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センナケリブの年代記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
センナケリブの年代記
大英博物館
テイラーの角柱(Taylor Prism)、ロンドン
シカゴ大学東洋研究所博物館
東洋研究所の角柱、シカゴ
イスラエル博物館
イェルサレムの角柱、イスラエル
センナケリブの年代記(前704年-前681年)。ユダ王国への侵攻を含む彼の軍事遠征について記されている。
材質年度
寸法不定
文字アッカド語楔形文字
製作前690年頃
発見1830年以降
所蔵最終版が大英博物館[1]シカゴ大学東洋研究所博物館英語版イスラエル博物館に収蔵。

本項ではアッシリアの王センナケリブが残した年代記(センナケリブの年代記)について解説する。彼の年代記が刻まれた考古学的遺物は複数発見されており、3つの粘土角柱に最終の版となる同一の文章が刻まれている。3つの角柱はそれぞれ大英博物館(テイラーの角柱、Taylor Prism)、シカゴ大学東洋研究所博物館英語版(東洋研究所の角柱、Oriental Institute Prism)、イェルサレムイスラエル博物館(イェルサレムの角柱、Jerusalem Prism)に収蔵されている。このうちテイラーの角柱は楔形文字が解読される数年前に発見され、現代考古学によって分析された最初期の楔形文字文書の1つとなった。

この年代記はヒゼキヤ王時代のイェルサレム市に対するセンナケリブの包囲についての記述によって有名である。この出来事は『旧約聖書』の『イザヤ書』(第36章および第37章)、『列王記』(下、第18章17)、『歴代誌』(第32章9)など、複数の聖書史料に記録が残されている。またセンナケリブによる侵攻はヘロドトスによっても言及されている。ただし彼はユダヤには言及しておらず、この侵攻がナイルデルタの東端にあるペルシウムで終わったと述べている[2]

概要と発見

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センナケリブの年代記の最終版は楔形文字アッカド語)で記述されており6つの段落がある。年代記が記された角柱は六角形で、赤い焼成粘土で作られており、高さは38.0センチメートル、幅は14.0センチメートルで、制作されたのはセンナケリブ治世下の前689年(シカゴ)および前691年(ロンドン、イェルサレム)である。

テイラーの角柱はロバート・テイラー大佐(Colonel Robert Taylor、1790年-1852年)によって1830年にニネヴェで発見されたと考えられている。ニネヴェはセンナケリブ王の時代、アッシリア帝国の首都であった。ニネヴェが初めてボッタ(Botta)とレヤード(Layard)によって発掘調査されるのはこの角柱の発見から10年以上後のことである[要説明]。角柱は1846年までイラクにあり、1835年に25歳のヘンリー・ローリンソンによってpaper squeeze(濡らした濾紙を碑文に圧しつけて作る反転コピー)が作られ、また1845年にピエール・ヴィクトリアン・ロッタン英語版によって石膏型が作成された[3]。オリジナルはその後失われたと考えられていたが、1855年にテイラー大佐の未亡人から大英博物館が購入した[4](テイラー大佐は恐らくジョン・ジョージ・テイラー英語版の父である。彼も著名なアッシリアに関する探検家、および考古学者となった[5] 。)

テイラーの角柱の全体像ならびにクローズアップ。大英博物館

センナケリブの角柱(Sennacherib Prism)として知られる角柱からこの文書の別バージョンが見つかっている。これは現在東洋研究所(Oriental Institute)にある。これはシカゴのシカゴ東洋研究所英語版のためにジェームズ・ヘンリー・ブレステッドによって1919年、バグダードの古物商から購入された[6]。イェルサレムの角柱はイスラエル博物館が1970年にサザビーズオークションで取得した[7]。イェルサレムの角柱の碑文が公刊されたのは1990年になってからである[8]

これら3つの完本の碑文はほぼ同一であるが僅かな違いがあり、角柱に残された日付から制作時期に16か月の間が空いていることがわかる(テイラーおよびイェルサレムの角柱は前691年、東洋研究所の角柱は前689年)。また、この文書の一部が残されている少なくとも8つの角柱断片があり、全て大英博物館に収蔵されている。これらの断片の大部分は数行程度しか残されていない。

東洋研究所の角柱はダニエル・デーヴィッド・ラッケンビル英語版によって翻訳された。アッカド語原文は英訳と共に彼の著作『The Annals of Sennacherib』(University of Chicago Press, 1924)に掲載されている[9]

年代記の重要性

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角柱上に記されたイェルサレムの文字。
角柱上に記されたユダ王ヒゼキヤの文字。

この年代記はセンナケリブが彼のイスラエル王国ユダ王国に対する遠征について残した記録のなかで、現在までに発見されている3点のうちの1つであり、この出来事について『旧約聖書』「列王記」とは異なる視点の情報を提供している。

『旧約聖書』のいくつかの句(「列王記」18章-19章)の記録は、少なくともセンナケリブの年代記のいくつかの記録と一致している。『旧約聖書』にはアッシリアによるサマリア攻撃成功、その結果としての人々の追放が語られており、また後にはラキシュへの攻撃がヒゼキヤの和平の求めによって終わったこと、和平に際してセンナケリブが300タラントンの銀と30タラントンの金を要求し、ヒゼキヤが宮殿とイェルサレム神殿にある全ての銀と、金で覆われた神殿の扉と側柱(doorposts)をセンナケリブに引き渡したことが記録されている[10]。これに対して、テイラーの角柱では城壁で囲われた46の都市と数えきれないほどの小集落がアッシリア軍によって征服され、200,150人の人々と家畜がその土地を追われたこと、征服された土地は返還されることはなくペリシテ人の3人の王に分けられたことが宣言されている。加えて、センナケリブの年代記では、センナケリブの包囲によってヒゼキヤが「籠の鳥のように」イェルサレムに閉じ込められると、ヒゼキヤの傭兵たちと「アラブ人[注釈 1]」は彼を見捨て、ヒゼキヤは最終的にセンナケリブにアンチモン、宝石、象牙をはめ込んだ家具、自分の娘、ハレム、演奏家たちを引きわたさざるを得なくなったと述べられている。そしてヒゼキヤは属王となったとされている。


