チェスネキー・ジュラ
ユリウス1世 Julius I | |
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マケドニア大公 | |
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在位 | 1943年 |
別号 | ピンドス公国摂政 |
出生 |
1914年 オーストリア=ハンガリー帝国 |
死去 |
1970年 ブラジル |
家名 | チェスネキー家 |
チェスネキー・ジュラ(Cseszneky Gyula, 1914年 - 1970年)は、第二次世界大戦中のイタリア王国の傀儡政権ピンドス公国・マケドニア公国の名目的な君主。ハンガリー王国の名門貴族チェスネキー家の当主であり、チェスネキー(en)伯爵、Milvány男爵、初代バコニ伯爵。多彩な人物で詩人かつ翻訳家で冒険家でもあった。
生涯
[編集]元々はカトリックの司祭を目指していたが、軍人を志すようになった。イタリアの士官学校に通い、ピオンビーノ公バルダッサーレ・ボンコンパーニ の援助を受けた。この間にイタリア文学に耽溺し、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの詩をハンガリー語に翻訳するなどしている。
1940年の第二次ウィーン裁定後には、予備役の参謀将校としてトランシルヴァニアに進駐し、摂政ホルティ・ミクローシュよりヴィテーズ・Milványiの称号を贈られた。1941年にはクロアチア独立国のトミスラヴ2世よりバコニ伯の称号を受けた。1943年にイタリアが建設したピンドス公国の摂政となり、その後成立したマケドニア公国では大公ユリウス1世として国家元首に就任したが、どちらの場合も実権を保持していなかった。さらに1943年9月にはイタリアが連合国に降伏したため、ナチス・ドイツの手によってバルカン半島は占領された。チェスネキーは強制退位させられ、ハンガリーに帰国した。兄チェスネキー・ミハーイ がミカエール1世として即位するよう求められたが拒否し、公国自体が消滅した。
チェスネキーは反ナチス主義者であり、ユダヤ人の親族もいたためゲシュタポに追われることになった。またブダペストではナチスの迫害からユダヤ人の救出をしたため、戦後にはイスラエルより「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られている。
戦後、チェスネキーはハンガリー共産政権から逃れるため、同様に傀儡君主であったトミスラヴ2世とともにアルゼンチンに亡命した。その後チェスネキーはブラジルで生活し、1970年に死亡した。