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テゲ・コルチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

テゲ・コルチモンゴル語: Tege Qorči、生没年不詳)は、モンゴル帝国の将軍の一人。末にマンチュリアで自立して大真国を建国した蒲鮮万奴の息子にあたる。

史料によって様々な表記がされており、『元史』では帖哥、『高麗史』では迪巨と表記される。また、『国朝文類』の「元高麗記事」には「帖哥火里赤」とも記されるが、これはTege Qorčiを音写したものである[1]ペルシア語史料の『集史』ではتکه(teke)とも表記される[2]

概要

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生い立ち

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テゲの父の蒲鮮万奴は金末に耶律留哥討伐のため遼河流域に派遣された人物であるが、1215年貞祐3年/乙亥)に金朝を見限って自立し大真国を建国していた[1]。テゲもまた蒲鮮万奴に従って活動しており、蒲鮮万奴が上京会寧府を攻めた際には投降を拒んだ同知上京留守事の温蒂罕老児を殺害している[3][4]。しかし、モンゴル帝国の勢力が遼西地域まで伸びるとやむなくこれに投降し、1216年(貞祐4年/丙子)10月に息子のテゲを質子(トルカク)としてモンゴルに差し出した[5][6]。この時、テゲは「入侍した(=チンギス・カンのケシクテン(親衛隊)に入った)」とされ、この時コルチ(箭筒士)の部隊に配属されたとみられる[7]

高麗侵攻

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1216年以後、10年以上にわたってテゲ・コルチに関する記録は史料上に見られないが、1231年正大8年/辛卯)より再び名前が見られるようになる。チンギス・カンの死後、モンゴル帝国では一度征服した地域で蠢動する反攻勢力を討伐するために「タンマチ(タマ軍)」と呼ばれる軍団を各地に派遣しており、遼東・高麗方面にはサリクタイ率いるタンマチ軍団が現れた[8]遼東半島に残存する金朝の勢力を平定したサリクタイ軍は1231年8月より高麗国に侵攻したが(第一次モンゴルの高麗侵攻)、高麗に侵入したモンゴル軍はサリクタイと蒲桃元帥・迪巨元帥・唐古元帥に率いられていたと記されており[9]、この「迪巨元帥」こそ蒲鮮万奴の長男たるテゲ・コルチであると考えられている[10]

破竹の勢いで進むモンゴル軍に対し、高麗朝廷は早くに投降を決意し、同年11月には開京に辿り着いたテゲ・コルチらにも貢ぎ物が送られた[11][12]。こうして1232年(正大9年/壬辰)にはモンゴル軍は高麗から引き上げたが、同年6月には早くも高麗はモンゴルの設置したダルガチ72人を殺害して叛乱を起こし、サリクタイ軍団は再び高麗に派遣された(第二次侵攻)。ところが、サリクタイは8月の処仁城の戦いで流れ矢に当たって戦死してしまい、この時残存軍をまとめて退却を果たしたのがテゲ・コルチであった[13][14][1]

陝西侵攻

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テゲ・コルチの撤退から3年後の1235年乙未)から高麗侵攻は再開されたが、主将はタングート・バアトル(唐古)になっており[15]、テゲ・コルチは高麗攻めから外されていた[7]。一方、朝鮮半島から遠く離れた陝西・四川方面では南宋攻めの一環として王子コデン率いる軍団が侵攻していたが、その配下の有力武将として「テゲ都元帥」なる人物の名前が記録されている。「草堂寺闊端太子令旨碑」には1247年丁未)づけでコデンが出した命令(令旨)の中で、「テゲ・コルチ都元帥」が最も上位にある将軍として名前が挙げられている[16]

これを裏付けるように、陝西地方の京兆府総管の妻の妹の福聚は「咸平路宣撫使蒲鮮公長男」のテゲ(帖哥)に嫁いだとの記録があり[17]、「草堂寺闊端太子令旨碑」でコデン配下の筆頭武将として名前が挙げられる「テゲ都元帥」は「蒲鮮万奴の長男のテゲ・コルチ」と同一人物で間違いないと見られる[18]。テゲ・コルチは更に四川方面にまで進出したとみられるが、その後の動向は記録にない[7][19]

