ソユルガトミシュ (ウイグル人)
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ソユルガトミシュ(モンゴル語: Soyurgatmiš、? - 1321年)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は鎖咬児哈的迷失(suǒyǎoérhādemíshī)。
概要
[編集]ソユルガトミシュは初期のモンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人のタブンの息子のアルキシュ・テムルの孫のデルヴィシュの息子で、12歳よりシデバラ(後の英宗ゲゲーン・カアン)の親衛隊(ケシクテイ)に仕えていた。ゲゲーン・カアンが即位すると監察御史の地位を授けられている[1]。
1321年(至治元年)春には寿安山に寺院の建設が始まったが、ソユルガトミシュ・御史の観音保・成珪・李謙亨らはこれを民に負担を強いるものであるとして批判した[2]。この頃、皇太后ダギの信任を得たテムデルが事実上朝政を牛耳っていたが、テムデルの息子のソナムは密かにゲゲーン・カアンにソユルガトミシュがケシクの旧臣ながら不敬であると述べ、これによってソユルガトミシュ・観音保・成珪・李謙亨らは処刑とされた[3]。
ゲゲーン・カアンが南坡の変によって暗殺され、イェスン・テムル・カアン(泰定帝)が即位すると、ソユルガトミシュの名誉回復がなされて資徳大夫・御史中丞・上護軍の地位が追贈された[4]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「鎖咬児哈的迷失、年十二、宿衛英宗潜邸、掌服御諸物。英宗即位、拝監察御史」
- ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「至治元年春、詔起大刹于京西寿安山、鎖咬児哈的迷失与御史観音保・成珪・李謙亨上章極諫、以為東作方始、而興大役、以耗財病民、非所以祈福也。且歳在辛酉、不宜興築」
- ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「初、司徒劉夔妄献浙右民田、冒出内帑鈔六百万貫、丞相帖木迭児分取其半、監察御史発其姦、由是疾忌臺諫。至是、帖木迭児之子瑣南為治書侍御史、密奏曰『彼宿衛旧臣、聞事有不便、弗即入白、今訕上以揚己之直、大不敬』。帝乃殺鎖咬児哈的迷失与観音保、杖珪・謙亨、黥之、竄諸遐裔」
- ^ 『元史』巻124列伝11塔本伝,「泰定初、贈鎖咬児哈的迷失資徳大夫・御史中丞・上護軍、追封永平郡公、諡貞愍。賜其妻子鈔五百貫・良田千畝、仍詔樹碑神道」
参考文献
[編集]- 『元史』巻124列伝11塔本伝