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トマス・ハンマー (第4代準男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トーマス・ハマーから転送)
ゴドフリー・ネラーによる肖像画

第4代準男爵サー・トマス・ハンマー英語: Sir Thomas Hanmer, 4th Baronet1677年9月24日1746年5月7日)は、イギリスの政治家。1714年から1715年まで庶民院議長を務めた。2度目の結婚相手がトマス・ハーヴィー英語版と駆け落ちしたことで当時の話題になった。そのほかに、ウィリアム・シェイクスピアの作品を編集した人物の1人としても知られている。

生涯

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1770年代のベティスフィールド英語版

ウィリアム・ハンマー(William Hanmer、1648年頃 アンジェ – 1678年頃[注釈 1]第2代準男爵トマス・ハンマー英語版の2度目の結婚で生まれた息子)とペレグリン・ノース(初代準男爵ヘンリー・ノース英語版の娘および相続人)の息子として生まれた[1][2]

ウェールズレクサム近く[3][4]ベティスフィールド英語版・パークにある祖父第2代準男爵トマス・ハンマー英語版の邸宅にて、夜10時から11時頃に生まれた[5][6]。父ウィリアムはトマスが幼児の頃に死去し、トマスはベリー・セント・エドマンズ英語版[注釈 2]ウェストミンスター・スクールオックスフォード大学クライスト・チャーチ(1693年10月17日に入学)で教育を受けた。ハンマーの指導教員はロバート・フレンド英語版であり、フレンドは1699年にウェストミンスター・スクールの副校長に任命され、1711年から1733年には校長を務めた[7]。しかし、ハンマーのLL.D.英語版の学位は1705年にケンブリッジ大学[8]Com. Reg.[注釈 3]により得たものである。

1701年、伯父にあたる第3代準男爵サー・ジョン・ハンマー英語版が決闘により死去[9]、子供を残さなかったため[10]トマス・ハンマーは準男爵を継承した。

トマス・ハンマーは高教会派トーリー党に所属しており、1701年から1702年までセットフォード選挙区英語版の議員を務め、以降は1702年から1705年までフリントシャー選挙区英語版の、1705年から1708年までセットフォード選挙区の、1708年から1727年までサフォーク選挙区英語版の議員を務めた[11]。1714年2月に全会一致で庶民院議長に選出された。当時の政府はトーリー党政権だったが、トーリー党はハンマーのようにプロテスタントの王位継承を維持しようとした党派と、ジェームズ老僭王を支持するジャコバイトとで分裂した。1714年8月にアン女王が死去すると、王位を継承したジョージ1世ホイッグ党のみで構成される政府を任命、1715年1月には庶民院が解散された。続く1715年イギリス総選挙の後、ハンマーは庶民院議長選挙に推薦されず、代わりにスペンサー・コンプトン(後の初代ウィルミントン伯爵、イギリス首相)が1715年3月17日に議長に選出された[12][9]。ハンマーは議長になれなかったものの、その後も1727年まで議員を務めた[13]。1717年に王太子ジョージに接近してトーリー党の復権を目指したが失敗[14]、トーリー党は以降1760年にジョージ3世が即位するまで公職につけなかった[15]

1722年、母の出身地であるサセックスのミルデンホール(Mildenhall)に私立救貧院英語版を創設した[16]。また、1739年に創設された捨子養育院英語版では初代総裁の1人であり、後に芸術の中心地にもなった[17][18]

文学活動

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ハンマーの『シェイクスピア全集』(Shakespeare)はフランシス・ヘイマンユベル=フランソワ・グラヴロによる36枚の挿画があり、1743年から1744年にかけてオックスフォードで出版された[19]。『The Cambridge History of English and American Literature』によると、「印刷と装丁が見事だったため、値段が9ギニーまで上がり、一方ウォーバートン英語版の版は18シリングだった」という[注釈 4][20]

しかし、ハンマーの編集はアレキサンダー・ポープの版とルイス・セオバルド英語版の版からとったものと、自身の推測も含まれており、しかもどの部分が他人の版からとったものでどの部分が自身の推測であるかが明示されていなかったため[21]、現代では評価が低く、『The Oxford Shakespeare』の編集者は『William Shakespeare: A Textual Companion』が「18世紀においても悪い出来」と酷評した[22]

また、ハンマーはシェイクスピア全集の出版でポープの諷刺詩の対象になり、『愚物列伝』ではモンタルト(Montalto、Book IV, 105ff.)という名前で登場、脚注(Book IV, 113.)で「高名な人物で、偉大な作家の華美な全集を自腹で出版する予定である」(An eminent person, who was about to publish a very pompous Edition of a great Author, at his own expense、強調は原文通り)と紹介された[注釈 5][23]