「我が権威の前に服従せざる者、ユダの王ヒゼキヤについて、余は我が破城槌をもって戦いに望み、多くの小都市と共に46の要塞化された彼の都市を包囲し占領した...余は200,150人の人々を老いも若きも、男も女も捕らえ、ウマ、ラバ、ロバ、ラクダ、ウシ、ヒツジなど大量の動物たちも捕らえた。ヒゼキヤについては、余は彼を、彼の王都イェルサレムに籠の鳥の如く閉じ込めた。それから余は彼の周囲に城塞群を築き、何者もイェルサレムの市門を出ることを許さなかった。余が占領した彼の町々は、アシュドドの王ミティンティ英語版エクロンの支配者パディ(Padi)、ガザの王シリ・ベル(Silli-bel)に与えた[12]。」

その後、ヒゼキヤの貢納について言及されているが、センナケリブによるイェルサレム占領については何も言及がない。

注釈

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  1. ^ ここでいう「アラブ人」は現代のアラブ人と厳密に対応する存在ではない。「集団名としてのアラブは、早くも前9世紀の新アッシリアなどの碑文に登場する。ただし、そのアラブが、アラビア語を話す言語集団を指しているとは限らず、アラビア半島に暮らす遊牧民を指す概念であった可能性も否定できない。実際、セム語派の諸言語においてこの語は砂漠遊牧民渡り鳥などと関連しており、クルアーンでも『アラブ』ではなく、複数形の『アアラーブ』が遊牧民を指して用いられている」(赤堀[11])。

出典

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  1. ^ The Taylor Prism / The Sennacherib Prism / Library of Ashurbanipal”. British Museum. 2024年7月閲覧。
  2. ^ Chapter 141”. 2016年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月閲覧。
  3. ^ Outline of the history of Assyria: as collected from the inscriptions discovered by Austin Henry Layard, Esq. in the ruins of Nineveh”. London : John W. Parker and Son, West Strand (11 November 2017). 2024年7月閲覧。
  4. ^ British Museum”. 2015年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月閲覧。
  5. ^ Mr. Taylor in Chaldaea, E. Sollberger, Anatolian Studies, Vol. 22, Special Number in Honour of the Seventieth Birthday of Professor Seton Lloyd (1972), pp. 129–139
  6. ^ Sennacherib Prism”. www.kchanson.com. 2024年7月閲覧。
  7. ^ Hezekiah's Defeat: The Annals of Sennacherib” (22 January 2009). 2024年7月閲覧。
  8. ^ Ling-Israel, P., "The Sennacherib Prism in the Israel Museum—Jerusalem," pp. 213–47 in Bar-Ilan: Studies in Assyriology Dedicated to Pinḥas Artzi (ed. J. Klein and A. Skaist; Ramat-Gan: Bar-Ilan University Press, 1990).
  9. ^ Luckenbill, Daniel David (1924). The Annals of Sennacherib, Oriental Institute Publications 2. University of Chicago Press. http://oi.uchicago.edu/pdf/oip2.pdf 
  10. ^ 2 Kings 19:1–36
  11. ^ 中東・オリエント文化事典 2020, p. 108 「3. 人と言語」(赤堀)
  12. ^ 英訳からの重訳。

読書案内

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  • Dewar, Ben. 2017. "Rebellion, Sargon II's 'Punishment' and the Death of Aššur-Nādin-Šumi in the Inscriptions of Sennacherib". Journal of Ancient Near Eastern History 3, no. 1: 25–38.
  • Frame, Grant, ed. 2011–2014. Royal Inscriptions of the Neo-Assyrian Period Project (RINAP). Winona Lake, IL: Eisenbrauns. (Also see http://oracc.museum.upenn.edu/rinap/corpus/)
  • Geyer, John B. 1971. "2 Kings XVIII 14–16 and the Annals of Sennacherib". Vetus Testamentum 21, no. 5: 604–6.
  • Grabbe, Lester L., ed. 2003. "Like a Bird in a Cage: The Invasion of Sennacherib in 701 BCE". Journal for the Study of the Old Testament Supplement Series. 363 Sheffield, UK: Sheffield Academic Press.
  • Ornan, Tally. 2007. "The Godlike Semblance of a King: The Case of Sennacherib's Rock Reliefs". In Ancient Near eastern Art in Context: Studies in Honor of Irene J. Winter by her Students. Edited by Jack Cheng and Marian H. Feldman, 161–78. New York: Brill.
  • Russell, John Malcolm. 1991. Sennacherib's Palace Without Rival at Nineveh. Chicago: University of Chicago Press.
  • Seitz, Christopher R. 1993. "Account A and the Annals of Sennacherib: A Reassessment". Journal for the Study of the Old Testament 18, no. 58: 47–57.
  • Ussishkin, David英語版. 1982. The Conquest of Lachish by Sennacherib. Tel Aviv: Tel Aviv University Institute of Archaeology.
  • Ussishkin, David. 2015. "Sennacherib's Campaign in Judah: The Conquest of Lachish". Journal for Semitics 24, no. 2: 719–58.
  • 赤堀雅幸「3. 人と言語 アラビア語とアラブ」『中東・オリエント文化事典』丸善、2020年10月、106-109頁。ISBN 978-4-621-30553-9 

外部リンク

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