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チョウル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

チョウルモンゴル語: Čo'ur、生没年不詳)は、チンギス・カンに仕えたモンゴル帝国の将軍で、ジュウレイト部の出身。漢字表記は『元史』では抄兀児(chāowùér)、『聖武親征録』では抄吾児(chāowúér)。

概要

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12世紀末、モンゴル部ではキヤト氏タイチウト氏という2大勢力が主導権争いを繰り広げていた。1190年代に入るとキヤト氏の指導者テムジン(後のチンギス・カン)が台頭し、ケレイト部や金朝と同盟関係を結んで勢力を拡大しつつあった。これに危機感を抱きつつあった反チンギスの諸勢力、コンギラトイキレスコルラスドルベンタタルカタキンサルジウト諸部[1]アルグン河の支流ケン河に結集してジャジラト氏出身のジャムカを「グル・カン」に推戴した。

この「ジャムカの推戴」の参加者にタガイカという人物がおり、チンギス・カンに仕えるチョウルとは以前から親しかった。ジャムカの推戴後、それを知らないチョウルがタガイカと馬を並べて走らせていると、タガイカは馬の鞭でチョウルの肋を叩き、意図を察したチョウルは一緒に下馬し、タガイカは立ち小便をしながらジャムカ推戴の経緯を話して聞かせた。驚いたチョウルは急ぎ戻り、偶然出会ったコルラス部のイェスゲイに相談し、イェスゲイは家人のコリダイ(火力台)を使者としてチンギス・カンの下に派遣することとした。コリダイの報告によってチンギス・カンは先手を打って軍を動かすことに成功し、ハイラル川における戦いでジャムカの軍勢を撃退した[2]。『元史』巻123抄兀児伝によると、この功績によってチョウルはダルハンの称号をチンギス・カンより与えられたという[3]。なお、ペルシア語史料の『集史』ではチョウルの存在については一切触れられず、「コルラス部のメルキタイ」が「コリダイ」を派遣してチンギス・カンにジャムカ推戴の情報を知らせたことのみが記されている[4]

チョウルの息子のナチン(那真)はセチェン・カアン(世祖クビライ)に仕えてイェケ・ジャルグチとなり、その息子のバンサル、孫のコルクダイがその後を継いだ。1328年には天暦の内乱で大都派につき、8月にはダウラト・シャー麾下のチャガン・ブカを捕らえて金字円牌を献上した。この功績により、同年11月にはイェケ・ジャルグチの地位に復職した[5]

脚注

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  1. ^ 『モンゴル秘史』のみはこれら7部族に加えて、メルキト部・ナイマン部も参加していたと記す(村上1970,312-313頁)
  2. ^ 『聖武親征録』「於是弘吉剌遂附札木合、与亦乞剌思・火羅剌思・朶魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀諸部、会於犍河、共立札木合為局児可汗、謀欲侵我、盟於禿律別児河岸、為誓曰『凡我同盟、於泄此謀者如岸之摧・如林之伐』。言畢、同挙足蹋岸、揮刀斫林、馳衆駆馬悉赴我軍。有塔海哈者時在衆中、上麾下照烈氏抄吾児与之親、往視之、偶並駆、実不知有是謀。塔海哈以馬鞭築其肋、抄吾児顧塔海哈目之、抄吾児悟、下馬佯旋。塔海哈因告之河上之盟曰『事急矣、汝何往』。抄吾児驚、即還遇火魯剌氏也速該言其事、将赴上告之。也速該曰『我長婦之子、与忽郎不花往来無旦夕、我左右只有幼子及家人火力台耳』。因命与火力台誓而往、乗以蒼驢白馬、属之曰『汝至彼、惟見上及太后兼我婿哈撒児則言之。荀泄於他人、願断汝腰、裂汝背』。誓訖乃行、中道遇忽蘭抜都・哈剌蔑力吉台軍囲、為其巡兵所執、以旧識得解。因贈以獺色全馬、謂曰『此馬遁可脱身、追可及人、可乗而去』。既又遇氊車白帳之隊往札木合所者、隊中人出追抄兀児。抄兀児乗馬絶馳而脱、至上前、悉告前謀。上即起兵迎之、戦於海剌児帖尼火羅罕之野、破之。札木合遁走、弘吉剌部来降」
  3. ^ 『元史』巻123列伝10召烈台抄兀児伝,「召烈台抄兀児、初事太祖、時有哈剌赤・散只兀・朶魯班・塔塔児・弘吉剌・亦乞列思等、居堅河之浜忽蘭也児吉之地、謀奉札木合為帝、将不利於太祖。抄兀児知其謀、馳以告太祖、遂以兵収海剌児阿帯亦児渾之地、尽誅札木合等。惟弘吉剌入降。太祖賜以答剌罕之名」
  4. ^ 志茂2013,727-728頁
  5. ^ 『元史』巻123列伝10召烈台抄兀児伝,「其子那真、事世祖、為也可札魯花赤。那真歿、子伴撒襲其職。伴撒卒、子火魯忽台襲。致和元年八月、執倒剌沙起軍之使察罕不花、並其金字円牌以献。天暦元年十一月、帝賜金帯、仍復其職。嘗奏言『有犯法者治之、当自貴人始。窮乏不給者救之、当自下始。如此則可得衆心矣』。其言良切於事弊云」

参考文献

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