トリ・ストリスノ
トリ・ストリスノ Try Sutrisno | |
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1993年のトリ | |
生年月日 | 1935年11月15日(88歳) |
出生地 | オランダ領東インド、スラバヤ |
出身校 | インドネシア士官学校 |
所属政党 | インドネシア正義団結党 |
称号 | 将官 |
配偶者 | トゥティ・スティアワティ |
子女 | 7人 |
親族 |
スバンディ(父) マルディヤ(母) |
サイン | |
在任期間 | 1993年3月11日 - 1998年3月11日 |
大統領 | スハルト |
インドネシア国軍第9代司令官 | |
在任期間 | 1988年2月27日 - 1993年2月19日 |
大統領 | スハルト |
インドネシア陸軍第15代参謀総長 | |
在任期間 | 1986年6月7日 - 1988年2月2日 |
大統領 | スハルト |
トリ・ストリスノ(インドネシア語: Try Sutrisno, 1935年11月15日 - )は、インドネシアの政治家、軍人。同国第6代副大統領、インドネシア国軍第9代軍司令官、インドネシア陸軍第15代参謀総長を務めた。
経歴
[編集]1935年11月15日にオランダ領東インド、スラバヤにてスバンディとマルディヤの息子として誕生する。1945年のインドネシア独立宣言後、インドネシア独立戦争が始まった。トリと家族はスラバヤからモジョケルトに移った。父親はポンコワティ陸軍大隊の医務官として働き、トリは学校教育を中断してタバコと新聞売りで生計を立てることを余儀なくされた。13歳の時、トリはポンコワティ大隊に入隊して戦いたいと思ったが、誰にも相手にされず、運び屋として雇われることになった。トリの任務は、オランダ軍が占領した地域の情報を探すことと、インドネシア国軍のために医薬品を回収することだった。1949年にオランダは撤退し、インドネシアの独立を承認した。その後、トリと家族はスラバヤに戻り、1956年に教育を修了した。高校卒業後、トリは1956年にインドネシア士官学校に入学した。トリは入学試験に合格したが、身体検査で不合格となった。それにもかかわらず、ジャティクスモ少将はトリに興味を持ち、呼び戻した。トリは西ジャワ州のバンドンで行われた心理試験に参加し、士官候補生として入学を許可された。トリが初めて軍務に就いたのは1957年で、インドネシア共和国革命政府の反乱と戦った。この反乱は、スカルノ大統領に代わる政府を樹立しようとするスマトラ島の分離主義者たちによるものだった。トリは1959年に士官学校を卒業し、インドネシア陸軍少尉に任官した。スマトラ、ジャカルタ、東ジャワ州で勤務した。1972年、トリは陸軍士官学校に派遣された。1974年、トリはスハルト大統領の副官に選ばれた。スハルトはトリを気に入り、それ以来、トリの軍人としてのキャリアは急上昇した。1978年、トリはウダヤナの地域司令部参謀長に任命された。その1年後には、スリウィジャヤの地域司令官となる。地域司令官として、トリは犯罪率の抑制や鉛の密輸阻止に動いた。スマトラゾウを自然の生息地に戻す環境保護運動にも参加した[1]。1988年、ベニー・ムルダニの後任としてインドネシア国軍司令官に任命され、国軍司令官としてトリはインドネシア全土の反乱鎮圧に多くの時間を費やした。当面の目標はアチェ州の分離主義者で、1992年までに鎮圧に成功した。1989年にはタランサリ事件があり、トリは1984年にイスラム主義デモ隊を取り締まるという行動を繰り返した。1991年11月、当時の東ティモール州では、インドネシア軍に射殺された仲間の葬儀に参列した学生たちが、インドネシアの占領に対する抗議行動を起こした。葬列では、学生たちが民族自決と独立を求める横断幕を広げ、独立指導者シャナナ・グスマンの写真を掲げた。行列が墓地に入ると、インドネシア軍が発砲した。墓地でデモをしていた人々のうち、271人が死亡、382人が負傷、250人が行方不明になった。サンタクルス事件として知られるこの事件は、国際社会から世界的な非難を浴びた。その後、トリは人民代表評議会に招かれ、釈明を求められた。トリは自分の決定を擁護し、デモ隊は兵士を挑発しており、デモが平和的だという主張は「でたらめ」だと主張した[2]。トリは1993年2月に司令官の職を解任された。1993年2月、トリが解任されたのと同月、国民協議会が開かれ新大統領と副大統領が選出される1カ月前に、国軍の国民協議会メンバーはトリを副大統領に指名した。厳密には、国民協議会の派閥メンバーは副大統領候補を指名することが許されていた。しかし、スハルト政権の不文律では、大統領が選んだ候補者を指名するのを待つことになっていた。