デイダメイア2世
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デイダメイア2世 Δηϊδάμεια | |
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エピロス女王 | |
在位 | 紀元前235年 - 紀元前233/1年 |
死去 |
紀元前233/1年 |
父親 | ピュロス2世 |
デイダメイア (ギリシア語: Δηϊδάμεια、英語: Deidamia / Deidameia) または ラオダミア (ギリシア語: Λαοδάμεια、英語: Laodamia) (? - 紀元前233年頃[1]または紀元前231年) は 古代ギリシアの王女、エピロス王ピュロス2世の娘[2]、エピロス最後の女王(在位:紀元前235年 - 紀元前233/1年)。
生涯
[編集]彼女の父と叔父プトレマイオスの死後、彼女はアイアコス王朝の王室最後の生き残りのひとりだった[3]。彼女にはネーレーイスという姉妹がいて、シラクサの王ヒエロン2世の息子ゲロンと結婚していた。エピロスの反乱の間、彼女の姉妹はガリアから800もの傭兵を送った。モロシア人の一部は彼女を助け[4]、そして傭兵の助けを借りて、彼女は容易にアンブラキア (en:Ambracia) を取った。しかしエピロスの人々は、王室全体を廃止して彼らの自由を確保することを決定し、彼女を殺すことにした。彼女は、アルテミス神殿に避難のために逃げたが、すでに母親殺しの罪を負っている男ミロにより聖域内で殺害され[5]、その後まもなくミロも自殺した[6] 。この事件の日付は定かではない、おそらくマケドニア王デメトリオス2世の治世 (紀元前239年 - 紀元前229年) の早い時期に発生した。彼女の死をもってエピロスの君主制は終わった。
もう一人のデイダメイアは、スキューロス島の王リュコメーデースの娘で、アキレウスの子ネオプトレモスの母である[7]。
出典
[編集]- ^ Robert Malcolm Errington, A History of Macedonia (1990), p. 174.
- ^ Pausanias, Description of Greece
- ^ Errington, A History of Macedonia, p. 174.
- ^ M. B. Hatzopoulos, Epirus, 4000 Years of Greek History and Civilization (1997, ISBN 960-213-377-5), p. 80.
- ^ Nicholas Geoffrey Lemprière, The Cambridge Ancient History, Vol. 7, Part 1 (Hammond, 1970: ISBN 0-521-23445-X), p. 452.
- ^ Polyaenus, Stratagems, viii.52; Justin, Epitome of Pompeius Trogus, xxviii. 3; Pausanias, Description of Greece, iv. 35
- ^ Apollodorus, Library
参考文献
[編集]- William Smith Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology, "Deidameia (2)", Boston, (1867)
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