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ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス (紀元前462年の執政官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス
Titus Veturius Geminus Cicurinus
(T. Veturius T. f. Geminus Cicurinus)
出生 不明
死没 不明
出身階級 パトリキ
氏族 ウェトゥリウス氏族
官職 執政官(紀元前462年)
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ティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスラテン語: Titus Veturius Geminus Cicurinus、生没年不詳)は紀元前5世紀のローマの政治家で、紀元前462年執政官(コンスル)である。紀元前451年には十人委員会の一人であったと思われる[1]

家族

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パトリキ(貴族)であるウェトゥリウス氏族のキクリヌス家の生まれである。父は紀元前494年の執政官を務めた、同名のティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌス[2]。一族には、紀元前499年の執政官ガイウス(もしくはプブリウス)・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスがいる。

経歴

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執政官

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紀元前462年、ゲミヌスは同僚であるルキウス・ルクレティウス・トリキピティヌスと共に執政官に就任した。前年にはローマに疫病が流行し、執政官プブリウス・セルウィリウス・プリスクスルキウス・アエブティウス・ヘルウァアウグル(鳥占官)のティトゥス・ウェルギニウス・トリコストゥス・ルティルスとマニウス・ウェレリウス・ウォルスス・マクシムス、最高神祇官のセルウィウス・スルピキウス・カメリヌス・コルヌトゥスが犠牲になったが、そこからようやく回復したところだった[1]。執政官任期中に、新たな選挙制度に対する提案が出された。これはプブリウス・ウァレリウス・プブリコラインテルレクス(執政官不在の場合等におかれる5日間の最高権力職)のときであった[3]

アエクイとウォルスキとの戦争

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ローマが疫病で疲弊しているのを見たアエクイ族ウォルスキ族は、この機会を利用してローマおよびその同盟国であるヘルニキの領土を攻撃した。ゲミヌスはウォルスキを容易に撃退した。他方、ルキウス・ルクレティウスは、略奪品を持って撤退中の敵軍に大勝利し、ローマ領土から略奪された品物の大部分を取り戻した[4]。この勝利のため、ルキウス・ルクレティウスは凱旋式を、ゲミヌスは小凱旋式を実施した[5][6][7]

テレンティリウス法案

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両執政官がアエクイとウォルスキに対する作戦のためにローマを留守にしているときに、護民官ガイウス・テレンティリウス・ハルサ(en)が、執政官の権限を制限する特別法案を提出した[8][3]。執政官不在中のプラエフェクトゥス・ウルビ(首都長官)であるクィントゥス・ファビウス・ウブラヌスがこの法案に激烈な反論を加え、執政官が帰還するまで投票を延期すべしとし、実質的には他の護民官たちによって取り下げられた[9]。この法案はローマ社会に混乱を招き、パトリキとプレブスの対立が顕著となった挙句、キンキナトゥスの息子が追放されるなど紆余曲折を経て、紀元前451年/450年にローマ初の成文法である十二表法として実現する。

十人委員会

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紀元前451年、おそらく彼はローマ最初の十人委員会の一員に選ばれた。十人委員会は、ローマ最初の成文法である十二表法(初年度はそのうちの十の法)を制定し、定説によれば、1年間穏やかにローマを統治した[10][11][12]。しかし、古代の記録では名前の不一致が見られるために、実際に委員であったかは不明である。カピトリヌスのファスティ(執政官の名前が記録された石版)とシケリアのディオドロスプラエノーメン(個人名、ファーストネーム)を「スプリウス」としているが、リウィウスは「ルキウス」、ハリカルナッソスのディオニュシオスは「ティトゥス」としている。十人委員のほとんどは執政官経験者であるため、これに合致するのはティトゥス・ウェトゥリウス・ゲミヌス・キクリヌスと ガイウス・ウェトゥリウス・キクリヌス(紀元前455年の執政官)のみである[13]

脚注

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  1. ^ a b Broughton 1951, p. 35.
  2. ^ Broughton, p. 35.
  3. ^ a b Broughton 1951, p. 36.
  4. ^ ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、III. 8
  5. ^ Broughton 1951, p. 35-36.
  6. ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、III.10
  7. ^ ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代史』、IX. 71
  8. ^ Briquel 2000, p. 19.
  9. ^ Briquel 2000, p. 193.
  10. ^ シケリアのディオドロス『歴史叢書』、XII. 9
  11. ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、III. 33
  12. ^ ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代史』、X. 56
  13. ^ Broughton 1951, p. 46.

参考資料

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古代の著作

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現代の研究書

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  • Broughton, T. Robert S. (1951), “The Magistrates of the Roman Republic”, Philological Monographs, number XV, volume I (New York: The American Philological Association) I, 509 B.C. - 100 B.C. 
  • Briquel, Dominique (2000), “La nuit du Ve siècle” (French), Roman History. Tome I, Des origines à Auguste, pp. 163–202, ISBN 978-2-213-03194-1 

関連項目

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公職
先代
プブリウス・セルウィリウス・プリスクス
ルキウス・アエブティウス・ヘルウァ
執政官
同僚:ルキウス・ルクレティウス・トリキピティヌス
紀元前462年
次代
プブリウス・ウォルムニウス・アミンティヌス・ガッルス
セルウィウス・スルピキウス・カメリヌス・コルヌトゥス