テケチュク
テケチュク(モンゴル語: Tekečük[1]、? - 1299年)は、モンゴル帝国および大元ウルスに仕えたウイグル人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では鉄哥朮(tiěgēzhú)と記される。テケジュとも。
概要
[編集]テケチュクの祖先は代々天山ウイグル王国のビシュバリク(漢訳は「五城」)に居住していたが、後に東アジア方面に移住した一族であった。テケチュクの祖父のタシュはチンギス・カンに仕えて中央アジア遠征で武功を挙げ、父のイェルチュクは第2代皇帝オゴデイの時代に行政官僚として活躍している。
テケチュクはイェルチュクの長男であった。ある時、テケチュクは魚児濼で叛乱を起こした者を一族を率いて討伐したが、国書(古ウイグル文字)に通達していたために遺失する者がなかったため、皇帝の賞賛を受けたという。時代が降り、クビライが即位すると棣州ダルガチ、ついで徳安府ダルガチを務めた[2]。
蔡知府が叛乱を起こした時にはテケチュクは兵を率いて率先して城壁を登り、矢石をものともせず、体中に傷を負いながらこれを平定した。これを聞いた主が怒って城民を皆殺しにしようとしたが、テケチュクは「叛乱を起こした者は蔡知府ら数人のみであって、城中の人は何も関わりがない。蔡知府の一党のみ誅し、他の者に累を及ぼすべきではないでしょう」と進言し、受け容れられている。その後も官位を進め、嘉議大夫・婺州路ダルガチとなったが、1299年(大徳3年)に亡くなった。時の皇帝オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)はテケチュクの孫の海寿に命じて棺を京師に葬らせ、栄禄大夫・江浙行省平章政事・柱国の地位を追贈し、雲国公に追封している[3]。
息子には義堅亜礼(Ičen yali?)[4]、月連朮(Yügrünči)[5]、八札(Bača)らがいた[6]。
脚注
[編集]- ^ B.Ögel 1964 p.100
- ^ 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝,「鉄哥朮、野里朮長子也、尤沈鷙有才。嘗有擁兵叛者、鉄哥朮率族人与戦于魚児濼。時軍興、簿檄繁急、鉄哥朮一以其国書識之、無遺失者、帝甚嘉焉。至元中、擢為棣州達魯花赤、遷徳安府達魯花赤」
- ^ 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝,「適土人蔡知府者以衆叛、鉄哥朮率衆先登、冒矢石、身被数槍、猶戦不已、遂討平之。主将怒、将屠其城。鉄哥朮請曰『叛者蔡知府数人而已、城中之人何預焉。盍誅其党与而止、毋令濫及非辜』。主将嘉其誠懇、城遂得全。累官至嘉議大夫・婺州路達魯花赤、所在咸著政績。大徳己亥卒、成宗勅其孫海寿載其柩帰葬京師、贈栄禄大夫・江浙行省平章政事・柱国、封雲国公、諡簡粛」
- ^ 牧野2012,95-96頁
- ^ B.Ögel 1964 p.104
- ^ 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝,「子四人、義堅亜礼、幼給事裕宗宮。至元十五年、為中書省宣使。嘗使河南、適汴・鄭大疫、義堅亜礼命所在村郭搆室廬、備医薬、以畜病者、由是軍民全活者衆。遷直省舎人。承中書檄徴考上都儲侍、及還、帝賜錦衣貂裘一襲、以旌其能。出為湖州路達魯花赤、卒于官。月連朮、同知安陸府事。八札、同知宣政院事。孫九人、海寿、義堅亜礼子也。由宿衛世祖朝累官至太中大夫・杭州路達魯花赤、招復流民有恩恵。卒、贈翰林直学士、封范陽郡侯、諡恵敏」
参考文献
[編集]- Bahaeddin Ögel. "Sino-Turcica: çingiz han ve çin'deki hanedanĭnĭn türk müşavirleri." (1964).
- 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
- 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