なお、ハンマーの編集には価値がある部分もあり、後の版でも採用されたものがある[20]

1746年にミルデンホールで死去[14]ハンマー英語版で埋葬された[11]。2度の結婚とも後継者が生まれなかったため、準男爵位は断絶した。

家族と不祥事

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ハンマーの1人目の妻イサベラと亡夫との間の息子チャールズゴドフリー・ネラー作。

1698年、初代アーリントン伯爵ヘンリー・ベネットの娘および相続人で初代グラフトン公爵ヘンリー・フィッツロイの未亡人イサベラと結婚した[24]

イサベラが1723年に亡くなった後、ハンマーは1725年にエリザベス・フォルクス(トマス・フォルクスの娘)と結婚したが、2人の年齢差が大きく、エリザベスがシェイクスピアを好まなかったこともあり仲は良くなかった。結婚から数年後、エリザベスは初代ブリストル伯爵ジョン・ハーヴィーの息子トマス・ハーヴィー英語版と駆け落ち、さらに息子トマスまでもうけた。以降ハーヴィーとハンマーはエリザベスの父の遺産をめぐって長年の法廷闘争を続けた(ハーヴィーはエリザベスに継承権があると主張し、ハンマーはエリザベスの父が遺産を婿にのみ残し、エリザベスに継承権はないと主張した)。エリザベスは1741年に死去した。ハンマーはハーヴィーを「起訴する」と脅した(実質的には姦通罪で民事訴訟を起こすという意味とされる)が、結局ハンマーが訴えを起こすことはなかった。

脚注

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  1. ^ Venn & Venn 1922, p. 299によると、ウィリアム・ハンマーは1663年7月17日にオックスフォード大学ペンブルック・カレッジ英語版に入学した時点で15歳だったため、1648年頃に生まれたという計算になる。Bunbury 1838, p. 4によると、ウィリアム・ハンマーは父の第2代準男爵トマス・ハンマー英語版(1612年 – 1678年)に先立って死去したため、息子の第4代準男爵トマス・ハンマーが1677年に生まれたことと合わせると1678年頃に亡くなったという計算になる。
  2. ^ 祖母スーザンはベリー・セント・エドマンズ選挙区英語版選出の庶民院議員ウィリアム・ハーヴィー英語版の娘だった。
  3. ^ Comitia Regiaの短縮形であり、国王(1705年時点ではアン女王)が大学を訪れたときに学長により学位を授けられるか、国王の命令により学位を授けられることを指す。いずれも一度に大勢の学生に学位を授けていた。出典:'Glossary of Cambridge terminology'. Janus.lib.ac.uk. Accessed 22 December 2015.
  4. ^ 1ギニーが21シリングに相当するため、ハンマーの版の値段がウォーバートンの版の10倍以上になる。
  5. ^ 訳注:at his own expenseは「自腹で」と「彼自身を犠牲にして」(ここではハンマーの名声が地に落ちたという風刺)の2つの意味がある。

