デルタ (船)
デルタ (Delta) はP&O社の鉄製外輪船[1]。イギリスで建造・運用後に日本政府が購入し、三菱汽船(現・日本郵船)に委託(のちに払い下げ)されて運用され、さらにアメリカ合衆国に売却された。
来歴
[編集]1859年[1][2]、テムズ鉄工造船所で建造[3]。1618総トン[2]。アレクサンドリア航路の定期船で、1859年10月12日に処女航海に出発した[1]。
1869年11月17日、スエズ運河開通式に参加[1]。招かれた船はポートサイドから運河を通ってスエズまでパレードしたが、「デルタ」は途中までしか参加しなかった[1]。
台湾出兵時の軍事輸送に用いるために日本政府は1874年5月から1875年3月にかけて「デルタ」を含め13隻の船を購入した[4]。「デルタ」は1874年に購入され、「高砂丸」(2121総トン)となった[4]。
購入された13隻の船は三菱汽船会社に委託され、1875年1月に上海航路開設が命じられると三菱は「高砂丸」他3隻を就航させた[5]。2月21日に「高砂丸」は上海へ向かった[1]。このころ、「高砂丸」はスクリュー船に改装されている[1]。9月、13隻は三菱に払い下げられた[6]。また同月、三菱汽船会社は郵便汽船三菱会社と改称された[7]。1885年に郵便汽船三菱会社は共同運輸と合併して日本郵船となり、「高砂丸」も日本郵船に継承された[8]。
日清戦争では陸軍に徴傭された(1894年6月12日徴傭、1895年12月16日解傭)[9]。
1898年1月28日、アメリカに売却され「センテニアル (Centennial)」と改名[10]。
日露戦争時、ウラジオストクへの密輸船となり、1905年10月13日に宗谷海峡で日本海軍に拿捕されたが、ポーツマス条約調印後に拿捕された船は解放ということになった[11]。「センテニアル」は解放されてメリカへ戻る途中、行方不明となった[3]。1913年に樺太北方の氷海でロシア人により発見されたが、乗組員の痕跡はなく、船体は放棄された[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 山田廸生「名船発掘 高砂丸」
- ^ a b Boyd Cable, A hundred Year History of the P. & O.. p. 245
- ^ a b c 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』40ページ
- ^ a b 『七十年史』7ページ。山田廸生「名船発掘 高砂丸」
- ^ 『七十年史』8ページ
- ^ 山田廸生「名船発掘 東京丸」
- ^ 『七十年史』10ページ
- ^ 『七十年史』23、676ページ
- ^ 『日本郵船株式會社五十年史』127ページ。なお、この時の総トン数は2075.24トンとなっている。
- ^ 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』40ページ。山田廸生「名船発掘 高砂丸」
- ^ 遠藤源六『日露戰役國際法論』280-281ページ。山田廸生「名船発掘 高砂丸」
参考文献
[編集]- 遠藤源六『日露戰役國際法論』明治大學出版部、1908年
- 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』世界の艦船・別冊、海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
- 日本郵船株式會社(編)『日本郵船株式會社五十年史』日本郵船、1935年
- 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
- 山田廸生「名船発掘<汽船> 高砂丸 スエズ運河の開通式英国から公式参加」
- 山田廸生「名船発掘153 東京丸 わが国初の海外定期航路(横浜~上海)の第1船となる」
- Boyd Cable, A hundred Year history of the P. & O. Peninsular and Oriental Steam navigation Company, Ivor Nicholson and Watson, 1937