イェルチュク
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イェルチュク(モンゴル語: Yelčük[1]、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では野里朮(yělǐzhú)と記される。イレジュとも[2]。
概要
[編集]イェルチュクの祖先は代々天山ウイグル王国のビシュバリク(漢訳は「五城」)に居住していたが、後に東アジア方面に移住した一族であった。イェルチュクの祖父のタシュ(Taš/達釈)は謀略に長けることで信任を得ており、チンギス・カンが中央アジアに進出したときには、これを懼れたウイグル王(イディクート)が錦衣・白貂帽でもってタシュを呼び出し、相談を受けたタシュはモンゴル帝国に降ることを勧めたという。その後、中央アジア遠征から戻った諸王はチンギス・カンに「タシュの子のイェルチュクは驍勇にして善く戦い、率いる部落もまた強大です。タシュは配下を率いて直接モンゴルに仕えたいと思っているが、未だその機会がないとも聞きます」と述べ、これを受けてチンギス・カンは駅馬500を用意してイェルチュクを迎え入れ、重用した[3]。
チンギス・カンのホラズム遠征が始まると、イェルチュクは親王アルチダイの軍団に属して遠征に同行した。この遠征でイェルチュクは多くの功績を挙げたので、四環衛のビチクチ長の地位を得た。1232年(壬辰)には第2代皇帝オゴデイによる金朝親征に加わって功績を挙げ、1234年(甲午)にはシギ・クトクによる漢地(ヒタイ=旧金朝領華北)の戸口調査を補助した[2]。この戸口調査(乙未年籍)を元に投下領の分配が行われた(丙申年分撥)[4]。死後は息子のテケチュクが地位を継いだ。
脚注
[編集]- ^ B.Ögel 1964 p.100
- ^ a b 牧野2012,161頁
- ^ 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝,「鉄哥朮、高昌人。世居五城、後徙京師。曾祖父達釈、有謀略、為国人所信服。太祖西征、高昌国主懼、以錦衣・白貂帽召達釈与謀。達釈知天命有帰、勧其主執贄称臣、以安其国、由是号為尚書。太祖班師、諸王言於帝曰『達釈之子野里朮驍勇善戦、所将部落又強大。聞其人毎思率衆効順而未有機便、盍致之乎』。太祖是其議、即詔給駅馬五百、迎与倶来。既至、引見、甚器重之」
- ^ 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝,「丙午、太祖西征、野里朮別従親王按只台与敵戦有功、甚見親遇。王方以絳蓋障日而坐、及聞野里朮議事、喜見顔色、称善久之、既退、撤其蓋送之十里。遂得兼長四環衛之必闍赤。壬辰、従国兵討金、以戦功最多、賞賚優渥。甲午、副忽都虎籍漢戸口、籌其賦役、分諸功臣以地、人服其敏」
参考文献
[編集]- Bahaeddin Ögel. "Sino-Turcica: çingiz han ve çin'deki hanedanĭnĭn türk müşavirleri." (1964).
- 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
- 『元史』巻135列伝22鉄哥朮伝