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ダービー・レースコースのローマ定住地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダービー・レースコースのローマ定住地
Derby Racecourse Roman settlement
簡素な水差し
レースコースの定住地跡から見つかった、緑の釉薬が使われた水差し
ダービー・レースコースのローマ定住地の位置(ダービーシャー内)
ダービー・レースコースのローマ定住地
ダービーシャーにおけるデルベンティオの位置
所在地 ダービーシャーのダービー
地域 東ミッドランズ
座標 北緯52度56分01秒 西経1度28分25秒 / 北緯52.933735度 西経1.473586度 / 52.933735; -1.473586
種類 ローマ砦
所属 イックニールド・ストリート英語版
歴史
完成 120
追加情報
ウェブサイト www.roman-britain.org/places/derventio_coritanorum.htm
Pastscape

ダービー・レースコースのローマ定住地(ダービー・レースコースのローマていじゅうち、: Derby Racecourse Roman settlement)はダービーで3番目の定住地であり、当時のデルベンティオはブリタンニアローマ属州における小さな町であった。この定住地はイングランドダービーシャー州のダービー郊外にあたるリトル・チェスター英語版デルベンティオ砦英語版から東へ 600 メートル行った所にあった[1]。デルベンティオからトレント川を横切りソウレイ英語版へと向かうローマ街道がこの定住地を通っていた。ここは歴史的な指定記念物英語版に指定されている。

概要

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この地域の最初のローマ砦は、ダーウェント川英語版対岸のストラッツ・パークに造られた。この砦は紀元80年頃、リトル・チェスター英語版の砦に置き換えられたが、その砦も 40 年ほど使われただけで放棄された。その後、さらに 25 年間再使用された時期があり、3世紀末に町の周囲に石壁が築かれるまでまた放棄された[2]。当時リトル・チェスターの広範囲にわたってローマ人が活動していたという証拠がある。ダービー・レースコースのローマ定住地が開かれたのは紀元90年頃である[3]。ここはローマ砦に伴って民間人の定住が行なわれた重要な事例であると、イングリッシュ・ヘリテッジは考えている。ローマ軍の砦がある所(この場合ならばデルベンティオ英語版)には、それに付随して民間人の定住が行なわれた。これは先住民のコーノヴィアイがローマの生活様式を受け入れ、ローマ経済に組み込まれつつあった事を示している。いわゆる、ローマ化である[4]

ここでは陶器窯が見つかっており、これらは紀元90年から、製鉄が始まった2世紀半ばにかけてのものである。写真の水差しはこの定住地で焼かれ、現在はダービー博物館に保管されている。また広い共同墓地には、5つの石からなるがある[5]

歴史

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ブリタンニアのこの地域はコーノヴィアイ英語版と呼ばれる部族が住んでいた。紀元46年-47年の時点で、アウルス・プラウティウス英語版総督に率いられたローマ軍は、おそらくはこの地をトレント川の南に至るまで占領しており、紀元50年にはここは国境の地であった。この時代に関する文献は乏しいため、研究は考古学的な発掘に頼ることになる。47年の末、ブリテンの新しい総督となったオストリウス・スカプラ英語版は西部山地地帯(現在のウェールズ)およびチェシャー平野英語版の諸部族に対して軍事行動を開始した。その間、ロクシター英語版ロッシントン英語版を結ぶ補給路に沿って砦がいくつか新しく造られ、ストラッツ・パークのローマ砦もその一つにあたる。

クゥイントゥス・ヴェラニウス英語版総督とその後任ガイウス・スエトニウス・パウリヌスの下でサイルァリズ英語版たちの征服が続けられたが、その頃にはストラッツ・パーク砦の役割は治安維持に変わっていた。74年頃、マージー川の北側で争乱が起こり、カルティマンドゥア英語版女王はローマ軍に対し、反乱鎮圧の援軍を要請した。そして紀元78年、グナエウス・ユリウス・アグリコラが総督となった。彼は義理の息子タキトゥスが記した、非常に賛美に満ちた伝記によって著名である。彼はこの砦を強化し、道路を整備し、今も文献で詳らかとなっている一連の軍事行動を率いた。まず紀元78年に北ウェールズを再征服し、次いで79年にブリガンティズ英語版パリジアイ英語版を征服し、北イングランドを現在のスコットランドとの境界まで占領した。ストラッツ・パーク砦は放棄され、紀元80年にデルベンティオ砦英語版が造られた。

ハドリアヌス帝は120年にブリタンニアを訪れ、長城の建設を命じた。ブリタンニアには常に多くの駐屯軍がいたが、政策の重点は産業による生産へと移っていた。ダービーでは陶器が生産され、また後に金属加工の中心地となるピーク・ディストリクト英語版にある北の鉛鉱山との関係を保った。この状況がその後200年間ほど続いた。

脚注

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  1. ^ Burnham, Barry C; Wacher, John (1990), The Small Towns of Roman Britain, London: B T Batsford, ISBN 9780520073036 
  2. ^ Vinnels, Maria (2006年6月15日). “Manor Kingsway SPD Derby” (PDF). White Young Green Envronment Ltd for English Heritage. 2011年7月25日閲覧。
  3. ^ Roman industrial site on Derby Racecourse”. Pastscapes. イングリッシュ・ヘリテッジ. 2011年7月25日閲覧。
  4. ^ Derby Racecourse Roman vicus & cemetry” (PDF). Derby City Council. 2011年7月25日閲覧。
  5. ^ Clay, Patrick; Sam George (2008年). “An Archaeological Desk-Based Assessment for Proposed Development at the former Union Iron Foundry, City Road, Derby (SK 353 372)” (英語). University of Leicester Archaeological Services. 2011年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月25日閲覧。

外部リンク

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参考文献

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  • M. Brassington (1971), “A Trajanic kiln-complex near Little Chester, Derby”, Antiquaries Journal 51: 36-69 
  • M. Brassington (1981), “The Roman roads of Derby”, Derbyshire Archaeological Journal 101: 88-92 
  • M. Dearne (1991), “The military vici of the South Pennines: retrospect and prospect”, in R. Hodges, K. Smith, Recent Developments in the Archaeology of the Peak District, Sheffield: Sheffield University Press, pp. 69-84, ISBN 978-0906090381 
  • J. Dool, H. Wheeler et al. (1986), “Roman Derby - Excavations 1968-1983”, Derbyshire Archaeological Journal 105, 1985 
  • J. Dool (1986), “Roman Derby - Excavations 1968-1983”, Derbyshire Archaeological Journal 105, 1985: 155-221  - "Derby Racecourse: Excavations on the Roman Industrial Settlement, 1974"
  • Vivien G. Swan (1984), The Pottery Kilns of Roman Britain, London: Royal Commission on the Historical Monuments of England, ISBN 978-0117012035