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デイヴィッド・レズリー (第6代リーヴェン伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デイヴィッド・マーティン英語版による肖像画、1782年作。

第6代リーヴェン伯爵[注釈 1]および第5代メルヴィル伯爵デイヴィッド・レズリー英語: David Leslie, 6th Earl of Leven, 5th Earl of Melville1722年3月4日[3]/5月4日[1]1802年6月9日)は、スコットランドの貴族、フリーメイソン。1729年から1754年までバルゴニー卿儀礼称号を使用した[3]

生涯

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第5代リーヴェン伯爵および第4代メルヴィル伯爵アレクサンダー・レズリーと1人目の妻メアリー・アースキン(Mary Erskine、1723年7月12日没、ジョン・アースキンの娘)の息子として、1722年に生まれた[3]エディンバラ大学で学んだ後、1740年から1742年までフローニンゲン大学で教育を受けた[3]

1742年にエンサイン英語版としてイギリス陸軍に入隊、1744年には歩兵連隊の大尉になった[3]

1754年9月2日に父が死去すると、リーヴェン伯爵メルヴィル伯爵の爵位を継承した[3]

フリーメイソンの一員として、1759年から1761年までスコットランド・グランドロッジのグランドマスター英語版を務めた[3]

スコットランド銀行副総裁を務めたほか、1773年から1782年までスコットランド警察卿(Lord of Police)の1人を、1778年にスコットランド・キリスト教知識普及協会英語版会長を、1783年から1801年までスコットランド教会総会への勅使英語版を務めた[3]

1802年6月9日に病死、バルゴニー英語版で埋葬された[3]。息子アレクサンダーが爵位を継承した[3]

家族

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1747年7月29日、ウィルヘルミナ・ニスベット(Wilhelmina Nisbet、1724年 – 1798年5月10日、ウィリアム・ニスベットの娘)と結婚[3]、5男3女をもうけた[1]

注釈

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  1. ^ 文献によっては第2代リーヴェン伯爵アレクサンダー・レズリーの娘マーガレットキャサリンも含めて代数を数えており(例:クラクロフト貴族名鑑[1])、その場合は本記事の人物が「第8代リーヴェン伯爵」になる。ここではブリタニカ百科事典第11版[2]などと同じく、マーガレットとキャサリンを含まない代数を採用している。

出典

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  1. ^ a b c "Leven, Earl of (S, 1641)". Cracroft's Peerage (英語). 30 January 2018. 2019年11月3日閲覧
  2. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Leven and Melville, Earls of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 508.
  3. ^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire. Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 621–622.
公職
先代
ダルハウジー伯爵
スコットランド教会総会への勅使英語版
1783年 – 1801年
次代
ネイピア卿
フリーメイソン
先代
ギャロウェイ伯爵
スコットランド・グランドロッジ
グランドマスター
英語版

1759年 – 1761年
次代
エルギン伯爵
スコットランドの爵位
先代
アレクサンダー・レズリー
リーヴェン伯爵
1754年 – 1802年
次代
アレクサンダー・レズリー=メルヴィル
メルヴィル伯爵
1754年 – 1802年