ネイサン・ゴフ
ネイサン・ゴフ(Nathan Goff, 1843年2月9日 - 1920年4月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。ラザフォード・ヘイズ政権下の1881年に第28代アメリカ合衆国海軍長官を務めた。
生涯
[編集]私生活
[編集]バージニア州ハリソン郡(現在はウェストバージニア州)のクラークスバーグで生まれた。クラークスバーグ北西高校で学んだ後、ワシントンD.C.のジョージタウン大学を経て、1866年にニューヨーク市立大学で法学士の学位を取得した。
南北戦争
[編集]1861年に南北戦争が開戦したとき、北軍の下士官として、バージニア義勇歩兵隊第3連隊に参加した。ゴフはいくつかの戦闘を経験し、バージニア義勇騎兵隊の少佐となった。一時、南軍の捕虜にもなったが、最終的にゴフは准将の地位にまで昇格した。
州での政治
[編集]1865年、弁護士として認可を受け、弁護士業を独立開業した。またゴフは共和党に参加し、ウェストバージニア州における政治的に著名な人物となった。ゴフは1867年から1868年までウェストバージニア州下院議員を経験した。
海軍長官
[編集]1868年、ゴフはウェストバージニア州を担当する合衆国検察官に指名された。1881年1月まで合衆国検察官を務めた後、ラザフォード・ヘイズ大統領によって海軍長官に指名された。ヘイズの残り任期はわずか2ヵ月足らずであったため、ゴフも同じく2ヶ月足らずしか海軍長官を務めることができなかった。1881年3月、次の大統領であるジェームズ・ガーフィールドはゴフを再び合衆国検察官として任命した。
合衆国議会での政治
[編集]ゴフは1870年と1874年に合衆国下院議員選挙に出馬したが、敗北を喫した。また1876年にはウェストバージニア州知事選挙にも出馬したが、これも失敗に終わった。
1882年、共和党から合衆国下院議員に選出された。ゴフは合衆国検察官を辞任し、翌1883年3月に下院議員に着任した。1889年3月まで、3期連続で下院議員を務めた。4選を目指した1888年の下院議員選挙では敗退した。また同年のウェストバージニア州知事選挙でも落選した。
1892年、アメリカ合衆国第4巡回区控訴裁判所の陪席裁判官に就任。1912年、共和党から合衆国上院議員に選出された。上院議員としての任期は翌1913年3月4日からであったが、陪席裁判官の辞任に時間がかかり、実際に着任したのはそれから1ヵ月後の1913年4月1日であった。
1918年、ゴフは共和党から上院議員選挙への2選目への出馬を打診されたが、健康的理由により辞退した。1919年3月3日に任期を満了した。
晩年
[編集]1920年、ウェストバージニア州クラークスバーグで死去。遺体は同市内のオッド・フェロウズ墓地に埋葬された。
死後、その功績を称えて、アメリカ合衆国海軍の駆逐艦 USS Goff (DD-247) にその名がつけられた。
家族
[編集]- 父親: ウォルド・ポーター・ゴフ (Waldo Porter Goff, 1796-1881)
- 母親: ハリエット・ルイーズ・ムーア (Harriet Louise Moore, 1816-1861)
- 妻: ローラ・E・デスパード (Laura E. Despard, 1842-1918)
- 子供:
- ガイ・デスパード・ゴフ (Guy Despard Goff, 1866-1933) - アメリカ合衆国上院議員
- ウォルド・パーシー・ゴフ (Waldo Percy Goff, 1870-1922)
外部リンク
[編集]- United States Congress. "ネイサン・ゴフ (id: G000255)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
公職 | ||
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先代 リチャード・トンプソン |
アメリカ合衆国海軍長官 1881年1月7日 - 1881年3月4日 |
次代 ウィリアム・ヘンリー・ハント |