出典

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  1. ^ Burke, John Bernard. A genealogical and heraldic history of the extinct and dormant baronetcies
  2. ^ Hayton, D. W. (2003). Hanmer, Thomas II (1677-1746), of Pall Mall, Westminster; Bettisfield Park, Flints.; and Mildenhall, Suff. The History of Parliament. Accessed 22 December 2015. Contains a lengthy and detailed political biography of Sir Thomas.
  3. ^ Hanmer, John Lord (1877). A Memorial of the Parish and Family of Hanmer in Flintshire, out of the thirteenth into the nineteenth century. London: privately printed at the Chiswick Press, pp. 63, 107, 149ff.
  4. ^ Bunbury, Henry Edward (1838). The correspondence of Sir Thomas Hanmer ... with a memoir of his life, to which are added, other relicks of a gentleman's family. London: Edward Moxon. https://books.google.com/books?id=-mAEAAAAQAAJ&pg=PA4  [Bunbury was Hanmer's brother-in-law]
  5. ^ Bettisfield Hall, (also known as Bettisfield Park), Bettisfield, Wales. Parks and Gardens UK. Accessed on 21 December 2015.
  6. ^ Lewis, Samuel (1849). A Topographical Dictionary of Wales: 'Halghston - Hawarden'. (London, 1849), pp. 396-411. British History Online. Accessed 17 December 2015.の"Hanmer"項目を参照。
  7. ^ Bunbury 1838, p. 5.
  8. ^ Venn, John; Venn, J. A. (1922). Alumni Cantabrigienses: A Biographical List of All Known Students, Graduates and Holders of Office at the University of Cambridge, from the Earliest Times to 1900, Volume 1, part 2: Dabbs-Juxton. Cambridge University Press. https://archive.org/stream/pt1alumnicantabr02univuoft#page/298/mode/2up , p. 299
  9. ^ a b Dodd, Arthur Herbert. Hanmer family. Dictionary of Welsh Biography, online edition. Retrieved 22 December 2015.
  10. ^ George E. Cokayne Complete Baronetage, Vol. 1 (1900)
  11. ^ a b Venn & Venn 1922, p. 299.
  12. ^ Bunbury 1838, p. 61-2.
  13. ^ Sedgwick, Romney R. (ed.) Hanmer, Sir Thomas, 4th Bt. (1677-1746). The History of Parliament. Accessed 22 December 2015.
  14. ^ a b Barker, George Fisher Russell (1890). "Hanmer, Thomas" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 24. London: Smith, Elder & Co. pp. 298–299.
  15. ^ Eveline Cruickshanks, Political Untouchables; The Tories and the '45 (Duckworth, 1979), p. 6.
  16. ^ Henderson, John (21 July 2018). "Take a walk through Mildenhall's history" (英語). Bury Free Press. 2019年5月7日閲覧
  17. ^ (英語) Copy of the Royal Charter Establishing an Hospital for the Maintenance and Education of Exposed and Deserted Young Children. London: Printed for J. Osborn, at the Golden-Ball in Paternoster Row. (1739). p. 6. https://books.google.com/books?id=OX1bAAAAQAAJpg=PA6 
  18. ^ R.H. Nichols and F A. Wray, The History of the Foundling Hospital London: Oxford University Press, 1935, p. 347.
  19. ^ "18th and 19th Centuries" (英語). Washington University in St. Louis University Libraries. 2006年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月7日閲覧
  20. ^ a b A.W. Ward, et al., The Cambridge history of English and American literature: An encyclopedia in eighteen volumes. "XI. The Text of Shakespeare. § 13. Hanmer’s edition." New York: G.P. Putnam’s Sons; Cambridge, England: University Press, 1907–21. Accessed at bartleby.com on 9 November 2006.
  21. ^ Thomas Hubeart, "Shaking Up Shakespeare," at the Wayback Machine (archived 22 June 2006), accessed 21 December 2015. (Archived from the original, accessed on 9 November 2006 - dead link)
  22. ^ Stanley Wells & Gary Taylor, et al., William Shakespeare: A Textual Companion (NY: Norton, 1997 [reprint of Oxford University Press ed., 1987]), p. 54. ISBN 0-393-31667-X.
  23. ^ John Butt, ed., The Poems of Alexander Pope. New Haven: Yale UP, 1963, p. 772. ISBN 0-300-00030-8 より引用。
  24. ^ SELECTED BRIEF BIOGRAPHIES”. 2013年1月27日閲覧。

関連図書

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関連項目

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外部リンク

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イングランド議会 (en
先代
ジョセフ・ウィリアムソン英語版
エドマンド・ソーム英語版
庶民院議員(セットフォード選挙区英語版選出)
1701年1702年
同職:エドマンド・ソーム英語版 1701年
サー・ジョン・ウッドハウス準男爵 1701年 – 1702年
次代
ロバート・ベンソン
エドマンド・ソーム英語版
先代
サー・ロジャー・モスティン準男爵英語版
庶民院議員(フリントシャー選挙区英語版選出)
1702年1705年
次代
サー・ジョン・コンウェイ準男爵英語版
先代
ロバート・ベンソン
エドマンド・ソーム英語版
庶民院議員(セットフォード選挙区英語版選出)
1705年 – 1707年
同職:サー・ジョン・ウッドハウス準男爵
グレートブリテン議会
グレートブリテン議会英語版
新設議会 庶民院議員(セットフォード選挙区英語版選出)
1707年 – 1708年
同職:サー・ジョン・ウッドハウス準男爵
次代
ロバート・ベイリス
トマス・デ・グレイ英語版
先代
レスター・マーティン
サー・ロバート・デイヴァース準男爵英語版
庶民院議員(サフォーク選挙区英語版選出)
1708年 – 1727年
同職:サー・ロバート・デイヴァース準男爵英語版 1708年 – 1722年
サー・ウィリアム・バーカー準男爵英語版 1722年 – 1727年
次代
サー・ジャーミン・デイヴァース準男爵英語版
サー・ウィリアム・バーカー準男爵英語版
公職
先代
ウィリアム・ブロムリー
庶民院議長
1714年 – 1715年
次代
スペンサー・コンプトン
イングランドの準男爵
先代
ジョン・ハンマー英語版
(ハンマーの)準男爵
1701年 – 1746年
断絶