トゴン (ジャライル部)
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トゴン(Toγon、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ジャライル部の出身。『元史』などの漢文史料では脱歓(tuōhuān)と記される。
概要
[編集]トゴンはジャライル部の出身で、祖父は菊者、父はトデエン(脱端)。父のトデエンは万人隊長(トゥメン)としてクチュを総司令とする南宋侵攻に従軍しており、汴州・宋州・睢州・宿州の攻略に功績を挙げた。トデエンは1253年(癸丑)に蔡州の鎮撫を委ねられたが程なく亡くなり。息子のブカ(不花)が後を継いだ。ところがブカは早世し、その弟のアラムダール(阿藍答児)、長寿も立て続けに亡くなったため、トゴンが後を継ぐことになった[1]。
父のトデエンの地位を継承したトゴンはアジュ丞相率いる部隊に従軍し、南宋侵攻に加わった。トゴンらは長江を渡って各地を攻略した後、丁家洲で宋軍と会戦した(丁家洲の戦い)。この戦いでトゴンは敵軍に突入して戦艦数隻を奪取する功績を挙げ、更に建康・太平の攻略にも加わった。南宋の将の姜才が攻撃してきた時には、トゴンは精鋭を率いてこれを撃退し、揚州まで追跡して多くを殺傷した。その後、泥湖の戦いでは再び敵の軍船30隻余りを捕獲し、蘇州附近の戦いでも柳奉使を捕虜とする功績を挙げた[2]。
至元14年(1277年)、シリギの乱に呼応する形で応昌で起こったジルワダイの叛乱鎮圧を命じられ、流れ矢を2度受けるほど奮戦したため、後にクビライに賞賛されて鎧甲・弓矢・鞍勒・鈔1500を与えられた。至元15年(1278年)、定遠大将軍・福州路総管府ダルガチとされ、福州方面での盗賊の平定などを行ったが、後に亡くなった[3]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻133列伝20脱歓伝,「脱歓、札剌児台氏。祖菊者。父脱端、為万戸、従皇子闊出・忽都禿略汴・宋・睢・宿等州。歳癸丑、鎮蔡州。脱端卒、子不花襲。不花卒、弟阿藍答児襲。阿藍答児卒、弟長寿襲、並為千戸守蔡」
- ^ 『元史』巻133列伝20脱歓伝,「長寿卒、脱歓襲、加武略将軍、佩金符。従丞相阿朮攻陽邏堡、累有戦功。渡江攻鄂漢諸州、下之。会宋軍于丁家洲、脱歓突入、奪戦艦数艘、攻建康・太平等郡、下之。宋都統姜才攻揚子橋堡、脱歓率精兵出堡東逆之、斬殺幾尽、俄而宋軍復集堡北、遂奮撃走、追至揚州、殺傷甚衆。会万戸昔里罕入朝、道滁州、為宋兵所遮、撃敗宋兵、出昔里罕。従攻揚州、至泥湖、遇宋軍、奪三十餘艘、遂進兵蘇州、与宋軍戦、擒柳奉使」
- ^ 『元史』巻133列伝20脱歓伝,「至元十三年、右丞相遣脱歓援高郵軍、未至二十里、会宋将率兵来漕高郵粟、与戦擒之。有頃、宋高郵都統復率二万人至、撃敗之。十四年春、授懐遠大将軍・太平路総管府達魯花赤。会只里瓦帯寇北辺、帝命脱歓往討之、戦、左臂中流矢二、帝慰労之、賜鎧甲・弓矢・鞍勒・鈔千五百緡。十五年春、従親王斡魯忽台・丞相孛羅西征有功、加定遠大将軍・福州路総管府達魯花赤。平閩盗、改武昌路、卒」
参考文献
[編集]- 『元史』巻133列伝20