いてきていた話を聞いたことがある故です。但し、こちらの記憶違いの可能性がありますので、改めて調査して改めて追加記載しようと思います。御嘉久については『歳久公正統系図』の中で、日置島津氏当主と垂水島津家の縁談の仲介をしたという話があり、それなりに影響力があったようです。(確認してませんが、それも竹姫の生存中の話だった気がします。)--以上の署名のないコメントは、60.38.255.133(会話)さんが 2008年10月23日 (木) 13:06 に投稿したものです(こぶまきによる付記)。
- より確実な例として『伊地知季安著作史料集3』の『庶流二階堂氏系図』に島津吉貴の生母於重の方が国夫人となって二回参勤交代に同行したと書いてありましたので、記載します。-ショッカー-60.38.255.133 2008年10月28日 (火) 04:50 (UTC)
- 御回答ありがとうございました。確かに薩摩藩の側室で藩主の参勤交代に同行した例はあるようですね。ただし、今回挙げられた例が「「参勤交代の度に江戸と薩摩に連れて行く」のは薩摩藩では御国御前になった側室への待遇として当然の処置」とまで断定できる証拠であるかといえば、はっきり言って疑問です。島津斉興の2代前の藩主である島津重豪の「御国御前」は春光院 (島津重豪側室)ですが、彼女は参勤交代の度に江戸と薩摩を往復したことはなく、ずっと薩摩に置かれたままだったと考えられます(参考『薩藩旧記雑録』追録7-909、910「斉宣生母 堤氏居鹿児島島田之浦亭、有年于茲」など)。斉興の父・斉宣の御国御前は斉興の生母である鈴木氏(お八百の方)ですが、彼女も終生薩摩在国だったことが指摘されています(『尚古集成館紀要』6「御内証様関係資料について」)。よって、断定的な現在の文章は訂正しておきます。--こぶまき 2008年10月29日 (水) 10:07 (UTC)
- どうやらそのようですね。表現方法については改定の必要なことは認めます。ただし、先方の事例についてはいささか薩摩藩としてはイレギュラーな人物を例にしているのはいかなものかと思います。春光院についてはこの代に茂姫の生母市田氏がお国夫人と似たような待遇にありましたが、そちらの扱いがどうだったかという点がひとつと、鈴木氏についてはその身分について問題がありました。もっとも数代続けてイレギュラー続きだったので、実際はおゆらの方の取り扱いが正当だったのに、不正にみられた可能性があります。-ショっカー-60.38.255.133 2008年10月31日 (金) 09:50 (UTC)
- 時間の都合で、中途半端な記事になりましたが、当初は重豪の『御内証様』は市田氏で、春光院ではありませんでした。なぜ茂姫の母市田氏が、斉宣の生母春光院を差し置いて『御内証様』になったかは、正確に記した記述の文書を知りませんが、考えられるのは主君にあたる将軍の妻の方が、島津家次期当主よりも格上であり、当然将軍の妻の生母の方を尊重するという考えに基づくものと思われます。おそらく市田氏の方が重豪の参勤交代に同行していたのでないかと思います。ちなみに春光院が『御内証様』と言われたのは重豪隠居後のことであり、参勤交代の義務があった現役時代に『御内証様』の市田氏を差し置いて春光院が重豪を連れて参勤交代を出来なかったかった可能性があります。なお、島津吉貴の生母於重の方は参勤交代に着いていった翌年に薩摩藩に帰って吉貴を生みますが、久保之英『見聞秘記』によるともともとは加治木郷士の娘であったため、女房衆の嫉妬が深く、鹿児島城でなく城下の家老島津忠守邸で生んでいます。-ショッカー-60.38.255.133 2008年10月31日 (金) 13:15 (UTC)
- 補足・反論があったようで、気が付くのが遅くなりまして申し訳ありません。御国御前の参勤交代同行が通例だったかどうかとは余り関係の薄い話まで話題が広がっているようですが、現状では「薩摩藩の御国御前が参勤交代に同行した例はある。但し、それが通例だったかどうかとは言えない例もある」と言う所までが判明したと考えています。これ以上は先行のプロの学者の論文でも明示できない限り、私たちの判断をそのままwikipediaに反映させるのは、wikipediaの方針上問題ありと考えています。--こぶまき 2008年11月3日 (月) 07:17 (UTC)