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ストロベリーロード (競走馬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ストロベリーロード
欧字表記 Strawberry Road
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1979年9月28日[1][2]
死没 1995年6月1日[1]
Whiskey Road
Giftisa
母の父 Rich Gift
生国 オーストラリアの旗 オーストラリア
生産者 J. Pantos & G. Georgopoulos[1]
馬主 J. Pantos & A. Pantos, G. Georgopoulos,
M. Menegazzo, Ray Stehr, John Singleton
Daniel Wildenstein
→Allen E. Paulson & Summa Stable[1]
調教師 Doug Bougoure
→John Nicholls
→Patrick Biancone
Charlie Whittingham[1]
競走成績
生涯成績 45戦17勝[1][2]
獲得賞金 1,713,958ドル[1]
※アメリカドル換算
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ストロベリーロードStrawberry Road, 1979年9月28日 - 1995年6月1日)は、オーストラリア出身のサラブレッド競走馬種牡馬。出身国のオーストラリアでオーストラリアンダービーなどを制したのちに国外に渡り、フランスドイツアメリカ合衆国などでも競走生活を送った。2009年にオーストラリア競馬名誉の殿堂入りを果たしている[3]

経歴

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オーストラリア時代(1979-1983)

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ストロベリーロードはニューサウスウェールズ州の生産者であるJ・パントスとG・ゲオルゴポウロスの両名に生産された牡馬であった。父ウィスキーロードは豪華な血統ながら未出走に終わった馬で、その種付け料も1500ドルと安く、また母ギフティサもセリ市で3000ドルで購入してきた安馬であったという[1]。生産者の2名のほかに、A・パントス、M・メネガッゾ、レイ・スター、ジョン・シングルトンらの共同名義で競走馬として登録され、クィーンズランド州のダグ・ボーガー調教師のもとに送られた。

1981/1982年の2歳シーズンの終わりごろにデビュー、2戦して勝てなかったものの、その後シーズンを跨いだ[注 1]1982年8月11日にイーグルファーム競馬場の未勝利ハンデキャップ戦で初勝利を挙げた。その後の条件戦も勝ち進んで4連勝を挙げたのち、シドニーローズヒルガーデンズ競馬場で行われたホーバートヴィルステークス(G2・芝1400メートル)で重賞初挑戦、マースケイ英語版の2着に食い込んだ。

その次にはローズヒルギニー(G1・ローズヒルガーデンズ・芝2000メートル)に挑戦し、これを優勝して初のG1勝ちを収めると、続くAJCダービー(G1・ロイヤルランドウィック・芝2400メートル)でも5馬身半差で優勝を手にした[3]。その後クィーンズランド州に戻って4戦して3勝、そのうちの1勝はG1競走のクイーンズランドダービー(イーグルファーム・芝2400メートル)であった。結果、このシーズンはG1競走3勝を含む10勝を挙げ、ストロベリーロードは同シーズンの年度代表馬に選出された[3]

翌シーズンも春はフリーウェイステークス(G1・ムーニーヴァレー・芝1200メートル)、センテニアルステークス(G2・ムーニーヴァレー・芝1600メートル)、コックスプレート(G1・ムーニーヴァレー・芝2040メートル)と大競走を制覇していったが、秋になると凡走が続いた。

その後、共同所有していた馬主のうちのレイ・スターとジョン・シングルトンが所有権をすべて獲得し、海外へ視野を向けた彼らによってストロベリーロードは1983年5月30日にフランスへと輸出された[4]。オーストラリア時代の総合戦績は26戦13勝であった。

ヨーロッパ時代(1983-1985)

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フランスに送られたストロベリーロードは新たにジョン・ニコラス調教師に預けられた。ニコラス調教師のもとでの主な勝ち鞍に1984年のバーデン大賞(G1・バーデンバーデン・芝2400メートル)があり、このほか凱旋門賞(G1・ロンシャン・芝2400メートル)で6着、アメリカ合衆国に遠征してワシントンDCインターナショナル(G1・ローレルパーク・芝10ハロン)で3着、ブリーダーズカップ・ターフ(G1・ハリウッドパーク・芝12ハロン)で4着、さらに日本ジャパンカップ東京・芝2400メートル)で7着と、国際舞台に多く出走していった。

