スヴォボードナヤ・グルジア
スヴォボードナヤ・グルジア Свободная Грузия | |
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種類 | 週刊紙 |
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事業者 | 有限会社『スヴォボードナヤ・グルジア』[1] |
本社 | ジョージア |
代表者 | タト・ラスヒシュヴィリ[2] |
創刊 | 1922年5月3日 |
前身 |
『ザリャー・ヴォストーカ』(1922年 - 1991年) 『ヴェースニク・グルジー』(1991年) |
言語 | ロシア語 |
発行数 | 3万部(2009年)[1] |
従業員数 | 15人(2009年)[1] |
『スヴォボードナヤ・グルジア』(ロシア語: «Свободная Грузия»、「自由なジョージア」)は、南コーカサスのジョージアで発行されているロシア語新聞。ジョージア国内のマイノリティに向けた情報提供を使命とする[2]。
沿革
[編集]1922年5月3日、ボリシェヴィキ・ザカフカース地方委員会機関紙『ザリャー・ヴォストーカ』(«Заря Востока»、「東方の夜明け」)として創刊[3]。1936年にザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が解体されてからは、グルジア・ソビエト社会主義共和国の政府機関紙となっていた[3]。トビリシに本社を置き週6日発行し、1957年には創刊35周年および通巻1万号突破を賞して労働赤旗勲章を授与されている[3]。1972年の発行部数は13万部であった[3]。
ソビエト連邦の崩壊に際して1991年初頭、グルジア閣僚会議は『ザリャー・ヴォストーカ』と『モロジョージ・グルジー』(«Молодежь Грузии»、「グルジア青年」)を合併し、『ヴェースニク・グルジー』(«Вестник Грузии»、「グルジアの伝令」)とすることを決定した[1]。しかし、3か月後の同年4月10日に紙名は『スヴォボードナヤ・グルジア』へと改題された[1]。1997年からは電子版も発行され[1]、アメリカの国際報道機関「ワシントン・プロファイル」が行った「アナリストが参考にするロシア語新聞11」のアンケートにもロシア国外から唯一選ばれている[4]。しかし、発行形態は連日であったものが週3日、2006年からは週刊へと縮小し、ルースキー・ミール財団からの援助も受けたが[1]、2012年9月27日号を最後に財政難を理由として休刊となった[2]。
その後、再建相パアタ・ザカレイシュヴィリの指導による文化・遺跡保護省からの資金援助により、『スヴォボードナヤ・グルジア』は翌2013年5月末に週刊紙として復刊した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g Mchedlidze, David (2009年11月23日). “Газета «Свободная Грузия»”. media.ge. 2016年6月16日閲覧。
- ^ a b c d “Газетасакцентом–"СвободнаяГрузия"возобновилавыпуск”. Sputnik Грузия. (2013年6月6日)
- ^ a b c d Заря Востока // Евклид — Ибсен. — М. : Советская энциклопедия, 1972. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 9).
- ^ “Газета "Свободная Грузия" получила международное признание Путин - худший преступник века”. Кавказский Узел. (2004年5月20日) 2016年6月16日閲覧。