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セシル・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セシル・ド・フランス
Cécile de France
アンティオキア公国摂政の妃
トリポリ伯妃

出生 1097年
死去 1145年
埋葬 エルサレム王国聖墳墓教会
配偶者 アンティオキア公国摂政タンクレード
  トリポリ伯ポンス2世
子女 トリポリ伯レーモン2世
家名 カペー家
父親 フィリップ1世
母親 ベルトラード・ド・モンフォール
宗教 キリスト教カトリック
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セシル・ド・フランスCécile de France1097年 - 1145年以降死亡)は、カペー家の女性。フランスフィリップ1世ベルトラード・ド・モンフォールの娘。

生涯

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セシルが誕生した時、彼女の両親はそれぞれ前の配偶者との離婚が成立しておらず、重婚状態であったため、彼女は庶子とみなされた。彼らの先の結婚が聖職者の集会で無効とされたが、シャルトル司教イヴと当時のローマ教皇ウルバヌス2世は2人のそれぞれの結婚の無効と再婚に反対し、2人を破門した。セシルが正嫡として認められたのは、1104年にベルトラードが教皇の決定に従ってフォントヴロー修道院に隠退し、破門が解かれた際であった。

1106年、アンティオキア公で第一回十字軍の騎士ボエモン・ド・タラントは、支援を求めてヨーロッパへ行き、セシルの異母姉であるコンスタンスと結婚した。ボエモンは自らの名声と幸運を利用して、自らの甥であるタンクレードとセシルの結婚交渉を同時に行った。タンクレードは当時アンティオキア公国の摂政であった。公は当代きっての勇猛な騎士を迎え、エルサレム占領後ずっと彼はゴドフロワ・ド・ブイヨンに同行して出征し、ガリラヤ公国を占領した。ゴドフロワの弟で後継者であるボードゥアンが同意しなかったので、彼はアンティオキアにつながるガリラヤを割譲し、叔父が不在の間の摂政をタンクレードに務めさせた。

セシルは婚約者と合流するため、海路でアンティオキアへ向かった。東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは、フランスとアンティオキアの同盟が帝国と敵対するのではと恐れ[1]、同盟の成立を防ぐためにジェノヴァ共和国、ピサ共和国、ヴェネツィア共和国に船を迎撃する要請したが、迎撃したとは伝えられていない。アンティオキアに到着したセシルは、1106年の終わりにタンクレードと結婚した。

ドゥラッツォでアレクシオス1世コムネノスによって打撃を受けたボエモンは、タンクレードが摂政を務めるアンティオキアに戻ることなく、1111年に死去しタンクレードが公位を継承した。しかし、タンクレードは大流行していた腸チフスに感染し、自分の死期が迫っていることを自覚し、死の床で、セシルにトリポリ伯ポンスと結婚するよう要請した。それは、聖地における十字軍の行動を害していた、アンティオキアとトリポリ2か国の対立に終止符を打つためであった。

セシルとポンスの結婚は1112年にトリポリで行われ、その後1116年にセシルは将来トリポリ伯となるレーモンを出産した。1132年、モンフェラン要塞はトルコ人集団に包囲されていた。ポンスは敵に攻城戦を仕向けたが、後退して要塞に避難しなければならなかった。この知らせを聞いたセシルは、トルコ人集団を退却させることができる異父兄エルサレムフルク・ダンジューに警告するために、躊躇せずエルサレムへ向かった[2][3]

1137年にポンスが死去すると、セシルは寡婦資産としてジベレ領を要求したが、実際にはシャステル・ルージュとアルズガンを受け取った。彼女は聖墳墓のため寄付を行った1139年に名前が現れ、1145年以降歴史から姿を消した。

脚注

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  1. ^ ボエモンは対東ローマ遠征を迅速に組織したが、1107年にドゥラッツォの戦いで敗れた
  2. ^ セシルの母ベルトラードは、フィリップ1世と結婚する以前は、アンジュー伯フルク4世の妻であった。セシルとフルク・ダンジューは同じ母から生まれた異父兄妹である。
  3. ^ エストワール・デラクレス(Estoire d'Éraclès)より