1985年、ストロベリーロードは調教師がパトリック・ビアンコーヌに交代された。ビアンコーヌ調教師のもとでダルクール賞(G2・ロンシャン・芝2000メートル)で優勝したのち、ストロベリーロードは大馬主のダニエル・ウィルデンシュタインに目をつけられて購入された。ウィルデンシュタイン所有下でのストロベリーロードの主な勝ち鞍にサンクルー大賞(G1・サンクルー・芝2500メートル)がある。ウィルデンシュタインはストロベリーロードを再びブリーダーズカップ・ターフ(アケダクト競馬場開催)に挑戦させたが、イギリスペブルス相手にクビ差2着に敗れている。

アメリカ時代(1985-1987)

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ブリーダーズカップ・ターフのあと、ストロベリーロードはアメリカの馬主であるアレン・ポールソンとブルース・マクネルに購入され、そのままアメリカで競走生活を続けた。調教師にはチャーリー・ウィッティンガムが担当した。

アメリカ時代のストロベリーロードは引き続き芝競走を使われていたが、2着3着での取りこぼしが多く、サンタアニタパーク競馬場でのアーケイディアハンデキャップ(G2・芝10ハロン)が唯一の勝ち鞍であった。1987年1月25日のサンマルコスハンデキャップ(G3・サンタアニタパーク・芝10ハロン)で3着に入ったのを最後に引退した。

種牡馬入り後

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競走馬引退後、ストロベリーロードはポールソンの持つケンタッキー州にあるブルックサイド牧場で種牡馬となった。アメリカジョッキークラブの調べによれば、ストロベリーロード産駒350頭のうち256頭が勝ち上がり、うち37頭がステークス競走勝ちを収めたとある[1]。産駒成績も上々で、1998年には北米リーディングの第4位に数えられている[1]。以下はその主な産駒。

1995年、ストロベリーロードは感染性の肺炎腹膜炎を患い、その闘病中に右後肢の大腿骨を骨折、そのため安楽死の処置がとられた[1]。のちの2009年、オーストラリア競馬博物館はストロベリーロードをオーストラリア競馬名誉の殿堂に加え入れた[3]

血統表

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ストロベリーロード血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ニジンスキー系
[§ 2]

Whiskey Road
アメリカ 鹿毛 1972
父の父
Nijinsky
カナダ 鹿毛 1967
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
Bowl of Flowers
アメリカ 栗毛 1958
Sailor Eight Thirty
Flota
Flower Bowl Alibhai
Flower Bed

Giftisa
ニュージーランド 鹿毛 1974
Rich Gift
イギリス 芦毛 1959
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Riccal Abernant
Congo
母の母
Wahkeena
ニュージーランド 鹿毛 1963
Red Jester Red Mars
Climax
Royal Souci Regal Diamond
Carefree
母系(F-No.) (FN:18) [§ 3]
5代内の近親交配 Nearco 5x5, Hyperion 5x5 [§ 4]
出典
  1. ^ [5][6]
  2. ^ [6]
  3. ^ [5][6]
  4. ^ [5][6]


脚注

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注釈

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  1. ^ 南半球の競馬では8月1日から7月31日までを1シーズンとしており、競走馬は8月1日に加齢される。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k Avalyn Hunter. “Strawberry Road (horse)”. American Classic Pedigrees. 2022年3月22日閲覧。
  2. ^ a b Strawberry Road (AUS)”. equibase.com. 2022年3月22日閲覧。
  3. ^ a b c d Strawberry Road”. racingvictoria.com.au. 2022年3月22日閲覧。
  4. ^ Strawberry Road (AUS) 1979”. studbook.org.au. 2022年3月22日閲覧。
  5. ^ a b c 血統情報:5代血統表|Strawberry Road(AUS)|JBISサーチ(JBIS-Search)”. JBISサーチ(JBIS-Search). 日本軽種馬協会. 2022年3月22日閲覧。
  6. ^ a b c d Strawberry Roadの血統表”. netkeiba.com. 2022年3月22日閲覧。

外部リンク

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