脚注

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  1. ^ a b c 松田1992,100頁
  2. ^ Rawshan 1373,pp.451-452/Thackston 2012,p.157/余大鈞・周建奇1985,p.238
  3. ^ 『金史』巻122列伝60温蒂罕老児伝,「温蒂罕老児、為同知上京留守事。蒲鮮万奴攻上京、其子鉄哥生獲老児、脅之使招餘人、不従。鉄哥怒、乱斫而死」
  4. ^ 池内1943,585頁
  5. ^ 『元史』巻1太祖本紀,「[太祖十一年]冬十月、蒲鮮万奴降、以其子帖哥入侍。既而復叛、僭称東夏」
  6. ^ 『聖武親征録』,「[甲戌]金主之南遷也、以招討也奴為咸平等路宣撫、復移於阿必忽蘭。至是亦以衆来降、仍遣子鉄哥入侍。既而復叛、自称東夏王」
  7. ^ a b c 松田1992,101頁
  8. ^ 松田1992,102-103頁
  9. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2,「[高宗十八年十一月]辛亥、蒙兵自平州来屯宣義門外、蒲桃元帥屯金郊、迪巨元帥屯吾山、唐古元帥屯蒲里。前鋒到礼成江、焚焼廬舍、殺掠人民、不可勝計、京城驚擾洶洶」
  10. ^ 松田1992,100-101頁
  11. ^ 『元史』巻208列伝95高麗伝,「太宗三年八月、命撒礼塔征其国……十一月、元帥蒲桃・迪巨・唐古等領兵至其王京、遣使奉牛酒迎之」
  12. ^ 『高麗史』巻23高宗世家2,「[高宗十八年十二月]丁卯、遣人、遺唐古・迪巨及撒礼塔之子、銀各五斤、紵布十匹、麤布二千匹、馬韂・馬纓等物」
  13. ^ 『元史』巻208列伝95高麗伝,「[太宗四年]六月、㬚尽殺朝廷所置達魯花赤七十二人以叛、遂率王京及諸州県民竄海島。洪福源集餘民保聚、以俟大兵。八月、復遣撒礼塔領兵討之、至王京南、攻其処仁城、中流矢卒。別将鉄哥以軍還。其已降之人、令福源領之」
  14. ^ 『元史』巻154列伝41洪福源伝「辛卯秋九月、太宗命将撒礼塔討之、福源率先附州県之民、与撒礼塔併力攻未附者、又与阿児禿等進至王京。高麗王乃遣其弟懐安公請降、遂置王京及州県達魯花赤七十二人以鎮之、師還。壬辰夏六月、高麗復叛、殺所置達魯花赤、悉駆国人入拠江華島、福源招集北界四十餘城遺民以待。秋八月、太宗復遣撒礼塔将兵來討、福源尽率所部合攻之、至王京処仁城、撒礼塔中流矢卒、其副帖哥引兵還、唯福源留屯」
  15. ^ 『元史』巻208列伝95高麗伝,「[太宗]七年、命唐古与洪福源領兵征之」
  16. ^ 杉山2004,432-433頁
  17. ^ 『寓庵集』巻8大元宣差陝西京兆府総管大夫人尼龐窟氏墓誌銘,「尼龐窟氏、故金吾衛上将軍定国軍節度使僕散公諱某之妻也……次妹福聚、適咸平路宣撫使蒲鮮公長男帖哥」
  18. ^ また、遼東・高麗方面でテゲ・コルチの下位にあったウヤルと同格の耶律禿花の息子の耶律ジュゲが陝西方面ではテゲ・コルチの指揮下にあること、『集史』「チンギス・カン紀」で耶律禿花が女真人部隊を率いていたと記されることも、テゲ・コルチが陝西方面戦線に転属していたことの傍証となる(松田1992,101-102頁)
  19. ^ 松田1992,108頁

参考文献

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  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995] )
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第1巻第2分冊』商務印書館、1985年