ゴルカルがトリを副大統領に指名しなかったことを党員に伝えるのに苦労したため、開発統一党とインドネシア民主党の党員はすぐにトリの指名を承認した。スハルトは武装勢力に先手を打たれたことに腹を立てていたが、議会で武装勢力の代表団と公然と争うことは避けたかった。スハルトは最終的にトリを受け入れ、ゴルカルは他の政党と国軍に副大統領候補を指名させたと述べて、先制を軽視しようとした[3]。国軍は1988年の国民協議会総会で、スハルトが選んだスダルモノは国軍が嫌っていたが、それに対しての復讐を果たした。ベニー・厶ルダニ国防相は、1993年の国民協議会総会で国軍がスハルトに代わり副大統領を選ぶと決心していた。もし先手を打たれていなければ、スハルトはユスフ・ハビビを副大統領に選ぶか、スダルモノを再選させていただろうと推測された。スハルトはトリを副大統領として受け入れたが、閣内の国軍メンバーは必要最低限に抑えられ、自分が求めていない副大統領を迎えることへの不快感が透けて見えた。トリ自身に対しても、スハルトはほとんど配慮を示さず、組閣の過程でトリに相談すらしなかった。1997年末、スハルトが健康治療のためにドイツに行かなければならなくなった際も、無視の兆候が見られた。スハルトはトリに大統領の職務を任せる代わりに、厶ルディオノ国務長官に大統領の職務を受けるために邸宅に来るよう命じた[4]。1998年5月、スハルト政権崩壊の前夜、トリはウマール・ウィラハディクスマ、スダルモノとともにスハルト邸を訪れ、可能な選択肢について話し合った。1998年、トリはインドネシア国軍退役軍人組合の議長に選出された。当時、軍隊の各支部にはそれぞれ退役軍人組合が存在するという風潮があったにもかかわらず、トリは議長として組合を一つにまとめることに成功した。トリは2003年にこの役職の任期を終えた。トリはまた、エディ・スドラジャット将軍のインドネシア正義団結党の党首も務めた。2005年8月、トリはアブドゥルラフマン・ワヒド、メガワティ・スティアワティ・スカルノプトリ、ウィラント、アクバル・タンジュンとともに、国民統一への目覚め運動 と呼ばれるフォーラムを結成した。このフォーラムは、自由アチェ運動との覚書の締結について、スシロ・バンバン・ユドヨノ政権を批判した。続いて2005年9月には、ユドヨノが決定した燃料価格の引き上げを批判した。2005年9月にモハマッド・ユスフ・カラ副大統領と会談した後、トリは政府に対する姿勢をやや軟化させた。カラ副大統領は、自由アチェ運動に対する政策と燃料価格の引き上げの理由を説明するために派遣された。会談の終わりに、トリは政府の立場を理解できると述べ、政府の決定を支持するよう国民を激励した[5]。
脚注
[編集]- ^ “Try Sutrisno, 6th Vice President of the Republic of Indonesia”. Tokohindonesia.com. 2006年10月28日閲覧。
- ^ “Timor: Try Sutrisno's Bullshit”. Indonesia Publications/Taskforce. 17 September 2006時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年10月28日閲覧。
- ^ “Soeharto Picks Try As V–P”. Radio Republik Indonesia (28 February 1993). 17 September 2006時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年10月30日閲覧。
- ^ “" Wapres Hanya Ban Serep Yang Tak Terpakai " (The Vice President Is Only An Unused Spare Tire")”. Tempo (2 January 1998). 17 September 2006時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年10月30日閲覧。
- ^ “"Usai Dikritik, Wapres Kalla Temui Try " (After Being Criticized, Vice President Kalla Meets With Try)”. Pikiran Rakyat (25 September 2005). 9 May 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年10月30日閲覧。