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チェザーレ・アルフィエリ・ディ・ソステーニョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チェザーレ・アルフィエリ・ディ・ソステーニョ
Cesare Alfieri di Sostegno
生年月日 (1799-08-13) 1799年8月13日
出生地 サルデーニャの旗 サルデーニャ王国トリノ
没年月日 (1869-04-16) 1869年4月16日(69歳没)
死没地 イタリア王国の旗 イタリア王国フィレンツェ
所属政党 歴史的右翼

サルデーニャ王国第3代首相
内閣 アルフィエリ内閣
在任期間 1848年8月15日 - 1848年10月11日
国王 カルロ・アルベルト

サルデーニャ王国上院議長
在任期間 1855年6月8日 - 1860年12月28日
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チェザーレ・アルフィエリ・ディ・ソステーニョ(イタリア語: Cesare Alfieri di Sostegno, 1799年8月13日1869年4月16日)は、イタリアイタリア統一運動時代の政治家外交官愛国者である。サルデーニャ王国首相を務めた。貴族劇作家ヴィットーリオ・アルフィエーリの従兄弟である。単にチェザーレ・アルフィエリとも[1]

生涯

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チェザーレ・アルフィエリは1799年8月13日トリノ貴族の家に生まれた。1816年には外交官としてのキャリアを開始し、パリのサルデーニャ王国大使館では自身は外交官として、アルフィエリの父親はサルデーニャ王国の大使として勤務した。その後もハーグベルリンのサルデーニャ王国大使館に勤務し、また1818年にはアーヘン1820年にはオパヴァ1821年にはリュブリャナの国際会議に参加した[2][3]

1826年にはトリノに戻り、当時まだ王位継承者であったカルロ・アルベルトの第一従者の地位を獲得した。そこで政治的な助言をするなどの手腕を発揮し、1838年には新しく設立された国務院のメンバーに、1842年にはトリノ農業協会のメンバーになった[2]

イタリア統一の機運が高まる中、アルフィエリはほかの統一を目指す志士たちとはさほど交流を持たず政務に専念。思想としてはイタリア統一を絶対視しない、革命よりも改革を優先する穏健派であった[2]。そのため、1847年ごろからはカルロ・アルベルトの命を受け、ルイージ・デ・アンブロアイタリア語版ジャチント・ボレッリなどとともにアルベルト憲法英語版の起草に貢献[4]1848年4月3日にはサルデーニャ王国の上院議員に選出され、1848年8月15日から1848年10月11日にかけては第3代サルデーニャ王国首相を務めた。アルフィエリが就任したのはサラスコの休戦イタリア語版の直後であり、任期二カ月の間アルフィエリは休戦中の国内の立て直しや軍の再編成に尽力した[2]

健康上の都合により首相から退陣後、1855年6月8日から1860年12月28日にかけてはサルデーニャ王国の上院議長を務めた。その後、1869年にはフィレンツェで死去[2]

脚注

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  1. ^ AlfièridiSostégno、Césare (イタリア語)
  2. ^ a b c d e ALFIERI di Sostegno, Cesareイタリア人名辞典 (イタリア語)
  3. ^ Il Parlamento del Regno d'Italia/Cesare Alfieri di Sostegno(イタリア語)
  4. ^ 黒須純一郎『イタリア社会思想史 リソルジメント民主派の思想と行動』 30ページ

関連項目

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