ティボー1世 (ロレーヌ公)
ティボー1世 Thiébaud Ier | |
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ロレーヌ公 | |
在位 | 1213年 - 1220年 |
出生 |
1191年ごろ |
死去 |
1220年2月17日 |
配偶者 | ジェルトリュード・ド・ダグスブール |
家名 | シャトノワ家 |
父親 | ロレーヌ公フェリー2世 |
母親 | アニェス・ド・バル |
ティボー1世(フランス語:Thiébaud Ier, 1191年ごろ - 1220年2月17日)は、ロレーヌ公(在位:1213年 - 1220年)。ロレーヌ公フェリー2世とアニェス・ド・バルの息子。
生涯
[編集]ブーヴィーヌの戦い
[編集]ティボー1世は1214年7月4日のブーヴィーヌの戦いで神聖ローマ皇帝オットー4世とともに戦い、敗走中に捕虜となった。ティボーはすぐに解放された。
家臣
[編集]ティボー1世は有力な領主であり、公領は神聖ローマ帝国の一部ではあったが、ほぼ独立した国として統治していた。ティボーには有力な家臣がいたが、その多くは独立に向けて努力し、それを実現させていった。これらの家臣には、メス司教、トゥール司教、ヴェルダン司教、バル伯(ただし、これらの領地はこの時点ではすでに事実上ロレーヌの一部ではなかった)、コメルシー領主、ヴォーデモン伯およびシニー伯(モンメディ領主でもある)などが含まれていた[1]。しかし、これらの領主に対するロレーヌ公の宗主権はおそらく名目だけのものであった。
シャンパーニュ継承戦争
[編集]彼は修道院長ジェルバーズから第5回十字軍の指導者の一人になるよう勧められたが、すでにシャンパーニュ継承戦争に巻き込まれており、辞退せざるを得なかったとみられる[2]。
1216年のシャンパーニュ継承戦争においては、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世、バル伯アンリ2世の支援を受けたシャンパーニュ伯ティボー4世との争いでブリエンヌ伯エラール1世を支持した。ロレーヌの宗主であるフリードリヒ2世は、自身が対立するエラール1世を支持することを重罪とみなし、ロレーヌ公フェリー2世に与えていたロスハイムを占領した。ティボー1世は1218年に反撃し、ロスハイムを奪回してアルザスを略奪した。これに対しフリードリヒ2世はロレーヌに侵攻し、首都ナンシーを占領して焼き払った。それからフリードリヒ2世はティボー1世が避難していたアマンスの城を包囲して占領した。ティボー1世は投獄され、解放されるためにシャンパーニュ伯の宗主権、エラール・ド・ブリエンヌのシャンパーニュに対する主張の正当性を認め、いくつかの領主の地位を放棄するよう強要された。ティボー1世は失った領地と名声を取り戻すことはなく、1220年に死去した。
近親殺し
[編集]1217年4月3日から10日の間に(シャンパーニュ継承戦争中)、ティボー1世は対立していた父方の叔父であるトゥール司教マチュー・ド・ロレーヌを捜索し、サン=ミッシェル=シュル=マールトのヴォワ・ド・パリュプトの小道で発見し、槍(殺人ではなく戦いを暗示している)で殺害した[3]。粗暴な司教を殺害するために使用した武器は、シャンパーニュ継承戦争中の同盟者であり、おそらく友人でもあったシモン・ド・ジョアンヴィルから借りたものと思われる。
領地と聖ヨハネ騎士団との関わり
[編集]ロレーヌ公の居城はナンシーにあった。1212年、妃ジェルトリュードを通じてダグスブール伯領とその首都ダボ城、そしてドルリスハイムを相続した[4]。過去のロレーヌ公と聖ヨハネ騎士団との関わりを考慮すると、救護所はティボー1世によって設立された可能性が高いとみられる[4]。また、皇帝から与えられたロスハイムも領有していたが、シャンパーニュ継承戦争に介入した際にロスハイムを奪われた。
ティボー1世はまた、アマンス城[5]、リュネヴィル城、ロレーヌ公爵城などを所有した。
性格
[編集]ティボー1世は非常に顔立ちが美しく才能があると記されており[6]、ティボー1世の軍歴より勇敢であったとも考えられる。それにもかかわらず、シャンパーニュ継承戦争において反対側に加わり、これを撤回することを拒否したことから、頑固であったか忠実であったかのどちらかであったとみられる。皇帝と対立することでティボー1世は大きな犠牲を払ったが、皇帝に対する激しい反応は、ティボー1世が物事をスムーズに進めるにはあまりにも気位が高かったことを示している。叔父のトゥール司教マチューの殺害は、特にそのような行為が特にひどいと考えられていた中世において、ティボー1世の性格をよく反映しているとはいえない。
結婚と継承
[編集]ティボー1世は1206年に、ダグスブール伯とメス伯アルベール2世の一人娘で女子相続人であったジェルトリュードと結婚した。2人の間には子供がおらず、夫が亡くなったとき彼女はまだ16歳であった[6]。弟マチュー2世がロレーヌ公位を継承した。未亡人となったジェルトリュードはティボー1世の宿敵シャンパーニュ伯ティボー4世と再婚した。
脚注
[編集]- ^ Poupardin 1911, p. 12.
- ^ Wolff 2017, p. 385.
- ^ Poull 1991.
- ^ a b Edbury 2013.
- ^ Perry 2018.
- ^ a b Thrupp 1870, p. 14.
参考文献
[編集]- Poupardin, René (1911). Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 9–12.
Upper Lorraine....the representatives of the hereditary house were ....Theobald (Thibaut) I. (1213–1220)...
. In - Wolff, Robert Lee (2017-01-30) (英語). A History of the Crusades, Volume 2: The Later Crusades, 1189-1311. University of Pennsylvania Press. pp. 385. ISBN 978-1-5128-1956-4
- Poull, Georges (1991). La Maison ducale de Lorraine, Nancy, Presses universitaires de Nancy. ISBN 2-86480-517-0, 575 p.
- Edbury, Professor Peter W. (2013-07-28) (英語). The Military Orders: Volume 5: Politics and Power. Ashgate Publishing, Ltd.. ISBN 978-1-4094-8321-2
- Perry, Guy (2018-08-16) (英語). The Briennes: The Rise and Fall of a Champenois Dynasty in the Age of the Crusades, c. 950–1356. Cambridge University Press. ISBN 978-1-108-18695-7
- Thrupp, Adelaide (1870) (英語). A Short History of Lorraine and Alsace: With Map and General Tables. Stanford Ed. p. 14
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